上 下
7 / 79

1-(6)

しおりを挟む
 エルランドは二十代後半と聞いているのだが、どことなく行動が抜けているところがある。むしろ、飛び級で学校を卒業し若くして教授になっているのだから、もう少し威厳というものがあってもいいはずだと思っている。だが、それすら感じない。ファンヌから見たら、ちょっと手のかかる師というのがエルランドなのだ。
「まあ、とにかくそこに座れ」
 エルランドが研究用に使っている大きな机の前に置かれているソファとテーブル。だがこのテーブルの上に、ゴミが散乱していることに先ほどからファンヌは気づいていた。
「先生……。先に、これ。片付けてもいいですか?」
「あ、ああ……。すまない。どうしても研究を優先させてしまうと、それ以外のことはどうでもよくなってしまうからな」
 エルランドは昔からそのような傾向があった。ファンヌも似たようなところはあるが、ゴミだけはきちんと片付けていた。だから彼女がこの研究室にいたときは、このテーブルがゴミの山で埋もれることはなかったのだが。
「どうでもよくなってしまうの範疇はんちゅうを超えています。先生、ご飯はきちんと食べているんですか? どう見てもこれ……。お菓子のゴミじゃないですかっ」
 ファンヌが学校を去って約半年。この男が生きていたことが奇跡なのかもしれない。
「ご飯……。いつ、食べただろうか。お菓子は食べている」
「私、売店で何か買ってきますから。先生はそのゴミをこっちのゴミ袋に入れておいてください」
 ファンヌはバタンと乱暴に研究室の扉を閉めると、売店へと向かって走り出した。売店はこの建物の中央、つまり時計台の下に位置する。
(まさか、先生があんな状態になっているなんて……)
 突然売店に現れたファンヌに気付いた学生たちもいたが、彼女が鬼気迫る表情をしながら食べ物を購入していたため、誰も声をかけようとはしなかった。
 といっても、昼過ぎの中途半端な時間。売れ残っているのはパンがほんの少し。お菓子よりはマシだろうと思い、それを手にした。それから幾本かの野菜汁も。野菜汁は、野菜をぎゅっと凝縮して汁状にして飲み物にしたもの。時間を何よりも欲しがる研究者には重宝されている飲み物である。
(まあ、先生のことだから。自分で調薬した薬で生き延びそうだけど)
 だが、薬草から摂取できるものと食べ物から摂取できるものは異なる。購入した食べ物を両手で抱えながら、エルランドの研究室へと戻った。
「先生。買ってきましたよ」
 なんとかテーブルの上の大きなゴミはなくなっていた。ファンヌは研究室をざっと見回して、食べ物を置けるような場所を探す。なぜか本棚が空いていたので、仕方なくそこの一つに食べ物を置いた。
 それから急いでゴミを片付けテーブルを拭き上げ、人が使える状態にする。ソファには少しエルランドの着替えが散乱しているようだが、エルランド自身が座る分には問題はないだろう。
「先生、お茶、淹れますね」
「ああ。頼む。そこにある茶葉と薬草は適当に使っていいから」
 特にこの東側の研究室には、各部屋に水道が備え付けられている。というのも、彼らの『研究』に『水』は欠かせないものだからだ。
 ファンヌはエルランドの表情を見て、彼が疲れていることだけはわかった。とにかく、口当たりがよく、疲労を回復させるお茶を『調茶』しようと、エルランドが『研究』のために採取してある『薬草』と『茶葉』に手を伸ばす。彼の研究室は、入口から一番遠いところに彼の研究用の机が置いてある。その両脇に、本棚と薬草棚がある。不思議なことに、以前はびっちりと本が詰め込んであった本棚には空きが多い。そして今も、薬草棚には必要最小限の薬草しか置いてない。そこから必要な薬草を手にし、茶葉と合わせて『調茶』する。
「先生、お茶が入りました。それから、先ほど売店で買ってきたパンと野菜汁です」
「やはり。ファンヌが淹れてくれたお茶は落ち着くな」
 銀ぶち眼鏡の下の細い目がさらに細くなった。
「で、先生。この有様はなんなんですか」
 研究室に戻らせて欲しいとお願いにきたはずなのに、彼の向かい側のソファに座ったファンヌは、なぜかエルランドを問い詰めていた。
「なんで、こんなに書棚が空いているんですか? 薬草も少ないし。ゴミが多いのは、いつものことですから仕方ないですけど……」
「ああ。辞めるんだ。あと十日で」
「えっ、あ……、あつっ……」
 お茶を飲もうとカップを手にしていたのに、急にエルランドからそのようなことを告げられたファンヌは、カップをつい傾けてお茶を零してしまった。
「大丈夫か」
 慌てて手元にあった布地ぬのじを手にしたエルランドは、ファンヌの方に腕を伸ばして彼女の濡れている手を拭いた。
「先生。私、自分でできますから」
 エルランドから布地を奪ったファンヌだが、どうやらこれが布巾ふきんではないことに気が付いた。
「先生……。これ布巾じゃないですけど、なんですか? 使っていいものでした?」
「んあ? ああ、すまない。オレの下着だ。未使用だから心配するな」
「えぇと。どこからどう何を言ったいいのかがわからないのですが。とりあえず、洗ってお返しします」
 この下着が上のものか下のものか、今、広げて確認するのはやめようと思っていた。
「あ、ああ。それでファンヌ。オレの聞き間違いでなかったら、君は、王太子殿下の婚約者を……」
「あ、そうです。辞めたんです。ですから、また先生の元で研究をと思ったのですが。先生が学校をお辞めになるのであれば、それもできませんよね……」
 ファンヌは完全に退路を断たれたような気分だった。せっかく、クラウスとの婚約が解消され、再び『研究』に没頭できると思っていたのに、その『研究』先が無くなってしまうのだ。
しおりを挟む
感想 25

