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二章
番外編 狼と菓子職人
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月夜の下を、ギンは一人歩いていた。遠くで犬の遠吠えが聞こえる。
宿に入るには遅い時間だ。もっとも、日が暮れる前でも、宿に泊まるつもりはなかったが。
まだ幼さの残る少年のギンが一人で宿に入っても、追い出されるのは目に見えている。それだけならば良いが、過去には役人に突き出そうとした宿主もいた。
運が良ければ泊まれる事もあったが、危険を冒してまで寝台で寝たいとは思わない。
人目に付かない路地裏で、夜風をしのげれば充分だ。
ちょうどギンが入れて、巧く隠れることのできる場所を見つけると、ギンはそこで丸くなり、目を閉じた。
目が覚めた時には、とうに日は昇っていた。路地の外は人々の行き交う声で騒がしい。
ギンは壁にもたれまま、まどろんでいた。
市を覗いたところで、小汚ない格好の子供は警戒される。まるで油虫でも見るような目で、ギンを見下ろすのだ。
寝返りを打つと、腰の袋が高い音を響かせた。
「金は、あるんだけどな」
袋の中には寝食に不自由する事はないだけの、銅貨や銀貨が詰まっている。
しかしギンにとってそれは、丸い金属の厄介な塊でしかなかった。
そんな大金を持っていると気付かれれば、不審の目で見られる。奪い取ろうと襲って来る者もいる。
無ければ困るが、有っても難儀な物だった。
壁を見つめていたギンの鼻先に、何かが触れた。今まで嗅いだことのない、芳しい香り。
口を開けて吸い込み、漂って来る方角を確めようとしたが、やめた。どんな旨い料理の匂いが漂ってきても、ギンが食べられる訳ではない。
だが匂いはどんどん強くなり、口の中に広がっていく。貴族の屋敷や城で食べた豪華な料理も、この香りには劣った。
欲望に負けた腹が鳴く。
ギンは立ち上がると、路地裏から出てパンを一つだけ買った。野良犬の様に追い払われると、適当に市を歩く。
足は自然と、あの良い香りが発生してる店に向かった。
想像と違い小さな店だったが、客で溢れていた。店の横の細い路地に入り込むと、ギンはパンをかじった。
店から流れてくる味が、口の中を充たす。小麦と塩だけのパンが、芳しい料理に変わっていく。
ギンは小さく微笑んだ。これは彼の特技の一つだ。
日が沈み始めると、昼とは違う濃厚な匂いに包まれた。それも味わいたかったが、ギンは出掛けた。
一件の飲み屋の床下に潜り込み、息を殺し耳を澄ます。男達は酒を酌み交わし、酔った勢いで主人の愚痴を口にあげる。
ギンはその会話を洩らさぬ様に聞いていた。
男達が帰り、店が静かになると、ギンも床下から這い出した。暗闇の中を歩き、路地裏に戻ると、丸くなって眠る。
昼が近くなるとパンを買い、あの店の路地に隠れて店の香りを堪能した。
数日が経ち、ギンは店の扉の前にいた。
明日の朝には、この町を去る。その前に一度だけ、本物の、この店の料理を食べてみたいという誘惑がギンを動かしていた。
店の中に客は居ない。
昼の営業は終わり、今は店主が一人だけだ。ギンは迷いつつも扉を開けた。
「今は準備中だ」
扉の中に入るより先に、男の怒鳴り声が耳に飛び込んできて、ギンは動きを止める。
恐怖ではない。予想していなかった言葉に戸惑い、呆気に取られた。
「なんだ、野良犬か」
続く男の言葉が、ギンの負けん気を呼び覚ました。
「誰が犬だ。客だよ」
言って案内も待たずに席に着く。
「金はある。この店で一番美味い物を食わせろ」
腰から袋を取ると、机の上に置いた。重厚な音が、袋の中身を窺わせる。
男はギンを凝視した。それから静かに立ち上がりギンの傍らまで来ると、上から見下ろしてきた。
ギンは睨み返す。
「俺の作る料理は、そんなに安くはない」
「はっ、幾ら入っていると思ってるんだ?」
あざ笑うように、ギンは鼻を鳴らす。どれ程豪華な料理でも、ギンの財布を空には出来ないだろう。
「幾らも入って無いさ。価値のあるモノはな」
