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4.野生のルール
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蜂の巣の大きさは春から秋にかけて大きくなっていき、それに伴って蜂の数も増える。夏の終わりから秋にかけては行動も活発になるから、今まではスズメバチの警戒区域に含まれていなかったのかもしれない。
「本当はそっとしておいてあげたいんだけどな。人間の生活に必須な場所ってわけじゃなく、行楽のための山ん中だからな。子育てシーズンが終わるまで人間が不用意に来なければいいだけなんだけど」
物憂げな横顔のイケメンに惚れそうだが、彼の頭の中でどんな光景が浮かんでいるのか想像すると、なんだか微妙な気持ちになった。
遊歩道を半分ほど戻ったところで、男女の二人連れと出会った。夫婦だろうか?
「こんにちは」
僕と八哉が声を掛けると、夫婦ずれも挨拶を返してくれる。山はこういうところもいい。
八哉は足を止めて、この先にスズメバチの巣があるようだと伝える。
「危ないと判断して僕たちは引き返しました。このまま引き返すことをお勧めします」
八哉の説明に、夫婦は困ったように額を突きつけて相談を始めた。ちらちらと道の先を見ては何かささやき交わしている。
「あのう」
「はい」
歩き出した僕たちだったが、呼び止められて振り返る。
「スズメバチの巣って、大きいんですか?」
問われて僕は八哉を見る。
「さあ? 巣までは行っていないから正確な大きさは分かりません。でも遊歩道の近くにはあると思いますよ。どうしても行くと言うのなら止めませんけど、危険を感じたらすぐに引き返したほうがいいでしょうね。間違っても蜂に攻撃したりしないでください」
「スズメバチって、何匹いたんですか?」
「僕が見たのは二匹です」
その答えを聞いた夫婦は横目で互いを確認する。女性のほうは怖がっている様子だったけれど、男性のほうには微かだけど笑みがこぼれた。八哉を嘲るような、ちょっと嫌な笑い方だった。
たった二匹の蜂を見ただけで引き返す僕たちを、臆病者だと思ったのだろうか。
「そうですか、ご親切にありがとうございます」
そう言って、夫婦は滝を目指して歩き出した。
引き返したほうがいいと思っても、強要する権限は僕たちにはない。もやもやする気持ちを抑えながら足を動かす。
「心配なのはわかるけど、あんまり気にしても仕方ないぞ? 運が良ければ無事だろ。まだ巣があるってことは、被害が出てないってことだしな」
まっすぐ進んでいく夫婦のことが気になってちらちらと見ていた僕に、八哉は振り向きもせずに言った。
「戦闘モードに入ったスズメバチ・シスターズから逃げ惑う人間を救出するのは至難の業だぞ? 助けようとしてもミイラ取りがミイラになるだけだ」
この変人がそう言うのなら、僕があの夫婦に付いていったところで手は出せないのだろう。
そう思っても気になる僕の様子に、八哉は、
「あー」
と、呆れたような声を出して首筋を掻く。
「気持ちは分かるけど、引きずって帰るわけにはいかないだろ? 俺は戻ったほうがいいと判断したけど、もう少し進めば警戒が解かれた可能性だってある。警告はしたんだ。後は自己責任。ほら、気持ちは切り替える」
八哉だって気になっているのだろう。張子の虎のように首を揺らした僕は、前を向く。
「その台詞、普通はキャッチャーが言うはずなんだけど?」
「できるピッチャーですから」
わざと軽い調子で言い合いながら、僕たちは山道を下っていく。すでに道はなだらかで、平地とあまり変わらない。とはいえそう思って歩いていると、登山では体力を奪われることもあるので気は抜けないけれど。
滝見物をあきらめた僕たちは、軽トラックに乗り込んで川下へと移動する。滝は見ることができないけれど、下流の河原で水遊びができる。
一時間ほど走ったところで脇道に入り、川沿いの小さな駐車場に止まった。三台ほどしか止まれない駐車場には、すでに一台が止まっている。
ドアを開けると川の水が流れる音が耳に飛び込んでくる。冷房の効いた車内から出るとむわっとした風を受けて、冷えた体が溶けるように、体の表面を小さな震えが駆け上った。
山道を歩くこともないので、靴と靴下を脱いでビーチサンダルに履き替える。滝で遊ぼうと用意してきたのだ。
荷物も手拭いと貴重品だけを持っていくことにした。もちろん上着や帽子も脱いでいる。
ふと八哉を見ると、作業着を脱ごうとしていた。
「待て」
とっさに止めると、八哉が僕を不思議そうに見て固まっている。人気はないとはいえ屋外で脱ぐつもりだったのか? とりあえず、今上がっている右足を下ろしてズボンに戻すんだ。
目に力を込めて見ていると何とか通じたようで、八哉は口角を上げて大きく頷いた。分かってくれたようだと僕も頷き返す。八哉はズボンを脱ぎきった。
通じていなかったようだ。なぜ頷いた?
