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二章

35.冤罪の指輪

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 小さな窓から溢れるわずかな灯りの中で、ライは文字を追う。
 過去の事件が記載された書類の中から、その案件を見付けるだけで、ずいぶんと時間を費やしてしまった。
 時折やって来る役人に見付からぬように動いているために、余計に時間が掛かった。

「まあ、心配はしていないだろうけど」

 天井近くに取り付けられた窓から、星を見上げる。
 ユイは夕食の仕度をして、ライを待っているだろう。腹の虫が鳴き声をあげる。
 食料を持って来れば良かったと悔やむが、もはや遅い。明日の朝、いや、運が悪ければもっと遅くまで、ライは食べ物を口にすることができないだろう。

 ライは書類を閲覧するための、公式な手続きは踏んでいなかった。ゼノに知られたくなかったために、申請書を提出することなく、書庫に忍び入ったのだ。
 書庫を管理する役人達が帰った今、ライがこの空間から出る術はない。明日になり、書庫に役人が入って来た隙に、ここから脱出するしかないだろう。

 目を通した書類の内容を、ライは脳裏で確認する。
 少女の名はシャル・マトカニ。
 家族はおらず、出身地は首都から離れている。ゼノとの接点は見当たらなかった。
 勘が外れたのだろうかとも思うが、対玉石を売っていた男の話は、何度考えてもゼノのことで間違いないだろう。
 そう考えると、この案件の少女こそが、ゼノと深い関係にある人物のはずだ。

「しかし、なあ」 

 取り調べは被害者とされる、貴族の奥方の訴えに沿うように行われている。シャルの反論は受け入れられず、目撃者の調書や証拠も不充分だ。
 賄賂が使われたか、あるいはシャルの身分が低いことから、面倒を避けるために罪人に仕立て上げたかは分からない。
 だが正当な判決ではないことは確かだった。

「腐ってるよな」

 地位も金も持たない者は、無実を主張することさえできない。これがこの国の現実だ。

 ライは書棚の影に腰を下ろすと、目を閉じた。眠りはするが、聴覚は起きていた。
 ゼノ軍の大将が書庫に忍び入った等と知れたら、ライだけではなく、ゼノにも責任を問われる事態となる。

 薄く日が射すと、ライは目を覚まし、入り口近くで耳を澄ました。扉が開く瞬間を、逃してはならない。
 足音が近付いて来る。二人。
 ライは素早く入り口から二つ目の棚の影に身を潜めた。
 扉に近すぎては、入ってきた相手が入り口から離れる前に気付かれる恐れがある。遠すぎれば、脱出前に気付かれる危険が高くなる。
 息を潜め、その瞬間を待つ。
 鍵穴に鍵が差し込まれ、擦れる音が響く。金属音と共に、錠が開いた。ゆっくりと、扉が開いていく。

 扉の外から、二人の男が現れた。
 一人目は、鍵の束を手に持った役人。その後ろから姿を現したのは、ライの良く知る人物だった。
 ライの掌に、汗がにじむ。あの人に気付かれずに、部屋から脱出できるだろうか。
 高鳴る鼓動を押さえ、ライは一度、目を閉じた。
 そして彼等が扉から離れた瞬間、飛び出した。
 電光石火で駆け抜けるライに、役人は気付かない。もう一方の男から、ちらと視線を感じたが、ライはそのまま走り去った。

「よりによって、なんであの人がいるんだよ?」

 建物から離れた木陰で、ライは毒づいた。

「俺が調べていることに、気付いた訳じゃないよな?」

 自分に問い掛けるが、判然としない。しかし、悩んでも仕方がない。
 ライにはこれ以上、できることは何もないのだから。


     ※


 それを目にした時、ゼノは見間違いだと思い込もうとした。
 二度目に見た時は、良く似た別物だと言い聞かせた。そして三度目、ゼノは己をいつわる術を失った。

「良い指輪をお持ちだ」

 人ごみを自然な流れで移動し、ぐうぜん目に留まったという風を装い、声を掛ける。

「まあ、殿下からそのようなお言葉を頂けるなんて、恐縮ですわ」

 婦人は謙遜するが、誇らし気だ。

「どちらで?」

 婦人は一瞬、怪訝な表情を見せたが、ゼノは微笑を崩さなかった。

「出入りの宝石商ですわ」
「ほう」

 相槌を打って、続きを促す。
 婦人は戸惑うが、王族に声を掛けられた名誉のほうが勝った。ゼノは微笑をたたえたまま、婦人の話に耳を傾け、時に相槌を打つ。 
 ゼノが掘り下げるまでもなく、婦人は宝石商の名や、入手の経緯等を事細かに語った。
 婦人の話が続く間、ゼノの頭の中は無数の情報と予測、それに感情が飛び交っていた。

「その指輪は、あの人に贈ったものだ」

 そう言って奪い取りたい衝動を、今すぐこの場を飛び出して真相を突き止めたい衝動を、ゼノは必死に押さえ込む。

「何があった」

 晩餐会も終わり、一人になってからも、ゼノの心は指輪に囚われていた。
 指輪がシャルの元から離れた経緯は、幾つか考えられる。

 まず一つは、金に困ったシャルが指輪を売った場合。そうであるならば、ゼノの心も幾ばくかは安心できる。
 愛する証として贈った指輪を、シャルが手放したことは悲しく辛い。もしかすると、ゼノのことなど忘れてしまったのかもしれない。
 しかしゼノが彼女の想いに応えることができない以上、仕方のないことだ。
 指輪を売って得た金で彼女が救われたのであれば、それで良い。シャルが幸せであるなら、ゼノはそれで充分だった。

 しかし、シャルが指輪を自ら手放すとは思えない。
 指輪自体に執着する女ではないが、指輪に込められた想いを、見捨てるような女でもない。

「だとすると」

 ゼノは自身の体が小刻みに震えていることに気付く。薄着で雪原に立っているかのように、寒い。
 彼女の意思で指輪を手放したのではないとすれば、考えられる経緯は決まってくる。

「シャル」

 ゼノは左手で顔を覆った。その下から、呻き声が漏れる。
 まぶたに浮かぶのは、血の海に横たわる愛する人。
 翡翠の瞳がゼノを映すことはなく、微かに動く胸の鼓動だけが、シャルが生きていることを示していた。
 手当てを施すことも、その場に留まることもできず、森に一人、残して来た。

「シャル」

 もう一度、愛する人の名を呼び、ゼノは胸の空洞を押さえた。
 奇跡を信じ、残して来た聖石。今も微量だがゼノの石力を奪い続けている。その事実を支えに、生きて来た。
 彼女が生きていて、ゼノの聖石を通じて彼の石力を使っているのだと。

「全ては、私の願望が作り上げた幻想か」

 シャルはあの森で死んだのだ。そして、死した彼女の亡骸から、誰かが指輪と聖石を持ち去った。
 聖石は持ち主以外の者でも、自身の石心にはめることで、その恩恵を受けることができる。石能を宿すことはできないが、その聖石の持つ石力は、限界まで使用することができた。
 それがため、公には禁じられていたが、聖石は高値で取引されている。
 他者が聖石を使えば、その分、聖石の持ち主の石力は削がれる。
 石力を使われた者は能力の使用に支障が現れ、一線を越えると能力だけでは足らず、肉体にも障りが出た。そして使い切れば、命を落とすこともある。

「いっそ、使えるだけ使い切ってくれれば良いのに」

 握り締めたゼノの拳から、緋色の線が流れ落ちた。
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