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第一章 高等学院編 第一編 魔法化学の夜明け(一年次・秋)
EP.XV 魔法化学の夜明け
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ある冬の日の夜のこと。
その夫人は、オールド・トムという大きな黒い猫と一緒に、暖炉のそばで座って墓守りの夫の帰りを待っていました。けれど、いつになっても夫は帰ってきません。やがて待ちくたびれて半分寝かかっていた頃に、とても急いだ様子で夫が帰ってきました。
「トム・ティルドラムって誰なんだ!?」
慌てて帰ってくるやいなや変なことを言う夫に、夫人も猫も不思議そうな目を向けていました。
夫人は言いました。
「そんなに慌ててどうしたのですか? なぜトム・ティルドラムという人のことを聞くのですか?」
「ああ、実はちょっと不思議な事があったんだ。そろそろ帰って寝なきゃならないと思ってたんだけど、ふと猫の鳴き声が聞こえてきて、気がつくとなぜか僕はフォーダイス氏のお墓を掘り起こしていたんだ」
「にゃあ」とオールド・トムが鳴いた。
「そう、そういう感じだ! それでお墓の向かい側に何が見えたと思う?」
「何が見えたのですか?」と墓守りの妻は言った。
「僕らのトムと同じような、胸に白い点のある、九匹の黒猫がいたんだ。彼らが何を持っていたと思う? 黒いベルベットで覆われた小さな棺と、その上には金の冠が乗っていたんだ。そして彼らはみんな泣いていたんだ」
「にゃあ」とオールド・トムがまた鳴いた。
「それで彼らが僕のところに近寄ってきたんだけど、よく見るとみんな目が緑色に光っていたんだ。やがて僕の近くにやって来た猫のうち、八匹でその棺を担いでいて、残りの一匹が僕の前に出てきて猫のきぃきぃ声で、こう言ったんだ」
『ティム・トルドラムは死んだと、トム・ティルドラムに伝えてください』
「だから君がトム・ティルドラムが誰なのかを知っていたら教えてくれないか!?」
そう言ったところで、夫人が突然驚いたように声を上げた。
「ねぇ、オールド・トムを見て! オールド・トムを見て!」
彼が見ると猫のオールド・トムの体が突然大きくなっていて、墓地で見た猫と同じように墓守りの彼を見つめていた。そしてオールド・トムはこう言った。
「ティムが死んだだって!? それなら残念だけどオールド・トムは今日でお別れさ! 僕が次の王様になるんだ!」
そう言ってオールド・トムは煙突から飛び出すと風のように駆けて行った。そして、二度と戻ることはなかった。
無限回廊書架 DDC. 398
――スコットランド童話『猫の王様』 A.D. 1553
「では、釈明を聞こうか」
「いきなりまるで裁判みたいですね…」
「コーダ・リンドグレン、俺は真面目に話しているのだがね」
「失礼しました…」
僕ら四人は取り調べを受けていた。ただ単に事情を聞かれているだけだが、『事情を聞かれている』と表現するのと『事情を聴取されている』と表現するのとでは、行為は同じでも不思議とニュアンスに明らかな差異が出る。現在の状況にふさわしいのは言うまでもなく後者だ。
目下僕らの前にどかっと大仰に座って、顳顬を先刻からずっと押さえているその男は、若干日焼けした肌に赤髪が特徴的で大柄な体格をしていた。この手の厄介事は本当にやめて欲しいと言わんばかりの気怠そうな溜息は、先程から既に何度聞いたかも分からない。彼はこの学院の臨時教諭であり、週に一度だけ『開拓指南』の授業を担当しているが、それ以外の日は開拓者ギルドで幹部を務めているというその男こそ、『闘神』という二つ名で知られる、スティーグ・シーグルド・ディンケラだ。
開拓者ギルド幹部の方が本業だからか、『先生』と呼ぶとむず痒がられる。彼を呼ぶ時は、どの生徒も、『スティーグさん』とか『ディンケラさん』とか呼んでいる。学院にいるときもギルドの制服である白い将校服を常に着用している。
「一年生がたったの四人であのイノシシを倒したなんて前代未聞だぞ…。普通は上級職が六人以上いないと厳しいのだが、コーダの魔法一発で昏倒させるとはな……。今度俺と勝負してみないか?」
「えぇっ!? そ、それはさすがに辞めておきます……」
勝負しても、どうせ詠唱する暇なんて与えてもらえないだろう。結果は見えている。それに今回は僕一人の勝利ではない。敵を弱らせてくれたリズベツと、そのお陰でイェスペルは命からがら敵の突進を躱し続けることができ、更にそのお陰で敵の体力は大幅に削がれ、さらにマリーが与えてくれた幸運の女神の祝福のお陰で僕はイェスペルにすぐに合流できたし、魔法を外すことも、魔法が暴発することもなかった。
チームワークもへったくれもなかったけれど、全体的に見ればお互い少しずつは助け合えていた。
「これじゃシベリウスが二重魔法を禁止してもあんまり意味が無いな……」
「あの、それなんですが、なぜ僕は二重魔法を使用しないよう言われたんでしょうか?」
「本当に分からないのか?」
「ええと、暴発すると危ない……とかでしょうか」
「そんなの、どの魔法だって同じだろ。いいか、これは――六百年ほど前に実際にあった、記録に残っている中で最古の――多重詠唱にまつわる昔話だ」
そうしてスティーグから語られたのは、六百年前から現在に至るまで、二重魔法が世の中からどういった扱いを受けてきたかの昔話だった。