「石だと思ってるのか? だったら確めてみろよ」
机の上の財布を取ると、男に差し出した。男は太い息を吐き出しただけで、受け取らない。
「いいか? 小僧。それは形だけだ。俺の料理が食べたけりゃ、それに合った対価を用意して来い」
言い捨てると、男は食べ掛けの食事を再び食べ始めた。
「なんだよ。金を払っても野良犬には食わせないってか?」
憤りが肚の底から湧いて来た。
だから、人と関わらない様に生きてきたんじゃないか。今さらだ。
後悔と苛立ちが、ギンの胸を焦がす。
「くそが」
財布を床に投げ付けると、ギンはそのまま店を出た。
ギンは人であって人では無い。
最初の記憶は、大きな男に鞭で打たれて泣いている自分だった。物として扱われ、失態があればすぐに鞭が飛んできた。
そこから逃げ出したのは、いつだったか。ギンは自分の生まれた日も、年も知らない。
生きるために、食べ物を盗んだ。どこに隠されているのか、なぜかすぐに分かった。
自分の他にも物として扱われている人の存在を知った。救いたいとは思わなかった。だけど、物として扱う奴等は許せなかった。
そいつの大切にしているものを調べて、盗んだ。取り乱し、苦しむ様を見て、酷く興奮した。
また、物として扱う奴を見つけた。大切にしているものを盗んだ。泣きわめく姿に、快感を覚えた。
また、また、また……。
町を転々とするほど、そういう輩を見つけた。無限に涌いてくる様に、奴等はいた。
月の光も差さない暗闇の中を、ギンは音も無く進んでいく。塀を乗り越え、館に忍び込む。
ゆっくりと息を吸い込むと、館の間取りと宝の在処がギンの脳裏に写し出された。警備の兵の数と配置も写し取る。
目指す場所への通路を脳裏に浮き上がった地図で確認すると、ギンは暗闇の中を歩き出した。光が無くとも、ギンは不便を感じなかった。
呼吸と同時に、構造物も人も察知出来た。
仕事仲間のジルは、それがギンの能力なのだと言った。一定の距離にあるものを把握する能力。盗賊にはうってつけだった。
目当ての部屋の前で、ギンは立ち止まる。懐から針金を取り出すと複雑に曲げ、扉に付いた鍵穴に差し込む。
鍵は小さな金属音を立てて開いた。
扉を開けて目当ての品を物色する。手に取ろうとして、違和感が襲った。
「呪具か」
静かに息を吸い込むと、呪具の在処を探る。壁に飾られた婦人画、それ自体に術式が組み込まれていた。
ギンは息を飲む。気付くのが遅れた。
目当ての品をすぐに手に取ると、部屋を出た。警備の兵の位置を確認し、遭遇しない様に通路を選ぶ。
兵達は先程の部屋に向かって移動していた。
婦人画に仕掛けられた術式は、描かれた婦人の目に映る景色を転送するもの。常にあの部屋は監視されていたのだ。
ギンは呼吸を繰り返し、傭兵達の位置を細かく確認した。隠れて遣り過ごし、駆け抜けて逃げる。
窓の外に逃げ出したいと思う気持ちを、必死に抑えた。
広い場所に出れば、ギンのまだ短い足では逃げ切れない。館の中を隠れながら逃げ延び、確実に敷地から出れる場所に向かわなければならない。
小さな体を銅像の影に隠して傭兵を遣り過ごすと、ギンはようやく外の空気にありつけた。
急ぎ塀を乗り越え、街へ向かおうとしたギンの足に、火が走った。
ギンの姿を捉えた傭兵が、矢を放ったのだ。だが立ち止まるわけにはいかない。
そのまま塀を降りると、ギンは街の中へ逃げ込んだ。
狭い路地に潜り、腰紐で足の傷をきつく縛る。出血は少ないが、血痕で足取りを掴まれかねない。
上を見ると、そこから屋根に登れそうだった。屋根伝いに異動するのは見つかる危険が増えるが、道に血痕を残すよりは足取りを隠せる。
空き箱を足がかりに屋根に上ると、姿勢を低くして静かに走った。地上では傭兵達が走り回り、騒音に気付いた住民達も目を覚まし始めていた。
身を伏せて姿を隠しながら、ギンは逃げた。
動けば動く程に危険は増える。だが相手に能力者がいるならば、隠れていても見つけられるだろう。走り続けるしかなかった。
「何の騒ぎだ?」
窓を開けた男と目があった。あの料理屋の男。
思わず身がすくみ、息を飲む。ほんの一瞬が、数分に感じられた。
