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02.出会い

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 世界は霧に覆われていた。空は紅に染まり、森の木々は影へと姿を変えていく。

「ああ」

 まただ、とシャルは溜め息を吐く。また日暮れまでに家に帰ることができなかった。母さんは怒るだろうか。
 否、とシャルは薄く笑う。怒りなどしまい。もうそんな人はいないのだ。

「何を笑っているのだ?」

 唐突に降ってきた声に、シャルは目を見開き頭を起こした。強い目眩が起こり、天地の区別も付かないが、手足を張って耐える。湖面を覗いているかのように揺らめく世界から、声の主を探した。
 夕日の中に一つの影が座っている。逆光で顔を見ることはできない。影の大きさや声から想像すると、シャルと同じくらいの年頃の少年であろうか。

「何が可笑しい?」

 少年は、苛立たし気に重ねて聞いた。

「ええと」

 シャルは首を傾げる。
 笑ったという自覚はなかった。いや、確かに笑ったのかもしれないが、それは決して可笑しかったからでも楽しかったからでもなかっただろう。
 答えないシャルの姿に、少年の目が強く光る。
 シャルは慌てて言葉を探した。

「可笑しかったわけではないんです。なんて言えば良いのか、そう、自嘲でしょうか」
「自嘲?」

 眉をひそめる少年に、

「ええ、また帰る時間が遅くなってしまったなって思って」

 そう言って、シャルは笑って見せた。
 少年を覆う空気はぴりぴりとして痛い。笑顔を見せれば少しは緩むかと思ったが、変化はないようだ。

「遠いのか?」
「森を抜けて、少し先の村ですけど」

 その森を抜けることこそが問題なのだが、とシャルは朝からのことを思い出す。
 何度、道に迷っただろうか。無理矢理ここまで来たが、果たしてこの空間から抜け出ることはできるのだろうか。
 不安が沸き起こるが、シャルにはそれ以前の問題もあった。
 四肢を踏ん張ることでようやく上体を起こしている状態なのだ。立ち上がり、家まで歩いてたどり着けるのだろうか。

「送ろう」

 少年が手を差し出した。
 予想外のことに、シャルは驚いて瞬く。
 戸惑うシャルには構わず、少年はシャルの手を取った。その中腰になった姿勢のお陰で、シャルはようやく少年の顔を見ることが叶う。
 燃えるように紅い瞳に、シャルは思わず見入る。わずかに視線を上げれば、青みを帯びた銀髪が映った。
 少年がシャルの腕を引き上げ、彼女の腰が浮く。だが立ち上がろうとした足には力が足りず、シャルは体勢を崩した。
 とっさに少年の腕へしがみついた手に、冷たい感触が伝わる。少年の腕を包む衣は、乾きかけた血で濡れていた。

「怪我、してる」

 シャルは指から力を抜くと、少年の腕の傷に優しく手を添える。意識を空へと解き放ち、シャルという存在を溶かした。体の境界は消え、ただ温かいだけの、形も持たぬ存在と化す。
 実体が戻った時、シャルが触れていたものの傷は消えていた。少年の腕が治癒したことを確認し、シャルは微笑む。

 誰かが傷付いているのは辛い。それが何者であろうと、どんな傷であろうと、痛いのだ。
 シャルが傷付いているわけではないのだと頭では理解しているが、痛みを感じてしまう。だから治れば安堵するし、嬉しい。
 でも、とシャルは苦笑する。
 今日は少しばかり欲張り過ぎたかもしれない。意識が混濁へと落ちていく。
 ああ、先ほど目を覚ましたばかりなのに、日が暮れてしまう。


     ※


 目覚めた時、シャルは見馴れた景色の中にいた。いつもの天井、縁の欠けた寝台。

「夢?」

 起き上がろうとして、体勢を崩した。ひどい目眩と耳鳴りがする。胃は空腹で焼けそうだ。
 寝台から起き出し、何か食べる物はないかと部屋を出る。
 台所の棚に手を伸ばして戸を開けると、積み重ねてあった麻袋を一つ取り出た。袋を開き、黒い固まりを一切れ取り出す。少し考えてから、もう一切れ取り出した。

 今朝はとてもお腹が減っていて、一切れでは耐えられそうにない。
 しかしその一切れ分、シャルの心に刺が刺さった。黒パン一切れでも、シャルにとっては貴重な食糧なのだ。
 取り出した黒パン二切れを皿に乗せると、残りの黒パンが入った麻袋を棚に戻す。火鉢の上に置かれた鍋を除け、灰の中で眠っていた炭を掘り出し小さな炭を継ぎ足した。そして一晩掛けてほのかに温まっていた鍋を戻す。

 裏手に回りスイバとシャクを摘み取ると、溜池に流れ込む湧水でさっと土を落として家の中へと戻る。
 まだ沸騰もしていない鍋に適当に千切ったスイバとシャクを入れ、塩を少し、それに陶器の容器から香草の粉末を一つまみずつ加えた。市場で買ったものではない。森で採取し、自ら干して砕いたものだ。
 湯が沸騰するのを待つ間に、鍋の横で黒パンを軽く炙る。鍋がふつふつと音を発て始めたら、黒パンを皿に戻し、器を取り出した。汁を器に注ぎ、黒パンと共に部屋へ持って帰った。

 小さな机に簡素な朝食を置いて、糧を頂くことへの感謝の祈りを捧げた後、シャルは一人もそもそと食べ始める。
 今朝の黒パンは良く焼けていて、底に当たる面は少し黒い。それに気付き、シャルは嬉しくなった。硬く焦げた黒パンをかりかりと奥歯で噛み砕くのは、シャルにとって楽しみだった。
 二切れの黒パンと野草の汁をゆっくりと味わって食べると、シャルは今食べたもの達に礼を述べ、食器を片付けた。
 それから洗濯を済ませると、シャルはふと空を見上げる。

 昨日は熊の親子と、少年の怪我を治して意識を失ってしまった。
 湖畔に行く途中で見かけた鳥や、他の動物達の手当ては何もしていない。
 それに、とシャルは思う。
 あの少年は誰なのだろうか。見たことの無い顔だった。どこから来たのだろうか。最近、引っ越して来たのだろうか。

 どちらにせよ、あの森に施されていた呪に、あの少年が関わっていることは確かだろう。
 特定の場所に人を入り込ませなくする呪など、そう簡単に組めるものではない。一体あの少年は何者なのだろうか。
 続けて湖畔に行ったことは今までなかったが、今日もまた行ってみようかとシャルは思案した。
 どうせ行かなければならない学校も、仕事もないのだから。

 シャルは残りの家事を急いで済ませると、家を出た。
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