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洞窟と温泉 二

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 幾つかの分かれ道を通って奥へと進んでいくと、それまでひんやりとしていた空気が徐々に暖かくなり、もわっとした湯気を伴い始める。

「さてと、とりあえず一っ風呂浴びてからだな。お前も元は人間なら、温泉は好きだろう? 先に入っとけ」
「うぎゃあっ?!」

 むんずっと真夜に握られて懐から取り出された夜姫は、答える前にぽいっと放られた。
 あ然とした眼差しを真夜に向けるが、平然とした顔は徐々に遠ざかっていき、なだらかな坂の上に彼の姿が隠れた直後、ぽちゃんっと音を立てて夜姫は水面に落ちた。

 布の人形は、ぷかぷかと浮かぶ。辺りは霧――ではなく湯気に覆われているようで、視界が曇っている。
 人形になって痛覚や触覚は鈍っていたが、なんだかぽかぽかと温かいと夜姫は気付く。どうやら水ではなくお湯が沸いているようだ。
 綿はお日様の光などは好むから、布人形の夜姫も温かさは感じることができたのかもしれない。
 気持ちが良いので、そのまま浮かんでおくことにした。

 先に夜姫を温泉に放り込んだ真夜は、水干を脱ぐ。ぽとりと丸いものが落ちて、滑らかな床をころころと転がっていったが一瞥もしない。

 餡の無い水饅頭に似ていて無色透明で顔もないそれは、陸海月おかくらげと呼ばれる、体のほとんどが水で構築されている水の物の怪である。
 空気中から水分を吸い取って生活しているため、じめじめとした洞窟や湿地、床下などを棲み処としている。

 彼らは乾燥を嫌うため、お天道様の光を嫌う。またひどく臆病な性質を持っているため、同族以外の生き物の前に姿を現すことは滅多にない。
 それがどうしたことか、千夜丸と名付けられたこの小さな陸海月は、真夜と行動を共にしている。とは言っても、千夜丸が心を寄せているのは夜姫のほうだ。
 生まれて間もない頃に助けられたことを切っ掛けに、千夜丸は夜姫と仲良くなった。苦手なお天道様の下に出て共に旅をするという、彼にとっては命がけの危険を冒すほどに。

 千夜丸の大きさは横四寸、高さ三寸ほどと、陸海月にはよくいる寸法ではあるがまだ小さい。
 小指の爪ほどの小さなものから、手毬ほどの大きさのものが多いとされる陸海月だが、中には見上げるほど大きなものまで存在するので、まだ若い部類に入るだろう。

 焦りながらもなんとか転がり落ちる体を止めた千夜丸は、急いで夜姫の下へ戻るため、ぽよぽよと坂を駆け登る。
 けれど温かな湯は苦手なのか、温泉へと下りる斜面の手前で動きを止めた。
 坂の上から下の様子を窺っている千夜丸の横を、大きな影が通り過ぎていく。

「よっと」

 袴や小袖だけでなく褌も解いて裸になった真夜は、掛け声と共に滑らかな斜面を立ったまま滑り降り、そのまま湯に身を投じた。
 大きな水音がして波が立ち、浮かんでいた夜姫は大きく揺れる。驚いて身じろぐが、波に逆らうこともできず、そのまま身を任せることにした。

「どうだ? 良い湯だろう?」
「あい」

 すくった湯で顔を洗っている真夜に、右手を挙げて同意を示そうとした夜姫は、異変に気付く。腕が重くて上がらない。
 顔を横向けてじいっと手を見つめていた夜姫だったが、まあいいかと天井に顔を戻す。青白く光る天井は、まるで天の川のように美しく幻想的だ。
 ほんのりと温かく、ゆったりと揺らぐ湯に浮かんでいた夜姫は、なんだか眠たくなってきた。

 太い息を吐き出した真夜は、首を左右に倒して首を鳴らしたかと思えば、手足を伸ばして顎下まで浸かったりと温泉を堪能している。
 ぷかぷかと浮かんでいた夜姫が徐々に沈んでいくが、真夜は気付かない。うつらうつらと微睡む夜姫も、気付かない。
 ぷくぷくと気泡を残しながら、布人形は温泉の底へと沈んでいく。

 その状況に一石を投じるように、真夜の頭上から透明な何かが滑り落ちてきて、温泉に着水した。
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