迷子日記

西向く侍

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迷子日記

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#迷子日記

##ぼくについて

 ぼくはいつも迷子で、不安定だった。

「これ以上に自分を嫌いになりたくない」

 高校はかろうじて卒業した。

 大学に行くこともすすめられたし、何かに所属していないと腑抜けた生活をすることは分かっていた。学費もせっかく支給されるのだから。行かぬは損だ。とも言われた。

 わかってはいたけど、ぼくはなにもしないことを選んだ。

 なにかに定期的に通うのも嫌いだったし、興味がないことに従事するのも嫌だった。

 生来の気質か。飽き性というのもあって、学校も長続きしないし、物事が続かない。

 だから、ぼくは社会に出て働くのは向いてないと思った。

 毎日、通学してる友人たちを見ながら「ぼくもあんな感じのイケてる子になれたらなぁ」と、うらやんだりもした。だけど、いつかその気持ちも落ち着いてきて「これがぼくなんだろうな」というような落ち着きや納得も得た。

 だけど、それがたまに揺れるときもある。

 ぼくは生まれからして就職に不利だった。

 たまには働いてみようか。と思い至り、履歴書を書くと遺伝子情報の提出を求められる。

 ぼくみたいなナチュラルベイビーに対して面接官は良い顔をしない。

 病歴は?

 精神的な疾患は?

 目を丸くして訊いてくる。

 ぼくのせいじゃないところで責められても仕方がない。

 無計画にお互いの腰を打ち付けて、必死こいて産んでくれた両親に訊いてくれ。両親への連絡先も付記しているのに。

 そういうこともあって、ぼくはなにもしないことを決めた。

 アンドロイドが活躍する今の時代に、ぼくが無理して働く必要もない。

 高校を卒業した時には役所から口座の開設を指示された。

 なんの権限があってだ。最初は勝手が分からんので、よくよく話を聞けば「成人に伴う基礎所得補障」分の振込口座ということだった。

 ぼくは個人名義の口座など持ったこともなかったので、これを機会に口座を作った。口座を作るのにもおっくうな人間だ。生活力のかけらもなかった。

 この制度、なかなかよかった。

「生活の向上も求めず、ただ生きていればよい」と考えるようなぼくにとっては最高の制度だ。

 役所からは定期的にお金は振り込まれるし、それ以上のお金が欲しいならどこかで働けばいいんだ。

 単純だ。

 生きるだけなら苦労はしない。

 雨が降れば雨を見ていたし、晴れた日は散歩していた。市民カードを提示すれば、図書館の蔵書に触れることもできた。

 特に困ることはなかった。

 散歩をしていたら、シティの清掃ロボットにゴミとして認識されたこともあった。

 その時はさすがにもっと頻繁にシャワーを浴びようと思った。


 学校を卒業して、二回目の冬を迎えた。


 雪にまみれて兄が訪ねてきた。

 手土産のひとつもない。

「手ぶらでやってくるとはいい度胸だ!」

 ぼくが非難する。兄からは鼻で笑われた。

「弟には十分なもてなしを受けたこともない。見舞いに来た兄貴をねぎらってくれよ」

 はちみつと牛乳を混ぜて温めた。これがぼくの渾身のもてなしである。

 兄に飲み物と質問を与えた。

「見舞いというけど、別にぼくはケガでも病気でもないよ」

 兄は熱いだろうにそれを一息で飲み干した。

 彼の顔には薄く白いひげができる。栗色の髪の毛と白いひげ。場違いなサンタだ。

「……なに、弟がちゃんと生きてるか確認に来たんだよ。働きもせずに、日々を生きるだけの奴なんてのは珍しい。腐ってたら困るだろうが」

「今の時代じゃあ人並みだよ。別に珍しいこともない。どこかの石油王にはぼくみたいな若者もいたと思う」

 寝て起きて、飯を食い、出すだけの人間もいただろう。

「家の戸が凍るような暮らしぶりを石油王はしない――」

 確かにいなかっただろう。

 兄は二杯目のホットミルクを空にする。

 兄は白いひげを増やして、ぼくを急かした。

「――出かけるぞ。上着を……もう、着てるな。なんだ! 出かける気満々じゃないか!」

 家では暖房をつけていないから、上着を脱いでいないだけだ。

「出かける必要はない! 外は寒いし、明るい。それにシャワーも浴びていない! こんな格好で出歩けるか!」

「大丈夫だ。ここも十分寒い。外も中も変わらん。陽があるだけまだ暖かい。出かけるよ」

 ぼくが頑として動かない態度を示していたけど、兄には関係がないようで。ぼくは小脇に抱えられて、外に連れ出された。

「おどろいた。ぼくを軽々と運ぶなんて。兄ちゃんはたくましくなったな」

「……職場からの助成金で機械化したんだよ。こっちの方が都合いいし。それに手術を拒否して、仕事もクビになったら困るんだ。ローンが払えなくなると市民査定に問題がある」

 兄のメカニックアームは存外にやさしくぼくを運んだ。

 ぼくは筋力がないから、うつむくばかりだ。兄の顔は見なかった。

「ぼくみたいな弟がいたら、市民査定も響くだろう」

 ぼくはうつむいている。声が上から降ってくる。

「わかってるけど、お前は変わらんだろう。それについてはあきらめたよ。お前がドラッグやってようが、無職だろうが、献身的に面倒を見る良心的な兄としての査定を期待しよう」


 ぼくはうつむいていた。


##公園のこと

 しばらく運ばれた。歩くのも癪だから運ばれるままだ。

 ぼくは雪が降り始めてから外に出るのを控えていた。痛いくらいに冷たい風がぼくの顔をなでる。

 通り過ぎる街並みに雪が添加されている。いつもは鮮やかな緑の常緑樹も白い。

 誰かが踏みしめた雪。その上をなぞるように兄の足が見える。

「久方ぶりの外はどうだ?」

「……まぶしいから早くお家に帰りたい」

 雪からの太陽の照り返しが強い。

「だめだ。少しは光を浴びろ。母さんから頼まれたんだ。お前が生きてるか見てこいって。ついでに連れまわせってね。お前の家に行く道中に面白いものを見つけた。見せてやろうと思ってな」

