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二章

57.震える聖石

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「くそ」

 ライは苛立ちを吐き捨てる。

「私からも、伺って宜しいでしょうか?」
「ああ」
「ゼノ殿下は、聖なる木をどうなさるおつもりなのですか?」
「さあな」
「私には聞く権利があるはずです。ここはクルール領、他国の王族に自治権はありません」

 ライは王女を見つめると息を吐き、頭に上っている血を下げた。

「本当に、どうするか決めてないのです。只の無駄足かもしれないし、まあその場合でも、実を一つは貰って帰らないといけないのですけど」
「無駄足とは、どういう意味でしょうか?」
「そのままですよ。ゼノ様が求めているものではなかったということです」

 王女は沈黙した。ライの言葉を整理し、次に問うべき事柄を見極めているのだろう。

「仮に、聖なる木がゼノ殿下の求めているものだったとしたら?」
「連れて帰る。少なくとも、ここには置いておけない」
「それは、承服しかねます」

 ライは王女を視線の端に捉える。

「聖なる木は、皆が必要としています。大国が独占して良い存在ではありません。私は聖なる木と約束したのです。必ず御守りする、と」

 王女の言葉は小さくなり、動きを止めた。落馬しなかっただけ大したものだと、ライは感心する。
 彼の発する怒気は、訓練を受けていなければ大の男でさえ腰を抜かすほどに鋭い。

「それ以上、喋るな。ゼノ様より先に、俺が八つ裂きにしたくなる」
「貴様、姫様に向かって」

 ライの怒気に当てられながらも、護衛は王女を守ろうと剣に手を掛ける。

「やめよ、ライ」

 乾いた声が前方から届き、ライは苛立ちを沈めた。

「部下が失礼をした」
「いいえ。私の言葉が足りなかったのでしょう。御気遣いありませんよう」

 王女が返答し、一行は再び進みだしたが、王女の従者が一人減っていた。
 おそらく岩陰にでも隠れて、軍の配備を手配するよう、王宮に連絡しているのだろう。

 ライは頭の中で算段をつける。ライとゼノだけならば、振り切って逃げることは可能だ。
 問題は二点。
 一つはシャル。実物を見たことはないが、人が入れる大きさの樹木となれば、簡単に運べるものではない。これをどう、運び去るか。
 もう一点は、この山の奇石。バンの言っていた通り、石力の制御が乱される。
 能力を使えなければ、ゼノもライも只の人だ。武術には長けているが、一国の軍を相手に二人だけで勝てると思うほど、うぬぼれてはいない。
 一端手を引き、改めて奪いに来るのが定石だろう。

 だが、とライはゼノを見る。
 おそらくそれを彼は承知しない。
 太い息を吐き出すと、目下の自分の仕事を頭に叩き込む。ゼノの暴走を止めること。それが第一だ。
 ただしハンスとクラムの話を聞いた限り、暴走したゼノは、ライの力では止めようもなさそうだが。

 一行はそれぞれの思いを胸に、黙々と馬を進ませる。麓から四時間は経過しているだろう。それでも徒歩よりはずいぶん早く到着できそうだ。
 岩肌に開いた洞窟を潜ると、景色が一変する。
 高い崖に四方を囲まれているが、その一面だけ草木が生え、緑に覆われていた。

「ここは本来、王家の者のみに伝わる、神聖なる土地です」

 少し遅れて辿り着いた王女は説明した。他国から攻められたときに逃げ込む、避難場所といったところだろう。
 ゼノは構わず先へと進む。
 王女の存在に気付いた民衆達は、膝を折り礼をとった。
 人々の集まる先、他の大地より一段高い、陽当たりの良い場所に、その木は立っていた。
 翠色の実を着けた、柘榴。

 不意に、ライは泣きそうになった。石心に収まる聖石が震えている。
 ハンスに一族の始まりを聞いたからだろうか? 否、これはそんな浅い感情ではない。直ぐ様駆け寄って跪き、祝福の言葉と忠誠の誓いを伝えたい衝動に駆られた。
 だが一歩近付こうとして、ライはそのおぞましい気配に我に返る。眼球はライの指示を待たず、その存在を捉えた。
 小さな悲鳴が幾つも耳に入り、地に倒れる音が続く。

