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プロローグ
いつもの日常
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世界最大の大陸、コーディーリア大陸。その中の北東に位置する小国、ミザール皇国の皇都テレストに、その店は在った。
落ち着いた、住宅街の一角。上品な佇まいの屋敷が建ち並ぶ中でも、ひときわ落ち着いた外観であり、一見の客が容易には入りにくい雰囲気がある。扉には丁寧な筆跡で店名だけを記した看板がかけられており、外からはここが何を扱っている店か容易に判別つかないところも、客足が多くはない一因だろう。
彼が働く魔法道具専門店<星彩堂>は、そんな店だった。
* * *
は、と息を小さく吐き出す。寒い屋外と異なり、適度に温められた室内では、吐き出した息は凝ることなく溶けてゆく。
室内は広いはずなのだが、棚が所狭しと並べられ、かつ余すところなく様々な商品が雑多に陳列されているため、妙な圧迫感がある。何とはなしにそれらを見やり、少年――セキトはもう一度小さくため息をついた。
広い広い屋敷はしんと静まり返っていて、自分以外の気配が全くない。ひとりを寂しがるような年齢ではないはずなのだが、それでも、この屋敷でひとりというのは、なんとなく身の置き場が定まらない気もする。もぞもぞと所在なさげに椅子の上で小さく身動きして、ぼんやりと店内を見回す。目に痛いほど鮮やかな紅い髪が揺れて、視界の端をよぎる。
セキトがこの<星彩堂>の店主に拾われてから、十日余り。その間、誰かがずっと邸内に居て何かと話しかけてくれていたから、寂しいなどと思う暇はなかったのだ。
……というか、そんな人間をひとり邸内に残して出かけるだなんて、店主も店主だが、他の人間も人間である。身元も確かでない人間に留守番を任せて、「金目の物を盗んで逃げられたら」などと考えもしなかったのだろうか。
豪胆なのか、お人好しなのか、あるいは別の理由があるのか。
(……まぁ、理由なんていいか。僕は僕で頑張るだけだし)
店主には、文字通り「命を救われた」。気まぐれでもなんでも、拾ってもらえなければ、あのまま路地裏でのたれ死んでいただけだ。ならば、せめて「助けて良かった」と思ってもらえる程度には最低限役に立ちたい、と思う。ついでに世知辛いことを言えば、どうせ物を盗んでここから逃げたところで、再び路頭に迷って、最初と違う路地で屍をさらすだけだ。
(帰ってきたら、何からやろうかな)
セキトがやりたいことは、本当はかなり多い。今はとにもかくにも商品の数が多すぎて、棚卸もままならない状態だ。手つかずで放り出されている帳簿の整理だって、できる事なら片付けてしまいたい。もともとが、店主の趣味の延長で始めたというだけあって、真っ当な「商店」であれば商店組合から苦情が即日飛んでくるレベルでいい加減なのだ。自分だって、亡き父の隊商で商売の基本を教えてもらった程度の知識しかないのだが、それよりもひどい。「『棚卸』って何ですか?」と真顔で聞かれたときには、正直眩暈すら覚えた。
もっとも、セキト一人ではどうしようもない。店内に並べられている商品は魔法道具――すなわち、何らかの魔力を秘めたもの、あるいは魔法の触媒として利用されるものがほとんどなのだ。一瞥しただけで用途がわかるものはほとんど無く、商品名すらわからない状態では、棚卸どころではない。迂闊に触れれば何が起こるかわからない物もあるかもしれないし、逐一店主に確認を取りつつ進めなければならないだろう。
ということで、やりたいことは多いのに、できることがない。
(まだかな……)