元素魔法の訓練法が体系化され始めた頃、初めて二重魔法に成功した男がいた。彼の歴史的快挙の噂は立ちどころに広がり、やがて王宮魔法士として雇われることとなる。そんな彼の着任式の時の話だ。
王様は二重魔法の力を権力者たちに誇示するべく、彼の着任式に多くの貴族を招いていた。そのパーティの催しとして彼は魔法を披露することになり、空気と水の二重魔法で会場内に霧を生み出したりして皆を驚かせていた。
そんな時、ある貴族が『相反する火と水の二重魔法を使うとどうなるのか』と声が上がった。なるほど、それは面白そうだ。やれ水がお湯になるだとか、やれ火が水で消えるだけだとか、皆が思い思いに結果を予想していた。王様も結果が気になり、それを披露するよう促した。
だが、魔法は成功せず大きな爆発が起きて、パーティの出席者に怪我を負わせてしまった。それも相手は有名な貴族たちだ。王宮魔法士でありながら貴族に傷害を負わせた罪に問われ、彼は処刑された。
それ以降、二重魔法使いは謀反を起こすという噂が広まり、ほどなくして現れた二人目は判明した途端に処刑された。
その後、二百年ほど空いて、三人目の二重魔法が現れた。正確には、二重魔法使いだと判明した時には、もうその人物はこの世にいなかった。彼女の書いた著書で初めてその人が二重魔法使いだと判明したが、その著書は彼女の死後、彼女の生家から見つかったものだった。彼女は自分の正体が露見することを恐れて隠遁生活を送っていたのだ。
彼女の著書にはこう書かれていた――
『二重魔法は、決して精神異常などではなく、偏にマナに対する適応力が非常に高い体質であることの証左である。また、火と水の二重魔法について何度も実験を行ったが、特定条件下においては、爆発するのが正常な結果であった』
他にも二重魔法について色々書かれたその著書の影響で、随分と二重魔法についての誤解や偏見は随分と無くなったが、それでも完全には無くなっていない。
「いいか、コーダ、よく聞け。ティセリウスが二重魔法を禁止したのは決してお前の能力を過小評価した訳ではない。お前が――暗殺や処刑の対象にされてしまう可能性を危惧したんだ」
「そんな話があったんですね……。全然知りませんでした…」
長命種のエルフ族や吸血鬼なら、その当時を知ってる者もいるかもしれない。この学院の教員やギルドの職員にはそんな偏見を持つ者は居ないだろうが、昔からの貴族や王宮関係の人間となると、当時の話が他人事でなく感じるのか、未だに警戒する者もきっといるだろう。
「まぁいい。二重魔法についてはこっちで後ろ盾を整えておいてやるよ。とにかくクエストで獲ってきた素材に関しては、ギルドで定価で引き取ることになってる。大黄も見事正解でクエスト達成だ、一応な」
そう言って小さな麻袋が置かれる。微かにチャリっと小銭がなる。大した枚数は入ってないようだ。中身を確認すると――
「え? これ、本当ですか?」
「あぁ。正当な報酬だ」
「そ、そうですか……」
「どうしたんだ、コーダ?」
小銭袋をみんなに回す。三人とも中身を見るなり絶句してしまった。袋の中にはコインが四枚しか入っていなかった。ただ、僕らは枚数を見て絶句したのではない。そのどれもがソリドゥス金貨だったからだ。差し当たっては、一人金貨一枚の配分になる。一金貨というのは十二大銀貨に相当する。大銀貨一枚は、僕らが普段使うことが多い小銀貨の二十二枚分に相当する。
この前みんなで行った『銀の爪亭』の食事ですら四小銀貨であることを考えれば、金貨一枚の価値というのは僕らのような学生が持つには相当なものだ。大体、街の衛兵の月収で二金貨とかだ。
「内訳が知りたいか?」
「い、いえ……、そこまでは大丈夫です」
「そうか。じゃあ今日はもう帰っていいぞ。これからちょっと準備をしなきゃならないんだ」
「準備、ですか?」
「ああ。まぁ体制が整ったらまた連絡する。精々鍛えておけ」
これは……二重魔法の使用許可が降りたということでいいのだろうか。しかし、最上位種のモンスター相手だったから威力を考えないでよかったものの、きちんと出力の調整ができるようになっておかないと、対人戦では使えない。
四人とも初めて手にするに等しいソリドゥス金貨を受け取りつつも、諸手を挙げて喜ぶことなどできない課題を抱えていた。
「いょっしゃぁ! 金貨だってよ金貨! すげぇな、俺たち!」
……いや、どうやら一人例外がいた。戦闘の時は割と頼もしく見えたはずだったのだが。
ℵ
寮に帰ったコーダは自室で、王都で買ってきたものを確認していた。火山牛の燻製ファルーコルヴ、虹孔雀の卵、吸血鬼の涙、盗賊の七つ道具。
(盗賊の七つ道具――そう言えばこれはまだ中を見ていなかったな)
そして怪しげな頭陀袋に入っているものを取り出してみる。中から出てきたのは『千枚通し』『鎖鎌』『短刀』『仮面』『針金』と、それから『導火線付きの黒い小さな玉』が五個、同じように『導火線付きの液体入り瓶』が三本入っていた。仮面は、左半分が白、右半分が黒という、逆に目立つのではないかとすら思えるものだった。
(短刀と仮面はともかく、他はリズベツに訊いてみないと使い途が分からないな)
「ごはん一回分」
「おーけー、分かった。それで手を打とう」
リズベツに色々教えてもらうべく寮の部屋を訪ねるとそんな要求が返ってきた。こういう時リズベツの要求は単純明快でいい。
「あれ? マリーは?」
「多分いつもの教会の手伝い」
「へぇ、そんなことやってるんだ」