「落ち着いてください! ゼノ様」

 急いで駆け寄り、彼の腕を掴む。
 振り向いたゼノと視線が合うと、全身に悪寒が走った。

 月の女神は言った。柘榴を失えば、世界も滅ぶと。

 ライの喉が鳴る。
 伝説なんかじゃない。ここに、実体化している。
 居合わせた民衆は、腰を抜かして激しく震えていた。中には何とか這って逃げようとする者の姿もあったが、誰もが恐怖に慄いていた。
 錯乱した王女の護衛が、剣を構えてゼノに突進する。

「よせ」

 ライは叫ぶが、別の誰かの声だった気もした。
 護衛は予想通り、一瞬にして無惨な赤い塊と姿を変えた。
 民衆達から悲鳴が上がる。

「怒りを沈めてください」

 必死にゼノの暴走を食い止めようとするが、ゼノの瞳にライは映っておらず、声も届かなかった。


     ※


 何も見えなかった。何も聞こえなかった。
 暗い夜の世界で、一人眠っていた。
 寂しくはなかった。
 胸の内には、愛する人の温かい愛が溢れていたから。
 あるとき、誰かが触れた気がした。

「あなたも幸せでありますように」

 そう願った。
 今度は髪の毛を抜かれるような、小さな痛みが走った。

「あなたも幸せでありますように」

 それは、時間と共に増えていった。
 それが誰なのか、知る術はなかった。
 ただ、触れたもの全ての幸せを願った。
 ある日、胸が騒いだ。
 触れてはいなくても、その姿は見えなくても、誰なのかわかった。
 嗚呼、ずっと会いたかった。

「ゼノ」

 シャルはたまらず腕を伸ばした。


     ※


 ライは目を見張った。ライだけではない。そこにいた誰もがその光景に驚き、聖なる木とその枝先を見つめた。
 一本の枝が長く伸び、ゼノに触れる。

「よせ」

 ゼノは小さな悲鳴を上げたが、彼に向かって延びる枝は増え、ゼノを包み込んだ。

「やめてくれ」

 枝葉の中から、ゼノの呻き声が発せられる。
 侵入者は、動きを止めた。

「ああ、聖なる木よ、我らをお救いくださったのですね」

 誰かが涙を流し、聖なる木に謝意を述べる。
 ライはまぶたを伏せ、顔を背けた。
 ゼノの足元には、義手が転がっていた。いつ消え果てるともわからぬ弱り切った体で、シャルはゼノを包み、失われた腕を回復させたのだ。

 我に返ったクルールの従者達は、王女の前に立ち、異国の主従に剣を向ける。そして王女の護衛に三人ばかりを残し、侵入者に襲い掛かった。
 それらを制したのは、黒い野犬だった。
 野犬は獣の持つ俊敏な動きで、主を襲う人間達を薙ぎ倒した。

「いい加減にしろよ、お前ら」

 ライは抜いた剣を肩に担ぎ、周囲を油断なく伺う。切った傷は動きを抑える程度に抑え、全て浅い。回復も早いだろう。
 背後に庇ったゼノは、攻撃を受けても抵抗の姿勢も見せなかった。ライ一人で充分と考えたのか、殺されることに頓着する気が失せたか。
 おそらく後者だろうと、ライは溜め息を吐く。

「シャル」

 ゼノは頬に触れる枝葉に、優しく手を添える。
 枝葉は嬉しそうに小さく揺れた。
 溢れたゼノの微笑みに、ライは目を見張り、そして口元を緩めた。自分の知っていたゼノは、やはり本来の姿ではなかったのだ。
 それを確認して気を緩めたとき、小石がライの頬に当たった。

「聖なる木を、御守りするんだ」

 小さな子どもが立ち上がり、ライを睨み付けていた。その声に呼応するように、民衆は足元の石を取り、次々と立ち上がった。

「おいおい」

 ライは頬を引きつらせる。武術の伊呂波も知らぬような平民に、刃を向けるのは気が引ける。
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