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8、届かない距離
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椎名がいなくなって一週間がたった。
有村のイベント企画も拍子抜けするほどあっさり通り、準備も着々と進んでいた。
CDの制作は以前から進められていた為、一ヶ月後にはイベントの予定だ。
「柴咲、会議の資料はできているか」
「はい。第二会議室に準備してあります」
「よし。時間だ。皆、会議室へ集まってくれ」
三浦がイベントの各担当者へと声をかけた。
会議の資料には、前回のイベントの際に集めたアンケートを元に、様々な角度から分析したデータがまとめられていた。
「このデータをまとめたのは誰だ」
「私です」
唯が手を上げると、三浦が驚いた顔でこちらを見ていた。
「なにか不備でもありましたでしょうか」
おずおずと尋ねると、「いや」と小さく首を振り頷いた。
会議の中盤では、松谷がリサイタルの演奏を映し出した。
あの時の感動や、椎名と一緒にいたあの瞬間が瞬時に甦り胸が震えるのと同時に、隣にいない空間を認識させられ寂しさの波が押し寄せてきそうになった。
映像が終わり、松谷が説明を始める。
「ええ当日は『愛の夢』を通して、イベントの様子を編集し、プロジェクターにて映し出す予定です。曲は、あと二、三曲用意してもよいと思っています。いかがでしょうか」
皆が異議なしと受け取れるように頷き合い、特に意見も出ないと思われたその時、三浦が声を発した。
「ほぼ、この線でいこうかと思うのだが、前回のイベントに来て、その素晴らしさにCDの発売が決まったと聞いている。そのイベントに足を運んだ方は、今回のPRイベントにもきっと足を運んで下さるだろう。前回のイベントの感動を呼び起こせるような何かが、このプロジェクター以外でもう一つほしいのだが。何かないだろうか」
その言葉を聞いた唯が静かに手を上げた。
「花は、いかがでしょうか」
「ああ、前回のイベントでも使っていたな」
「はい。有村さんの音楽に生花の香りがプラスされれば、あの日の感動が胸に呼び起こされるでしょう」
「しかし、予算的には家元を呼ぶことは無理だ」
三浦の言葉に、皆が何か他の案がないかと意見を出し合い、唯も意見を述べた。
「では、花をアレンジするのではなく、前回と同じ花を用意して、CDを買って下さった方々に一本ずつお渡しするのは、いかがでしょうか。それなら、アレンジする必要もなく、生花の香りが漂う中でイベントを行うことができます」
「そうか、有村さんにサインと握手をしてもらう際に花を渡してもらおう」
唯の意見に松谷が後押しをする。
「予算的にどうなるか検討して、いけそうならその線で行こう。他に意見はないか」
三浦が問いかけるが、反対する者は一人もいなかった。
イベント前日。携帯が鳴った。
「弓弦さん」
「いよいよ明日だな。唯の企画、有村さんも喜んでくれるといいな」
「はい。弓弦さんの声を聞いたらパワーが出てきちゃいました。明日、頑張ります。本社の方どうですか?」
「俺?順調だよ」
一瞬、途切れた間が気になる。
「何かありました?」
椎名は、フッと笑みを含んだ吐息を漏らす。
「何かあったよ」
「弓弦さん、なんでも言って下さい」
「なんでも?」
「はい。なんでもです」
そう意気込んで返事をする唯に、
「唯が足りない」
と言って、小さく笑った。
「あの、私も同じです」
そんな椎名に、はにかむように答えた。
「という訳で、イベントの次の日、そっちに行くよ」
「ほんとですか?」
「ああ。唯はイベントの後、休み取ってるんだろ?」
「はい。弓弦さんも合わせて、お休みを取ってくれたんですか?」
「ああ」