「光魔法の修行の一環」
「そうなの? 僕もやってみようかな」
「あとでマリーに訊いてみれば」
「そうだね、そうするよ。ありがとう」
「それより、何が訊きたい?」
「あ、そうそう。これなんだけど…」
戦い方や立ち回り、戦略の立て方なんかは隠密士と魔法士では異なる部分も多いだろう。今回はまず道具の使い途だけ確認しておきたかった。
『千枚通し』――普通、千枚通しと言えば紙に穴を開けて紐を通し、製本するために使う錐のような道具だが、この千枚通しは両端が尖っている一本の細い針だ。投げて使うか、吹き矢のようにして使うらしい。また、針の部分に毒などを塗っておくと効果的とのことだ。おすすめの毒を紹介されそうになったが、リズベツの目が異様にらんらんとしていて怖かったので断った。
『鎖鎌』――鎌と分銅が鎖でつながれている武器の一種。木や塀の上に向かって投げて絡ませ、登り綱の代わりに使うこともできる。携行しても邪魔にならないサイズでありながら、武器としても移動手段としても使える、用途の広さが特長らしい。分銅を振り回せば、ちょっとした棍棒と同じぐらいの威力がある。
『針金』――針金と言っても糸のように細く、曲げると簡単に折れてしまうのだが、罠を仕掛けるのに木を結んだり石を結んだりと、重宝するそうだ。たとえ単体でも、森のなかで木の幹と木の幹の間に針金を張れば、足元に仕掛ければ歩兵を転ばせて奇襲に使い、人の顔の高さに仕掛ければそこに走って突っ込んだ騎馬兵の馬は針金で首を切って死ぬ、なんて使い方もあるそうだ。
あとは――
「リズ、こっちの黒い玉は何なの?」
「それは煙幕弾。火を点けると煙が出る。主に逃走や陽動に使う」
「へぇ、どういう仕組みなんだろ?」
「……それは、気にしたことがなかった」
さすがのリズベツも使い方や立ち回りは修練していても、中身や仕組みについて考えたことはなかったらしい。
「――じゃあ、分解してみるか」
「えっ?」
僕の突飛な行動に絶句するリズベツをよそに、僕はいそいそと煙幕弾の紙張りの玉を解体し始めた。糊で固められた紙を外側から順にベリベリと剥がしていくと、やがて一箇所に穴が空いて中が見えるようになった。
玉の中には外側まで通っている導火線用の細い麻縄と一緒に、粉のようなものが入っていた。煙幕弾の中の粉を手に取り出してみると、ざらざらとした砂のようで象牙色をしていた。
「これはいったい何の――」
「ぺろり」
「うわぁっ!」
手の上に出して検分していると唐突にリズベツが手の上の粉を舐めてきた。得体の知れない粉をいきなり舐めたことよりも、手のひらに伝わったリズベツの舌の感触の方に驚いてしまった。
「ふむ、これは砂糖」
そんなリズベツのコメントよりも手のひらに残る舌の感触のほうが気になって仕方がなかったが、粉の正体についての結論が出た以上、僕も同じ場所を舐めてみようなんて馬鹿な真似はできないのだった。
「――どうしたの、コーダ?」
「い、いや……それにしても、よくあんなのいきなり舐めれたね」
「薬や毒には慣れてる」
隠密士になる以上、薬や毒の扱いは基本だそうだ。特に毒の効き目なんかはある程度自分でも体験して、どのぐらい効くのか、どういう効果が出るのか知っておく必要があるとのことだ。その上、食べ物に混ぜられていたりした際に気付くように、小さい頃から味覚の特訓もしていたそうだ。それゆえ、今ではある程度の薬や毒に対して耐性もついてるそうで、一体全体どんな薬をいままでに経験してきたのか気になるところだが、それを問うたりしようものなら、コーダも試してみるか、なんて言いかねないので、藪蛇にならないうちによしておくことにする。
「ま、まぁ要するに砂糖を燃やせば煙が出るんだね」
「そういうことらしい」
最後の一つは『火炎瓶』だ。これまた物騒な道具だ。煙幕弾と同じようにこちらも火を点けてから投げる。投げて瓶が割れると中の液体が飛び出して燃え広がる。瓶が濃い茶色をしているので中の液体の色は分からないが、今度は実際に取り出して検分する必要はなさそうだ。
おそらく中身は油だ。瓶の中の液体は水よりもとろっとしていて粘り気がある。瓶に色がついているのは油の劣化を防ぐためだろう。
「ありがとう、リズベツ。色々教えてくれて助かったよ」
「問題ない。またマリーのいない時を狙ってきて」
……いや、今日だって別にマリーがいない時間を狙ってきたわけではなかった。マリーが教会の手伝いに行ってるなんてことも知らなかったわけだし。
――あ、そうだ、教会だ。
光魔法の勉強になるということなら、僕も今度行ってみようかと思う。せっかく光属性の加護はあるのに、それに関する魔法の練習のやり方が分からずにいた。教会に行けばそれも分かるかもしれない。今度マリーに相談してみようか。
というか、なんだかやたらリズベツに懐かれているようだけど一体なぜだろうか。好かれているというよりマークされているんじゃないかと思わずにはいられないほど不可解だった。
ℵ
リズベツの七つ道具講座を終えた後、早速僕はかねてより考えていた案を試してみることにした。まず最初は、食事による特定魔力の活性化だ。あらかじめ小分けにして持って来ていた火山牛の燻製ファルーコルヴを口に含む。……っていうか、これ美味いなぁ。
目を閉じて魔力の流れを感じるように脈覚を最大限に働かせる。目で魔力の流れを見ることはできるが、今回は自分の魔力の操作なので、やはり脈覚の感度を鋭敏にしておきたい。しばらくして身体に火照りを覚え始めた。