男は目で裏に回るよう指示した。
それがギンを捕まえる罠ではないという保証は無かった。しかしギンは男の指示に従っていた。
男の家の裏に回ると、裏口が開き、太い腕がギンを中に引き入れる。
客のいない暗い店の中で、男は椅子に腰掛け、ギンはその正面で立ち尽くしていた。
男は何も言わない。時折、外に幾つもの足音が響いては消えていく。
「領主の館に忍び込んだのか?」
ギンに視線を向けた男は、ゆっくりと息を吐く様に尋ねた。
「ああ。評判も悪かったから」
「評判が良ければ入らなかったか?」
「だって、つまらないだろう?」
男は片眉を上げた。
「良い奴の所に入って、そいつが上から責められて辞めさせられたら、俺達が困るだろ」
男はギンを凝視し、それから笑いだした。
ギンは慌てて男の口を塞ぐ。男の目も慌てて外を見た。幸いにも、外を駆け回っている傭兵達の耳には届かなかったようだ。
「すまん」
片手を挙げて、男は素直に謝った。
「けどお前、この町の者じゃ無いだろう?」
「そうだけど」
「なのに、『俺達』が困るのか?」
「悪いかよ? 俺だって、人間だ」
人以下の扱いを受けていても、人でありたいという意識がギンにはあった。だから、定住はしていなくても、入った町の一部であろうとした。
良い領主がいれば暮らし易い。だからその領主は守ってやりたい。例え依頼でも、そんな領主から盗みは働かなかった。
悪い領主がいたら、暮らし辛い。だから、そんな領主や貴族の宝を奪った。
男はギンを凝視していた。
沈黙が、ギンの神経を削り落とす。目の前が歪み、床が天井へと姿を変えた。
男が何か言っているが、聞き取れなかった。
気付いた時には寝台の上で寝ていた。窓の外には日が差していた。
「起きたか? 歩けるなら下に来い」
戸口からら顔を出した男に頷くと、ギンは寝台から下りた。足が痛むが歩けない程ではない。
一階の食堂に入ると、机の上にはパンとスープが用意されている。香ばしい香りに、ギンの腹が鳴く。
椅子に座ると野菜の端や小さな肉の入ったスープを煽るように飲んだ。
「お前、菓子職人になれ」
パンを頬張るギンに、男は突然そう言った。
「は? 何で菓子?」
ギンは意味が分からなくて、眉をひそめた。
「盗賊をやってるって事は、手先が器用なんだろう? 俺は指が太くて繊細な飾りは造れねえ。何より甘いもんは苦手だ。お前が菓子職人になったら、俺の店で雇ってやる」
すでに決定事項であるかのように、男は言う。
「料理人になったら?」
「馬鹿言うな。客には最高の料理を出すのが俺の信条だ。お前の不味い飯なんか出せるか」
「何だよ。俺の料理、食べた事ないだろう?」
ギンは思わず言い返した。
男ほどではないが、ギンだって料理くらい作る。それなりに美味いと評判は上場だった。
「食べなくても分かる。俺の料理よりも不味い。料理人を名乗りたけりゃ、俺より美味い料理を作ってみろ」
「それじゃあ、オヤジの料理は客に出せなくなるぞ」
「おお、だから俺の店で働きたければ、菓子職人になれ」
無茶苦茶な理屈だと思った。けれど、悪くないともギンは思った。
宿に入るには遅い時間だ。もっとも、日が暮れる前でも、宿に泊まるつもりはなかったが。
まだ幼さの残る少年のギンが一人で宿に入っても、追い出されるのは目に見えている。それだけならば良いが、過去には役人に突き出そうとした宿主もいた。
運が良ければ泊まれる事もあったが、危険を冒してまで寝台で寝たいとは思わない。
人目に付かない路地裏で、夜風をしのげれば充分だ。
ちょうどギンが入れて、巧く隠れることのできる場所を見つけると、ギンはそこで丸くなり、目を閉じた。
目が覚めた時には、とうに日は昇っていた。路地の外は人々の行き交う声で騒がしい。
ギンは壁にもたれまま、まどろんでいた。
市を覗いたところで、小汚ない格好の子供は警戒される。まるで油虫でも見るような目で、ギンを見下ろすのだ。
寝返りを打つと、腰の袋が高い音を響かせた。
「金は、あるんだけどな」
袋の中には寝食に不自由する事はないだけの、銅貨や銀貨が詰まっている。
