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二章

44.希望

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「良いのか? ライ」

 板場から上がってきた店主がたずねた。
 只人が耳にすれば、それは声ではなく風の音に聞こえただろう。唇の隙間から漏れる、小さな風音。

「あいつ、俺達やお前の素性に気付いてる」

 ライも察してはいたが、答えず黙した。
 気付かれる言動はなかったはずだ。町の人間も、探ることには長けている軍の誰も、疑ってすらいない。
 この店だって、只の飯屋だ。疑う点はない。出した料理が裏目に出たか。否、それだけで気付くものではない。
 知らない内に、調べられていたのだろうか。

「今は手を出すな。害となるようなら、俺が始末する」

 店主はライを見つめた。

「わかった」

 膝を立てる店主に、ライはもう一つ、声を掛けた。

「『外』で突然現れた木か、傷を癒す木の噂が入ったら、教えてくれ」

 あの男の言いなりになるのは癪だが、それがゼノのためであれば、いや、己の失態を取り返す術となるのであれば、一時の感情に流されて拒絶することはできなかった。
 しばらくライを見つめていた店主は、「わかった」と頷いて、階下へ戻って行った。
 一人残ったライは、冷めた食事を口に運んだ。


「巻かれた」

 そう言って店員の一人が入って来た時には、皿は空になっていた。

「気を付けろよ」
「ああ」

 頷くライを、店員はきつく睨む。

「わかってる。ちゃんとアイツの素性は探るさ」

 ライは窓の外を見た。暗闇は深く、店の灯りも消えていた。


     ※


 小さな窓の外も、闇に包まれていた。たった一つの灯りは、手の届かぬ所で消えてしまった。
 全ては、自身の弱さが招いたこと。
 つなぎとめんとして渡した指輪が、彼女を無実の罪に陥れ、『外』へと追放したのだろう。彼女の身分には不釣り合いな装飾品が。
 想いを押し付け、それがどのような災いを招くかも、考えようとしなかった。

 草木もろくに育たぬ荒れた大地に、一人置き去りにされた少女。
 どれ程に辛かっただろうか。どれ程に悲しかっただろうか。
 何も知らず、何も知ろうとせず、自分が傷付かないように、安全な場所に閉じこもっていた。
 彼女は生きていると、幸せに暮らしていると、勝手に思い込み、現実に蓋をして。
 館に踏み込んで来たザインから、彼女の対玉石を見せられたゼノの頭の中は、冷たく凍りつき、音も色も失った。何を言われたか、何をされたか、彼は何も覚えていない。

「シャル」

 窓の外に見えた星に、手を伸ばす。
 もう一度会えるなら、もう一度その声を聞けるのなら、この身を八つ裂きにされても幸福を感じられるだろうと、彼は思う。

「シャル」

 もう、会うことは叶わない。愛されることなど、許されようか。
 これ程に傷付けて、苦しめて、全てを奪って。

 うめき声が、狭い石造りの部屋に響く。
 八つ裂きにしたかった。それでは足らない。切り刻んで、ありとあらゆる苦痛を味わわせてやりたい。
 ゼノは拘束された手足を、堅い石の壁に叩き着ける。
 何もかも壊れてしまえと、呪詛を吐きながら。

「殿下」

 聞き慣れた声に、ゼノは反射的に顔を上げた。
 甘い言葉を囁やき続けてきた男に対して、憎しみが、渦を巻く。

「生きておられます」

 告げられた言葉に、ゼノの思考が止まる。何を言われたか、分からない。

「小鳥は生きています」

 重ねて言われた言葉でようやく意味を理解すると、ゼノは笑い出した。

「もう良い。お前の戯言など、もはや信じぬ」

 彼女は生きていると、何度も告げた声。

「シャルは死んだ。私と関わったばかりに、苦しみ、殺されたのだ。私が、殺したのだ」

 涙が溢れていく。
 彼女さえ幸せならば、どんな境遇でも幸福だと思えた。彼女の存在が、生きる希望だった。
 だが、もう愛した少女はいない。

「失せろ」

 殺意のこもる眼光を、窓の外に向ける。
 小さなため息の後、窓からハンスの顔が現れた。

「殿下、話は最後まで聞いてください。後、見張りが来ますから、静かにしてください」

 ハンスはいつもと変わらぬ、呑気な声で言った。

「先程、ライ大将に話を聞いてきました」

 ゼノは眉間に皺を寄せるが、ライが外道討伐に参加していたことを思い出す。

「小鳥ちゃんと、会ったみたいですよ」

 ゼノのから殺伐とした空気が霧散していく。ハンスの声に耳を澄ませている。
 ハンスは内心で呆れた。毎度のことだが、こうもあからさまな態度の変化は、如何なものであろうかと。

「ライ大将は、小鳥ちゃんの存在に気付いていらしたようですね」

 言われてゼノは、以前、ライが書庫に忍び入っていたことを思い出す。

「外道の巣で、手傷を負った彼女を逃がしたそうです」

 ゼノは顔を上げる。なぜライがシャルを知っているのか疑問に思ったが、今はそんなことはどうでも良かった。

「だがザインは、外道の死体の中から見つかった、と」
「当然でしょう。取り逃がしたと正直に言えば、右軍の沽券に関わります」
「だが」

 シャルの生存を信じられないゼノに、ハンスは続ける。

「第一、本当に外道の巣で殺されたのであれば、なぜ殿下はまだ生きているのです? 死体の山の中で、殿下の聖石だけは、無傷で難を逃れているとでも?」
「それは」

 言い淀み、胸を押さえる。空の石室は今もなお、ゼノの石力を聖石に送り続けている。
 ゼノの顔に、ようやく生気が戻って来た。 

「左の肘から先を切り落とされていたそうですが、出血はしていなかったそうです」

 ゼノの脳裏に、森での光景が浮かび上がる。手足を失い、動かなくなった少女。

「おそらく失った腕の代わりに、能力を使って義手を着けていたのでしょう。つまり」

 言って、ハンスはゼノに向かって笑む。

「小鳥ちゃんは生きているどころか、今回の件においては無傷です」

 感極まったゼノは、目を閉じた。

「対玉石も、取り戻しておきました。証拠として提出される腕飾りは、殿下の石と対ではありません。殿下、これから何を成さなければならないか、おわかりですね?」

 先程までと違い、厳しい口調のハンスに、ゼノは頷く。

「生きているとわかっても、『外』にいる限り安全とは言えません」
「ああ」

 頷いたゼノの瞳には、光が戻っていた。

「必ず、見つけ出す」

 ハンスは小さく笑う。

「お前は動くな」

 一瞬ばかり目を見開いたが、すぐに察してハンスは立ち上がった。

「了解」

 セスに警戒されているハンスが、シャル絡みのことで動くことは望ましくない。ハンスは振り向くことなく、闇夜に溶けていった。
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