「嬉しいです」
「明日のイベント、頑張りなさい」
「はい!全力で頑張ります!」
椎名との電話を切った後、無駄に漲るパワーを抑えつつ、明日の為にと早めにベッドへと入るのだった。
当日、早めに会場入りした唯は有村の到着を待ちながら、控え室のセッティングを行っていた。
「柴咲さん!」
控え室のドアが開くと同時に有村が唯に抱きついた。
「あ、有村さん」
「挨拶、挨拶。でも、こんなところ椎名さんに見られたら怒られるかな」
と、笑った。
「有村さん、本日はよろしくお願いします」
そんな相変わらずな有村に唯も笑いながら、ぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、頼むね。柴咲さんに任せておけば、大丈夫だと思うけど。頼りにしてるよ」
「ありがとうございます。あ、私もCDを購入させて頂きますね」
「なんだ、言ってくれればプレゼントしたのに」
「とんでもないです。ちゃんと購入させて下さい」
「じゃあ、これ先にあげるよ」
そう言って、CDを取り出すとサラサラとサインをしてくれた。
「わぁ。ありがとうございます」
「代金は、マネージャーにでも渡しといてくれたらいいから」
「はい。先に頂けるなんて本当に嬉しいです」
唯はCDをバックにしまうと、有村にコーヒーを用意しながら、今日のスケジュールを説明していく。
「CDを買ってくれた人に、サインと握手と花だね?」
「はい。バッチリです。では、後程お呼び致しますので、しばらくお待ち下さいね」
「はぁい」
明るい返事に二人で笑顔を交わし、唯は控え室を後にした。
会場に戻ると慌ただしく準備を進めている中へ入り、何度も往復しながら花を運んだ。
むせかえるような花の香りと、プロジェクターから流れるピアノのメロディーが瞬時にあの日の胸の高鳴りを蘇らせ、再び味わってもらうことができるのだと思うと、自然に心が弾む。
外の入口には何時間も前から、たくさんの人が並んでいた。
唯は受付に立つと、CDの販売に備えた。
入口が開けられたとたん、押し寄せる人々に次々にCDを売っていく。
プロジェクターの前で、立ち止まりうっとりとした表情で有村のピアノに聴き入る人、握手をしてもらい涙ぐむ人、さまざまな人がこのイベントに足を運んでくれた。
それを見ているだけで唯の胸はいっぱいになるのだった。
CDも完売し、後は有村の前に並ぶ人が花をもらい終わるとイベントも終了のはずだった。
完売の札を立てたとたん、一人の女性客がものすごい勢いで飛び込んできた。
「はぁはぁ。CDを下さい」
唯は驚きつつも、完売した旨を案内し丁寧に頭を下げた。
すると、一気に怒りに満ち溢れた顔で、女性客が怒鳴りだした。
「あたしはね、何時間もかけてここに来てるの!14時までって、これに書いてあるじゃない!まだ、30分もあるじゃない!」
「お客様、大変申し訳ございません。こちらに完売次第、終了させて頂きますと、ご案内させて頂いております」
周囲からヒソヒソと好奇の目に晒され、唯に恥をかかされたと思った女性客は、顔を真っ赤にして次第にヒートアップしていった。
「こんな小さな字じゃ、わからないわよ!あんたじゃ話にならないわ!責任者を呼んでちょうだい」
会場が騒然とする中、三浦が飛んできた。
「お客様、こちらではなんですから、あちらでお話しを伺います」
やわらかな笑顔と落ち着いた物腰の三浦に、女性客も少し落ち着きを取り戻し、素直に応じてくれた。
唯は震える心を奮い立たせて、精いっぱいの笑顔を浮かべ
「お騒がせ致しまして申し訳ありませんでした。さ、お次の方、どうぞ」
と、有村の前へと案内をした。
有村も、唯の指先が震えているのを見て取ると、何事もなかったかのように
「いつも応援してくれて、ありがとう」
