わたしのせんたく

七狗

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番外編 二つの線の端っこを結んで

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 カゴの中の洗濯物は最後の一つ。
 きちんと皺を伸ばしてそれを干し終えると、茅乃は満足げに腰に手を当ててにこりと笑みを浮かべた。
 まだ空気に寒さを感じるけれど、快晴という事もあり、こうしてベランダで太陽の光に当たっていると、ほんのりと肌があたたまっていくのを感じる。
 小さく息を吐いて視線をベランダの向こう側へと移動させると、見慣れている筈なのに立っている場所が違うせいか、そこは何だか全く別の風景に見えた。
 ベランダの手すりに肘をついて顎を乗せながら見つめたバス停には、これから出かけるらしい高校生達や仲睦まじい様子の老夫婦が並んでいて、自分もこうしてここから見られていたのだろうか、と考えると、何だかとても擽ったい気持ちになる、と茅乃は思う。
 一緒に出かける日は、早めに幸喜の部屋を訪れて、洗濯をする。
 それが、最近どうにか彼を説得して了承して貰った、お願い、だ。
 付き合って間もないという事もあってか、彼は茅乃を部屋に入れる事を躊躇っていたようだけれど、出かける前の朝だけなら、という条件付きで許可を得たのである。
 お気に入りの洗剤や柔軟剤などをここぞとばかりに持ち込んで、既に洗濯機の上にある棚はぎゅうぎゅうになっているのだけれど、幸喜は気づいていないのか、それとも知っていて放っておいているのか、わからないけれど、それらについて口にする事はない。
 気づいていなかったとしても、彼は茅乃の我儘を大抵は許してくれているので、きっと仕様がないとでも言いたげに溜息を吐き出すだけなのだろうけれど。
 こうして内側に入ってしまうと、彼が自分を特別甘やかしてくれている事がよくわかってしまい、まるで夢みたいだ、とベランダの手すりから手を離して、茅乃は思わず笑みを浮かべてしまう。
 好きなひとが好きと言ってくれる事も、ずっと見ていたベランダの内側にいる事も、まるで夢みたいで、奇跡みたいで、堪らなく嬉しくてふわふわしていて、それなのに、妙に落ち着いてしまう。
 ふふ、と吐息混じりに笑っていると、後ろから名前を呼ばれ、茅乃はぱっと顔を輝かせて振り返った。
 網戸越しに幸喜が溜息を零しているが、その表情は呆れたような苦々しいような、複雑そうなものだ。
 あまり朝に強くないようなのでいつもより険しい顔をしているけれど、どうやら今はそれが原因ではないらしい。

「お前、また俺の洗濯物に甘ったるい匂いの柔軟剤使っただろ」

 網戸を開き、部屋の中に入って再び網戸を閉めると、茅乃はにっこりと笑顔を浮かべた。
 外に干した洗濯物からは、明らかに女性が好んで使うような、甘い花の香りがほんのりと漂ってくる。

「はい。私とお揃いですよ」
「いい加減止めろって言っただろ。うちの部署全体で揶揄われてるんだぞ」

 ここ最近、少しばかり変化の訪れた幸喜に気づいた会社の同僚達から、雰囲気が柔らかくなっただとかよく笑うようになっただとか言われているらしく、しまいには彼女でも出来たのかと詮索されているという。
 そのくらい話してしまってもいいのではないだろうか、と茅乃は思うのだけれど、二人の年齢差についてや馴れ初めを聞かれたりだとか、挙げ句の果てには写真を見せろだのと言われて辟易しているのもあるのかもしれない。
 ただ単に恥ずかしいだけ、なのかもしれないが。
 そうこうしている内に、彼から女性向けの柔軟剤の香りがしたとなれば、その追求は更にエスカレートしたのだろう。
 幸喜の性格上、確かに上手く躱せるような器用さはないので、一刻も早く事態が収束するよう逃げ回っていたいと思っているに違いない。
 そんな事を考えて、茅乃は緩む頬を隠しもせずに、幸喜に手を伸ばす。

「よしよし、いじめられちゃったんですね」

 彼の頭を胸元に抱き寄せ、いいこいいこ、と言いながら優しく撫でると、ぐう、と唸り声を上げた幸喜は、暫くそのままおとなしくしていたけれど、やがて不貞腐れたような表情で腕を緩やかに払っていた。
 年下に子供扱いをされた事が恥ずかしいのだろう、顔を背け、深々と溜息を吐き出しているけれど、耳はほんのりと赤く染まっている。
 思わず「かわいい」などと呟くと、途端に顔を顰めて踵を返してしまうので、慌てて茅乃は彼の腕に抱きついて謝った。

「ごめんなさい。許して下さい、幸喜さん」

 ね、と首を傾けると、苦々しい表情が少しずつ和らいでいくのを知っていて、茅乃は笑みを深くさせた。

「頼むから、せめて男女兼用っぽいのにしてくれ」

 呆れたように息を吐き出した幸喜はそう言って、窓から差し込む光に眼を細めている。
 自分とは明らかに違う作りの、その目元や鼻筋、頰や唇などを辿りながらぼんやりと見つめていると、聞いてんの、と不満げな声で言われて、茅乃は慌てて何度も頷いた。
 確かに誰が使っても違和感のないような香りのものは、たくさん出回ってはいる。
 茅乃も勿論それらを大量に揃えてはいるけれど、それでは意味がないのだ、と頰を膨らませてしまう。