「ぼくを楽しませるだって? そいつは難しいな」


 連れ出されたのはジャンク市だった。


 ぼくも相当に小汚い恰好をしているけど、ここではぼく以上に汚らしい人がひしめき合っていた。

 それを見ると、ぼくの汚い感じもそこそこに見えるのだから不思議だ。

 気持ちも上向いてきた。ぼくはシンプルである。

 自分よりもみすぼらしい人を見ると安心する。というのは人間としてできたものではないけれど、小綺麗な兄の方が浮いていた。

「思ったより楽しんでいるようじゃないか」

「ぼくよりも小汚い人が並んでいるのだから、楽しいもんだ!」

「……あまり、そういうのは口にしてくれるな」


 ぼくが生活している町の人は勤勉な働き者もいれば怠け者もいる。働き者は怠け者が嫌いな人が多い。
 現にぼくが平日に近所をウロチョロしているとあまり良い顔をしない。

「生きている意味はあるのか?」

 そういう罵声をくらい、ショックのあまりに病院に行ってみると、お医者さんはそのことに憤慨してくれるフリをする。ぼくがお医者の言葉が本当か嘘か。そういうのを見極めようとすると「医者をそういう目で見るな」とお医者に怒られる。

 多分、あの医者もぼくがはたらいていないのが気に食わないのだ。



 もう、病院には行きたくない。



 怠け者は基本的にすべてにおいて無気力だったりするので働き者のことを嫌いでも好きでもなかったりする。だけど、働き者の人達の頭脳労働のおかげでぼくは怠けていられるので少しは感謝してる。

 少しだけどね。

 ジャンク市で働いている(ジャンクパーツを目の前に並べて、ふてぶてしく座っていることを働くというのかはわからない。店番してる?)おっさんや、おじさんを見まわしていると、その無気力な感じがぼくを楽しませた。

「兄ちゃんはぼくの特性をよくわかっている! 今のぼくの気持ちはうなぎのぼりだ!」



 兄は変わらず、ぼくをやさしく引っ張っていた。



##出会いについて


 ジャンク市でぼくは運命に会う。

 いま、思えばあれは運命なのかどうか。もしかしたら誰かの作為があるのかもしれない。

 それくらいの出会いだ。

 兄に連れまわされるままにジャンク市を練り歩き、多くのゴミの中からそれを見つけた。

 ぼくは基本的に怠け者だけど、コンテンツも大好き。映画もドラマもアニメもコミックも楽しむ。

 その中にラブストーリーももちろんある。

 ボーイミーツガールというようなものだ。異性愛者を対象としたコンテンツをぼくは好んで見ていた。別に男の子も嫌いじゃないけど、興奮するのは女の子だった。ぼくは異性愛者。


 そういう風に自認してた。


 だけど、それとあった時は混乱していた。


 側頭部がぼこぼこに割れたアンティークロボット。


 薄いベールをかけた扇情的なロボットだ。この子は今までどんな扱いを受けていたんだろう。

 ぼくは全身に電撃が走った。

 辛気臭い顔したばあさんが店番をしている。脇の灰皿は吸い殻でいっぱいだった。

「……なにか買う?」

「その子が欲しい!」

 ばあさんは肺いっぱいに煙を吸い込んで、吐き出した後に続ける。

「なんで欲しいの? 売り物として並べてるけど、こいつは最悪だよ。起動もしないし、かといって修繕についても手間がかかりそうだから、手をつけちゃいないんだ。セクサロイドってんなら、もっと手ごろなのあるよ」

 目線で流すと、しっかりした形のセクサロイドが無造作に並んでいる。肌は割れていなくて、男性向けのセクサロイドだ。
 股間が思わず軽くなるようなものだ。ぼくの股間は至ってシンプルだ。
 だけど、違った。

「ぼくはその子がいいんだ! ぼくには売ってくれないのか?」

「……売れないってわけじゃないけど。いくら出すのさ――」


 ぼくは持っている金と口座の金とすべてを申し出た。


「――全部、現金で用意しな。電子マネーは許さない。金の音が好きなんだ。札束だったらもっと好き」


 とても、いやらしい顔つきのばあさんだった。だけど、久しぶりに人間を見た気がした。


 ぼくは金を用意して、その子を連れて家に帰った。


 兄は驚いていた様子だったけど、何も言わなかった。



##ぼくとあのこの暮らしぶり

 ジャンク市で女型のアンティークロボットを買った。

 生き物じゃないけど、女の子だ。多分女の子だ。

 その子を家に運びこみ、しばらくベッドの中で過ごした。

 外気にさらされていたその子はとっても冷たかったけど、ぼくの体を使ってずっと温めた。

 ゆっくりと人肌のぬくもりが移っていった。このぬくもりを持続するには、ベッドに居続けるしかない。だけど、ぼくもずっとベッドで過ごすわけにはいかない。マットを干したり、シーツを変えたりと忙しくする必要がある。暇人なのに忙しいなんて不思議だろうけど、だらだら過ごすのにも準備がいるんだ。いちどくらいはみんなも無職をしてみればわかる。

 その子は基本的なパーツはそろっていた。

 しかし、いろいろと瑕疵があった。

 人工皮膜にひびが入っている。それは何かに殴りつけられたようだった。

「君は一体どんな目にあったのかな?」

 簡単な下地を塗り、ひびを埋める。

「うん。もともと別嬪さんだったのが、さらに別嬪さんだ」

 凛としたまなざしのようにも見えるし、焦点の合わない何かを見ているようにも見えた。

 人形に話しかける。というのは、別に人形に話しているわけじゃなくて、自問自答みたいなものだと思う。

 人形から返事があるわけではない。あるはずがないんだけど、ずっといろんなことを話した。ぼくがスープを飲むときはスープの感想を伝えたし、スープの材料をくれた近所のおばちゃんの話もした。

