24 / 172
1
借りたものは返す主義
しおりを挟む──「公爵様はお帰りにならないのですか?」と、翌日もその翌日も姿が見えないから執事に聞いた。
──「そうで御座いますね、きっとお忙しいのでしょう。帰らないことは屢々ありますのでお気になさらず」と執事は言う。
(いやいや。お気になさらず、じゃないんですー。公爵様が帰ってこないと話が進まないんですー)
電話で確認すれば良いのではと思うだろうが、確認だけでは済まないのが公爵家。使用人達の契約変更、つまり私を世話する上での給料の取り決め云々には、ハント公爵の判子が必要なのだと言う。まるでお役所仕事だ。
一日の授業が終わり、与えられた自室へ戻る途中「はぁ……」とついつい小さく溜息。溜息は周りにも気を遣わせてしまうのであまりしたくないのだが、自然と出てしまった。
だって未だ何も変わらない。
ハント公爵が帰ってこなければ話が進まないから、今まで通りに“常識”という名の淑女の嗜みを学んでいる。
一人っ子だったという環境もあってか、他人と長くいるのは辛い。公爵の婚約者だという謎のプレッシャーと戦いながらだと更に辛い。
(お風呂一人で入りたいぃ~。一人の時間が欲しいぃ~。もぉ~仏様ぁ~、辛い辛いとばかり言っている私をどうか許して下さい……! 心に余裕がありません………!)
それから3日──、
「帰ってこない…………」
全く帰ってこないではないか。このままじゃ駄目だと意気込んで、再び大苦戦したお出掛けの交渉へと立ち上がった。
〈何かを変えたいのならまずは自分が動け〉
母方の祖父の、その教訓を胸に。
そんな祖父に育てられた子だからか、母は強かった。
人を従え指示し、自ら先頭に立つキャリアウーマンというのも頷ける。なのに何故、何故、母は、父を選び続けるのだろう。
結婚する前は普通だったの、とよく言うが、昔は昔で今は今だ。時が経てば人は変わる。
単純に可哀想だというのもあるかもしれないが、やはり、愛していたのだろうか。
人を愛するとはどういうものだろう。ゴンに対する気持ちとは違うのだろうか。
私には解らない。
そんな事を考えていると、丁度ミハエル犬が居るではないか。引き寄せの法則が働いたらしい。
お役所仕事でまた書類でも取りに来たのか、庭をミハエルノウマで駆けるミハエル。
(ややこしい……)
城の裏手の森を抜け馬をかっ飛ばせば30分程で着くから、そういう役なのだろう。
前回同様に引き止め、5日振りに庭で深呼吸をした。
「ほんと、毎度毎度ありがとう御座いますミハエルさん」
「いえいえ! ご心情は察せますので」
「……察してくれますか」
「それはもう……」
くすりと互いに笑い、屋敷を出発した。
出発したのはいいのだが、私にでも分かる。
ミハエルノウマに歩幅を合わせる何か、森を駆ける私達とは違う何か。
何かが、森の中に居る──。
「千聖さん、しっかり捕まってて下さい、少し飛ばします」
「っはい」
姿が見えないから、怖かった。
その何かが、獣より魔物より、私は人であるほうが怖かった。
なんだかんだ言って、殺された時、怖かったのだ。
刃物を向けられるとより恐怖が襲うだろう。
ミハエルの代わりになるか分からないが、私は気配のする方をじっと見ていた。
黒い何かが動いているのが見えた。
目が、合った。
けれど、不思議と怖くなかった。
「っミハエルさん、たぶん、大丈夫だと思います」
「は? 大丈夫って、何が」
「っやっぱり! 止めて下さい!」
「え? は? な、なんで!?」
「いいから止める!!」
「ッは、はいっ……!!」
どうどう、となだめミハエルノウマに止まってもらい、背から降りた。「ちょっ、千聖さんっ!?」なんてまるでデジャブのように後ろで焦るミハエル。
私の目の前には、あの時と同じ、シトリンを嵌め込んだのかと見紛うイエローの瞳、濡れた烏と同じ美しい漆黒の毛。
「アヌビス……?」
同じ日をループでもしてしまったのか。
私はまた同じく、脅かさないようゆっくり近寄る。
でも同じじゃない。
ちょっと、大き過ぎやしないか?
