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待ち遠しかった月
しおりを挟む──雨だ。
私はどこかで期待していたのかもしれない。またあの綺麗な貴族様に、逢えることを。
いいや。今はそんな事を考えている暇なんてない。
雨ならば水瓶に溜めなくてはならない。貴重な恵みの雨だ。
だからといって降りすぎてしまうと沼が溢れ、臭くて汚い泥が家の床の上まで入ってくる。
それに虫や蛙だって其処ら中に湧くし、それを食べに蛇だって来る。雨が上がり泥が乾けば変な病気も蔓延しやすい。
けれど蛇や蛙は貴重な食料だ。調達しなくとも食料の方から来てくれるなんて手間が省けるし有り難い。
見方を変えるだけでこんなにも素晴らしい。そう考えていないと心が保てない。
私はどんなに汚れても良いけれど、貴族様のこの御召し物だけは何とかして守らなければ。雨が降ろうが槍が降ろうが守らなければ。
こんな心配事、早く返してしまいたいと思う。そう思うけど、あの瞬間の、掌の温もりが、身体まで温めてくれる。
其処に置いてあるだけで、幸せな気持ちになる。幸せな気持ちで終わりたい。
私の幸せな気持ちを汲み取ってか、空は今夜も雨を降らせた。次も、その次の満月も──。
泉で水浴びをしていないから、髪の毛はまた汚く絡み合って指も通らない。
肌は垢でくすみ、若干頬も痩けた。臭いも酷いだろう。御役所の人も鼻を曲げるぐらいに。
そして、初めてあの御方と出逢って六度目の満月。
ようやく泉に包まれた。
嬉しくて、気持ちよくて、水の中をくるくる魚のように泳いだ。木葉や、枝、花も採取した。
けれどあの御方は何処にも居ない。
「上着を、返せないままね……」
紡ぐ言葉とは裏腹な感情に意味もなく首を振り、岩にもたれ満月を眺める。
すると、遠くの方から馬の足音がする。
木々を掻き分け現れたのは勿論あの貴族様だった。
「はっ、はぁ、……あぁ良かった、間に合った……」
何故か息を切らしている。
急いで来たのだろうか。何の為に?
「どうか、私と……、少し話をしてくれないか」
「っ、……はい。けれど以前も申しましたように、私は貴方様にお願いされる身分では御座いませんので」
「良いんだ、そんな事……。この時間は、この時間だけは、そんな事気にしないでおくれ」
そう貴族様が仰るなら、その様に従うのが最善だろう。
そんな事よりも、と彼は仰る。
近くへ来てくれないか、君の顔をもっとよく見たいんだ、と。
要望通り、泳いで岸まで行く。
貴族様の眉が少しだけピクリと動いた。あの日より痩せてしまったから、きっとその事について色々と思っているのだろう。
「……ごほん。まず、私の名前はエリック。君の名前を教えてくれないか」
「私は、エラと」
「エラ……綺麗な名前だ……」
エリック、とてもよくある名前。
だけど何か引っ掛かる。
「前回も満月の日だった」
「はい。満月の光が泉に当たっていないとこの泉には来れないのです」
「そうか、だから先月は……」
「ええ。その前も雨でした」
成る程、とひとり納得しているが、エラの瞳には月が雲に隠れる姿が映っていた。
そうだ上着を返さねばと岸から上がれば、また貴族様は目を背けてくれる。目一杯、丁寧に畳んで置いていた上着を手に取り、渡すため差し出した。
「申し訳御座いません。あの、この上着、汚してしま──
──い、ました…………」
最後まで言い切る前に、その日の満月の夜は終わったのだった。
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