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幽世と精進料理 一

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 湿った洞窟の奥で、つるつると滑らかな壁に開いた一尺ほどの穴を覗き込んでいた真夜は、顎を撫でながらふむと呻く。

「そろそろ金が尽きてきたな」

 洞窟に戻ってきてから、真夜は以前に貯えていた金子で物を買っていた。けれどそれもそろそろ尽きそうだ。
 とはいえ長く留守にしていた洞窟に、金子が残っているとは思っていなかった彼は、無くなりかけていても然して気にはしていないようだが。

「まあ、金が無くても生活に支障はないんだが」

 なにせ人が束になっても敵うことのない夜叉だ。その気になれば、どうとでもできる。
 顎を撫でていた真夜は、踵を返して外へと歩き出す。途中で夜姫たちに声を掛けることも忘れない。

「ちょいと出かけてくるが、お前たちも来るか?」
「いくー!」
「よしよし。じゃあ付いて来い」

 よちよちぽよぽよと夜姫と千夜丸が入った東袋を首にぶら下げて、真夜は洞窟を後にした。

 風のように真夜は山の峰を駆けていく。谷川の橋を二十近く渡り、人間の足ならば何日も掛かるであろうその距離を、半日ほどで走破する。
 初めは東袋から顔を出していた夜姫は、その速度と風圧に耐えかねて袋の底に潜った。
 高い岩山の前に到着すると、ようやく真夜の足が緩む。そしてぽっかりと開いた黒い口に迷わず足を踏み入れた。暗い洞窟の中を灯りも持たずに進むが、その足取りに迷いはない。

 東袋から顔を出した夜姫は、洞窟の中を興味津々といった様子で見回す。
 暗くてよく見えないが、硬くごつごつした岩肌のあちらこちらで、何かがきらきらと光っている。その煌めきは進めば進むほど、増えていった。

 前方から光が差し込み、眩さで視界が遮られる。それでも真夜の足は止まらない。真っ直ぐに洞窟から抜け出た。

「おおー!」

 外の景色を見た夜姫から、歓声が上がる。
 真夜たちが今立っている場所は、高い岩山の八合目ほどだろうか。眼下には火山口のように周囲を切り立った崖に囲まれた、きらきらと輝く小さな町が広がっていた。
 箱庭のような世界の中ほどには、板葺き屋根の民家が軒を連ねている。その中央には朱塗りの壁ときらきらと輝く金の瓦で造られた、五重塔に似た城がそびえる。

 町の外へと目を向ければ東西に山があり、さらに外側、山と岩壁の間には川が流れ、南の湖に流れ込む。
 川を遡っていくと、北側の岸壁――つまりは真夜が立つ岩の出っ張りのすぐ下から、滝が豪快な水しぶきを上げて落ちていた。
 滝壷近くの山裾にも洞窟があり、出てきた人間たちが町へと入っていく。

 身を乗り出して覗き込んでいる夜姫の頭を抑えて東袋の奥に戻すと、真夜は断崖へと足を踏み出す。そして岩肌に踵を添えて一気に滑り降りた。

 急降下の勢いで、東袋に入っていた夜姫と千夜丸の体が浮き上がり、夜姫は必死に千夜丸に捕まろうと両手を伸ばす。
 だが無情にも、触れた手はつるりんっと滑り、離れていった。
 焦っているにもかかわらず、思わず視線を合わせて困惑と絶望を浮かべる夜姫と千夜丸。そうこうしている内に、浮遊体験は終わりを迎える。

 ぺしゃりと布底に落下した夜姫は、ぶつけた顔をさすりながら千夜丸の無事を確かめる。布の人形であるから痛みもないが、人間であった時の感覚が抜けないのであろう。
 同じく布底に落下して潰れていた千夜丸も、ぷるるんっと震えて復活すると、夜姫の傍らに身を寄せた。感動の再会である。ずっと見えていたが。

 東袋の中で起きている寸劇など知る由もなく、真夜は丸い小石の転がる岸を歩く。硬く所々尖ってさえいる岩肌を滑り降りても、彼の足には裂傷も火傷も見当たらない。
 周囲にいた人間たちが驚いて目を白黒させているが、まったく気にも留めずに門に向かって歩を進めた。
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