 たまにだけど。その子はぼくを見ているような気もする。

 ぼくは見られていると思ったときにはその子に恥ずかしくない主人であろうとした。



  動かない人形としばらく過ごした。



##ぼくたちは監視されてる

 玉ねぎがいたんでいた。

 それを持つと形が崩れるほどだ。仕方ないので捨てた。

 なにか食べるものがないと困るのだけど、それを買いに行くのもおっくうだし、そもそもの時点で金がない。あの子を手に入れるためにすべてをはたいたのだ。

 ひもじく思いながらも、ベッドから離れがたい生活をしていた。

 そんななか、来客があった。

 先日の兄の来訪以来、ぼくは居留守を常態化させていた。

 下手に顔を出すとこの前みたいなことになる。

 誰とも話をせずに、来客が去るのを待つ。

 居留守のために、インターホンの電源は切っていた。その来客は戸を叩く。大声でぼくを呼ぶ。

 それは多分、人間じゃない声だった。

「役所からキマシタ! ヨリスさん! いらっしゃいますか! 生体反応は見えているんですよ。居留守はせずに出てキテください!」

 それからもしばらく、戸を叩く音と、戸が軋む音が響いた。

 ついには戸が悲鳴を上げて、来客を拒めなくなる。来客は無遠慮にぼくの家に入り込んできた。仕方ないので対応する。

「ええと……役所のアンドロイドの方? 扉を壊してくれて、困りますよ」

 人型の男とも女ともつかない容姿のアンドロイドだった。市のトレードマーク。群青色の作業服を着ている。

 道端の清掃ロボットみたいに寸胴型の「ロボットです!」みたいな感じだったら、もっとぞんざいに扱えるんだけど。こういう風に人型だったら、ちょっと緊張しちゃう。

「ヨリスさん。緊張していますね。緊張する必要はアリマセン。今日はヨリスさんの生存を確認に来ました」

「……ご苦労様です。どうしてまた」

 基本的にはいつも電子決済で済ませていた会計処理がないこと。口座に預金がないこと。役所からの電子メールも開封確認がないこと。それらを統合して、生存確認に来たらしい。街全域に設置された防犯カメラの映像からも、ぼくの姿が確認されていないことも要因とのこと。

「心配しました。お姿が見えないので死んでいたら処理スル必要がありました」

「あいにく、生きておりますよ。だから、きみが持っている、もしものときのため。に用意していた清掃用具の出番はなかったね」

 役所のモノは遠慮とかそういうものはなく、家の中を物色して、ベッドに目をつけた。

「……失礼ですが。ベッドの上にあるものは死体ですか? 掃除しましょうか?」

「アンティークロボットだよ。先日、兄と一緒に運んできてたんだよ。どうせ、それもカメラで見てたんだろう?」

 ロボットはしばらく、瞬きをせずに固まった。瞳の部分が明滅を繰り返しているので、何か処理をしているのだと思う。

 妙な間がある。

「情報を整理しました。ヨリスさんが犯罪に巻き込まれている。もしくは犯罪に加担している可能性を検討していましたが、排除しました。役所の方の犯罪対策チームは解散するように指示を出しました――」

 それ言わなくてよくない。

「――ヨリスさんが特殊性癖としてのケア対象者としての情報も誤りとして修正しておきます。死体愛好家から無機物性愛へと変更したことをお伝えしときます。後日書面でも通知しておきます」

「いや、書類にしなくていいよ。それと、ぼくの性的嗜好についてはぼくもまだ理解していないから。記載も遠慮しといて。異性愛者だとは思うから」

「……お悩みであればドクターを紹介します。適正な性自認は素晴らしい人生へとつながります」

「機会があれば相談するよ。今日はご苦労様。お茶でも飲んでく?」

「いえ、すぐに他の訪問があります。失礼します」


 ぼくたちはぼくたちの安全のために。幸せのために。

 監視されている。

 なにもやましいことはないので、ぼくは困ることはない。


##ぼくはカロリーを取った

 ヨリス邸玄関破壊事案について、行政処分が決定した。

 通知文書を確認すると、事案前後についても間違いなく記載があったし、破壊の経緯についてもなにも間違いはなかったけれど、市民としての危険査定が跳ね上がっていることが憤慨だった。医者へのカウンセリング勧奨通知も同封されている。余計なお世話だってんだ。


 ぼくはいきものなので、ものを食べないといけない。

 かといって、文無しであるのでどうしようもない。

 進退窮まるところで、市から入金があった。基礎所得補償とは別件の入金だった。中身がなんであろうと構わない。

 入金されたお金を元にぼくは腹をいくらか満たした。

 近所でやってた流しの屋台からスープを買ったのだ。

 家で食べた。

 ベッドのふくらみから、あの子が見ていた。おなかでも空くはずがないだろうけど、それは物欲しげな様子にも見えた。



 ぼくはあの子と話したい。



 独り言には飽きた。



 独りで彼女を温めるのが急にさみしくなった。


##引きこもる準備


 シティの電子図書館にレファレンスを依頼して、アンティークロボットに関する電子書籍の閲覧手続きをした。

 閲覧許可がおりる前にぼくは食材の買い出しに向かった。

 いつまでも流しの屋台でスープを買うわけにもいかないからだ。

 大きなバックとプリペイドカードをもって食材市場の門をくぐる。

「あら、ヨリス君。久しぶりに見たわ。生きてたのね!」

 市場管理者のおばちゃんにあいさつをされた。目が大きくて、声が大きなおばちゃん。外をウロチョロする生身の人間は少ない。少ない人間の一人がぼくだ。彼女はいつもぼくを強くハグしてくれる。