しかしギンにとってそれは、丸い金属の厄介な塊でしかなかった。
そんな大金を持っていると気付かれれば、不審の目で見られる。奪い取ろうと襲って来る者もいる。
無ければ困るが、有っても難儀な物だった。
壁を見つめていたギンの鼻先に、何かが触れた。今まで嗅いだことのない、芳しい香り。
口を開けて吸い込み、漂って来る方角を確めようとしたが、やめた。どんな旨い料理の匂いが漂ってきても、ギンが食べられる訳ではない。
だが匂いはどんどん強くなり、口の中に広がっていく。貴族の屋敷や城で食べた豪華な料理も、この香りには劣った。
欲望に負けた腹が鳴く。
ギンは立ち上がると、路地裏から出てパンを一つだけ買った。野良犬の様に追い払われると、適当に市を歩く。
足は自然と、あの良い香りが発生してる店に向かった。
想像と違い小さな店だったが、客で溢れていた。店の横の細い路地に入り込むと、ギンはパンをかじった。
店から流れてくる味が、口の中を充たす。小麦と塩だけのパンが、芳しい料理に変わっていく。
ギンは小さく微笑んだ。これは彼の特技の一つだ。
日が沈み始めると、昼とは違う濃厚な匂いに包まれた。それも味わいたかったが、ギンは出掛けた。
一件の飲み屋の床下に潜り込み、息を殺し耳を澄ます。男達は酒を酌み交わし、酔った勢いで主人の愚痴を口にあげる。
ギンはその会話を洩らさぬ様に聞いていた。
男達が帰り、店が静かになると、ギンも床下から這い出した。暗闇の中を歩き、路地裏に戻ると、丸くなって眠る。
昼が近くなるとパンを買い、あの店の路地に隠れて店の香りを堪能した。
数日が経ち、ギンは店の扉の前にいた。
明日の朝には、この町を去る。その前に一度だけ、本物の、この店の料理を食べてみたいという誘惑がギンを動かしていた。
店の中に客は居ない。
昼の営業は終わり、今は店主が一人だけだ。ギンは迷いつつも扉を開けた。
「今は準備中だ」
扉の中に入るより先に、男の怒鳴り声が耳に飛び込んできて、ギンは動きを止める。
恐怖ではない。予想していなかった言葉に戸惑い、呆気に取られた。
「なんだ、野良犬か」
続く男の言葉が、ギンの負けん気を呼び覚ました。
「誰が犬だ。客だよ」
言って案内も待たずに席に着く。
「金はある。この店で一番美味い物を食わせろ」
腰から袋を取ると、机の上に置いた。重厚な音が、袋の中身を窺わせる。
男はギンを凝視した。それから静かに立ち上がりギンの傍らまで来ると、上から見下ろしてきた。
ギンは睨み返す。
「俺の作る料理は、そんなに安くはない」
「はっ、幾ら入っていると思ってるんだ?」
あざ笑うように、ギンは鼻を鳴らす。どれ程豪華な料理でも、ギンの財布を空には出来ないだろう。
「幾らも入って無いさ。価値のあるモノはな」
「石だと思ってるのか? だったら確めてみろよ」
机の上の財布を取ると、男に差し出した。男は太い息を吐き出しただけで、受け取らない。
「いいか? 小僧。それは形だけだ。俺の料理が食べたけりゃ、それに合った対価を用意して来い」
言い捨てると、男は食べ掛けの食事を再び食べ始めた。
「なんだよ。金を払っても野良犬には食わせないってか?」
憤りが肚の底から湧いて来た。
だから、人と関わらない様に生きてきたんじゃないか。今さらだ。
後悔と苛立ちが、ギンの胸を焦がす。
「くそが」
財布を床に投げ付けると、ギンはそのまま店を出た。
ギンは人であって人では無い。
最初の記憶は、大きな男に鞭で打たれて泣いている自分だった。物として扱われ、失態があればすぐに鞭が飛んできた。
そこから逃げ出したのは、いつだったか。ギンは自分の生まれた日も、年も知らない。
生きるために、食べ物を盗んだ。どこに隠されているのか、なぜかすぐに分かった。
自分の他にも物として扱われている人の存在を知った。救いたいとは思わなかった。だけど、物として扱う奴等は許せなかった。
そいつの大切にしているものを調べて、盗んだ。取り乱し、苦しむ様を見て、酷く興奮した。
また、物として扱う奴を見つけた。大切にしているものを盗んだ。泣きわめく姿に、快感を覚えた。
また、また、また……。
