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二章
31.懺悔
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「他の者の前で、その悪食は披露しないでくださいよ?」
ゼノは眉をひそめて視線を上げる。
「王子様が林檎の芯まで食べたら、下々の者も残せなくなるでしょうが」
「ああ、そうか」
なるほどと頷き、林檎のへたを宙に飛ばした。
「丸のまま食べる時点で、瞠目しそうだがな」
「そうですね。もう一ついけます?」
ゼノは首を振り、差し出された林檎から視線を逸らした。
「幸せに暮らしているだろうか?」
「さて。でもまあ、何とかやってますよ」
「なぜ、そう言える?」
和らいでいた気配は、針のように鋭く標的を刺す。
「動けない体で女の子が一人で生きて行ける程、外は甘くないですよ。今も生きているってことは、働ける程度には回復できる怪我だったってことです」
「そうだろうか」
今も脳裏に焼き付いて離れない。
彼女から多量に溢れ続ける、紅い水。血の海で苦痛に喘ぐ声。手足を切断され、腹部にも幾筋の線。
命をつなぐことができるとは思えなかった。だから、彼女の元に残して来た聖石が彼女と共に朽ち、己にも死が訪れる日を待った。一人で生き続ける気力は、失われていたから。
だがゼノは、まだ生きている。
それだけではない。彼女の下に残した聖石は、彼女と別れてから今日まで、絶えることなくゼノの石力を吸い上げていた。
誰かがゼノの聖石を使っているのだ。
それが彼女であると、ゼノにも断言はできない。他の誰かが拾い、使っている可能性は否定できなかった。
しかし、あの森に入れる者はそうはいないはずだ。
施された呪は並みの神官では破れぬ強力な代物。聖石を手にしている者は、彼女であると考えるのが自然だ。いや、そう思い込みたいだけかもしれない。
「人間ってのは、時折、常識を超えることもあるんですよ」
「そうか、そうだな」
ゼノは空を見上げる。
以前は嫌なことがあるたび、飛んでいた。上空から地上を見下ろすと、全てが小さく見える。父王さえ小さな存在に思え、恐怖や悲しみを手放すことができた。
彼女を失ってから、自分のために空を飛ぶことは止めた。この国を、この国のどこかで生きている彼女を守るためにだけ、力はあれば良い。
「ハンス、また、小鳥の餌を焼いてくれるか?」
「喜んで」
ゼノの頼みに微笑みを返すが、それが難しいことをゼノは知っていた。
かつては繊細な菓子で王族をも魅了した彼の指は、存在しない。掌の先に生える小枝のように細く黒い指が、動くことはないのだ。干からびた皮膚は弾力を失っており、些細なことで破れた。
樹皮の裂目から白い芯が覗くように、骨まで現れている。それにも関わらず、それを見ても痛々しく感じないのは、あまりに異形な姿ゆえか、はたまた自身の感情が冷えきってしまっているからか、ゼノには判別しかねた。
この男もまた、ゼノの短慮によって犠牲になった者だ。
王国一の菓子職人としての地位を失い、使用人達の中で最も下級の雑用係に落とされた。
それでも傍に仕えてくれている。ゼノを恨むどころか、愛する者を奪われ傷心するゼノを気遣ってくれた。
「いつか、お前に紹介できる日が来ると良いのだが」
「それは楽しみですね」
ハンスは笑う。
その笑顔を見て、ゼノは視線を落とす。ハンスの笑顔が痛かった。
彼を案ずるのであれば、彼女の元へ赴かせるべきだ。そうすれば、ハンスの指は元通りに戻り、以前のように菓子職人として腕を振るうことができるだろう。
だがそれを実行すれば、彼女を危険に晒すだけではなく、ハンスをも失ってしまうことを、ゼノは知っていた。
ハンス程の菓子職人が、菓子を食べない主の下に、いつまでも留まる理由はない。
「すまない」
聞こえないように、小さな声で謝罪した。
※
どこまでも続く乾いた大地を、一つの影が歩いていた。
荒れ果てた大地に樹木はなく、砂や岩にしがみつくように、小さな草が点在していた。
影は固くひび割れた大地に足を取られながらも、進む。
歩けども、歩けども、景色は変わらない。
どこまで歩けば良いのか、どちらに向かえば良いのか、影は知らない。
大きな岩場の陰で、影は歩みを止めて休んだ。
何日歩いたのか、覚えていなかった。
一滴で良い、水が欲しい――。
上空に、陰りが射した。
陰りは影に問うた。
喰うか? 喰われるか?