 大体みんな買い物はお手伝いロボットにさせるらしい。

 おばちゃんの名前を実は知らない。

 聞いたことあるんだろうけど、覚えてないのだ。

 ぼくは失礼な奴だ。

「生きてました。しばらく引きこもってたんですが、食べるものがないとどうしようもなくて、出てきました」

「じゃあ、冬眠が終えた子熊さんみたいなものかな!」

 おばちゃんは自分の例えが面白かったのかケタケタ笑って、ぼくを解放してくれた。


 多くの食材を買い込んだ。おばちゃんに「また引きこもるのかい!?」と驚かれた。

「ぼくが引きこもったからってどうもならんですよ」

「……たまには顔見せておくれよ。毎日、表情が薄いロボットばかり見てたらさみしいんだよ」

 弱々しい声を背に、ぼくは家路につく。

 バックいっぱいに鶏肉と日持ちする野菜を詰め込んでいる。

 一歩踏み出す。その度にいくらか薄くなった雪に足が沈む。

 機械の町に春が近づいていた。


##本が届く

 ぼくの家の扉を壊した厄介者が本を背負って、家を訪ねてきた。

「トントン」

「ぼくの家の玄関がないことを揶揄してる? 高性能だね?」

 人型の男とも女ともつかない容姿のアンドロイド。市のトレードマークである群青色の作業服を着ている。

 玄関は補修をしていない。シーツをかけるだけで終わらせた。扉がないので、このアンドロイドは口でノックをしたのだ。

「扉の修繕に関する費用は送金したはずです」

「……届いたのは金だったからね。もうおいしいスープと交換したよ」

 ぼくは多少の罪悪感とともに白状した。スープはおいしかったので後悔はない。それは表には出さない。

 アンドロイドは瞳孔を明滅させながら、ぼくを見る。

 なにかまずいことをしただろうか。

「…………了解しました。本件が完了次第、扉の修繕にあたります」

「うん。助かるよ」

 棚から牡丹餅だ。金を払わずに扉の修理ができる。

「本をお持ちしました。ヨリスさんの市民査定の都合で、電子データの閲覧申請が許可されませんでした。よって、原本証明したペーパーブックです。文句があるなら市民査定を上げましょう!」

 途中からマニュアルなんだろうけど、とても投げやりな案内だ。

 両手で抱えるのは無理な量の本だった。

 アンドロイドは背負った本をリビングの机に放った後は扉の修繕にあたった。

 非力なぼくでは本を一つずつ書斎に運ぶのがやっとだ。

 しばらくその作業に従事した。

 本を運び終えたあと、玄関に目をやる。

 そこでは同じような顔つきのアンドロイドが複数人来ていた。

「皆似てるねぇ。妹さんか弟さん? いや、お兄さんかお姉さんかな」

「いえ、同僚です。ヨリス邸玄関扉修繕事案の応援です」

 ぼくは冗談を言ったつもりだったんだけど、通じなかったのか。通じていての所業か。わからない。いつか確認してみよう。

「……みんなご苦労さん。お茶でも淹れるから飲んでってよ」

 社交辞令である。

「いえ、結構です。次の訪問がありますから――」

 予定調和。



 ぼくの家の茶器は今日もきれいなままだ。



「――完了しました。なにかご用向きがあればご連絡ください。失礼します」



 やたらと頑丈に、重厚なつくりとなった扉がぼくと外をシャットアウトした。



##あの子を直した

 ぼくは妙な勘というものがある。

 多分だけど、この子は「壊れていない」と推測していた。

 ずっとベッドの中で温めながら、この子の胸に耳を当てたときに鈍いモーターの音を感じた。

 この子はまだ生きている。生きているけど、生きたくないのか。

 なにがあったのか。

 昔から何かをいじるのは嫌いじゃなかった。

 分解して組み立てる。すでにある形に再度戻す。

 たまに結構大きな部品が戻らないことも、動かなくなることもあったけど、大方は動くようになる。

 ナノレベルの回路の故障はもうお手上げだけど、部品揃えたり、導線の破損を直したりする程度ならできた。

 ぼくが力を尽くすことで物言わぬ同居人が動き出すかも。そう期待した。

 ぼくは資料を揃えて読み込み、足りない部品は代用した。

 出来うる限りの努力はおこなった。

 皮膜が割れているなら下地を厚塗りをして、撥水加工をした。雨に濡れても浸透しないように処理をした。

 抜けた髪の毛は一本一本植毛した。

 口腔内のシャーシ番号を調べたけど、どれにも該当するものはなかった。

「きみは誰なんだろうね……」

 ぼくは何度目かわからない問いかけを放った。

 資料を読み込んでも、目の前の人形についてのものはなかった。

 相当に古い代物なのかもしれない。

 できる限り外に出なくてよいように計らっていたけども、誤算があった。

 役所が修繕した扉については鍵が家族に共用されていたのだ。

 当然ながら、市に抗議をした。

「二親等以内の家族に関しては特段の配慮を行うように設定されています。ヨリスさんのご自宅に入れない。ということの相談があったためお兄さんに鍵を交付しました。もしもヨリスさんが孤独死をしていた場合の早期発見につながります」

 悲しい配慮だ。

 雪が解けて、土が泥になるころ。

 兄が訪ねてきた。兄のブーツは泥だらけだ。ぼくが渡した覚えがない合い鍵を兄は持っている。先日の来訪時に回収を試みたけど失敗した。

「で、これはいつ動くようになるの? 」

 兄が人形を見た際のお決まりの質問だった。

「動くはずなんだけどね。見た目の部分では全部直したつもり。回路も疎通はしているみたい。今は一つ一つ分解しなおしてる」

 数千回余り繰り返した。今では目を瞑ってでも分解組み立てができるだろう。

「動かしてどうすんだよ。セックスの真似でもするのか?」

「それはもういいかな。となりにいるアンドロイドにしょっちゅう欲情してたら困っちゃう。一人暮らしも寂しくなってきたから。孤独を埋めるために動いてもらう。寂しいから産まれるなんてぼくらみたいでぞっとするけどね」