「だって、それじゃあ虫除けにならないもん」

 幸喜は意図が汲み取れなかったらしく、暫く不思議そうに首を傾げていたが、やがて理解が及んだようで、呆れたように肩を竦めていた。

「うちの部署、ほぼ男しかいないけど」
「他の所にはいるって言ってたでしょう。確か、経理とか総務とか?」
「いるっていったって、ほとんどおばちゃんばっかだよ」

 もしもがあるかもしれないでしょう、とむくれて言えば、「あるわけないだろ。大体、お前がいんのになんでそんな事になるんだ」と返してくる幸喜は、茅乃の頰を両手で挟むとぐにぐにと上下に動かしている。
 体温が低いせいか、寒がりのせいか、その手はやけに冷たくて、思わず「ひゃあ!」と声を上げると、彼はとても楽しそうに笑っていて。
 子供のように屈託なく笑うその顔を見てしまうと、どうにも非難めいた事を言えずになって、しまう。
 そういう無防備な所が心配だから、こんな悪戯めいた事をしているんだけどなあ、と思いながら茅乃が再び腕にくっついて肩口に頬を押し付けると、優しく頭を撫でてくれている。
 頭の形に沿ってゆったりと動く手のひらが心地よくて、その感触に集中するように眼を瞑っていると、呆れたような声が頭上がら降っていて。

「大体、普通は逆だろ」
「逆って……、私ですか?」
「そうだよ」

 年齢が離れているというのもあるのだろうが、彼は酷く心配症だ。
 年上は束縛がきついからちょっと、などと言っていた友人や知人もいたけれど、そもそもそういった経験が皆無であり、束縛などされた事もない自分にとっては、嬉しい以外の何物でもないのだけれど、と茅乃は思う。
 そもそも、幸喜はただ本当に心配をしているだけで、行動の制限をしているわけでもないので、何の憂いもないのだが。
 アルバイト先でも彼氏がいるかいないかくらいは聞かれた事もあるけれど、大抵は社交辞令だろうし、聞かれた所で答えは決まっているので、それ以上に話は発展しない。
 したとしても、ただの惚気話を延々と聞かされるだけなのだ、とバイト仲間は重々承知しているだろう。

「でも、洗濯の話に付き合ってくれるのは幸喜さんとパートのお姉さん達だけですよ?」
「それ、逆の意味で心配になるんだけど」
「バイト先にも時々迎えに来てくれて優しい彼氏さんだね、って褒めて貰いました!」

 アルバイトが終わる時間と、彼の仕事が終わる時間が近い時、バイト先へと迎えに来てくれて、家まで送ってくれる事があるのだ。
 バイト仲間に見かけられ、次の出勤時には軽く冷やかされる事もあるけれども、浮かれに浮かれている茅乃には、大いに結構、と言わんばかりの状況である。

「それに、休憩中にいつも待受見てたら大体呆れられてるし」

 そうして茅乃が、えへ、と笑いながらポケットに入れていた携帯電話を取り出すと、ロック画面が映った。
 それを見た瞬間、幸喜は驚きのあまり言葉を失いながらも、慌てて携帯電話に手を伸ばそうとしているが、その行動を予測しきっていた茅乃はさっと携帯電話を後ろに隠す。

「ば……っ、お前、いつそれ撮ったんだ!」

 彼が慌てふためいているのも致し方ない事だろう、と茅乃はにこにこと笑いながら、なおも彼が伸ばしてくる腕をすり抜ける。
 ロック画面には幸喜の寝顔が映し出されていて、その表情はいつもとは違う、子供のような幼さが垣間見える。
 一体いつ撮ったのだと幸喜は驚いているけれど、茅乃が知る限り、電車やバスに乗っていようがこうして部屋にいようが、一緒にいる時に彼は良く寝ているのだ。
 仕事で疲れているのか、体温が丁度いいのか、安心しているのか……、わからないけれど、すっかり警戒心を解いてすやすやと眠っている姿を撮るのは、だからこそ容易な事だった。
 そうやってすっかり気を抜いてしまったり、少し間の抜けた所があったりする所が可愛くて仕方ないのだけれど、それを口にしたなら一時間は口を聞いてもらえないだろうから、絶対に言いはしない。

「早く消せ」
「嫌です」
「怒るぞ」
「私の毎日の癒しを奪うんですか?」

 これがあるから幸喜さんと会えない間も頑張れるのに、と茅乃が悲しげに眉を下げて懸命に訴えかけると、視線を逸らして額を押さえた彼は犬のように低い声で唸っている。
 暫くの間葛藤していた彼はぎゅうと眼を瞑り、そして開くと、肺の底から空気を押し出すように息を吐き出して、疎ましげに視線を向けている。

「……っ、消さなくていいから、ロック画面は止めろ」

 寧ろ他人に絶対見られないようにしてくれ、という幸喜の懇願に、茅乃が渋々ロック画面の変更をすると、彼は呆れたように溜息を零していた。
 未だに皺を寄せている眉間を見た茅乃が指先でそっと宥めるようになぞると、くすぐったそうに眼を細めているので、ふふ、と吐息混じりに笑みが零れてしまう。
 いつもなら鋭い目元も、少しかさついてて冷たい指先も、こうしてじゃれるようにしているとやわらかくあたたかくなっていて、同じ温度になっていくのがわかって、嬉しさが込み上げてくる。
 窓の外で揺れる洗濯物からは、自分の服と同じ、甘い香りがしている。

「お揃いの匂いだと一緒にいられるみたいで嬉しいでしょう?」
「そんなに甘ったるい匂いじゃなければな」

 仕事中も近くにいるみたいで気になってしょうがないから、と困ったように言う幸喜に、ぴったりとくっついた茅乃は声を零して笑っていた。
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