わたしのせんたく

七狗

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宿題はもう終わりましたか

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 朝、惰性でつけていたテレビから見かけたニュース番組では、今日の天気は曇り、降水確率は十パーセントです、とやけににこにこと笑う気象予報士が言っていた。
 薄い雲が覆ってはいるけれど、薄暗くは感じられない事に少しだけほっとして、幸喜は欠伸を一つ零して、視線を上げた。
 土曜日の十時前、商業施設が開き始める時間だからか、駅の中は沢山の人々であふれていて、待ち合わせの為だろう、改札の付近で誰かを待っている者も多い。
 茅乃と約束をしている時も、今も、幸喜は約束の時間十分前には着いている事にしているのだけれど、それでも大抵は茅乃の方が早く待っている。
 今日に至ってもそれは変わらないようで、淡い白のブラウスとカーディガンにブルーグレーのコルセットスカートという格好の茅乃は、幸喜を見つけるなりぱっと顔を上げて、嬉しそうに笑って駆け寄ってくる。
 おはようございます、とはにかんで笑う茅乃の目元は、赤みを帯びてはいないものの、少し腫れぼったい。
 もしかしたら化粧でもして誤魔化しているのだろうか、と幸喜は眼を細めて手を伸ばしかけ、はた、とその行動がおかしい事に気がついて、行き場を失った手で頭の後ろを掻いてしまう。

「あー……、眼、ちゃんと冷やしたのか?」
「冷やしたんですけど、元々少しでも泣くとすぐ腫れちゃうんです。でも、大丈夫ですよ」

 曖昧に笑いながら返答する茅乃に思わず眉を寄せれば、後ろから呆れたような声が投げつけれれる。

「そうやって指摘したら茅乃が気にするでしょ」
「朱音ちゃん、おはよう」
「おはよ」

 茅乃とは対照的な、黒のボウタイブラウスに丈の短いツイードのジャンパースカートという格好の朱音は、幸喜をじろじろと品定めするよう見つめると、はあ、とあからさまに肩を竦めて息を吐いていた。
 じゃらじゃらと大ぶりのアクセサリーをつけた腕は、やけに大きな荷物を抱えていて、一体何を持ってきたのだと幸喜は顔を顰めたが、先程朱音に言われた事をよくよく考えて茅乃を見ると、困ったように眉を下げて笑っているので、彼女が言ってる事は正解なのだろう。
 悪かった、と言えば、茅乃は直ぐに首を振っている。

「大丈夫ですよ。幸喜さんはただ心配してくれてるってわかってますから」

 それに私、幸喜さんに心配されるの、嬉しいんです。
 そう言って、茅乃は柔らかく、ふわ、と笑う。
 昨晩の事を思い出してしまい、幸喜は慌てて視線を逸らそうとして、向かいの朱音と眼が合ってしまった。
 朱音は盛大に顔を顰めると大きな荷物を軽く振り回し、態とらしく幸喜にぶつけて、ここだと目立つから公園に行くよ、とずんずん歩いて行ってしまう。
 一体何なんだ、と苦々しい面持ちでその背中を睨みつけると、早く行きましょう、と茅乃が服の裾を軽く引っ張って急かすので、幸喜は溜息を零すと、その後ろを着いて行った。

 ***

 公園に移動し、中にある原っぱのような、芝生のある大きな広場まで歩くと、見晴らしはいいけれど人があまり来ないような場所を選び、其処で話をする事にした。
 朱音は早速大きなショッピングバッグから猫柄のレジャーシートを取り出していて、それを放り投げてくる。
 渋々受け取った幸喜が地面にそれを広げると、茅乃は端を持って皺が寄らないようならしながら、鞄を重しに置いていた。
 折り畳み式の携帯クッションを人数分取り出し、皆に座るよう促した朱音は、ティッシュや除菌シートや弁当箱やカイロやブランケット……、と次から次へと色んなものを並べ出していて、とてもではないが、話をする為に来たようには感じられない、と幸喜は思う。

「茅乃、ブランケットあるから使って。飲み物は適当に買ってきたから好きなの飲んでいいよ。おにぎりとかも持ってきたけど、お昼に食べる用だからまだ食べないでね」
「私もお菓子持ってきました!」

