わたしのせんたく

七狗

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舞台袖のペトリュシュカ

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「あの、昨日は……、というか、ここ暫く、すみませんでした」

 茅乃は膝の上に置いていた両手を白くなるまで握り締めると、そう言った。
 視線をあちこちにさまよわせ、ええと、それで、と、もつれるように次の言葉を紡ぐ事が出来ずにいる彼女の様子に、幸喜は小さく笑って、しっかりと頷く。

「話たい事があるんだろ。いいよ、ゆっくりで」

 茅乃が何を話したいのか、どうして話をしたいと言い出したのかはわからないけれど、それだけの決意は見て取れたので、幸喜は静かに彼女が話し出すのを待った。
 茅乃は暫く俯いて震える呼吸を整えていたけれど、ふと顔を上げて視線が合うと、困ったように笑っている。
 そして躊躇うように唇を開いて、彼女は言った。

「私、高校の寮に入るまでは、ほとんど朱音ちゃんの家で暮らしていたんです」

 朱音の両親は彼女が物心着く頃には離婚をしていて、朱音の母親はその時から朱音を連れて実家に帰り、祖母と三人で暮らしていた。
 そこに茅乃が預けられるようになったのは、小学生の頃だという。
 茅乃は早くに母親を亡くしていて、父親が仕事で帰宅が夜遅くになったり、帰れずにいる事が多かったそうで、たった一人で家に残されて過ごす茅乃を見かねて、朱音の母親が茅乃を預かるよう提案してくれたらしい。

「私が寮に入ってからは疎遠になっていたんですけど、ある時から、おばあさん……、祖母から、連絡があったんです」

 言い換えた言葉に幸喜が僅かに眉を顰めると、その事に気づいたらしい彼女は、口端だけをぎこちなく持ち上げて、笑ってみせる。
 それはまるで自らを嘲るような笑みだ、と幸喜には感じられた。

「おばあちゃん、って呼ぶのが普通なんでしょうね。私は、そうは呼べないです。……絶対に」

 祖母を慕う朱音の様子と、祖母を恐れているかのような茅乃の態度はあまりに乖離していて、同じ人物の事とは到底思えなかった。
 どうしてそこまで違っているのだろう、と考えていると、茅乃は話を続けている。

「朱音ちゃんが夜になるといなくなる、って……、朝になれば帰ってきているけど、夜にいなくなるのはおかしい、ってそう言うんです」
「けど、あいつ、バイトしてたよな?」
「はい。多分、祖母も朱音ちゃんがアルバイトをしている事を知ってはいるんだと思います」

 夜になると朱音がいなくなる。
 その理由を知っていながら茅乃を呼び出すというのなら、ただの嫌がらせや、鬱憤を晴らす為の我儘でしかないのだろう。
 そんな考えに気付いてしまい、思わず茅乃を見れば、彼女はそれを肯定するように頷いていた。

「この時期になると、そうなんですよ。他愛のない事で呼ばれて……、色々と言われたり、無理難題を押し付けてくる」

 言葉では何でもないように言っているけれど、昨晩の彼女の様子は明らかに尋常ではない怯え方をしていたのだ、到底何でもないと言えるような事ではないのだろう。
 その事に、ほんの一瞬だけ自身の事を思い出してしまい、幸喜は視線を逸らして俯いた。

「この時期、っていうのは?」
「私のお母さんの命日が近付いてくる時期、です」

 その言葉に、幸喜は思わず大きく眼を瞬かせ、顔を上げた。
 彼女は膝に置いた自らの手のひらに視線を落としていて、色素の薄い髪が表情を隠している。

「お母さんが亡くなったのは、私が小学生の頃です」

 その日は酷い雨が降っていて、父親の帰りが遅いのを心配した母親が車で迎えに行こうとしていたけれど、幼い茅乃を一人家に残すのを心配した母親は、近くに住む祖母の元に茅乃を預けた。
 祖母は雨が落ち着いたら迎えに行けばいい、と言ったけれど、母親は車を出して父親を迎えに行ってしまった。
 その際、雨でスリップしたトラックが、母親の運転する車に突っ込んできた、らしい。
 らしい、というのは、未だにその詳細を聞けずにいるからだ、と茅乃は静かに言う。

「……、私が、いけないんです」

 茅乃は声を震わせて、爪が皮膚に食い込む程強く握り締めている。
 仕事で忙しく、あまり顔を合わす事のない父親に会える、滅多にない機会だったのだ。
 母親も父に早く会いたいと思っていて、迎えに行きたがっていた事も、顔を見ればよくわかっていた。
 だから、その背を押すように言ってしまったのだ、と茅乃は掠れた声で、苦しそうに、言葉を押し出すように、言う。

「おばあさんは、危ないから、って止めていたのに。……私が、お父さんに早く帰ってきて欲しい、って、そう、言ってしまった、から」

 母親が事故に遭って亡くなった、と連絡を貰った後、祖母は茅乃を酷く詰ったらしい。
 今でも、あの時の祖母の眼が忘れられない。
 そう茅乃は言って、両手で顔を覆った。
 底が見えない真っ黒な瞳。
 まるで生きている人間のものではないような、何の色も温度も感じられない、そんな、瞳。
 人は、ここまで誰かを憎めるのだ、と。
 その時、初めて知ったのだ。
 そう言って手のひらを下ろすと、茅乃はその顔から一切の表情を消し、強張る唇を動かして、息を吸い込む。
 幸喜はその仕草を見ているだけで、自らの頭のてっぺんから足の先まで、一気に血の気が引いていくのを理解した。