そして火の魔力が満ちた。十二分に満ち足りた。手には触媒の木片。準備は万端だ。それじゃ――今度は第六節から始めてみよう。
『Kveikja á það――』
木片に火が灯る。それで僕は成功を確信するが、慢心は許されない。食べ物で活性化させた魔力を魔法として形にできるかどうか、前代未聞の試みにさえ、十中八九いけるだろうという自信はあるが、絶対では無い。
『Byrjaðu útdrátt――
Gerðu kúlu――』
火山牛の肉によってなぜ火の魔力が活性化するかはまだ分からない。そもそも火山牛の肉だからなのか、燻製されているからなのかの検証すらできていない。でもそれは多分、肉を食べれば太り、野菜を食べれば肌が綺麗になるというのと、きっと同じことなんだろう。食べ物や飲み物によって体に影響が出るというのは須くあることだ。効き目の速さでいうなら、お酒を飲むと酔うというのが一番近いんだろう。仕組み的にも近いはずだ。
『Framkvæma forritið』
そうして放った火球は、果たして今までに見たことのある火球では無く、火炎牛と呼ぶべき闘牛を象った紅蓮の業火の凶暴な突進だった。特筆すべきはその速度だ。僅か四文節の詠唱にもかかわらず、火と空気の二重魔法で放った時のような、大嵐のごとき速度だった。
草原を駆ける、なんて表現では実に生易しい。大地を踏み砕き、その後にはそこが草原であったことなど誰も想像付かないほどに焦げ付いて真っ黒に染まった焦土が轍となって残されていた。初めてその場所を目にした者にさえ、もうどんな植物も生えないだろうと思わせられてしまう程に灰も残らない。その土が死んでしまうほどに灼けたのだ。
(これ程とは……使う時には気を付けないと)
とは言え、燻製ファルーコルヴを食べてからしか発動できないという難点がある以上、おいそれと頻発できるものでもないだろう。
――次に試すのは、自作の煙幕弾だ。
いや、この場合、煙幕"魔法"になるのかもしれない。いつも触媒にしている木片を、砂糖に変えてみる実験だ。
食材によっては魔法効果自体に影響を及ぼすことが分かった。今度の煙幕は初めて行う魔法なので、まずは通常の状態での魔法効果を確認する必要がある。
幸い、先ほどの魔法を放ったお陰で、燻製ファルーコルヴの効果は切れてきたようだ。魔力の状態が徐々に安定してきた。これなら平常通りの魔法効果が確認できそうだ。
深呼吸をして、いつものように第一節から始める。
『Setjið――
Eld fyrir þætti――』
触媒生成の過程は省略。
触媒素材の選定も同様。
触媒凝縮の工程を除却。
『Kveikja á það――』
熱源臨界点を設定。
魔力特異点を設定。
『Byrjaðu útdrátt――
Gerðu kúlu――』
詠唱は同一。
結果は随一。
『Framkvæma forritið』
いま此処に――煙幕魔法の詠唱が完成する。
空中にばら撒いた砂糖の結晶は漏れなく発火し、発煙する。忽ち辺りは濃密な狼煙に包まれる。一メートル先も見えない程に閉ざされた狭量な視界。目が滲みたり、噎せたりすることはないが、とにかく手を伸ばした、それ以上先はもう見えない。
そこへ一陣の風が吹いて、煙が流される。それでコーダはこの魔法の弱点を二つ発見した。一つは、相手から自分が見えなくなる代わりに、自分が相手を見ることもできなくなるということ。ただしこれは脈覚での探知でカバーすることができる。もう一つの弱点は、風に弱いということだ。ただ、その弱点については煙幕弾も同じで、そのあたりはリズベツにも教えられた。
そもそも煙幕というものは、蛸の墨のようなものだ。烏賊の墨のような粘り気がないため、すぐさま海中に広がるが、反面すぐさま潮に流される。蛸墨と烏賊墨ではその目的が異なる。烏賊墨には烏賊の匂いや旨味成分が含まれているので、外敵はそのねっとりした墨の塊自体を烏賊本体だと誤認してしまう、要はデコイなのだ。
一方、蛸墨は水気を多く含みさらっとしているので、海中に素早く広がり、相手の視界を遮る。その隙に体表の色素を調整し、保護色を用いて地面や岩場に身を隠す。隠密士の用いる煙幕弾はこれに近い。つまり、風に弱かろうが、数秒間の隙さえ作ることができればいいという前提で使用する。
何より、水と空気の二重魔法で霧を生み出すより、砂糖を触媒に火魔法を使う方が断然に簡単で、発動も早い。魔力の消費も少ない。特に対人戦の場合、普通の火魔法の詠唱に見せかけて、煙を発現させるという意味でも不意打ちとなりやすい。相手が火魔法に対抗しようと水魔法を仕掛けてきても、さほど通用しない。煙を押し流すほどの水量を発現させようとすれば、そこそこ魔力を消費する。対してこちらの魔力消費は微弱。
そう、つまり――弱点もいくつかあったが、得てしてメリットのほうが大きいのだ。なにより強制的に相手の隙を作り上げられるので、戦略の幅が広がる。
(もし自分が煙幕を使われたらどうするか、という想定の対策も今後考えておくか……)
より緻密なシミュレーションを施行する。
より厳密なイマジネーションを試行する。
より綿密なヴァリエーションを思考する。
より精密なエスカレーションを志向する。
そうしてコーダは日が暮れるまで、納得の行くまで、そして――心ゆくまで、魔法の練習に明け暮れたのだった。
そんなことに夢中になっていて、ある重要な事柄をすっかり忘れてしまっていた頃、コーダはその少女に呼び出されることとなった。