町を転々とするほど、そういう輩を見つけた。無限に涌いてくる様に、奴等はいた。
月の光も差さない暗闇の中を、ギンは音も無く進んでいく。塀を乗り越え、館に忍び込む。
ゆっくりと息を吸い込むと、館の間取りと宝の在処がギンの脳裏に写し出された。警備の兵の数と配置も写し取る。
目指す場所への通路を脳裏に浮き上がった地図で確認すると、ギンは暗闇の中を歩き出した。光が無くとも、ギンは不便を感じなかった。
呼吸と同時に、構造物も人も察知出来た。
仕事仲間のジルは、それがギンの能力なのだと言った。一定の距離にあるものを把握する能力。盗賊にはうってつけだった。
目当ての部屋の前で、ギンは立ち止まる。懐から針金を取り出すと複雑に曲げ、扉に付いた鍵穴に差し込む。
鍵は小さな金属音を立てて開いた。
扉を開けて目当ての品を物色する。手に取ろうとして、違和感が襲った。
「呪具か」
静かに息を吸い込むと、呪具の在処を探る。壁に飾られた婦人画、それ自体に術式が組み込まれていた。
ギンは息を飲む。気付くのが遅れた。
目当ての品をすぐに手に取ると、部屋を出た。警備の兵の位置を確認し、遭遇しない様に通路を選ぶ。
兵達は先程の部屋に向かって移動していた。
婦人画に仕掛けられた術式は、描かれた婦人の目に映る景色を転送するもの。常にあの部屋は監視されていたのだ。
ギンは呼吸を繰り返し、傭兵達の位置を細かく確認した。隠れて遣り過ごし、駆け抜けて逃げる。
窓の外に逃げ出したいと思う気持ちを、必死に抑えた。
広い場所に出れば、ギンのまだ短い足では逃げ切れない。館の中を隠れながら逃げ延び、確実に敷地から出れる場所に向かわなければならない。
小さな体を銅像の影に隠して傭兵を遣り過ごすと、ギンはようやく外の空気にありつけた。
急ぎ塀を乗り越え、街へ向かおうとしたギンの足に、火が走った。
ギンの姿を捉えた傭兵が、矢を放ったのだ。だが立ち止まるわけにはいかない。
そのまま塀を降りると、ギンは街の中へ逃げ込んだ。
狭い路地に潜り、腰紐で足の傷をきつく縛る。出血は少ないが、血痕で足取りを掴まれかねない。
上を見ると、そこから屋根に登れそうだった。屋根伝いに異動するのは見つかる危険が増えるが、道に血痕を残すよりは足取りを隠せる。
空き箱を足がかりに屋根に上ると、姿勢を低くして静かに走った。地上では傭兵達が走り回り、騒音に気付いた住民達も目を覚まし始めていた。
身を伏せて姿を隠しながら、ギンは逃げた。
動けば動く程に危険は増える。だが相手に能力者がいるならば、隠れていても見つけられるだろう。走り続けるしかなかった。
「何の騒ぎだ?」
窓を開けた男と目があった。あの料理屋の男。
思わず身がすくみ、息を飲む。ほんの一瞬が、数分に感じられた。
男は目で裏に回るよう指示した。
それがギンを捕まえる罠ではないという保証は無かった。しかしギンは男の指示に従っていた。
男の家の裏に回ると、裏口が開き、太い腕がギンを中に引き入れる。
客のいない暗い店の中で、男は椅子に腰掛け、ギンはその正面で立ち尽くしていた。
男は何も言わない。時折、外に幾つもの足音が響いては消えていく。
「領主の館に忍び込んだのか?」
ギンに視線を向けた男は、ゆっくりと息を吐く様に尋ねた。
「ああ。評判も悪かったから」
「評判が良ければ入らなかったか?」
「だって、つまらないだろう?」
男は片眉を上げた。
「良い奴の所に入って、そいつが上から責められて辞めさせられたら、俺達が困るだろ」
男はギンを凝視し、それから笑いだした。
ギンは慌てて男の口を塞ぐ。男の目も慌てて外を見た。幸いにも、外を駆け回っている傭兵達の耳には届かなかったようだ。
「すまん」
片手を挙げて、男は素直に謝った。
「けどお前、この町の者じゃ無いだろう?」
「そうだけど」
「なのに、『俺達』が困るのか?」
「悪いかよ? 俺だって、人間だ」
人以下の扱いを受けていても、人でありたいという意識がギンにはあった。だから、定住はしていなくても、入った町の一部であろうとした。