近付く度その大きさがよく分かる。背丈は私の3倍程だ。流石に魔物といえどここまで急には成長しないだろう。脚の怪我も無いし。とすると別の個体か。
アヌビスのは確認出来なかったが、〈大きなアヌビス〉の生殖器を見る限り雌だ。
脚も、耳も、マズルも、全て凛々しくて、思わず見惚れてしまう。
(めっちゃ美人ないっぬ……!)
「……綺麗ね」
そう呟いた直後、グルルと唸る〈大きなアヌビス〉
視線が後ろを見ているから振り返ると、ミハエルが剣に手をかけていた。
「ミハエルさん、私、大丈夫ですから。剣も殺気も仕舞って下さい、お願いします」
あの犬はよく言う事を聞く良い犬だ。
ミハエルは言われた通りに剣から手を離した。
「触っても良い?」
そっと手を出すと暫く様子を見たあとで鼻先を近付けてくる。
見下ろしていた〈大きなアヌビス〉の頭がいま目の前にあるので、思わず撫でそうになる欲望を必死に抑えた。頭上から手を出したら警戒されてしまう。
(匂いを嗅いでるのね……)
愛おしい瞳で眺めてマズルをゆっくり触っていると、なにか咥えているのが見えた。
「それなあに?」
優しい口調で聞くと、チラリと私を見て掌にそれが落とされた。
アヌビスの脚を縛ったあのリボンだ。ミハエルが恐る恐る解いていた、背中のリボン。
「これを……返しに?」
彼女は勿論何も言わなかったが、『うん』と、吸い込まれるほど美しい瞳が頷いたのが分かった。
アヌビスの、母親だろうか?
「ふふ、ありがとう!」
(あぁ、こんなに愛しくて優しい気持ちになるのはいつ振りだろう……!)
もうニヤニヤが抑えられなくて、たぶん今すごい気持ち悪い顔をしているだろう。
本当にそれを返しに来ただけのようで、彼女は直ぐに森の奥深くへと帰って行った。
「んんーーっ、もっと撫でたかった……」
「ち、千聖さん、ほ、ほんと、もう、あり得ないですよ……、もう、ほんと怖かったんですから……食われてしまうんじゃないかとヒヤヒヤして……」
と言っているミハエルも犬みたいで、やはり少し可愛かった。
0
お気に入りに追加
169
あなたにおすすめの小説
交換された花嫁
秘密 (秘翠ミツキ)
恋愛
「お姉さんなんだから我慢なさい」
お姉さんなんだから…お姉さんなんだから…
我儘で自由奔放な妹の所為で昔からそればかり言われ続けてきた。ずっと我慢してきたが。公爵令嬢のヒロインは16歳になり婚約者が妹と共に出来きたが…まさかの展開が。
「お姉様の婚約者頂戴」
妹がヒロインの婚約者を寝取ってしまい、終いには頂戴と言う始末。両親に話すが…。
「お姉さんなのだから、交換して上げなさい」
流石に婚約者を交換するのは…不味いのでは…。
結局ヒロインは妹の要求通りに婚約者を交換した。
そしてヒロインは仕方無しに嫁いで行くが、夫である第2王子にはどうやら想い人がいるらしく…。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
彼女にも愛する人がいた
まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。
「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」
そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。
餓死だと? この王宮で?
彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。
俺の背中を嫌な汗が流れた。
では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…?
そんな馬鹿な…。信じられなかった。
だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。
「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。
彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。
俺はその報告に愕然とした。
わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑
岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。
もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。
本編終了しました。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる