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借りたものは返す主義

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 ──「公爵様はお帰りにならないのですか?」と、翌日もその翌日も姿が見えないから執事に聞いた。
 ──「そうで御座いますね、きっとお忙しいのでしょう。帰らないことは屢々しばしばありますのでお気になさらず」と執事は言う。
(いやいや。お気になさらず、じゃないんですー。公爵様が帰ってこないと話が進まないんですー)
 電話で確認すれば良いのではと思うだろうが、確認だけでは済まないのが公爵家。使用人達の契約変更、つまり私を世話する上での給料の取り決め云々うんぬんには、ハント公爵の判子はんこが必要なのだと言う。まるでお役所仕事だ。

 一日の授業が終わり、与えられた自室へ戻る途中「はぁ……」とついつい小さく溜息。溜息は周りにも気を遣わせてしまうのであまりしたくないのだが、自然と出てしまった。
 だって未だ何も変わらない。
 ハント公爵が帰ってこなければ話が進まないから、今まで通りに“常識”という名の淑女の嗜みを学んでいる。
 一人っ子だったという環境もあってか、他人と長くいるのはつらい。公爵の婚約者だという謎のプレッシャーと戦いながらだと更に辛い。
(お風呂一人で入りたいぃ~。一人の時間が欲しいぃ~。もぉ~仏様ぁ~、つらつらいとばかり言っている私をどうか許して下さい……! 心に余裕がありません………!)


 それから3日──、

「帰ってこない…………」

 全く帰ってこないではないか。このままじゃ駄目だと意気込んで、再び大苦戦したお出掛けの交渉へと立ち上がった。
〈何かを変えたいのならまずは自分が動け〉
 母方の祖父の、その教訓を胸に。

 そんな祖父に育てられた子だからか、母は強かった。
 人を従え指示し、自ら先頭に立つキャリアウーマンというのも頷ける。なのに何故、何故、母は、父を選び続けるのだろう。
 結婚する前は普通だったの、とよく言うが、昔は昔で今は今だ。時が経てば人は変わる。
 単純に可哀想だというのもあるかもしれないが、やはり、愛していたのだろうか。
 人を愛するとはどういうものだろう。ゴンに対する気持ちとは違うのだろうか。
 私には解らない。

 そんな事を考えていると、丁度ミハエル犬が居るではないか。引き寄せの法則が働いたらしい。
 お役所仕事でまた書類でも取りに来たのか、庭をミハエルノウマで駆けるミハエル。
(ややこしい……)
 城の裏手の森を抜け馬をかっ飛ばせば30分程で着くから、そういうパシられ役なのだろう。
 前回同様に引き止め、5日振りに庭で深呼吸をした。

「ほんと、毎度毎度ありがとう御座いますミハエルさん」
「いえいえ! ご心情は察せますので」
「……察してくれますか」
「それはもう……」

 くすりと互いに笑い、屋敷を出発した。
 出発したのはいいのだが、私にでも分かる。
 ミハエルノウマに歩幅を合わせる何か、森を駆ける私達とは違う何か。
 何かが、森の中に居る──。

「千聖さん、しっかり捕まってて下さい、少し飛ばします」
「っはい」

 姿が見えないから、怖かった。
 その何かが、獣より魔物より、私は人であるほうが怖かった。
 なんだかんだ言って、殺された時、怖かったのだ。
 刃物を向けられるとより恐怖が襲うだろう。

 ミハエルの代わりになるか分からないが、私は気配のする方をじっと見ていた。
 黒い何かが動いているのが見えた。
 目が、合った。
 けれど、不思議と怖くなかった。

「っミハエルさん、たぶん、大丈夫だと思います」
「は? 大丈夫って、何が」
「っやっぱり! 止めて下さい!」
「え? は? な、なんで!?」
「いいから止める!!」
「ッは、はいっ……!!」

 どうどう、となだめミハエルノウマに止まってもらい、背から降りた。「ちょっ、千聖さんっ!?」なんてまるでデジャブのように後ろで焦るミハエル。
 私の目の前には、あの時と同じ、シトリンを嵌め込んだのかと見紛うイエローの瞳、濡れたカラスと同じ美しい漆黒の毛。

「アヌビス……?」

 同じ日をループでもしてしまったのか。
 私はまた同じく、脅かさないようゆっくり近寄る。
 でも同じじゃない。
 ちょっと、大き過ぎやしないか?
 近付く度その大きさがよく分かる。背丈は私の3倍程だ。流石に魔物といえどここまで急には成長しないだろう。脚の怪我も無いし。とすると別の個体か。
 アヌビスのは確認出来なかったが、〈大きなアヌビス〉の生殖器を見る限りメスだ。
 脚も、耳も、マズルも、全て凛々しくて、思わず見惚れてしまう。
(めっちゃ美人ないっぬ……!)

「……綺麗ね」

 そう呟いた直後、グルルと唸る〈大きなアヌビス〉
 視線が後ろを見ているから振り返ると、ミハエルが剣に手をかけていた。

「ミハエルさん、私、大丈夫ですから。剣も殺気も仕舞って下さい、お願いします」

 あの犬はよく言う事を聞く良い犬だ。
 ミハエルは言われた通りに剣から手を離した。

「触っても良い?」

 そっと手を出すと暫く様子を見たあとで鼻先を近付けてくる。
 見下ろしていた〈大きなアヌビス〉の頭がいま目の前にあるので、思わず撫でそうになる欲望を必死に抑えた。頭上から手を出したら警戒されてしまう。
(匂いを嗅いでるのね……)
 愛おしい瞳で眺めてマズルをゆっくり触っていると、なにか咥えているのが見えた。

「それなあに?」

 優しい口調で聞くと、チラリと私を見て掌にそれが落とされた。
 アヌビスの脚を縛ったあのリボンだ。ミハエルが恐る恐る解いていた、背中のリボン。

「これを……返しに?」

 彼女は勿論何も言わなかったが、『うん』と、吸い込まれるほど美しい瞳が頷いたのが分かった。
 アヌビスの、母親だろうか?

「ふふ、ありがとう!」

(あぁ、こんなに愛しくて優しい気持ちになるのはいつ振りだろう……!)
 もうニヤニヤが抑えられなくて、たぶん今すごい気持ち悪い顔をしているだろう。
 本当にそれを返しに来ただけのようで、彼女は直ぐに森の奥深くへと帰って行った。

「んんーーっ、もっと撫でたかった……」
「ち、千聖さん、ほ、ほんと、もう、あり得ないですよ……、もう、ほんと怖かったんですから……食われてしまうんじゃないかとヒヤヒヤして……」

 と言っているミハエルも犬みたいで、やはり少し可愛かった。
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