 茅乃は楽しそうに顔を上げてそう言うと、バッグの中から菓子を取り出して、朱音の並べたものの中に加えている。
 コインランドリーで食べていた熊の形をしたチョコレート菓子や、スナック菓子、グミなどバラエティに富んだもので、それを見ていた朱音はその内の一つを手に取ると、わっと歓声を上げている。

「これ! うちが好きなやつ!」
「うん、朱音ちゃんが好きなの見つけたから買ってきたの」
「茅乃、めっちゃ好き!」

 きゃあきゃあと楽しそうに騒ぎ、頰を寄せてじゃれ合う二人はとても微笑ましい。
 とても微笑ましいけれども、と思いながらも、幸喜は呆れたように息を吐き出した。

「おい、遠足じゃないんだぞ」

 はあい、と揃って返事をする二人は、それでも飲み物を選んだりしていて話が一向に進む様子はない。
 保護者じゃないんだけど、と非難めいた視線を向けながらも、暫くそのまま二人を見守っていると、漸く朱音が仕切って話し出した。
 じゃあ取り敢えず自己紹介しよう、きらきらと光る派手な爪をした手のひらを茅乃に向けている。
 突然の事に戸惑って二人を交互に見た茅乃は、恥ずかしそうに小さく頭を下げて口を開いた。

「え、えと、あの、羽中茅乃はなかかやの、です?」
「はい、じゃあ次」

 朱音はそう言うと、今度は手のひらを幸喜に向けている。
 動作に合わせて腕や耳につけた大ぶりのアクセサリーがじゃらりと鳴っていた。

「俺は瀬尾幸喜せおこうき

 うんうん、と何度も頷いた朱音は、最後に自分の胸に手を当てると、にっこりと笑う。

「うちは津村朱音つむらあかね。朱音でいいよ」

 わかった、と幸喜がすんなりと頷くと、途端に茅乃は頬を膨らませていた。
 どうやら、自分の名前は呼ぶまでに随分な時間を要したのに、朱音の名前はすんなり呼ぶとはどういう事なのか、と怒り心頭のようで、その眼は恨めしげだ。
 流石にその視線に耐えかねて、妥協案として津村と呼ぶようにするよう伝えれば、その様子を見ていた朱音も「その方がいいと思う」と戸惑うように頷いていた。

「で、お前らが従姉妹同士なんだっけ?」

 幸喜が問い掛けると、朱音は訝しげな顔を向けたけれど、茅乃は嬉しそうに笑っている。

「はい。私と朱音ちゃんは母方の従姉妹同士なんです」
「仲が悪いとかじゃあないんだな」
「はあ? そんなわけないでしょ。茅乃が高校に入ってからなかなか会えなかったけど、めっちゃ仲良しだよ! よくアクセとかおそろにしてたもん!」

 ね、と笑った朱音が茅乃の手を取ると、茅乃も握った手を振って頷いているので、その言葉は確かなのだろう。
 だとするなら、昨日の茅乃の尋常じゃない怯えようと、朱音の話をしていた時の苦しげな表情は一体どういう事なのか。
 幸喜が戸惑いながらそう考えていると、そんな事より、と朱音が腰に手を当てて眼を吊り上げている。

「つか、うちらの事はこれでいいでしょ。それより、二人の関係はなんなの?」

 だって、あんたって社会人だよね、と言われて幸喜は頷いた。
 どう説明したものか、と茅乃に視線を向ければ、彼女は苦笑いを浮かべている。

「私が一方的に幸喜さんに付きまとってるだけですよ」

 流石にストーカー紛いの事をしていたとは言い難いのだろう、やれやれと息を吐き出した幸喜は、茅乃の言葉に少しだけ補足をする。

「そう。ほぼ一方的に付きまとわれて洗濯の話をされてるだけ」
「付きまとい? 洗濯……?」

 何それ、と朱音は呆けた表情を浮かべているが、二人が主張しているようにメインにしているのは洗濯の話だけなので、幸喜としてはそれ以上何も言う事は出来ない。
 だが、朱音の様子を見るに、そんな事を言われて信じようもない、というのが一般的な反応なのだろう。
 例えストーカー紛いの事をしでかした洗濯マニア、というのが茅乃の正体だとしても、だ。

「っていうか、いかがわしい事してお金貰ってるとかじゃないの?」

 やはり疑いが解けない朱音のとんでもない発言と、それを聞いた茅乃がその意味を理解しきれているのかいないのか、首を傾げながら純粋な眼差しを向けてくるので、幸喜は思わず固まってしまう。

「お前なあ、茅乃にとんでもない事を教えるんじゃない」
「はあ? 教えたら何か都合の悪い事でもあんの?」
「いいから止めろ。これ以上変な知識を与えるな!」

 ぎゃあぎゃあと幸喜と朱音が言い争っていると、茅乃は困ったように笑っている。

「ええと、よくわからないですけど、外出に誘うのは基本的に私だけですし、電話だって私からの一方通行で五分くらいしかしないし、金銭のやり取りもしてないし、そもそも幸喜さんは二人きりになるような閉鎖的な空間は絶対に行ってくれないですよ」

 茅乃の話を聞いた朱音は、あからさまに顔を歪め、戸惑うような哀れむような眼で幸喜を見た。

「うわ、やってる事は大人として当たり前だけど、ちょっと引く……」
「なんだよ。未成年なんだからそんなの当然だろ。こっちは下手したら声かけたり近寄っただけで犯罪者扱いされるんだぞ」
「流石にそれは被害妄想が酷くない?」

 呆れた朱音に、幸喜は「慎重って言え」と鼻に皺を寄せて非難した。
 冤罪をふっかけられるくらいなら、それを回避する為に行動するのは当然の事だろう。
 けれど朱音はその説明だけでは納得しかねるようで、本当に何もされてないの、と茅乃に問いかけている始末だ。
 茅乃は茅乃で、されたくてもしてくれませんよ、と何故だか少し怒った顔をしている。
 これ以上誤解を招く真似をするわけにはいけない、と幸喜は盛大に息を吐き出すと、ポケットにしまっていたものを取り出した。

「っていうか、これを見せれば流石に納得するだろ」

 ほら、と言って幸喜が朱音の目の前に差し出したのは、携帯電話の画面だ。
 グリーンがかった薄茶色の瞳で、彼女はそれを不思議そうに見つめている。

「何これ?」
「茅乃が俺に送ってきた脅迫文」

 そう言って朱音に見せた携帯電話に表示されてたのは、いつか茅乃が送りつけてきた、脅迫紛いのメッセージだ。
 一瞬理解が及ばなかったのか、顔を歪めて携帯を見つめた朱音は、ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、茅乃に視線を向けて困惑したように口を開いている。

「あー……、あのね、茅乃。流石にこれはアウト」
「幸喜さん、酷い! 何で私以外の人に見せるんですか!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ茅乃は、顔を真っ赤にさせてぺちぺちと幸喜の腕を叩いているけれども、あくまでも彼女が送った脅迫紛いのメッセージを朱音に見せているだけである。
 されるがまま放っておいたけれど、こんな所で役に立つとは思わなかった、と茅乃に叩かれたままの幸喜は肩を竦めた。

「えー、いや、うん……、これは流石に信じるしかないかなあ。それに一応、瀬尾さんにはこないだ助けてもらってるし……」

 ううん、と悩む朱音は、けれどもどうにか今までの認識を改めようとしてくれているらしい。
 ほっと息を吐きながら、幸喜はふと思い至って、まだ叩くのを止めようとしない茅乃の手から逃れながら、口を開いた。

「そうだ。俺も一つ確認したいんだけど」
「いいけど、何?」
「お前らって幾つなんだ?」

 幸喜の問いかけに、二人は顔を見合わせてぱちぱちと瞬きを繰り返した。
 何故だか気まずそうになっていく茅乃に対し、朱音は不思議そうに首を傾げると、幸喜に向き直る。

「年齢の事? 十八歳だよ。高三。茅乃は早生まれだからまだ十七だけど」
「お前、まさか受験生か!」

 大事な時期に遊んでる場合じゃないだろう、だとか、しかも英語は必須科目じゃないか、と責め立てれば、茅乃は慌てて朱音の後ろに逃げ込んでいる。
 目は泳いでいるし、口先を尖らせているので、自分でも重々承知しているのだろう。
 見かねた朱音は呆れた顔をしながらも、助け舟を出している。

「うちは専門行く予定だし、茅乃の進路も短大とか専門じゃないの?」
「そのつもりです、一応」
「それなら試験なしで済む所もあるんだし、高校卒業さえ出来れば大丈夫じゃない?」

 素行不良なわけでもないんだし、と朱音が言う通り、茅乃は時折とんでもない事をしでかすけれど、見た目と性格は大人しく落ち着きがあるので、大人からの評価は悪くはないだろう。
 けれど、以前勉学について聞いた感じでは、どうにも不安が過ってしまう、と幸喜は思う。

「ていうか、よくあの高校に入学出来たな」

 そんなに偏差値が高くないのだろうか、と幸喜が呟くと、呆れたような表情で朱音は首を振った。

「まさか。紬丘つむぎおかはうちの学校より頭いいよ」
「じゃあ何で入れたんだ?」
「茅乃は昔から極端に自己評価が低いだけ。わりと何でも出来るし、成績もそんなに悪くない筈だよ」

 確かに鈍臭いだの何だの言っていたわりに足が早かったのを思い出して、幸喜は納得したように頷きかけて、はた、と首を傾ける。

「じゃあ何で英語は出来ないんだ?」

 前回は危なかったとかどうとか前に言ってなかったか、と幸喜が言えば、茅乃はあからさまに顔を背けていた。
 どうやら英語が苦手なのは本当の事らしい。
 朱音はその様子に苦笑いを浮かべて肩を竦めている。

「自分の興味ないものとか苦手なものとかは追い込まれないとやんないからじゃない? 夏休みの宿題も最終日に全部一気に片付けるタイプだったし」

 とんでもない事実を知り、信じられない、と幸喜が視線を向けると、朱音の後ろから漸く戻ってきた茅乃は恥ずかしさからか、顔を真っ赤にさせている。

「な、何ですか、その目は。大体、幸喜さんはどうなんですか」

 その言葉に、幸喜は呆れた顔で息を吐き出した。
 宿題が終わらなくて最終日に流れ込む事があっても、最終日に全てやっつけてしまう、という力技は流石に考えもしなかった、と思わず幸喜はげんなりとしてしまう。

「俺は前半になるべく終わらせて後半遊ぶタイプ」
「因みにうちは毎日コツコツやるタイプ」
「っていうか最終日に全部一気にやっても終わらないだろ」
「でも茅乃はそれをやっちゃうんだよ。凄いっしょ?」
「普通はそれを凄いって言わない」

 幸喜と会話をしている内に、意図せず朱音が追い討ちをかけたようで、茅乃は益々肩身が狭くなってしまったのだろう、ふるふると身体を震わせて涙目になりながら、次々に文句を言っている。

 そうしてひとしきり騒いだ所で、朱音はけらけらと笑いながら、跳ねるように立ち上がった。
 先程までの攻撃的な姿はなく、公園で会った時のように明るく人懐っこい性格が全面に出ているので、警戒心が解けてきたのだろう。
 大きく伸びをすると、ふう、と息を吐き出して、彼女は茅乃に視線を向ける。
 その眼を見た茅乃は、口端だけを引き上げて、ぎこちなく笑みを浮かべている。

「とりあえず瀬尾さんが安全そうではあるから、うちは一旦退散するね」
「は?」

 突然の事に驚いて朱音を見上げると、彼女は苦笑いを浮かべて肩を竦めた。

「なんかね、茅乃が瀬尾さんに話したい事があるんだって」

 そう言うと、大きな荷物の中から財布を取り出し、ポケットに入れていた携帯電話を確認すると、「終わったら連絡してね」と茅乃の頭を撫でている。
 昨日連絡をするとか言っていたので、何か話でもしていたのだろうか、と考えていると、きらきらと光る長い爪をした指先が目の前に突き出された。

「いっとくけど、茅乃を泣かしたり、どさくさに紛れて変な事しないでよ」
「するわけないだろ」

 一体何を言っているのか、と呆れた顔で片手を振れば、あはは、と笑って広場の向こう側へと駆けていく。
 その後ろ姿を見送りながら肩を竦めた幸喜は、ゆっくりと視線を茅乃にそっと向けた。
 俯きがちの茅乃は、膝の上に置いた手のひらを、白くなるまで握り締めている。
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