その夫人は、オールド・トムという大きな黒い猫と一緒に、暖炉のそばで座って墓守りの夫の帰りを待っていました。けれど、いつになっても夫は帰ってきません。やがて待ちくたびれて半分寝かかっていた頃に、とても急いだ様子で夫が帰ってきました。
「トム・ティルドラムって誰なんだ!?」
慌てて帰ってくるやいなや変なことを言う夫に、夫人も猫も不思議そうな目を向けていました。
夫人は言いました。
「そんなに慌ててどうしたのですか? なぜトム・ティルドラムという人のことを聞くのですか?」
「ああ、実はちょっと不思議な事があったんだ。そろそろ帰って寝なきゃならないと思ってたんだけど、ふと猫の鳴き声が聞こえてきて、気がつくとなぜか僕はフォーダイス氏のお墓を掘り起こしていたんだ」
「にゃあ」とオールド・トムが鳴いた。
「そう、そういう感じだ! それでお墓の向かい側に何が見えたと思う?」
「何が見えたのですか?」と墓守りの妻は言った。
「僕らのトムと同じような、胸に白い点のある、九匹の黒猫がいたんだ。彼らが何を持っていたと思う? 黒いベルベットで覆われた小さな棺と、その上には金の冠が乗っていたんだ。そして彼らはみんな泣いていたんだ」
「にゃあ」とオールド・トムがまた鳴いた。
「それで彼らが僕のところに近寄ってきたんだけど、よく見るとみんな目が緑色に光っていたんだ。やがて僕の近くにやって来た猫のうち、八匹でその棺を担いでいて、残りの一匹が僕の前に出てきて猫のきぃきぃ声で、こう言ったんだ」
『ティム・トルドラムは死んだと、トム・ティルドラムに伝えてください』
「だから君がトム・ティルドラムが誰なのかを知っていたら教えてくれないか!?」
そう言ったところで、夫人が突然驚いたように声を上げた。
「ねぇ、オールド・トムを見て! オールド・トムを見て!」
彼が見ると猫のオールド・トムの体が突然大きくなっていて、墓地で見た猫と同じように墓守りの彼を見つめていた。そしてオールド・トムはこう言った。
「ティムが死んだだって!? それなら残念だけどオールド・トムは今日でお別れさ! 僕が次の王様になるんだ!」
そう言ってオールド・トムは煙突から飛び出すと風のように駆けて行った。そして、二度と戻ることはなかった。
無限回廊書架 DDC. 398
――スコットランド童話『猫の王様』 A.D. 1553
「では、釈明を聞こうか」
「いきなりまるで裁判みたいですね…」
「コーダ・リンドグレン、俺は真面目に話しているのだがね」
「失礼しました…」
僕ら四人は取り調べを受けていた。ただ単に事情を聞かれているだけだが、『事情を聞かれている』と表現するのと『事情を聴取されている』と表現するのとでは、行為は同じでも不思議とニュアンスに明らかな差異が出る。現在の状況にふさわしいのは言うまでもなく後者だ。
目下僕らの前にどかっと大仰に座って、顳顬を先刻からずっと押さえているその男は、若干日焼けした肌に赤髪が特徴的で大柄な体格をしていた。この手の厄介事は本当にやめて欲しいと言わんばかりの気怠そうな溜息は、先程から既に何度聞いたかも分からない。彼はこの学院の臨時教諭であり、週に一度だけ『開拓指南』の授業を担当しているが、それ以外の日は開拓者ギルドで幹部を務めているというその男こそ、『闘神』という二つ名で知られる、スティーグ・シーグルド・ディンケラだ。
開拓者ギルド幹部の方が本業だからか、『先生』と呼ぶとむず痒がられる。彼を呼ぶ時は、どの生徒も、『スティーグさん』とか『ディンケラさん』とか呼んでいる。学院にいるときもギルドの制服である白い将校服を常に着用している。
「一年生がたったの四人であのイノシシを倒したなんて前代未聞だぞ…。普通は上級職が六人以上いないと厳しいのだが、コーダの魔法一発で昏倒させるとはな……。今度俺と勝負してみないか?」
「えぇっ!? そ、それはさすがに辞めておきます……」
勝負しても、どうせ詠唱する暇なんて与えてもらえないだろう。結果は見えている。それに今回は僕一人の勝利ではない。敵を弱らせてくれたリズベツと、そのお陰でイェスペルは命からがら敵の突進を躱し続けることができ、更にそのお陰で敵の体力は大幅に削がれ、さらにマリーが与えてくれた幸運の女神の祝福のお陰で僕はイェスペルにすぐに合流できたし、魔法を外すことも、魔法が暴発することもなかった。
チームワークもへったくれもなかったけれど、全体的に見ればお互い少しずつは助け合えていた。
「これじゃシベリウスが二重魔法を禁止してもあんまり意味が無いな……」
「あの、それなんですが、なぜ僕は二重魔法を使用しないよう言われたんでしょうか?」
「本当に分からないのか?」
「ええと、暴発すると危ない……とかでしょうか」
「そんなの、どの魔法だって同じだろ。いいか、これは――六百年ほど前に実際にあった、記録に残っている中で最古の――多重詠唱にまつわる昔話だ」
そうしてスティーグから語られたのは、六百年前から現在に至るまで、二重魔法が世の中からどういった扱いを受けてきたかの昔話だった。
元素魔法の訓練法が体系化され始めた頃、初めて二重魔法に成功した男がいた。彼の歴史的快挙の噂は立ちどころに広がり、やがて王宮魔法士として雇われることとなる。そんな彼の着任式の時の話だ。
王様は二重魔法の力を権力者たちに誇示するべく、彼の着任式に多くの貴族を招いていた。そのパーティの催しとして彼は魔法を披露することになり、空気と水の二重魔法で会場内に霧を生み出したりして皆を驚かせていた。