と、ファンの方に両手で握手をしてくれた。
そして、大丈夫と言うようにニッコリ笑って頷いたのだった。
やがて、最後の一人が花を受け取って帰ると、唯は有村の元へ駆け寄り深々と頭を下げた。
「もう少しで、イベントを台無しにしてしまうところでした。大変申し訳ありませんでした。もっと配慮のあるお断りをすればよかったのに、あんな杓子定規な断り方をして、お客様を怒らせてしまいました」
「でも、大事に至らなかったんだから気にしないで」
有村は、そう言ってくれたものの、気持ちは大きく沈み込んでいた。
そこへ、松谷が真っ青になって走ってきた。
「柴咲、ちょっと」
そう言って、唯を連れ出した。
「さっきの女性客が、柴咲に謝らせろって、それからサイン入りのCDを持ってこないと帰らないって言ってるんだ」
唯は、唇を噛みしめると、
「わかりました」
と、スタッフの控え室へと歩いて行った。
唯は、自分のバッグから有村から譲ってもらったサイン入りのCDを取り出した。
CDを見つめていると、不意に携帯電話が鳴った。
「もしもし、唯?イベント終わったか?」
椎名の声を聞いて、一瞬すがりつきそうになる気持ちを抑え、唾を飲み込んだ。
「はい。もうすぐ片付きます」
自分でも声が震えているのがわかる。
「どうした?なんか元気がないみたいだけど」
「そんなことないですよ。無事に終わって、ホッとしていたところだったんです」
「そうか、お疲れ。明日、大丈夫か?」
「はい。早起きして待っていますね」
その時、後ろから柳瀬の声が聞こえた。
『弓弦!早くしないと遅れるわよ』
「ああ、すぐに行く。今から打ち合わせなんだ。唯、ほんと何かあったんなら」
後ろから聞こえた柳瀬の声に、隣にいない距離を改めて実感した。
心配をかけちゃいけないと、わざと大きな声で被せるように話し出した。
「あ、すみません、今から後片付けがあるので、後でお電話して大丈夫ですか?」
「ああ。イベント、無事に終了したのか気になってな。また終わったら連絡をくれ」
「わかりました。お忙しいところ、ありがとうございました。じゃあ、あとで」
通話終了ボタンを押したとたん、込み上げるものをグッと飲み込む。
こんな時、椎名がいてくれたらと泣き出しそうになる気持ちを振り切って顔を上げた。
「それ、さっきの女性客にあげるの?」
振り返ると、有村が控え室のドアにもたれて立っていた。
「すいません。せっかく譲って下さったのに。私のミスですから」
「それ、柴咲さんに心をこめてサインしたんだよ。そんな俺に対して失礼じゃない?」
ハッとした。
いくら、追い詰められたからって、有村の気持ちも踏みにじるところだった。
女性客の気持ち、有村の気持ち、どちらも踏みにじった自分が恥ずかしくて情けなくて涙がこぼれた。
「自己犠牲と言えば聞こえはいいけど、柴咲さんらしくないよ」
唯は思い出していた。
椎名が支店に来た時に言われた言葉を。
『偽善者ぶった態度は虫唾がはしる』
「ごめんなさい。有村さん、本当にごめんなさい」
涙がポタポタと足元を濡らす。
「わかってくれればいいんだよ。参ったな、泣かせるつもりじゃなかったんだけどな」
「違うんです。私、自分が情けなくて。前に椎名さんからも同じような指摘を受けたのに、ちっとも成長していなくて」
有村は、優しく背中をさすると、
「さぁ、深呼吸して。どうするのが一番いいか、柴咲さんなら答えを見つけられるよ」
「はい」
「このCDは、仕舞っておいて。それに今、これを出したら、はじめからあったのに出さなかったと、余計な怒りを買うだけだと思うよ」
「そうですね。私、誠心誠意、お詫びをしてきます」
唯は涙を拭うと、小さく笑った。
