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その日 一

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 それは遠い昔の話。

「こんなところで何してやがる? 道にでも迷ったか?」

 木の枝に座って酒を飲んでいた真夜は、眼下を通り過ぎようとする人間に声をかけた。
 汗や埃にまみれた衣。足は素足。荷と呼べるものは腰の刀と水筒ほど。やせ細りながらも目は真っ直ぐに前を向いて山を登る姿は、鬼気迫るものを感じる。

「樵か? この辺りに龍神様を奉る神社があると聞いた。知らぬか?」
「知ってどうする?」
「私の故郷が日照り続きでな。今年雨が降らねば皆飢えてしまう」

 人間というのは不思議な生き物だ。自分達で食物を作り糧とする。
 そして人間たちが作る食物は歪だ。自然の草には必要ないほどに多くの種を結ばせる。
 そのために程度な雨、適度なお天道様の光、適度な温かさ、とにかく恵まれた環境が必要になる。

「草も食えばいいだろう?」

 人間は種しか食わぬ。あるいは根を、葉を、美味い所だけを食らう。

「野草も食べられる物は食べておるが、それだけでは皆の飢えを凌ぐことはできぬ」

 野にある草の中で、人間が食べる種類は少ない。一人、二人ならば飢えも凌げようが、里の人間全てが腹を膨らませるほどの量は採れない。
 獣を狩って飢えを凌ぐにしても同じだろう。

「難儀だなあ」

 ほろ酔い気分だったせいもあったのだろう。
 神頼みのために、遠方から一人でやってきた男が哀れに思えた。

「引き返せ」

 真夜の言葉に男の目が尖る。

「この先に住むのは魑魅魍魎。社はあるが主は住まぬ。龍王に祈るなら、ほれ、もう三つほど北西の山だ。あそこの山頂に洞窟があり、奥に泉がある。そこで祈れ」

 人間は真夜をじっと見上げていたが、しばらくして深く頭を下げた。

「かたじけのうござる」
「おう」

 追い払うように手を振ると、人間はもと来た道を帰っていった。

 そんな出来事などすっかり忘れて幾年月。
 真夜は境内で酒盛りをしていた。
 ぽつり、ぽつりと降り始めた雨は、一気に雨脚を強め大地を穿つように水弾を叩きつける。

「なんだあ? 龍王のやつ、ついに老いぼれて気でも狂ったか?」

 空を見やった真夜は、怪訝な面持ちで天を睨む。

「その内に治まりましょう。さあさ、夜叉様。社の中で、もう一献」
「そうだな」

 女人に化けた七尾狐ななびのきつねが腕を取り、境内から拝殿へと真夜を誘う。
 何があったかは知らないが、気が済めば龍王も落ち着くだろうと、意識を宴会に戻す。
 しかし夜通し飲み交わして昼になっても、雨脚は一向に弱まらなかった。それどころか更に強さを増していた。

「さすがに妙だな」
「様子を見てまいりましょうか?」
「ああ、頼む」

 鷲男わしおとこが翼を広げて飛び立った。人に似た姿だが、その両手は鷲の翼。鋭い嘴を持つ。
 
 その社には、異端の異形が棲みついていた。
 七尾狐はその尾が少ないと九尾狐から爪弾きにされ、山々をさ迷いこの山に辿り着いた。鷲男は天狗となるべきところを、なぜか烏ではなく鷲を宿らせた。

「何を怒ってるんかねえ?」
「甘いもんでも取られたかねえ?」

 餅や団子を食べ続ける獅子と狛犬は、護るべき主を持たない。

「夜叉たま、どうぞ」
「おお」

 小さな木霊が差し出す肴を摘み、真夜は酒を煽る。この木霊もまた、植物であるのに魚を好む。

「夜叉様」
「夜叉殿」
「夜叉の旦那」

 神気が満ち溢れ、邪は入れぬはずの社には、多くの異形が集っていた。それでありながら堕ちることなく清らかな気を保つ社もまた、異端であった。

「夜叉殿、大変です」
「おお、鷲男。どうだった?」
「人間どもが」

 様子を見に行って戻ってきた鷲男の顔色は悪い。
 ほろ酔いで緩んでいた真夜も表情が硬くなる。

「はぐれた龍の子を捕まえ、弑したようです」

 ぱきりと、盃が砕けた。社の中は静まり返り、痛いほどに空気が強張る。

「愚かな」

 酒の入った瓢箪を掴むと、真夜は一気に煽った。

 親は子を愛す。その中でも龍の愛情は果てしない。子を失った龍は荒れ狂い、何を仕出かすか分からない。
 川は乱れ、山が崩れ、海は荒れる。草は枯れ、野が焼け、池は消ゆ。
 放っておけば全てが滅ぶ。人の国は自業自得なれど、山々も巻き込まれかねない。
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