そんな時、ある貴族が『相反する火と水の二重魔法を使うとどうなるのか』と声が上がった。なるほど、それは面白そうだ。やれ水がお湯になるだとか、やれ火が水で消えるだけだとか、皆が思い思いに結果を予想していた。王様も結果が気になり、それを披露するよう促した。
だが、魔法は成功せず大きな爆発が起きて、パーティの出席者に怪我を負わせてしまった。それも相手は有名な貴族たちだ。王宮魔法士でありながら貴族に傷害を負わせた罪に問われ、彼は処刑された。
それ以降、二重魔法使いは謀反を起こすという噂が広まり、ほどなくして現れた二人目は判明した途端に処刑された。
その後、二百年ほど空いて、三人目の二重魔法が現れた。正確には、二重魔法使いだと判明した時には、もうその人物はこの世にいなかった。彼女の書いた著書で初めてその人が二重魔法使いだと判明したが、その著書は彼女の死後、彼女の生家から見つかったものだった。彼女は自分の正体が露見することを恐れて隠遁生活を送っていたのだ。
彼女の著書にはこう書かれていた――
『二重魔法は、決して精神異常などではなく、偏にマナに対する適応力が非常に高い体質であることの証左である。また、火と水の二重魔法について何度も実験を行ったが、特定条件下においては、爆発するのが正常な結果であった』
他にも二重魔法について色々書かれたその著書の影響で、随分と二重魔法についての誤解や偏見は随分と無くなったが、それでも完全には無くなっていない。
「いいか、コーダ、よく聞け。ティセリウスが二重魔法を禁止したのは決してお前の能力を過小評価した訳ではない。お前が――暗殺や処刑の対象にされてしまう可能性を危惧したんだ」
「そんな話があったんですね……。全然知りませんでした…」
長命種のエルフ族や吸血鬼なら、その当時を知ってる者もいるかもしれない。この学院の教員やギルドの職員にはそんな偏見を持つ者は居ないだろうが、昔からの貴族や王宮関係の人間となると、当時の話が他人事でなく感じるのか、未だに警戒する者もきっといるだろう。
「まぁいい。二重魔法についてはこっちで後ろ盾を整えておいてやるよ。とにかくクエストで獲ってきた素材に関しては、ギルドで定価で引き取ることになってる。大黄も見事正解でクエスト達成だ、一応な」
そう言って小さな麻袋が置かれる。微かにチャリっと小銭がなる。大した枚数は入ってないようだ。中身を確認すると――
「え? これ、本当ですか?」
「あぁ。正当な報酬だ」
「そ、そうですか……」
「どうしたんだ、コーダ?」
小銭袋をみんなに回す。三人とも中身を見るなり絶句してしまった。袋の中にはコインが四枚しか入っていなかった。ただ、僕らは枚数を見て絶句したのではない。そのどれもがソリドゥス金貨だったからだ。差し当たっては、一人金貨一枚の配分になる。一金貨というのは十二大銀貨に相当する。大銀貨一枚は、僕らが普段使うことが多い小銀貨の二十二枚分に相当する。
この前みんなで行った『銀の爪亭』の食事ですら四小銀貨であることを考えれば、金貨一枚の価値というのは僕らのような学生が持つには相当なものだ。大体、街の衛兵の月収で二金貨とかだ。
「内訳が知りたいか?」
「い、いえ……、そこまでは大丈夫です」
「そうか。じゃあ今日はもう帰っていいぞ。これからちょっと準備をしなきゃならないんだ」
「準備、ですか?」
「ああ。まぁ体制が整ったらまた連絡する。精々鍛えておけ」
これは……二重魔法の使用許可が降りたということでいいのだろうか。しかし、最上位種のモンスター相手だったから威力を考えないでよかったものの、きちんと出力の調整ができるようになっておかないと、対人戦では使えない。
四人とも初めて手にするに等しいソリドゥス金貨を受け取りつつも、諸手を挙げて喜ぶことなどできない課題を抱えていた。
「いょっしゃぁ! 金貨だってよ金貨! すげぇな、俺たち!」
……いや、どうやら一人例外がいた。戦闘の時は割と頼もしく見えたはずだったのだが。
ℵ
寮に帰ったコーダは自室で、王都で買ってきたものを確認していた。火山牛の燻製ファルーコルヴ、虹孔雀の卵、吸血鬼の涙、盗賊の七つ道具。
(盗賊の七つ道具――そう言えばこれはまだ中を見ていなかったな)
そして怪しげな頭陀袋に入っているものを取り出してみる。中から出てきたのは『千枚通し』『鎖鎌』『短刀』『仮面』『針金』と、それから『導火線付きの黒い小さな玉』が五個、同じように『導火線付きの液体入り瓶』が三本入っていた。仮面は、左半分が白、右半分が黒という、逆に目立つのではないかとすら思えるものだった。
(短刀と仮面はともかく、他はリズベツに訊いてみないと使い途が分からないな)
「ごはん一回分」
「おーけー、分かった。それで手を打とう」
リズベツに色々教えてもらうべく寮の部屋を訪ねるとそんな要求が返ってきた。こういう時リズベツの要求は単純明快でいい。
「あれ? マリーは?」
「多分いつもの教会の手伝い」
「へぇ、そんなことやってるんだ」
「光魔法の修行の一環」
「そうなの? 僕もやってみようかな」
「あとでマリーに訊いてみれば」
「そうだね、そうするよ。ありがとう」
「それより、何が訊きたい?」
「あ、そうそう。これなんだけど…」
戦い方や立ち回り、戦略の立て方なんかは隠密士と魔法士では異なる部分も多いだろう。今回はまず道具の使い途だけ確認しておきたかった。