良い領主がいれば暮らし易い。だからその領主は守ってやりたい。例え依頼でも、そんな領主から盗みは働かなかった。
悪い領主がいたら、暮らし辛い。だから、そんな領主や貴族の宝を奪った。
男はギンを凝視していた。
沈黙が、ギンの神経を削り落とす。目の前が歪み、床が天井へと姿を変えた。
男が何か言っているが、聞き取れなかった。
気付いた時には寝台の上で寝ていた。窓の外には日が差していた。
「起きたか? 歩けるなら下に来い」
戸口からら顔を出した男に頷くと、ギンは寝台から下りた。足が痛むが歩けない程ではない。
一階の食堂に入ると、机の上にはパンとスープが用意されている。香ばしい香りに、ギンの腹が鳴く。
椅子に座ると野菜の端や小さな肉の入ったスープを煽るように飲んだ。
「お前、菓子職人になれ」
パンを頬張るギンに、男は突然そう言った。
「は? 何で菓子?」
ギンは意味が分からなくて、眉をひそめた。
「盗賊をやってるって事は、手先が器用なんだろう? 俺は指が太くて繊細な飾りは造れねえ。何より甘いもんは苦手だ。お前が菓子職人になったら、俺の店で雇ってやる」
すでに決定事項であるかのように、男は言う。
「料理人になったら?」
「馬鹿言うな。客には最高の料理を出すのが俺の信条だ。お前の不味い飯なんか出せるか」
「何だよ。俺の料理、食べた事ないだろう?」
ギンは思わず言い返した。
男ほどではないが、ギンだって料理くらい作る。それなりに美味いと評判は上場だった。
「食べなくても分かる。俺の料理よりも不味い。料理人を名乗りたけりゃ、俺より美味い料理を作ってみろ」
「それじゃあ、オヤジの料理は客に出せなくなるぞ」
「おお、だから俺の店で働きたければ、菓子職人になれ」
無茶苦茶な理屈だと思った。けれど、悪くないともギンは思った。
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改めて読み返しておもいました。樹人の原点なのかなーと。作者さんの人を思いやる気持ち自然に対する感謝や、立場や、年齢、誰の視点かによって変わる価値観の違いを描いた3部作だとおもいました。
常識とは、それは思い込みでは?常に考える作品ありがとうございます。
感想ありがとうございます。
書いているときは意識していませんでしたけど、共通点は多いですね。
嬉しいお言葉をありがとうございます。
なろうの無垢な王子から参りました!
一方の視点からでは描かれていなかった背景が読み取れ、また説明回がほぼないのでそれぞれのキャラクター視点での物語の展開がとても面白いです。
裏事情を知らない当人達からすれば、何もかも理不尽だよなぁ、そうなるよねぇ、と素直に思って読めます。
24.別れ の回で、すごく盛り上がる緊張のシーンなのですが、いきなり「リュイ」という謎の人名が出てきて困惑します。
おそらくヒロインの名前「シャル」と間違われている…?
間違いないなら文章の前後を見直していただけるとありがたいです。リュイとはどなた…?
ひとまず疑問に蓋をして、続きを読破してまいります。
素敵な物語をありがとうございます!
感想ありがとうございます。
お互いの状況を理解していれば、悲劇は怒らず幸せだったのでしょうが、人間社会はすれ違いが多くて困ったものです。
ご指摘ありがとうございます。
ご想像通り、シャルです。
盛り上がる回で現実に戻してしまい申し訳ありますでした。直してきました。
こちらこそ読んで頂きありがとうございます。
シャルちゃんが可愛すぎです
残念なのはあのアホ兄とクソ父にざまあがなかった件
とりあえず、ゼノともっといちゃいちゃさせてあげて下さい(主にゼノの為にw)
まあでも、2人がそうなれるまで、まだまだ問題山積みでしょうが、ひとまず落ち着けて良かったなぁと。
あと気が向けば、続き書いていただけたら嬉しいなぁと思います。
感想ありがとうございます。
二人切りの時間はゼノには何よりのご褒美でしょうね。
続編……今年中にと考えていたのですが、年が変わりそうです。(すみません)春までには再開させたいと思っていますので気長にお待ち頂けますと幸いです。