はぁ、ともう一度ため息をついたとき、屋敷の玄関から、かろかろんと軽やかな鈴の音が聞こえた。弾かれたように椅子から立ち上がったセキトは、狭い陳列棚の間をすり抜け、玄関へと駆け足で向かう。
もとは貴族の邸宅だったというだけあって、広々とした玄関ホールには、小振りの袋を抱きかかえた老婦人が居た。万が一客が来たらどうしよう、と内心思っていたが、幸い待ち人たちが帰ってきたらしい。セキトの顔にほっとした表情が浮かぶ。
「ユリシアさん、おかえりなさい」
「ただいま戻りましたセキトさん。はぁ、久々にお嬢様たちと一緒に買い物に行きましたが、もうこりごりでございますよ。次回からはぜひ、セキトさんにお願いいたします」
「あはは」
心底辟易した口調の老婦人――ユリシアに、セキトは思わず笑い声をあげた。
ユリシアは年齢を感じさせない矍鑠とした人で、なんというかてきぱきとした人である。なんでも、店主が幼いころからメイドとして仕えていたとかいう話で、料理や洗濯など邸内での仕事に関しては、惚れ惚れするほどの熟練の達人だ。手際よく片付けていく性格の人だから、買い物に関しても、さくさくきっちり、必要なものを必要なだけ買って早く帰りたいらしい。そんな彼女にとって、ふらふらと興味の赴くままあちこちの店を冷やかす主たちを叱りつけ、宥めすかしながらの買い物は、さぞや面倒だったに違いない。
ねぎらいの意味も込めて、ユリシアの荷物を受け取る。袋の中には、菓子や茶葉がたっぷり詰まっていた。この様子では、本当に振り回されただけらしい。
「セキトさん、片づけを手伝って頂けますか」
「あ、はい」
「あーちょっと待って、菓子の幾つかはすぐに出してほしいなー。ねーねー、ユリシアさんお願いー」
セキトの返事にかぶさるようにして、別の人間が暢気な要求を出した。慌てて声のしたほうを振り向くと、そこには若い女性がひとり、立っていた。すらりとした長身に、すっきりとした男装姿が良く似合っている。腰には長剣を吊るしているが、慣れているのだろう、立ち姿に全く違和感がない。緩く編んでいる髪の色は、セキトの髪によく似た、けれど少しだけ深い紅……上質の葡萄酒を思い起こさせる色だ。
名前をシアンディー・ユーマ。店主の幼馴染で友人で遠い親戚とかなんとか。本当か照れ隠しか、「髪の色が似ているから、セキトをシアンディーの親戚だと思って拾った」と店主が話してくれたので、セキトにしてみれば恩人2号なのだが……正直なところ、よくわからない人だ。
そして。
「セキトくんの好きそうな、甘い香りのお茶も買ってきたから、楽しみにしてくださいね」
シアンディーの背後からもう一人、若い女性が現れた。
さらりと揺れる髪の色は、清水を思わせる、わずかに青みがかった銀。ゆったりと笑みを浮かべて細められた双眸は、深い深い森の緑。穢れのない新雪の肌に、顔のパーツが上品に配されている。絵画から抜け出してきたと言われれば信じてしまいそうな、誰もが思い描く「深窓の美姫」そのものだ。
工学魔法師の資格を持つ、<星彩堂>店主。ユリシアが仕える、屋敷の主。セキトの救い主。……リフィーリア・フォーセン、その人である。
「おっ、おかえりなさいませ、リフィーリア様!」
「はい、ただいまです、セキトくん」
緊張のあまりぴしりと背筋を伸ばし、声を上ずらせたセキトに、リフィーリアがくすくすと笑みを零す。
「ユリシアさん、リフィ、お菓子は何から食べたいー? わたしはあの、行列できてたパン屋のクッキーからがいいなー。胡桃が入ってるやつ」
「そうね。ユリシア、お茶は今日買った宝香堂のものにしましょう。いいかしら?」
「かしこまりました。準備して参りますので、お嬢様とシアンディーさんは先に部屋の方へお願いいたします。セキトさん、お手伝い頂けますか」
「はいっ!」