白いTシャツに赤いふんどしという、残念イケメンがそこにいた。
いっそTシャツも脱いでしまえばいい。八哉の鍛えられた肉体と整った顔立ちなら、きっと捕まらないはずだ。たぶん。
軽トラックに上半身を突っ込んでいた八哉は何かごそごそとしていたかと思うと、シートの隙間からでてきた布の塊を開いて穿いた。
短パンとTシャツ姿となった八哉は、裸足のまま川に向かって歩き出す。僕の心配を返せ。
何を言ったところで無駄であることは長い付き合いで知っているので、気持ちを切り替えて川へと向かう。
「本当はそっとしておいてあげたいんだけどな。人間の生活に必須な場所ってわけじゃなく、行楽のための山ん中だからな。子育てシーズンが終わるまで人間が不用意に来なければいいだけなんだけど」
物憂げな横顔のイケメンに惚れそうだが、彼の頭の中でどんな光景が浮かんでいるのか想像すると、なんだか微妙な気持ちになった。
遊歩道を半分ほど戻ったところで、男女の二人連れと出会った。夫婦だろうか?
「こんにちは」
僕と八哉が声を掛けると、夫婦ずれも挨拶を返してくれる。山はこういうところもいい。
八哉は足を止めて、この先にスズメバチの巣があるようだと伝える。
「危ないと判断して僕たちは引き返しました。このまま引き返すことをお勧めします」
八哉の説明に、夫婦は困ったように額を突きつけて相談を始めた。ちらちらと道の先を見ては何かささやき交わしている。
「あのう」
「はい」
歩き出した僕たちだったが、呼び止められて振り返る。
「スズメバチの巣って、大きいんですか?」
問われて僕は八哉を見る。
「さあ? 巣までは行っていないから正確な大きさは分かりません。でも遊歩道の近くにはあると思いますよ。どうしても行くと言うのなら止めませんけど、危険を感じたらすぐに引き返したほうがいいでしょうね。間違っても蜂に攻撃したりしないでください」
「スズメバチって、何匹いたんですか?」
「僕が見たのは二匹です」
その答えを聞いた夫婦は横目で互いを確認する。女性のほうは怖がっている様子だったけれど、男性のほうには微かだけど笑みがこぼれた。八哉を嘲るような、ちょっと嫌な笑い方だった。
たった二匹の蜂を見ただけで引き返す僕たちを、臆病者だと思ったのだろうか。
「そうですか、ご親切にありがとうございます」
そう言って、夫婦は滝を目指して歩き出した。
引き返したほうがいいと思っても、強要する権限は僕たちにはない。もやもやする気持ちを抑えながら足を動かす。
「心配なのはわかるけど、あんまり気にしても仕方ないぞ? 運が良ければ無事だろ。まだ巣があるってことは、被害が出てないってことだしな」
まっすぐ進んでいく夫婦のことが気になってちらちらと見ていた僕に、八哉は振り向きもせずに言った。
「戦闘モードに入ったスズメバチ・シスターズから逃げ惑う人間を救出するのは至難の業だぞ? 助けようとしてもミイラ取りがミイラになるだけだ」
この変人がそう言うのなら、僕があの夫婦に付いていったところで手は出せないのだろう。
そう思っても気になる僕の様子に、八哉は、
「あー」
と、呆れたような声を出して首筋を掻く。
「気持ちは分かるけど、引きずって帰るわけにはいかないだろ? 俺は戻ったほうがいいと判断したけど、もう少し進めば警戒が解かれた可能性だってある。警告はしたんだ。後は自己責任。ほら、気持ちは切り替える」
八哉だって気になっているのだろう。張子の虎のように首を揺らした僕は、前を向く。
「その台詞、普通はキャッチャーが言うはずなんだけど?」
「できるピッチャーですから」
わざと軽い調子で言い合いながら、僕たちは山道を下っていく。すでに道はなだらかで、平地とあまり変わらない。とはいえそう思って歩いていると、登山では体力を奪われることもあるので気は抜けないけれど。
滝見物をあきらめた僕たちは、軽トラックに乗り込んで川下へと移動する。滝は見ることができないけれど、下流の河原で水遊びができる。
一時間ほど走ったところで脇道に入り、川沿いの小さな駐車場に止まった。三台ほどしか止まれない駐車場には、すでに一台が止まっている。
ドアを開けると川の水が流れる音が耳に飛び込んでくる。冷房の効いた車内から出るとむわっとした風を受けて、冷えた体が溶けるように、体の表面を小さな震えが駆け上った。
山道を歩くこともないので、靴と靴下を脱いでビーチサンダルに履き替える。滝で遊ぼうと用意してきたのだ。
荷物も手拭いと貴重品だけを持っていくことにした。もちろん上着や帽子も脱いでいる。
ふと八哉を見ると、作業着を脱ごうとしていた。
「待て」
とっさに止めると、八哉が僕を不思議そうに見て固まっている。人気はないとはいえ屋外で脱ぐつもりだったのか? とりあえず、今上がっている右足を下ろしてズボンに戻すんだ。
目に力を込めて見ていると何とか通じたようで、八哉は口角を上げて大きく頷いた。分かってくれたようだと僕も頷き返す。八哉はズボンを脱ぎきった。
通じていなかったようだ。なぜ頷いた?
白いTシャツに赤いふんどしという、残念イケメンがそこにいた。
いっそTシャツも脱いでしまえばいい。八哉の鍛えられた肉体と整った顔立ちなら、きっと捕まらないはずだ。たぶん。
軽トラックに上半身を突っ込んでいた八哉は何かごそごそとしていたかと思うと、シートの隙間からでてきた布の塊を開いて穿いた。
短パンとTシャツ姿となった八哉は、裸足のまま川に向かって歩き出す。僕の心配を返せ。
何を言ったところで無駄であることは長い付き合いで知っているので、気持ちを切り替えて川へと向かう。
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