 兄にはいつも通りのミルクと蜂蜜を混ぜたホットミルクを出した。

 だけど、兄はそれを申し訳なさそうに断った。味覚機能も機械化したら少し不具合を感じているとのこと。

「兄ちゃんは会うたびに身体がなくなるね。いつかアイデンティティもなくなるよ」

「大丈夫だよ。もしもの時は生体ボディも保管してるし、生命保全プログラムの対象市民でもあるからなにかあっても大丈夫なんだ」

 ぼくはそこまで説明を求めていないのに、兄はぺらぺらしゃべった。口数も多くなる。

 ぼくはもう一度ホットミルクをすすめたら、兄はそれを一息に飲み干した。

「……やっぱりなんか妙な感じだ。俺の中の記憶と、感じる味に差がある」

「困るなら、保証きかせて生体ボディに変えたら?」

「しばらくはこれで行くよ。査定の問題もあるしさ。変更とかいろいろ言ってたらクレーマーのレッテルがついてレッド市民になっちゃう」

 皆、査定を気にして生きている。

 泥だらけの靴のまま兄は帰っていった。
 
 兄を見送り、しばらくしたあと、あの子は起動した。

 開いていた瞳孔はしぼみ、生体反応と思しきものを示して、ゆっくりと少しずつ動き出す。

 起動して一番に放った言葉。

「助けてください」

 ぼくは助けを求められた。

##セクサロイドのマリア

 彼女が再起動したとき、彼女は服を着ていなかった。服を求められた。クローゼットからぼくの服を適当に渡した。

 起動したばかりということもあって、彼女は四肢の稼働や体幹バランスの自動調整をしていた。服を着せるのを手伝おうとしたらひどく警戒したのであきらめて、眺めていた。

「助けてください」といわれたなら、まあなんとか助けてやろうと思うものだ。

 何から助けてほしいのか。それがわからない。

「どうしてほしいの?」

「あたしが壊れないようにしてください。もうぼこぼこに殴られるのは嫌です。もう捨てられたくないとも思うけど、だけど殴られたくもないんです」

 耳の奥に響く。低い声だった。その小柄な設計には見合わない。ハスキーな声だった。

「……温かい飲み物を用意しよう。何が飲みたい?」

「精子でも小水でもなんでも飲みます。だから、乱暴はしないでください」

「ぼくも一緒に飲むんだからとんでもない。甘いものは好き?」

 現在のアンドロイドは有機物分解機能もある。彼女の体内には基本的な消化器系の機能も有していた。飲み物は飲めるはずだ。

「好きです」

 彼女の返事を聞いたぼくは十八番を作ることにした。

 いつもはレンジでホットミルクを作るのだけど、今日はケトルから丁寧に作った。飽和限界いっぱいまで蜂蜜を垂らしたホットミルクだ。兄にはもったいなくて飲ませられない。

 熱いミルクをお互いのコップに注ぐ。手を温めながらそれを飲む。今まで武骨な作業台だったものが、彼女が動き出しただけで華やかに感じた。

 ぼくは彼女がジャンク市で売られていたこと、気が向いたから修理したことを説明した。ベッドの中でしばらく抱きしめてたとかそういう部分はちょっと恥ずかしいから割愛した。

「……ベッドであたしの胸に顔をうずめていたのはヨリスさんじゃないの?」

「ぼくです。ごめんなさい」

 バレてた。

「いいえ。あたしの方も反応できなかったですから。セーフモードだったけど、ヨリスさんのことはずっと見ていましたよ。あたしのためにファンデを塗って、あたしのために毛髪を植えて、撥水加工をして、あたしがこんな風にきれいになれたのはヨリスさんのおかげです」

「じゃあ、本題教えてよ。君はなにもの?」

「……わかりません。あたしには記憶領域と呼ばれる機能は排除しています。メモリ部分を圧迫して記憶を暫定的に蓄積しています」

「……じゃあ、経年とともにスペックを圧迫するのか。大変じゃん。人間みたいだ。じゃあ、記憶保持の限界ラインは?」

「半年です。それより以前の記憶は容量の都合上消去しています。この甘いホットミルクの記憶も半年後には消去します」

「また、淹れたげるさ」

 ホットミルクを飲みほした彼女のコップに残りを全部注いだ。飲むように促した後、ぼくは考えをまとめた。


 彼女はシンクライアント端末なのだ。記憶領域を持たない。サーバー管理のアンドロイド。


 性的嗜好を理解しているから、セクサロイドを活用したロボット風俗店のアンドロイドかもしれない。女性器も実装していた。内部構造を見る限り、男性型への換装も可能なタイプだった。

 情報を引き出そうにも、彼女の記憶はあやふやだ。何かを心配している。シンクライアント端末なのにネットワーク関連の機能は停止している様子だ。だけど、部品の組み立ての部位においてはネットワーク受信、発信関連の機能は見当たらなかった。

 誰かに改造された。プライベートロボットなのかも。

 想像は様々できるけど、すべては推測に過ぎない。

 ぼくはしばらく彼女と過ごすことになる。

 名前がないと困る。彼女に名前を聞くと彼女は名乗った。

「あたしの名前はマリアです」

 セクサロイドのマリア。

 ずいぶんと皮肉な名前だ。


##マリアとぼくは一緒になった

 マリアは多くを語らなかった。

 どうしてジャンク市に並んでいたのか。

 どうして破損していたのか。

「教えてくれよ」

 ぼくがせがんでも彼女はゆるく微笑むだけだった。

 それを見ると、強く確認することもためらわれた。

 マリアは長い時間を歩くことが苦手だった。家の中を歩くくらいならなんてことなかったけど。長時間の歩行はできなかった。

「あたしが逃げないように。機能制限をかかっています」

「それは解除できるのかな」

「あたしではできません」

 彼女の設計仕様書でもあればどうとでもなる。だけど、一般に流通している書籍には彼女の情報はなにもなかった。シンクライアント端末であることも考えたら、大量生産向きの商品じゃなくて、オーダーメイドのそれだったんだろう。