「おばあさんは言いました。お母さんが亡くなったのは、お前のせいだって。私が、お母さんを、ころし」
「いい! それ以上言わなくていい、から……!」

 言葉を遮った幸喜は顔を青ざめさせ、思わず口元を手で押さえてしまう。
 母親を失ったばかりの子供に言っていい言葉じゃない。絶対に。
 そう思うと同時に、自分の事故によって、修司や志穂があれ程まで悲しんでいたのを、本当の意味で解った気が、した。
 こんな思いをしていたのかと思い知らされて、だからこそ、過剰にも思える程に周囲から守り、愛情を持って接してくれていたのだろう、と。
 彼女の祖母はそれ以来、朱音や朱音の母親には見えない場所で、酷い金切り声で耳を覆いたくなる程の暴言や、人格を否定する言葉を吐き出すようになり、一緒に暮らしていた頃など、極端に食事を減らされる事も、家事の手伝いを強制された事も、何かと従姉妹に贈り物をするのに自分には何一つ与えられない事さえ、あって、その全てを茅乃自身が望んだのだと言わされてしまっていた、らしい。
 茅乃は俯いたまま、感情を表さないよう、ただ淡々と話をしている。

「特に荒れている時には、平手が飛んでくる事もありました」

 くたびれたような顔をして頬に触れる彼女の、その痛みを、幸喜もよく知っている。
 耳に響く乾いた音、頬がかっと熱を持ち、少しずつじわじわと滲んでくるその痛み。
 それを、今でも覚えている。
 二度と忘れられる筈もない。

「私のせい、だから、ちゃんと受け止めなきゃって、思ってるけど、それでも、だんだん、上手く、自分の中で受け止めきれなくなって、きて……」

 自らを罵し蔑むその声を、言葉を、聞くだけで、自分の中がどんどんと空っぽになっていくのに、その分、澱んで重苦しくて汚らわしい感情で、いっぱいになっていく。
 そうして彼女の内側に閉じ込めたものと同じものが、自らの体内にあったのだ。
 いや、今でも消えずに、この皮膚の内側にあるに決まっている、と幸喜は思う。

「……、ただの、偶然だよ」

 言いながら、なんて酷い慰めなのだろう、と思う。
 けれど、それは本当の事で、どうしようもない事だ。
 彼女が父親に会いたいと母親を促した事も、その後に彼女の母親が事故に遭った事も、ただの偶然でしかない。
 そんな事は、誰が見たってそう思う筈だ。
 そんな気持ちを察したのか、諦めたような顔で、茅乃はそれでも首を振っている。

「私も、多分、おばあさんも、わかってはいるんです。それでも、そうしていないと現実を受け入れられない人も、いるんですよ」
「だからって、茅乃が全部我慢しろって言うのも、おかしいだろ」

 幸喜はそう言うけれど、茅乃は嫌がるよう子供のように頭を振って、膝にくっついてしまいそうなほど、顔を俯かせてしまっていた。
 責め立てられない事にほっとして。
 そう言ってくれた事にほっとして。
 そうして安堵する自分を心底軽蔑する。
 そう言って、茅乃は手のひらを強く握り締めている。
 皮膚に爪が食い込むように握り込まれたそれを、幸喜は僅かに躊躇ってから、そっとその手に触れた。
 白くなるまで力がこもった指先は強張っていて上手く動かす事が出来ず、そして、酷く冷たい。
 ゆっくりと広げていくと、手のひらに内出血を起こしてしまいそうな程の爪痕が残されていて、痛々しかった。
 茅乃の手のひらは震えているけれど、触れている幸喜の指先を頼りない力で握り締めようとしている。
 まるで、助けを求めているように。

「俺は、お前がこれ以上傷つくのは嫌だ」

 全部を自分の中で押し込めておけば、きっと大丈夫なのだと、そう思っていたあの時を、間違っていた、とは、今でも言い切れない。
 彼女が同じように思っているのだ、と理解もしている。
 だけど、それでも、そのせいで傷ついている茅乃がいるのは、絶対に嫌だ、と思えたのだ。
 茅乃はのろのろと顔を上げ、幼い子供のようにぱちぱちと瞬きを繰り返すと、何故か再びずるずると膝に顔を押し付けている。
 心配になって顔を覗き込もうとすれば、くぐもった声が聞こえていて。

「……幸喜さん、それ、絶対に他の人に言っちゃダメですよ」
「何が?」
「幸喜さんって時々そういう所ありますよね……」

 大袈裟な程に息を吐き出した茅乃は顔を上げ、苦笑いを浮かべると、もう、と呟いた。
 柔らかそうな髪が乱れているのを手櫛で直し、小さく息を吐き出した彼女は、ゆっくりと瞬きを繰り返しながら、視線を遠くに向けている。

「本当は、傷ついても傷つけてでも、ちゃんと向き合うべきだって、わかってます。でも、そうするだけの勇気が出ないんです。だって、今もこうして言葉にする度に、怖くて……、すごく怖くて、仕方ないんです」
「でも、俺には話せただろ」

 そう幸喜が言うと、茅乃は柔らかく眼を細めて、笑みを浮かべた。

「幸喜さんは、ちゃんと私の事を見てくれたから」

 追いかけてきてくれて、振り返ってくれたから。
 きっとこの手を取ってくれると信じてたから。
 だから、話そうと思えたのだ、と茅乃は言う。

「それが私にとってどれだけ嬉しい事か、幸喜さんは知らないでしょう?」

 首を傾けて柔らかに笑う彼女を見て、幸喜が顔が熱くなってくるのを感じて思わず顔を背けると、ふふ、と吐息混じりに茅乃は笑っている。
 そうやって人の事を散々振り回している自覚があるのだろうか、と幸喜は呆れたように溜息を零すけれど、結局の所、それがもう今では心地よく感じてさえいるのだ。
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