広い邸内が一気ににぎやかになる。今までの静まり返った屋敷が嘘のように、生き生きとした空気が邸内に満ちていくのを感じて、セキトはへにゃりと笑った。
これが、セキトの新しい日常の形。
落ち着いた、住宅街の一角。上品な佇まいの屋敷が建ち並ぶ中でも、ひときわ落ち着いた外観であり、一見の客が容易には入りにくい雰囲気がある。扉には丁寧な筆跡で店名だけを記した看板がかけられており、外からはここが何を扱っている店か容易に判別つかないところも、客足が多くはない一因だろう。
彼が働く魔法道具専門店<星彩堂>は、そんな店だった。
* * *
は、と息を小さく吐き出す。寒い屋外と異なり、適度に温められた室内では、吐き出した息は凝ることなく溶けてゆく。
室内は広いはずなのだが、棚が所狭しと並べられ、かつ余すところなく様々な商品が雑多に陳列されているため、妙な圧迫感がある。何とはなしにそれらを見やり、少年――セキトはもう一度小さくため息をついた。
広い広い屋敷はしんと静まり返っていて、自分以外の気配が全くない。ひとりを寂しがるような年齢ではないはずなのだが、それでも、この屋敷でひとりというのは、なんとなく身の置き場が定まらない気もする。もぞもぞと所在なさげに椅子の上で小さく身動きして、ぼんやりと店内を見回す。目に痛いほど鮮やかな紅い髪が揺れて、視界の端をよぎる。
セキトがこの<星彩堂>の店主に拾われてから、十日余り。その間、誰かがずっと邸内に居て何かと話しかけてくれていたから、寂しいなどと思う暇はなかったのだ。
……というか、そんな人間をひとり邸内に残して出かけるだなんて、店主も店主だが、他の人間も人間である。身元も確かでない人間に留守番を任せて、「金目の物を盗んで逃げられたら」などと考えもしなかったのだろうか。
豪胆なのか、お人好しなのか、あるいは別の理由があるのか。
(……まぁ、理由なんていいか。僕は僕で頑張るだけだし)
店主には、文字通り「命を救われた」。気まぐれでもなんでも、拾ってもらえなければ、あのまま路地裏でのたれ死んでいただけだ。ならば、せめて「助けて良かった」と思ってもらえる程度には最低限役に立ちたい、と思う。ついでに世知辛いことを言えば、どうせ物を盗んでここから逃げたところで、再び路頭に迷って、最初と違う路地で屍をさらすだけだ。
(帰ってきたら、何からやろうかな)
セキトがやりたいことは、本当はかなり多い。今はとにもかくにも商品の数が多すぎて、棚卸もままならない状態だ。手つかずで放り出されている帳簿の整理だって、できる事なら片付けてしまいたい。もともとが、店主の趣味の延長で始めたというだけあって、真っ当な「商店」であれば商店組合から苦情が即日飛んでくるレベルでいい加減なのだ。自分だって、亡き父の隊商で商売の基本を教えてもらった程度の知識しかないのだが、それよりもひどい。「『棚卸』って何ですか?」と真顔で聞かれたときには、正直眩暈すら覚えた。
もっとも、セキト一人ではどうしようもない。店内に並べられている商品は魔法道具――すなわち、何らかの魔力を秘めたもの、あるいは魔法の触媒として利用されるものがほとんどなのだ。一瞥しただけで用途がわかるものはほとんど無く、商品名すらわからない状態では、棚卸どころではない。迂闊に触れれば何が起こるかわからない物もあるかもしれないし、逐一店主に確認を取りつつ進めなければならないだろう。
ということで、やりたいことは多いのに、できることがない。
(まだかな……)
はぁ、ともう一度ため息をついたとき、屋敷の玄関から、かろかろんと軽やかな鈴の音が聞こえた。弾かれたように椅子から立ち上がったセキトは、狭い陳列棚の間をすり抜け、玄関へと駆け足で向かう。