影は静かに首を横に振った。
陰りは影に、襲い掛かった。
※
先の戦の処理を終え、ようやく落ち着きを取り戻した後に与えられた、数日間の休養。ライは久し振りに、兵達の訓練を見ていた。
戦からの帰還直後からは戻ってきていたが、命を落とした者、命は取り止めても軍には戻れぬ者、傷の癒えていない者など、戻っていない兵は多く、数は少なかった。
それでも訓練は行われる。ライは出て来ていた兵達には、普段よりも細かく指導した。
「ようやくお出でになったのですか?」
訓練場には不似合いな女の声に、ライは視線だけ向けると、すぐに兵達に戻した。
「ゼノ様は休暇など取らず、空いている日は、お出でになっていましたよ?」
近付いて来る声に、ライは隠そうともせず太い息を吐き出す。
「あの人は特別だ」
「もちろんです」
肯定する相手を、ちらと見る。満足気な表情から、エリザにライの意図が伝わっていないことは、明らかだった。
ゼノは休まないのではない、安めないのだ。
兵達の視線も、控えめだがエリザに注がれている。一つは、美しく高貴な身分の女性に対する、憧憬と恋慕。今一つは、その身分で当然のように、大将という高い地位に座った女への軽蔑。
これらの視線を受けても、エリザに動じることはない。肝が大きいのか鈍感なだけか、もしやすると、下々の人間のことなど、眼中にないのかもしれない。町で見掛ける貴族達の多くが、平民を自分と同じ人間とは見ていないように。
ライの肚の奥で、忘れかけていた不快感がにじみ出てくる。
キルグスと呼ばれ、軽蔑されていた過去。死んだ父の代わりに家族を養うためと、二つ下の妹と首都に出て来たが、そこでライ兄妹を待っていたのは、予想を超える差別だった。
どこに行っても雇ってはもらえず、住む家さえ貸してはもらえない。家族のためにと出て来たのに、家族から餞別に貰ったわずかな貯えを消費していくだけの、情けない日々。
人として扱われることを諦めかけたとき、軍への入隊が叶った。
露骨な嫌がらせを受けたが、母と弟妹達のためと、彼は耐えた。
人としての尊厳を取り戻したのは、奇妙な将軍に拾われてからだ。ライを見下すことなく接し、その実力を正当に評価し、取り立ててくれた。
ゼノだけではない。側近のクラムやバドルも、ライの実力を認め、仲間として受け入れてくれた。
部下も、町の人々も、武功を上げるにつれてライを認め、軽蔑の視線は尊敬の眼差しへと変わっていった。
いつの間にか、それが当たり前になっていた。
「どうかしましたか?」
エリザの声に、ライは現実に戻った。
「別に」
素っ気なく答えて、兵達の訓練に戻る。
ゼノは眉をひそめて視線を上げる。
「王子様が林檎の芯まで食べたら、下々の者も残せなくなるでしょうが」
「ああ、そうか」
なるほどと頷き、林檎のへたを宙に飛ばした。
「丸のまま食べる時点で、瞠目しそうだがな」
「そうですね。もう一ついけます?」
ゼノは首を振り、差し出された林檎から視線を逸らした。
「幸せに暮らしているだろうか?」
「さて。でもまあ、何とかやってますよ」
「なぜ、そう言える?」
和らいでいた気配は、針のように鋭く標的を刺す。
「動けない体で女の子が一人で生きて行ける程、外は甘くないですよ。今も生きているってことは、働ける程度には回復できる怪我だったってことです」
「そうだろうか」
今も脳裏に焼き付いて離れない。
彼女から多量に溢れ続ける、紅い水。血の海で苦痛に喘ぐ声。手足を切断され、腹部にも幾筋の線。
命をつなぐことができるとは思えなかった。だから、彼女の元に残して来た聖石が彼女と共に朽ち、己にも死が訪れる日を待った。一人で生き続ける気力は、失われていたから。
だがゼノは、まだ生きている。
それだけではない。彼女の下に残した聖石は、彼女と別れてから今日まで、絶えることなくゼノの石力を吸い上げていた。
誰かがゼノの聖石を使っているのだ。
それが彼女であると、ゼノにも断言はできない。他の誰かが拾い、使っている可能性は否定できなかった。
しかし、あの森に入れる者はそうはいないはずだ。
施された呪は並みの神官では破れぬ強力な代物。聖石を手にしている者は、彼女であると考えるのが自然だ。いや、そう思い込みたいだけかもしれない。
「人間ってのは、時折、常識を超えることもあるんですよ」
「そうか、そうだな」
ゼノは空を見上げる。
以前は嫌なことがあるたび、飛んでいた。上空から地上を見下ろすと、全てが小さく見える。父王さえ小さな存在に思え、恐怖や悲しみを手放すことができた。
彼女を失ってから、自分のために空を飛ぶことは止めた。この国を、この国のどこかで生きている彼女を守るためにだけ、力はあれば良い。
「ハンス、また、小鳥の餌を焼いてくれるか?」
