雨とコーヒーと、酒と本

nagiyoooo

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第三章

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 村上君とコーヒーを飲んだ日から数ヵ月は、再び変わらない日々が続いた。
 講義、バイト、金融論のあと村上君とコーヒー。
 滑り台に上っては滑り落ちる。そんな一週間の繰り返しだった。いや、どちらかというと、無限に続く滑り台を延々と滑っている感覚に近かった。唯一変わったことと言えば、母の体調が悪化したことだった。もうすぐ50になる母であったが、これまで大きな怪我や病にはかかったことがなかった。広い肩幅と毛量の多い頭をもつ母は、介護の仕事をしていて、人当たりのよさから社内でも良い評価を受けていたそうだ。以前、母の同僚に偶然会うことがあったのだが、ずいぶん可愛がってもらった。母は職場ではそれなりの立場にいるのだろう。三階建ての介護施設の二階のフロアマネージャーとなり、昇給もして独り身ながら楽しそうに暮らしていた。しかし一ヶ月前、母はお腹辺りの痛みを訴えるようになった。気分が悪かったり、吐き気を催したり。医者にいって検査した結果、子宮に腫瘍が見つかり手術が必要だと言われた。私が都会に出てきてずっと一人だった母に、いわゆるもしものことが起こったのである。
 一連の流れを母から電話で聞き、手術の時に一度実家に帰ると伝えると、母は
「たいそうな手術でもないし、あなたは学校に行きなさい」と言って、断った。
 正直なところ、私も母が心配で行きたいわけではなかった。医者によれば、腫瘍を取り除けば二度と子を宿すことはできないが、命に別状はないそうだ。命に関わる病ならまだしも、本人も元気そうなので母の言う通りにした。
 こうして数日後、手術は無事終わった。
 弟妹が生まれてくることは、二度と無くなった。
 
 ある日、いつも通り金融論の講義を終え、村上くんの姿を探していた。しかし、その姿は見当たらなかった。普段は講義が終わって一分もしないうちに私の視界に飛び込んでくるのだが。不思議に思いつつも、いないのならそれでもよいので、荷物をまとめ帰路についた。午後三時ごろの、天気のいい日だった。雲一つない青空が広がり、鳥の群れが気持ち良さそうに空中を滑っていく。時折、心地の良い風が身体の隙間を通って行き、私の肌を刺激した。
 誰がどう見ても、良い日だった。しかし、私の心は晴れなかった。歩きながらふとその違和感に気づいた。私は講義のあと、村上くんの姿を探していたのだ。今までこんなことはなかった。彼は突然私の目の前に現れたその日から、毎週欠かさず私を誘った。しかし今日は違った。仮に教室に村上くんの姿があれば、私から声をかけていたかもしれない。
 もやもやと思考が巡るなか、歩みを進めていると、いつもの喫茶店にたどり着いた。相変わらずじめじめとしていて、ドアノブはひんやりした。私は吸い込まれるようにその喫茶店に入った。
 いつもの光景だった。テーブルがあり、椅子があり、カウンターがあり、お爺ちゃんがいる。いないのは村上くんだけだった。いつものカウンター席に座り、マスターのお爺ちゃんにアメリカンを注文した。お爺ちゃんはいつもと変わらない表情で軽くうなずき、コーヒー豆を挽き始めた。
「村上くん、知りませんか?」
 私は無意識に質問していた。お爺ちゃんは、
「今日は来てませんね。てっきり一緒に来るものかと」
 手際よくコーヒーをいれながらそう答えた。
 いったい何をしているんだろう。病気にでもかかったのか。いや、彼は病気にかかるような人ではない。
「片恋ではなかったようですね」
 呟くようにお爺ちゃんがそう言った。私はその言葉の意味がよくわからなかったが、コーヒーが出されて二口飲んだところでようやく理解した。
「私は村上くんのことが好きなんでしょうか」
「わたくしに聞かれても困ります」 
 ふふと笑いながらお爺ちゃんは答えた。確かにそうだと思った。今まで考えたこともなかった。ただ誘われたから付き合っている。その程度だった。しかしそんな日々が3ヶ月ほど続いた。いつのまにか彼の存在は私の日常であり、アイデンティティの一部となっていた。
 再びお爺ちゃんが、ふっと笑ってこう言った。
「ですが、私から見ればそれは立派な恋ですよ」
 私はこの日、はじめてコーヒー代を知った。

 いつのまにか空はオレンジに染まっていた。
 鳥の群れはカラスへと代わり、風はどことなく寂しさを感じさせた。
 私はアパートまでの道のりをゆっくりと進んでいた。そして今日の出来事を思い出していた。私が村上くんを好き。そんなことがあり得るのだろうか。いままで一度もそんな意識はしていなかったし、彼も口ではなんとでも言うが、せいぜい喫茶店に誘うくらいだった。
 需要があり供給がある。それらが釣り合う点で価格が決まる。彼には、一緒に喫茶店にいく友人がほしいという需要があり、暇をもて余した私が供給側になっただけ。その価格がコーヒー代。
 講義の内容を思い出すのはこれがはじめてだったかもしれない。
 その日は何となく、家に帰りたくなかった。
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