あなたにおすすめの小説

【完結】婚約者は自称サバサバ系の幼馴染に随分とご執心らしい

冬月光輝
恋愛
「ジーナとはそんな関係じゃないから、昔から男友達と同じ感覚で付き合ってるんだ」 婚約者で侯爵家の嫡男であるニッグには幼馴染のジーナがいる。 ジーナとニッグは私の前でも仲睦まじく、肩を組んだり、お互いにボディタッチをしたり、していたので私はそれに苦言を呈していた。 しかし、ニッグは彼女とは仲は良いがあくまでも友人で同性の友人と同じ感覚だと譲らない。 「あはは、私とニッグ? ないない、それはないわよ。私もこんな性格だから女として見られてなくて」 ジーナもジーナでニッグとの関係を否定しており、全ては私の邪推だと笑われてしまった。 しかし、ある日のこと見てしまう。 二人がキスをしているところを。 そのとき、私の中で何かが壊れた……。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

妹と旦那様に子供ができたので、離縁して隣国に嫁ぎます

冬月光輝
恋愛
私がベルモンド公爵家に嫁いで3年の間、夫婦に子供は出来ませんでした。 そんな中、夫のファルマンは裏切り行為を働きます。 しかも相手は妹のレナ。 最初は夫を叱っていた義両親でしたが、レナに子供が出来たと知ると私を責めだしました。 夫も婚約中から私からの愛は感じていないと口にしており、あの頃に婚約破棄していればと謝罪すらしません。 最後には、二人と子供の幸せを害する権利はないと言われて離縁させられてしまいます。 それからまもなくして、隣国の王子であるレオン殿下が我が家に現れました。 「約束どおり、私の妻になってもらうぞ」 確かにそんな約束をした覚えがあるような気がしますが、殿下はまだ5歳だったような……。 言われるがままに、隣国へ向かった私。 その頃になって、子供が出来ない理由は元旦那にあることが発覚して――。 ベルモンド公爵家ではひと悶着起こりそうらしいのですが、もう私には関係ありません。 ※ざまぁパートは第16話〜です

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢

岡暁舟
恋愛
妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢マリアは、それでも婚約者を憎むことはなかった。なぜか? 「すまない、マリア。ソフィアを正式な妻として迎え入れることにしたんだ」 「どうぞどうぞ。私は何も気にしませんから……」 マリアは妹のソフィアを祝福した。だが当然、不気味な未来の陰が少しずつ歩み寄っていた。

【完結】「心に決めた人がいる」と旦那様は言った

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
「俺にはずっと心に決めた人がいる。俺が貴方を愛することはない。貴女はその人を迎え入れることさえ許してくれればそれで良いのです。」 そう言われて愛のない結婚をしたスーザン。 彼女にはかつて愛した人との思い出があった・・・ 産業革命後のイギリスをモデルにした架空の国が舞台です。貴族制度など独自の設定があります。 ---- 初めて書いた小説で初めての投稿で沢山の方に読んでいただき驚いています。 終わり方が納得できない!という方が多かったのでエピローグを追加します。 お読みいただきありがとうございます。

全てを捨てて、わたしらしく生きていきます。

彩華(あやはな)
恋愛
3年前にリゼッタお姉様が風邪で死んだ後、お姉様の婚約者であるバルト様と結婚したわたし、サリーナ。バルト様はお姉様の事を愛していたため、わたしに愛情を向けることはなかった。じっと耐えた3年間。でも、人との出会いはわたしを変えていく。自由になるために全てを捨てる覚悟を決め、わたしはわたしらしく生きる事を決意する。

不遇な王妃は国王の愛を望まない

ゆきむらさり
恋愛
稚拙ながらも投稿初日(11/21)から📝HOTランキングに入れて頂き、本当にありがとうございます🤗 今回初めてHOTランキングの5位(11/23)を頂き感無量です🥲 そうは言いつつも間違ってランキング入りしてしまった感が否めないのも確かです💦 それでも目に留めてくれた読者様には感謝致します✨ 〔あらすじ〕📝ある時、クラウン王国の国王カルロスの元に、自ら命を絶った王妃アリーヤの訃報が届く。王妃アリーヤを冷遇しておきながら嘆く国王カルロスに皆は不思議がる。なにせ国王カルロスは幼馴染の側妃ベリンダを寵愛し、政略結婚の為に他国アメジスト王国から輿入れした不遇の王女アリーヤには見向きもしない。はたから見れば哀れな王妃アリーヤだが、実は他に愛する人がいる王妃アリーヤにもその方が都合が良いとも。彼女が真に望むのは愛する人と共に居られる些細な幸せ。ある時、自国に囚われの身である愛する人の訃報を受け取る王妃アリーヤは絶望に駆られるも……。主人公の舞台は途中から変わります。 ※設定などは独自の世界観で、あくまでもご都合主義。断罪あり。ハピエン🩷

処理中です...