もとは貴族の邸宅だったというだけあって、広々とした玄関ホールには、小振りの袋を抱きかかえた老婦人が居た。万が一客が来たらどうしよう、と内心思っていたが、幸い待ち人たちが帰ってきたらしい。セキトの顔にほっとした表情が浮かぶ。
「ユリシアさん、おかえりなさい」
「ただいま戻りましたセキトさん。はぁ、久々にお嬢様たちと一緒に買い物に行きましたが、もうこりごりでございますよ。次回からはぜひ、セキトさんにお願いいたします」
「あはは」
心底辟易した口調の老婦人――ユリシアに、セキトは思わず笑い声をあげた。
ユリシアは年齢を感じさせない矍鑠とした人で、なんというかてきぱきとした人である。なんでも、店主が幼いころからメイドとして仕えていたとかいう話で、料理や洗濯など邸内での仕事に関しては、惚れ惚れするほどの熟練の達人だ。手際よく片付けていく性格の人だから、買い物に関しても、さくさくきっちり、必要なものを必要なだけ買って早く帰りたいらしい。そんな彼女にとって、ふらふらと興味の赴くままあちこちの店を冷やかす主たちを叱りつけ、宥めすかしながらの買い物は、さぞや面倒だったに違いない。
ねぎらいの意味も込めて、ユリシアの荷物を受け取る。袋の中には、菓子や茶葉がたっぷり詰まっていた。この様子では、本当に振り回されただけらしい。
「セキトさん、片づけを手伝って頂けますか」
「あ、はい」
「あーちょっと待って、菓子の幾つかはすぐに出してほしいなー。ねーねー、ユリシアさんお願いー」
セキトの返事にかぶさるようにして、別の人間が暢気な要求を出した。慌てて声のしたほうを振り向くと、そこには若い女性がひとり、立っていた。すらりとした長身に、すっきりとした男装姿が良く似合っている。腰には長剣を吊るしているが、慣れているのだろう、立ち姿に全く違和感がない。緩く編んでいる髪の色は、セキトの髪によく似た、けれど少しだけ深い紅……上質の葡萄酒を思い起こさせる色だ。
名前をシアンディー・ユーマ。店主の幼馴染で友人で遠い親戚とかなんとか。本当か照れ隠しか、「髪の色が似ているから、セキトをシアンディーの親戚だと思って拾った」と店主が話してくれたので、セキトにしてみれば恩人2号なのだが……正直なところ、よくわからない人だ。
そして。
「セキトくんの好きそうな、甘い香りのお茶も買ってきたから、楽しみにしてくださいね」
シアンディーの背後からもう一人、若い女性が現れた。
さらりと揺れる髪の色は、清水を思わせる、わずかに青みがかった銀。ゆったりと笑みを浮かべて細められた双眸は、深い深い森の緑。穢れのない新雪の肌に、顔のパーツが上品に配されている。絵画から抜け出してきたと言われれば信じてしまいそうな、誰もが思い描く「深窓の美姫」そのものだ。
工学魔法師の資格を持つ、<星彩堂>店主。ユリシアが仕える、屋敷の主。セキトの救い主。……リフィーリア・フォーセン、その人である。
「おっ、おかえりなさいませ、リフィーリア様!」
「はい、ただいまです、セキトくん」
緊張のあまりぴしりと背筋を伸ばし、声を上ずらせたセキトに、リフィーリアがくすくすと笑みを零す。
「ユリシアさん、リフィ、お菓子は何から食べたいー? わたしはあの、行列できてたパン屋のクッキーからがいいなー。胡桃が入ってるやつ」
「そうね。ユリシア、お茶は今日買った宝香堂のものにしましょう。いいかしら?」
「かしこまりました。準備して参りますので、お嬢様とシアンディーさんは先に部屋の方へお願いいたします。セキトさん、お手伝い頂けますか」
「はいっ!」
広い邸内が一気ににぎやかになる。今までの静まり返った屋敷が嘘のように、生き生きとした空気が邸内に満ちていくのを感じて、セキトはへにゃりと笑った。
これが、セキトの新しい日常の形。
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