「喜んで」
ゼノの頼みに微笑みを返すが、それが難しいことをゼノは知っていた。
かつては繊細な菓子で王族をも魅了した彼の指は、存在しない。掌の先に生える小枝のように細く黒い指が、動くことはないのだ。干からびた皮膚は弾力を失っており、些細なことで破れた。
樹皮の裂目から白い芯が覗くように、骨まで現れている。それにも関わらず、それを見ても痛々しく感じないのは、あまりに異形な姿ゆえか、はたまた自身の感情が冷えきってしまっているからか、ゼノには判別しかねた。
この男もまた、ゼノの短慮によって犠牲になった者だ。
王国一の菓子職人としての地位を失い、使用人達の中で最も下級の雑用係に落とされた。
それでも傍に仕えてくれている。ゼノを恨むどころか、愛する者を奪われ傷心するゼノを気遣ってくれた。
「いつか、お前に紹介できる日が来ると良いのだが」
「それは楽しみですね」
ハンスは笑う。
その笑顔を見て、ゼノは視線を落とす。ハンスの笑顔が痛かった。
彼を案ずるのであれば、彼女の元へ赴かせるべきだ。そうすれば、ハンスの指は元通りに戻り、以前のように菓子職人として腕を振るうことができるだろう。
だがそれを実行すれば、彼女を危険に晒すだけではなく、ハンスをも失ってしまうことを、ゼノは知っていた。
ハンス程の菓子職人が、菓子を食べない主の下に、いつまでも留まる理由はない。
「すまない」
聞こえないように、小さな声で謝罪した。
※
どこまでも続く乾いた大地を、一つの影が歩いていた。
荒れ果てた大地に樹木はなく、砂や岩にしがみつくように、小さな草が点在していた。
影は固くひび割れた大地に足を取られながらも、進む。
歩けども、歩けども、景色は変わらない。
どこまで歩けば良いのか、どちらに向かえば良いのか、影は知らない。
大きな岩場の陰で、影は歩みを止めて休んだ。
何日歩いたのか、覚えていなかった。
一滴で良い、水が欲しい――。
上空に、陰りが射した。
陰りは影に問うた。
喰うか? 喰われるか?
影は静かに首を横に振った。
陰りは影に、襲い掛かった。
※
先の戦の処理を終え、ようやく落ち着きを取り戻した後に与えられた、数日間の休養。ライは久し振りに、兵達の訓練を見ていた。
戦からの帰還直後からは戻ってきていたが、命を落とした者、命は取り止めても軍には戻れぬ者、傷の癒えていない者など、戻っていない兵は多く、数は少なかった。
それでも訓練は行われる。ライは出て来ていた兵達には、普段よりも細かく指導した。
「ようやくお出でになったのですか?」
訓練場には不似合いな女の声に、ライは視線だけ向けると、すぐに兵達に戻した。
「ゼノ様は休暇など取らず、空いている日は、お出でになっていましたよ?」
近付いて来る声に、ライは隠そうともせず太い息を吐き出す。
「あの人は特別だ」
「もちろんです」
肯定する相手を、ちらと見る。満足気な表情から、エリザにライの意図が伝わっていないことは、明らかだった。
ゼノは休まないのではない、安めないのだ。
兵達の視線も、控えめだがエリザに注がれている。一つは、美しく高貴な身分の女性に対する、憧憬と恋慕。今一つは、その身分で当然のように、大将という高い地位に座った女への軽蔑。
これらの視線を受けても、エリザに動じることはない。肝が大きいのか鈍感なだけか、もしやすると、下々の人間のことなど、眼中にないのかもしれない。町で見掛ける貴族達の多くが、平民を自分と同じ人間とは見ていないように。
ライの肚の奥で、忘れかけていた不快感がにじみ出てくる。
キルグスと呼ばれ、軽蔑されていた過去。死んだ父の代わりに家族を養うためと、二つ下の妹と首都に出て来たが、そこでライ兄妹を待っていたのは、予想を超える差別だった。
どこに行っても雇ってはもらえず、住む家さえ貸してはもらえない。家族のためにと出て来たのに、家族から餞別に貰ったわずかな貯えを消費していくだけの、情けない日々。
人として扱われることを諦めかけたとき、軍への入隊が叶った。
露骨な嫌がらせを受けたが、母と弟妹達のためと、彼は耐えた。
人としての尊厳を取り戻したのは、奇妙な将軍に拾われてからだ。ライを見下すことなく接し、その実力を正当に評価し、取り立ててくれた。
ゼノだけではない。側近のクラムやバドルも、ライの実力を認め、仲間として受け入れてくれた。
部下も、町の人々も、武功を上げるにつれてライを認め、軽蔑の視線は尊敬の眼差しへと変わっていった。
いつの間にか、それが当たり前になっていた。
「どうかしましたか?」
エリザの声に、ライは現実に戻った。
「別に」
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