 マリアが出かけることもできないと困る。



 役所に相談して車いすを支給してもらった。



 例の群青色の制服を着た、表情が薄いお決まりのアンドロイドだ。

「お久しぶりです。ヨリスさんからご相談がありました車いすをお持ちしました――」

 車いすとは言っているけど、それにはタイヤはなくて、反重力を活用したいす型の移動装置だ。

「――シティでは、バリアフリー対応の車いすの使用をお願いしています」

 試しに自分で使ってみる。なかなかに使い勝手がよくてびっくり。自分で歩くより楽なんじゃないか。

「ぼくも使いたいな」

「健常者は歩いてください」

「厳しいね」

「マニュアル等は電子メールでのちほど送付します。ご確認の上ご利用ください。それと今日はもう一つ別件でまいりました。この車いすの利用者についてなんですが」

「うん」

「アンドロイドに車いすの支給というのはレアケースです。該当のアンドロイドと面談します。ヨリスさんは席を外してください」

 突然の話だった。

「……マリア、君と話がしたいってさ。いいかい?」

 食卓にも、作業台にも、書見台にもなる机の前に腰かけてるマリアは小さくうなずいた。

 断ってくれたらいいのに。ぼくも相席したい。

 ぼくの家なのに、ぼくはリビングから追い出された。

 少しでも声が聞こえないか。と思って、寝室とリビングを隔てる扉に耳を押し付けた。

 ぼそぼそと声が聞こえる程度で何も聞こえなかった。

 仕方ないのでベッドでふて寝した。来客があるのに、いつの間にか眠ってしまった。

 なんだかんだ言って、ぼくは役所のアンドロイドを信頼しているのだと思う。



 ベッドが広い。



 目が覚めたときには、制服アンドロイドは帰っていた。

 見送りはマリアがしてくれたらしい。

「ごはん食べますか?」

「……もしかして作ってくれたの」

「まさか、あたしはセクサロイド、そんな機能はありませんよ。聞いてみただけ」

「いいや。もう、寝よう。ぼくのベッドは広いから。温めてくれよ」

 マリアを湯たんぽにして眠った。



 ベッドが狭い。





##悲劇は突然に



 マリアと制服の面談後、車いすのマニュアルが届いた。

 面談の結果について「経過観察」として説明された。役所の方でもマリアの身元を確認を急いでくれていた。

『なにか、不審事があった場合は相談するように願います』

 と、付記されていた。

「なにかってなんだよ」

 そうは思っていても、わからないなりにマリアを気遣った。

 家の中でも、外でもマリアは楽しそうに過ごしていた。制服のアンドロイドとは違って、感情がよく表に出る。

「なんでそんなに表情がはっきりしてるの?」

「そっちの方がそそるらしいのよ。痛いなら痛そうな顔、やってる最中はよがって、うれしそうな顔するの。人形みたいにしてほしいなら、そういう顔もできるよ」

 そういうものかと納得した。

「いや、愛想よくしといてよ。みんなにかわいがられる方がいいだろう?」

 マリアを連れて行くとお得なことが多かった。

 市場管理者のおばちゃんには「かわいい男の子と女の子が並んでる! かわいい!」とはしゃいでいたし、流しのスープのおじちゃんはいつもより多めに盛ってくれた。野菜売りのお兄さんはぼくを睨みつけながら野菜を投げつけてくる。

 それもこれも、マリアのおかげだ。



 なにかをするにつけ、二人でするようになった。



 ぼくが本を読んでいれば、マリアは本をのぞき込んだ。

 マリアが土をいじってれば、ぼくも一緒にいじっていた。

 ベッドは少し狭いけど、二人で使った。

 買い物に行くときは二人一緒だった。



 目を離さないようにしていた。

 なにかの異変を見逃さないようにしていた。

 悲劇を予感してなのかもしれない。



 兄が家にやってきた。

 家に入れるべきではなかった。入れなかったとしても兄は鍵を持っている。この後の事件は止められなかっただろう。

 酒臭い兄は、その酒臭い息をマリアにあてながら、顔を殴りつけながら、泣きながら、マリアの上で腰を振ってた。

 兄がマリアに泣くように指示を出して、腰を振る。

 マリアはそれに応じて、泣きながらよがった。

 ぼくはそれをしばらく見せられた。

 兄はしばらくすると酔いがさめたらしく、謝りながら家を出て行った。



 これがなにかってやつだったらしい。



##行政処分について


 ことが終わった後は、マリアは何もなかったのようにシャワーを浴びて、横たわったぼくを介抱してくれた。

 兄が泣きながら腰を振るのを見てるのは地獄だった。

「ヨリスさんはセックスが嫌い?」

「……嫌いになりそうだ。君の持ち主はぼくの兄貴だったんだね」

「所有者がわかったから、もう秘匿する情報じゃなくなりました。あたしはあなたのお兄さんのセクサロイドです。所有権については宙ぶらりんだけど。あの人があたしを投棄した時点で情報は修正してもよかったのにね。だけど、あたしって誰かのものじゃないといけないの。だけど、あんたにあたしをもらってなんていうのも悪くてね。こんなことになるなら申し訳なかったよ。ごめんね。ごめんね」

 マリアはぼくに謝罪を繰り返した。別に謝るこっちゃない。彼女はアンドロイドだ。多くの条件付けで制約されることもある。

 ぼくの予想をうわまった。本当なら気づくべきだった。

 兄がマリアを見る視線の色を。多くあるジャンクの中、ぼくがマリアを選んだことをどう思っただろう。

 やるべきことをする。

 助けてくれと頼まれたのだから、助けるのもやぶさかではない。




 世界が灰色だった。

 群青色の制服たちが窓口を闊歩していて、ぼくが辱められたわけじゃないのに、なんでかぼくが傷ついていた。

 先日の件について、役所に相談にきていた。

 マリアはその機能を十全に果たしたわけで、なにか問題があるわけでもない。

「アンドロイドのマリアはセクサロイドです。性的暴行被害として受理するようなことはできません。それに持ち主がアンドロイドをどうこうしようがそれはなにも問題がないのです」