「そうだね。あの女性も、後に引けなくなってるところもあるだろうし。女性に伝えてもらえるかな?遠いところから来てくれて嬉しかったこと、残念ながらCDは完売してしまったけど、これからも応援してくれると信じてると。一緒に行ってあげられればいいんだけど、これから行かないといけないところがあるから」
「いえ、大丈夫です。有村さん、ありがとうございました」
「柴咲さん、また連絡してね。心配だから」
「はい。必ず、ご連絡致します」
「あ、どうしてもの時は、サイン入りのCDを後日、会社に送るから」
「ありがとうございます」
唯は、ギュッと拳をにぎると、そう言って控え室を後にする有村に頭を下げた。
女性と三浦がいる部屋の前まで来ると、ゆっくりと深呼吸の後、ドアをノックした。
中に入ると、女性は鋭い目線で唯を睨みつけた。
「さあ、どうしてくれるの?」
怯みそうになる気持ちを抑えて、女性の方へと一歩、足を進めた。
「お客様、あの様な場でお客様に落ち度のあるような言い方をしてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
「あたしは、大勢の前で恥をかいたわ。そんな当たり前なお詫びの言葉なんていらないのよ。CDは、どうしたの?」
「あいにく、CDは完売しておりまして、大変心苦しいのですが、こちらには一枚も残っておりません。しかし、お客様の有村さんに対するお気持ちは、とてもよく理解できます」
慎重に言葉を選んで訴えた。
「どう理解しているのよ。そんな、わかった風なこと言わないでちょうだい」
「それは、私も有村さんのピアノが大好きだからです。有村さんも、お客様のことを、とても気にかけていらっしゃいました」
ふと、女性の表情が変わる。
「遠いところから、自分の為に足を運んで下さったこと嬉しかったと仰っていらっしゃいました。それなのにCDが完売してしまったことを大変申し訳なく思っておられ、自分の為に、あんなにもご立腹されたお客様なら、これからも応援して下さると信じていると伝えてほしいと言われました。私も、そんなお客様のお気持ちをお察しできず、大変申し訳なく思っております」
女性が、一瞬聞く耳を持ってくれた瞬間を見逃さず、一気に言い切った。
唯は、女性が言葉を発するまで、頭を下げたままの姿勢で、ひたすら待った。
「そう。有村さんが」
女性の心が少し軟化してくるのがわかる。悪い人ではないのだ。
有村を好きなあまり、振り上げた拳をおろせなくなっているだけなのだ。
自分は、ただひたすらに女性の希望を叶えられなかったことに誠心誠意お詫びをするだけだ。
唯は、女性の言葉を待った。
思わず顔を上げそうになるが、グッと堪えていた時、三浦が先走って声をかけてしまった。
「それでは、お客様お許し頂けますでしょうか」
「ちょっと待って。なに、その待ってましたの態度は!」
「いえ、そんなつもりはございません」
三浦が慌てて否定するが、
「じゃあ、どんなつもりなのよ!あんた達はあたしのこと、バカにしてんでしょ」
と、女性が勢いよく立ち上がり、唯との距離を一気に詰めてきた。
女性の右手が振り上げられたのが目に入った瞬間、ギュッと目を瞑った。
頬を打つ音と共に焼け付くような痛みが走り、その場に膝をついた。
「柴咲さん」
三浦が駆け寄ってくるが、唯はかまわずに立ち上がると、
「重ね重ね、誠に申し訳ございませんでした」
と、頭を下げ続けた。
せっかくの有村さんのCD発売のイベントを、こんな形で終わりにしたくなかった。
「私達は、有村さんのピアノの素晴らしさを一人でも多くの人に伝える為に、今日のイベントを開催致しました。お客様に不愉快な思いをさせる為ではありませんでした。なのに、このようなことになってしまい、心から申し訳なく思っております。それは、本心からそう思っております。だって、有村さん自身も素敵な方だし、あなたの有村さんのピアノが好きな気持ちがわかるから」