『千枚通し』――普通、千枚通しと言えば紙に穴を開けて紐を通し、製本するために使う錐のような道具だが、この千枚通しは両端が尖っている一本の細い針だ。投げて使うか、吹き矢のようにして使うらしい。また、針の部分に毒などを塗っておくと効果的とのことだ。おすすめの毒を紹介されそうになったが、リズベツの目が異様にらんらんとしていて怖かったので断った。
『鎖鎌』――鎌と分銅が鎖でつながれている武器の一種。木や塀の上に向かって投げて絡ませ、登り綱の代わりに使うこともできる。携行しても邪魔にならないサイズでありながら、武器としても移動手段としても使える、用途の広さが特長らしい。分銅を振り回せば、ちょっとした棍棒と同じぐらいの威力がある。
『針金』――針金と言っても糸のように細く、曲げると簡単に折れてしまうのだが、罠を仕掛けるのに木を結んだり石を結んだりと、重宝するそうだ。たとえ単体でも、森のなかで木の幹と木の幹の間に針金を張れば、足元に仕掛ければ歩兵を転ばせて奇襲に使い、人の顔の高さに仕掛ければそこに走って突っ込んだ騎馬兵の馬は針金で首を切って死ぬ、なんて使い方もあるそうだ。
あとは――
「リズ、こっちの黒い玉は何なの?」
「それは煙幕弾。火を点けると煙が出る。主に逃走や陽動に使う」
「へぇ、どういう仕組みなんだろ?」
「……それは、気にしたことがなかった」
さすがのリズベツも使い方や立ち回りは修練していても、中身や仕組みについて考えたことはなかったらしい。
「――じゃあ、分解してみるか」
「えっ?」
僕の突飛な行動に絶句するリズベツをよそに、僕はいそいそと煙幕弾の紙張りの玉を解体し始めた。糊で固められた紙を外側から順にベリベリと剥がしていくと、やがて一箇所に穴が空いて中が見えるようになった。
玉の中には外側まで通っている導火線用の細い麻縄と一緒に、粉のようなものが入っていた。煙幕弾の中の粉を手に取り出してみると、ざらざらとした砂のようで象牙色をしていた。
「これはいったい何の――」
「ぺろり」
「うわぁっ!」
手の上に出して検分していると唐突にリズベツが手の上の粉を舐めてきた。得体の知れない粉をいきなり舐めたことよりも、手のひらに伝わったリズベツの舌の感触の方に驚いてしまった。
「ふむ、これは砂糖」
そんなリズベツのコメントよりも手のひらに残る舌の感触のほうが気になって仕方がなかったが、粉の正体についての結論が出た以上、僕も同じ場所を舐めてみようなんて馬鹿な真似はできないのだった。
「――どうしたの、コーダ?」
「い、いや……それにしても、よくあんなのいきなり舐めれたね」
「薬や毒には慣れてる」
隠密士になる以上、薬や毒の扱いは基本だそうだ。特に毒の効き目なんかはある程度自分でも体験して、どのぐらい効くのか、どういう効果が出るのか知っておく必要があるとのことだ。その上、食べ物に混ぜられていたりした際に気付くように、小さい頃から味覚の特訓もしていたそうだ。それゆえ、今ではある程度の薬や毒に対して耐性もついてるそうで、一体全体どんな薬をいままでに経験してきたのか気になるところだが、それを問うたりしようものなら、コーダも試してみるか、なんて言いかねないので、藪蛇にならないうちによしておくことにする。
「ま、まぁ要するに砂糖を燃やせば煙が出るんだね」
「そういうことらしい」
最後の一つは『火炎瓶』だ。これまた物騒な道具だ。煙幕弾と同じようにこちらも火を点けてから投げる。投げて瓶が割れると中の液体が飛び出して燃え広がる。瓶が濃い茶色をしているので中の液体の色は分からないが、今度は実際に取り出して検分する必要はなさそうだ。
おそらく中身は油だ。瓶の中の液体は水よりもとろっとしていて粘り気がある。瓶に色がついているのは油の劣化を防ぐためだろう。
「ありがとう、リズベツ。色々教えてくれて助かったよ」
「問題ない。またマリーのいない時を狙ってきて」
……いや、今日だって別にマリーがいない時間を狙ってきたわけではなかった。マリーが教会の手伝いに行ってるなんてことも知らなかったわけだし。
――あ、そうだ、教会だ。
光魔法の勉強になるということなら、僕も今度行ってみようかと思う。せっかく光属性の加護はあるのに、それに関する魔法の練習のやり方が分からずにいた。教会に行けばそれも分かるかもしれない。今度マリーに相談してみようか。
というか、なんだかやたらリズベツに懐かれているようだけど一体なぜだろうか。好かれているというよりマークされているんじゃないかと思わずにはいられないほど不可解だった。
ℵ
リズベツの七つ道具講座を終えた後、早速僕はかねてより考えていた案を試してみることにした。まず最初は、食事による特定魔力の活性化だ。あらかじめ小分けにして持って来ていた火山牛の燻製ファルーコルヴを口に含む。……っていうか、これ美味いなぁ。
目を閉じて魔力の流れを感じるように脈覚を最大限に働かせる。目で魔力の流れを見ることはできるが、今回は自分の魔力の操作なので、やはり脈覚の感度を鋭敏にしておきたい。しばらくして身体に火照りを覚え始めた。
そして火の魔力が満ちた。十二分に満ち足りた。手には触媒の木片。準備は万端だ。それじゃ――今度は第六節から始めてみよう。
『Kveikja á það――』
木片に火が灯る。それで僕は成功を確信するが、慢心は許されない。食べ物で活性化させた魔力を魔法として形にできるかどうか、前代未聞の試みにさえ、十中八九いけるだろうという自信はあるが、絶対では無い。