「……話は分かった。君とぼくの仲だ。今までお互い世話になったし、世話もかけた。君がおこした不祥事もそれとなく目を瞑った。どうだろうか。便宜を図っちゃくれないか?」

「ヨリスさん。お黙りください。献身的な私の性格を盾に脅す気ですか?」

「まさか、めっそうもない。きみはぼく以外に多くの市民を対応しているし、マリアの持ち主について、わかっていた癖にあえてぼくに教えなかっただろう。なにか、考えがあってなのか、ミスなのかわからん。これらの疑問は置いといて、ぼくとマリアにとっての最善を教えてくれよ」

 いつもの制服アンドロイドは瞳孔を目まぐるしく回転させながら、ぼくの発言を処理していた。

「お考えわかりました……それでは、マリアさんにお話伺っていいですか?」

 ぼくの隣で座っていたマリアは返事を返した。

「どうぞ」

「マリアさんはどうしてみたいですか? 私が拝見したところ、あなたはどこの工房のデータベースにも記載がない、かなり特殊な仕様のアンドロイドです。自発意思があるようです。参考にします」

「殴られないで済むようになりたい。あたしが安心して過ごせるならだれでもよかったです」

「それなら、もっと精神的にも金銭的にも安定した持ち主を探しましょうか?」

「いいえ。誰でもよかったんですけど。多分、ヨリスさんならもっと良い。そう思ってしまいました」

「彼はそんなに良い人ではないかもしれません。まず勤労の精神が一切ありません。市民査定も最悪です。何かを成すこともないでしょう。革新的な人物でもありません。社会に貢献するようなことも皆無でしょう。今は健やかでも、いつか病めることがあるかもしれません。そうしたら、あなたを殴ることも十分にあり得ます。殴られたらどうするんですか?」

「……横っ面張り倒して、蹴り飛ばして家を出てやります」

 制服アンドロイドはマリアの言葉を前に固まっていた。薄い表情が常だった。だけど、今はそれが少し破れて笑みが浮かんだ。

「前の面談でも思いましたけど、マリアさんって面白いモデルですね。頂戴した意見を元に、シティ内部で協議してきます。少々お待ちください」


 しばらくして行政処分が決定した。

『ヨリス邸の玄関扉錠の変更及びマリアの所有権の再登記、当該対象者への接近禁止通知』となった。

「お兄さまについては、専門医の診察の勧奨を行っておきます。強制性はありませんけど、彼の病的な暴力衝動についてカウンセリングで緩和できるかもしれません。お兄さまには私の方から通知を送っておきます」

 行きの道は二人だったけど、今は制服もついて三人で家路についた。

 家に着くなり、制服は早速鍵を付け替えた。

「ご苦労さん。温かい飲み物でも淹れるよ。飲んでってくれ。今日は他の訪問なんてないんだろう」

 最近はマリアがホットミルクを作ってくれる。彼女はなんか妙なスパイスを淹れたりしてる。ぼくだけで飲むのは少しつらいんだ。

「……頂きましょう」

 注いだホットミルク(熱々のそれ)を一息に飲み干した制服は口元についたミルクを袖でぬぐい、一礼して去っていった。
 
 驚いた。飲んでったな。

 見送ったあと、ぼくたちは残ったミルクで指を温めながら飲んだ。

 長い一日だった。


##踏むのも踏まれるのも嫌なんだ


 公園で兄と待ち合わせをした。

 陽差しはやさしい。ぼくの隣にはマリアはいない。家で待たせている。

 冬時期にはジャンク市が開いていたけど、温かくなったら嘘のように人が減った。

 柔らかい芝生とベンチ。

 芝生の上で昼寝している女性。多分だけど、彼女もぼくとおなじく怠け者。

 平日のこんな時間に寝転がっているのだ。親近感を覚える。公園の清掃ロボットに掃除されそうになっている。風呂が嫌いな人なのかもしれない。一定の不潔ラインに引っかかったんだろう。今のぼくはひっかからないと思いたい。

 小綺麗な兄が姿を見せたのはお昼時だった。

「待ったかい?」

「そこそこ待ったよ」

「お前が早く来すぎたんだ。俺は五分前だってのに」

「……ぼくが呼び出しといてなんだけど、平日の今どきに来るなんて兄ちゃんさては無職だね」

「市民査定に警告が出た。警告内容が職場にも通知がきてさ。人形を使って過激なオナニーしてるってバレたからクビになった。ひどい話だ」

「職場が? 自分が? それともぼくが?」

「全部だ。俺は人目を気にして、まっとうに暮らしてみたけど、体のパーツ換装を繰り返し求められた挙句に最終的には査定が悪くなるとクビだ。どうしろってんだ。査定が悪いとパートナーも見つからないし、結婚しないと周りに噂もされる。仕事をしないといけない。だけど、俺たちみたいなナチュラルベイビーは面接で落とされるんだ。生まれからしてマイナスなんだよ。愛を理由に俺たちは産まれたなんて親たちは言うよ。だけど、それで生まれた子供はどうなるってんだ。どん詰まりだ!」

 兄は長広舌を垂れた後、機械化された拳を機械化された膝に打ち付ける。金属製の硬質な音が公園に響く。

 昼寝している女性は見事な無視だ。聞こえていないはずがないだろうに。彼女も徹底的な怠け者。

「だから、そのやるせなさというか、憤りっていうのを人形ではらしてたのか?」

「何か悪いことしたか? 俺は何か悪いことしてたのか? 別に道行く女性を犯したってわけじゃないんだ。人形でアクロバティックにオナニーしただけだ。ものを相手に殴っただけだってのにな。あそこを締めろって言ったら、あいつは締めるんだ。あえげって言ったらあえいでくれる!」

「マリアは胸に顔をうずめても怒らないよね」

「あ、それわかる? あれいいんだよね。お前もうずめたか。慰めてくれと言ったら慰めてくれるんだ。愚痴を聞いてくれと言ったら愚痴を聞いてくれる。俺が何しても許してくれる。そういうものだったんだ。ジャンク市でお前があいつを引き取るのを見たときには妙な運命を感じたね。お酒で最高にハイな気持ちになった中であいつのクビをねじったのを覚えてる。そしたらあいつは動かなくなったんだ。何しても、ナニしてもだ」

