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満月の夜に

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 次の満月は、すでに待っていた。

「今晩は、エラ」
「っ、今晩は……エリック様」

 たどたどしい様子で名を呼ぶと、優しく微笑んでくれた。
 いつものように水浴びをするため裸だったのだが、礼儀を示そうと泉から上がろうとすれば、どうかそのままで、とお願いされる。そして衣服が汚れるのもいとわず、地べたに腰を下ろしてくれた。

 高貴な御方と会えぬ日々の中、色々と考えて、キチンと謝っていないことに気が付いた。
 何という無礼。今日こそは最初に言おう。

「あの……、今更、失礼かもしれませんが……。この場所は貴方様の、貴族様の私有地、なのですよね……? 勝手に使用してしまい、申し訳御座いません……」
「いや、ううん……。まぁ私有地といえばそうだけど……。良いんだ、気にしないでおくれ。エラなら、好きに使ってくれて構わないよ」

 知りたいことが沢山あるからねと、寛大にも許して下さった。私のような卑しい身分の人間に。はたまたそうとも知らず、なのか。
 いいや、きっと私の立ち振舞いで分かるだろう。彼の動きひとつひとつはとても美しいから。

 私が住むタール地区の領主のグスタフ様は、太っていて、ニヤニヤと気持ち悪く笑っていて、領民の女性には厭らしく触っていて、でも男の人にはすごく厳しくって。貴族という立場以外エリック様とはまるで大違い。
 そんなグスタフ様も一度か二度しか拝見したことないのだけれど。
(あれ? 領主様はグスタフ様、よね……? ではエリック様は……? 一体誰なの……? 領主でも無い限りこんな汚い土地にわざわざ足を運ぶかしら……。いえ領主様だってわざわざ足を運ばないわよ)

 もし領主様が変わったなら御役所にも張り出すし私でも知っている筈だ。
 とすると次期領主様だろうか。
 例えそうだとしてもこの土地で過ごすのはあと四ヶ月程。己が領主様と関わることなどないだろう。そもそも言葉を交わすのも赦されない御方なのだから。

「何を、考えているんだい?」

 柔らかな声と共にさらりと何かが頬を撫でた。
 驚いて目をやると、なんと貴族様の指が、汚い私の頬に触れているではないか。
 その出来事にあまりにも驚いて、思わず仰け反った。拍子に水飛沫がエリック様に掛かってしまう。

「も! 申し訳っ、御座いませんッ……! わたしッ、なんて事を……!!」

 一瞬にして血の気が引いた。
 今度こそ絞首だ投獄だと、覚悟した。
 しかしそんな覚悟も、この飛沫のように一瞬で飛んだのだ。

「あっはっはっはっは……!!」

 彼は大笑いして涙まで流している。
 私はどうしてよいか分からず、狼狽えるしかなかった。
 エリック様は一頻り笑うと、息を整え「いやあ申し訳無い!」と切り出した。

「頬に触れただけで可愛らしい反応をするものだから、つい、可笑しくって」
「え、あ、あの、申し訳御座いませんでした……。他人に、その様に触られるのは初めてだったもので、その……、不快な思いを……」

 兎に角謝るしかなかった。
 他の方法は知らない。カースト下位の人間は謝ることしか許されない。
 彼は困ったように笑うと、小さな溜息をついて、「可愛いと言っているのに」と呟いた。
 優しい嘘だとこんな私でも解る。

「は、はい……貴族様に失礼を働いた私のような者にまでお気遣い頂き……」

 そう謝罪するとまた困ったように笑う。
 暫しふたりの間に静寂が訪れて、風や、水音だけが聴こえてくる。
 ふと背後が暗くなったのを感じて、ちらりと振り返れば泉がゆっくり沼地に変わっている。

「あ、そろそろ……泉から上がらなくてはなりません」
「……では、目を閉じよう」

 眩い睫毛が名残惜しそうに重なる。
 どうしてそんな表情をするの。もうお別れなのかと、私のほうが寂しく感じてしまうではないか。

 瞳が閉じられているのを確認し、泉から上がった。
 もう一度、彼を確認して、泉の周りに生えている花や木葉などを幾つか貰った。
 そしてまた最後に、彼の姿を瞳の奥に焼き付けていると、満月は雲に隠れたのだ──。
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