『Byrjaðu útdrátt――
Gerðu kúlu――』
火山牛の肉によってなぜ火の魔力が活性化するかはまだ分からない。そもそも火山牛の肉だからなのか、燻製されているからなのかの検証すらできていない。でもそれは多分、肉を食べれば太り、野菜を食べれば肌が綺麗になるというのと、きっと同じことなんだろう。食べ物や飲み物によって体に影響が出るというのは須くあることだ。効き目の速さでいうなら、お酒を飲むと酔うというのが一番近いんだろう。仕組み的にも近いはずだ。
『Framkvæma forritið』
そうして放った火球は、果たして今までに見たことのある火球では無く、火炎牛と呼ぶべき闘牛を象った紅蓮の業火の凶暴な突進だった。特筆すべきはその速度だ。僅か四文節の詠唱にもかかわらず、火と空気の二重魔法で放った時のような、大嵐のごとき速度だった。
草原を駆ける、なんて表現では実に生易しい。大地を踏み砕き、その後にはそこが草原であったことなど誰も想像付かないほどに焦げ付いて真っ黒に染まった焦土が轍となって残されていた。初めてその場所を目にした者にさえ、もうどんな植物も生えないだろうと思わせられてしまう程に灰も残らない。その土が死んでしまうほどに灼けたのだ。
(これ程とは……使う時には気を付けないと)
とは言え、燻製ファルーコルヴを食べてからしか発動できないという難点がある以上、おいそれと頻発できるものでもないだろう。
――次に試すのは、自作の煙幕弾だ。
いや、この場合、煙幕"魔法"になるのかもしれない。いつも触媒にしている木片を、砂糖に変えてみる実験だ。
食材によっては魔法効果自体に影響を及ぼすことが分かった。今度の煙幕は初めて行う魔法なので、まずは通常の状態での魔法効果を確認する必要がある。
幸い、先ほどの魔法を放ったお陰で、燻製ファルーコルヴの効果は切れてきたようだ。魔力の状態が徐々に安定してきた。これなら平常通りの魔法効果が確認できそうだ。
深呼吸をして、いつものように第一節から始める。
『Setjið――
Eld fyrir þætti――』
触媒生成の過程は省略。
触媒素材の選定も同様。
触媒凝縮の工程を除却。
『Kveikja á það――』
熱源臨界点を設定。
魔力特異点を設定。
『Byrjaðu útdrátt――
Gerðu kúlu――』
詠唱は同一。
結果は随一。
『Framkvæma forritið』
いま此処に――煙幕魔法の詠唱が完成する。
空中にばら撒いた砂糖の結晶は漏れなく発火し、発煙する。忽ち辺りは濃密な狼煙に包まれる。一メートル先も見えない程に閉ざされた狭量な視界。目が滲みたり、噎せたりすることはないが、とにかく手を伸ばした、それ以上先はもう見えない。
そこへ一陣の風が吹いて、煙が流される。それでコーダはこの魔法の弱点を二つ発見した。一つは、相手から自分が見えなくなる代わりに、自分が相手を見ることもできなくなるということ。ただしこれは脈覚での探知でカバーすることができる。もう一つの弱点は、風に弱いということだ。ただ、その弱点については煙幕弾も同じで、そのあたりはリズベツにも教えられた。
そもそも煙幕というものは、蛸の墨のようなものだ。烏賊の墨のような粘り気がないため、すぐさま海中に広がるが、反面すぐさま潮に流される。蛸墨と烏賊墨ではその目的が異なる。烏賊墨には烏賊の匂いや旨味成分が含まれているので、外敵はそのねっとりした墨の塊自体を烏賊本体だと誤認してしまう、要はデコイなのだ。
一方、蛸墨は水気を多く含みさらっとしているので、海中に素早く広がり、相手の視界を遮る。その隙に体表の色素を調整し、保護色を用いて地面や岩場に身を隠す。隠密士の用いる煙幕弾はこれに近い。つまり、風に弱かろうが、数秒間の隙さえ作ることができればいいという前提で使用する。
何より、水と空気の二重魔法で霧を生み出すより、砂糖を触媒に火魔法を使う方が断然に簡単で、発動も早い。魔力の消費も少ない。特に対人戦の場合、普通の火魔法の詠唱に見せかけて、煙を発現させるという意味でも不意打ちとなりやすい。相手が火魔法に対抗しようと水魔法を仕掛けてきても、さほど通用しない。煙を押し流すほどの水量を発現させようとすれば、そこそこ魔力を消費する。対してこちらの魔力消費は微弱。
そう、つまり――弱点もいくつかあったが、得てしてメリットのほうが大きいのだ。なにより強制的に相手の隙を作り上げられるので、戦略の幅が広がる。
(もし自分が煙幕を使われたらどうするか、という想定の対策も今後考えておくか……)
より緻密なシミュレーションを施行する。
より厳密なイマジネーションを試行する。
より綿密なヴァリエーションを思考する。
より精密なエスカレーションを志向する。
そうしてコーダは日が暮れるまで、納得の行くまで、そして――心ゆくまで、魔法の練習に明け暮れたのだった。
そんなことに夢中になっていて、ある重要な事柄をすっかり忘れてしまっていた頃、コーダはその少女に呼び出されることとなった。
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❇❇❇❇❇❇❇❇❇
2024年10月追記
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