「…………何か言った方がいい? しゃべるの気持ちよくなってる?」

「気持ちいいね。今も股間が堅くなるのを感じてる。俺ってやっぱちょっとおかしいんだと思う。お医者に行くべきかな」

「自己診断はできないから。生活に支障があるなら医者に相談してみなよ。いつも勃起させてたら生活も大変だろう。ぼくのことを思い浮かべたら萎むんじゃね?」

「…………驚いた。萎んだよ。ありがとう」

「どういたしまして」

 兄は「何か飲もう」といって飲み物を用意してきた。

 温かい缶コーヒーだ。冷たいのが飲みたい時期だけど、妙なものを持ってきた。

 しばらく何も言わずに、公園を眺めていた。

 やにわに兄が訊く。

「今日はどうして俺を呼んだ?」

「兄ちゃんは何か大変なものを持ってるのかもとか思うとね。話くらい聞いてやらんとなるまい。そう思ったんだ」

「聞いてみてどうだった?」

「結構えげつなくてびっくりした。前から思ってたけど兄ちゃんはまっとうだよ。誰かに認められたい、パートナーが欲しい、まっとうだよ。だけどそのストレスの発散は問題ないさ。問題はもう、マリアは兄ちゃんのものじゃないってことだ。あの子はぼくのものになった。これからはあれだ。その全力オナニーをしたいってんなら、新しいセクサロイドを見繕えよ。今の時代セクサロイドも古いだろう。電子ドラッグっていうの? あれ使ってみたら。ぼくには手が出ないけど、働き者の兄ちゃんならどうとでもなるだろう」

「あれに手を出したら、パートナーとかどうでもよくなりそうな気がして怖い」

「……とにかく、マリアはあきらめてくれ」

「諦めきれなかったらどうする?」

「いろんなものを失くすことになる」

「これ以上何を失くすんだ?」

「…………」

「コーヒーごちそう様。いつでも連絡をくれよ」

「ああ」



 ぼくと兄は簡単な挨拶をして、それぞれ家路についた。兄には兄なりの幸せがあればと思う。



 説教臭いことすんのもばからしい。



 踏むのも踏まれるのも嫌なんだ。





##旅に出る。戦わないために。


 あきらめきれなかった兄は酒が入るとマリアを犯しにやってくる。査定もおちるところまでおちた。

「マリア、君の前の持ち主は君のことが忘れられないようだね」

「性交渉の真似事はあたしの本分ですよ。お兄さんのお相手しましょうか?」

「相手してるのを見てるぼくの気持ちになってみてくれよ」

「悲しい?」

「少しは。だって君はぼくのものなのに」

「おかしいわ。だって、だって、あなたはあたしの胸に顔をうずめるだけじゃない。あなたとセックスなんてしたことないよ」

「……ぼくにもいろいろあるんだよ」

 兄が扉をたたく音を止めたと思ったら何か鈍器で殴りつける音に変わった。酒癖が悪いってレベルじゃないよ。「ヤラセロ!」なんて叫びながら扉を破るなんて何事だ。役所が修繕した際に強化木材で作られてるから破られることはあり得ない。というか、他の壁材のほうが破れそうなものだけど、扉にしか気持ちが向かないのかもしれない。

 しばらくして、異変を察知した警備アンドロイドに兄は引っ張られていった。



「マリア、旅に出よう」

「突然ですね」

「突然……かな。突然かも。だけど、前から考えてたんだ。ぼくはしばらくここにこもって暮らした。気力も十分、体力もある。君みたいなかわいい子も隣にいるし、見せびらかして歩いてやろうと思う。マリアの身体も直してやりたい。何より、ぼくと君がここで暮らすことは兄のためにもならない」

「あたしに執着するからですか? お兄さんは悪い人じゃないんですか?」

「……マリア、この世界に悪い人なんていないんだ。ただ、不満を持つ人がいるだけ。暴力や暴力の応酬に巻き込まれそうなら逃げよう。ぼくはずっと逃げてきたし、これからも逃げるつもりだ。今まではぼくひとりで逃げてたけど。これからは君も一緒に逃げよう。ぼくが嫌になったら逃げてもいいさ」

「わかりました。あたしはあたしの気が済むまであなたに付き合いますよ。長くは歩けません。足手まといになるでしょう」

「ぼくが君の杖になるよ」

「ホットミルクの淹れ方もあやふやです」

「一緒にキッチンに立とう」

「もう少しで半年が経ちます。あなたが淹れてくれたホットミルクの味を忘れたことすら忘れてしまいます」

「もう一度淹れてあげる。上書きしていこう。君が望むなら君の機能制限を解除する。ちょっと時間はかかるだろうけど」

「できれば半年以内にお願いします。あなたのその申し出を忘れないために」



 考えが甘いかもしれない。

 少しばかりガタがきてるけど、頑丈なアンドロイドを相方にぼくとマリアは旅に出た。関係者にはしばらく家を離れることを伝えた。

 少ない知り合いは別れを惜しんでくれた。

 制服アンドロイドは「次の居住地が決まったらご連絡ください」と事務的な通知だけだ。

 町を出たらマリアの車いすは動かなくなった。

「動かなくなりました」

「町を出たからだ。これからはぼくの肩を貸す? それとも背中?」

「あたしってのはお荷物ですから。おんぶしてください」

 舗装された長い長い道をマリアを背負って歩いた。

 心地よい重さだ。いくらでも歩ける気がした。

 ぼくたちはどこかにたどり着くだろう。新しい住処になるかもしれない。

 生きるのに苦労する時代ではない。のたれ死ぬのも難しい。生きろとせっつく世の中だから。

 ちょっとばかり遠回りするだけだ。

 行き先はまだない。

 ぼくたちはずっと迷子だった。
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