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岩魚と河童 九

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 準備ができたので焚き火に戻る。冷たい水場で作業していたため、手がかじかんでいた。焚き火にかざすと、じんわりと皮膚の表面が解けていくように錯覚してしまう。

 ぱちりと爆ぜた火花に夜姫がぴくりと跳ねて、千夜丸が護るように前に立った。水の物の怪なので、少しくらいの火は対処できるのだろう。
 心強い護衛に喜び抱きつく夜姫。成長すると中々素直に身を寄せ合うことはできなくなっていくのだが、彼女はまだまだ素直だ。

「なんだろうな? 別に女に不自由してるとか、女が欲しいとか、そういうことはないはずなんだが」

 しかも相手は人形と陸海月である。羨ましがる要素が見つからない。
 視線を岩魚へと戻した真夜は、すぐに気持ちも切り替えた。

 満開の桜のような刺身に、ざらざらとした石ですりおろした山葵を添えれば、ちらほらと葉が萌え始めた葉桜へと装いを新たにする。
 桜が散ってしまう前にと急ぐ花見客のように、心が早く食べたいと急いていく。

「まずは刺身を一切れ」

 しっかりとした身は淡白で臭みもなく、意外にも上品な味がする。

「性格と身の味が一致するとは限らないよな」

 活発な岩魚を思い浮かべている内にも、箸が伸びて口へと入ってくる。
 だが真夜は数切れ食べたところで、無意識に刺身を掴もうとする手をなんとか押しとどめる。
 刺身は美味い。だが刺身で終わらせるつもりはないのだ。

 持ってきた太い竹筒を風呂敷から出すと、中に入っていたのは酢飯だった。
 水を付けた手で小さな俵型に握ると、山葵をちょんっと付けた刺身を乗せる。握り寿司である。
 桜色の艶やかな身で着飾った、白く輝くシャリ。食べられる準備が万端整うと、

「早う、早う」

 と、見る者を誘う。
 真夜は焦らすことなどなく、握った先から食べていく。

「刺身だけでも美味いが、酢飯との相性は抜群だな」

 引き締まったあっさりとした身が、酢飯によってさらに引き立てられる。二貫目、三貫目と、どんどん握る端から口の中に入っていく。
 これこそが本日の目的である。粘った甲斐があったというものだ。

「……。シャリが」

 空になった竹筒の中を覗き込む真夜の表情は、何とも悲しげであった。

 残った刺身も美味しく完食すると、焚き火の始末をしっかりと済ませる。火は消えているが、念のために川の水も掛けておいた。

「美味かったよ。ありがとな」
「ありがと」

 いつも通りにお礼を告げて立ち上がると、夜姫たちと東袋を持って、洞窟へと帰っていく。燻し途中だった骨と皮も、もちろん持って帰った。洞窟内での焚き火の上に吊るし直す。

 そして翌日の晩。
 骨までしっかり狸色に変わった頭と骨を提子(ひさげ)に入れ、熱くした酒を注ぐ。暫く置いておくと、酒と岩魚の香りが鼻先をくすぐり、早く飲めよと急かしてくる。
 流行る心を抑えて盃に注ぎ口に含めば、骨から染み出た旨みが酒に混じり合い、えも言われぬ香ばしさが酒の中から迸った。

「くうっ。美味え。肴が無くても酒だけで充分いけるな」

 などと言いつつも、肴の用意はあるのでこちらも摘む。岩魚の腸を味噌に付けたものだ。
 一匹の岩魚から盗れる腸は少なく、舐めるように食べても今夜の酒の相手をすれば無くなってしまうだろう。
 あっさりとした身とは違い脂の多い腸が、味噌のコクや塩気と混じり合っていて酒とよく合う。それに食感もはっきりとしていて、歯触りも楽しめる。

「これも酒が進むな」

 いつでも飲んでいる気がしなくもない真夜の言葉に夜姫が白い目を向けたが、気付くことなく真夜は晩酌を楽しんだ。

「美味かったよ。ありがとな」

 食した岩魚と酒に礼を言って片付けると、真夜は眠りに就いた。
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