最後は、もう敬語も忘れて必死に訴えかけていた。
三浦が何かを話そうと動いたが、唯はそれを制し、女性から目を逸らさずに伝わってほしい一心で見つめていた。
「あなたも、有村さんの音楽が好きなの?」
唯の必死の訴えが届いたのか、ぼそりと女性が話し出した。
「はい。とても素敵な演奏をなさる方です」
「そうね。特に、あの『愛の夢』は心が震えるほど切なくて、だけど魂を揺さぶられるようなダイナミックさもあって。デビュー当時からずっと応援していたの」
女性から目を逸らさず静かに頷いた。
「今回、あのイベントのCDが発売され、サインと握手会があると聞いて、仕事を必死の思いで片づけて来たの。それなのに、わかるでしょ?」
「はい」
「痛かった?」
「いえ、大丈夫です」
「嘘ね。赤くなってるじゃない。ごめんなさいね」
「お客様の想いを叶えられなかったことに比べたら、なんてことのない痛みです」
唯が、そうにっこり笑うと、女性も表情を崩して立ち上がった。
「CDは、後日近くのお店で購入するわ」
「ありがとうございます」
「また、有村さんのイベントを企画してよね」
「はい!」
「そうね、そういう企画が持ち上がったらここに連絡してくれない?早めに都合もつけたいから」
そう言って、一枚の名刺を差し出され、慌てて取り出した名刺を受け取ると、すっきりとした顔で帰って行った。
最後は落ち着いて話ができ、誰の心にも遺恨を残さず解決することができたことに胸をなでおろすのだった。
「柴咲くん、大丈夫かい?」
三浦が、ハンカチを出すと唯の頬にあてがおうとしてきた。
「大丈夫です。後片付けに行ってきます」
それを制して、部屋を出ようとする唯の手を三浦が引き寄せ唯を胸の中に収める。
「え?」
一瞬なにが起こったのかわからず固まってしまった。
「何も力になれなくてすまない。よくやってくれたね」
と囁いた。
唯は、グッと力を込めて三浦の胸を押し戻そうとするが、びくともせず必死で身をよじった。
「やめてください。私は大丈夫なので」
「無理しなくていいから」
どこまでも的外れな事を言う三浦から逃れようともがいていると、いきなり部屋のドアが開き、強い力で引き剥がされた。
驚いて自分の腕を掴む人物を見上げた。
「弓弦さん。どうして」
「恋人のピンチには、駆けつけるものだろ?」
と、いつもの口角を上げるだけの余裕の笑いを浮かべたものの、瞬時に厳しい表情に切り替えると凍りつくような冷たい目で三浦を見据えた。
「三浦さん、ご無沙汰しております。事情は伺いました。大変だったそうですね。唯を助けて下さったようで、ありがとうございました。後片付けも完了していたみたいなので、もう連れて帰ってもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ。かまわない。柴咲くん、ご苦労様だったね。気を付けて帰りなさい」
椎名の只ならぬ雰囲気に圧倒され、三浦が帰宅を許した。
「失礼いたします」
笑顔を見せてはいるが、ちらりと見上げた椎名の目は、ちっとも笑ってなどいなかった。
「あの、弓弦さん」
「とりあえず、帰る支度をしてきなさい」
そう話す椎名の乱れた息が自分の為に飛んできてくれたのだとわかる。
唯は控え室へと走ると、すぐに着替えて戻ってきた。
廊下の壁にもたれ腕を組み、唯を待っている姿を目にすると、さっきまで手を伸ばしても届かない距離にいた人が目の前にいる奇跡を信じられない気持ちで見ていた。
高い身長からスラリと伸びた長い手足、どこからどう見ても椎名本人であることを確かめずにはいられない。
ぼんやりとしていると椎名がこちらに気付き、小さく首を傾げた。
「どうした?」
ハッとして椎名の元へ駆け寄る。
「あの。どうして」
「恋人のピンチには、駆けつけるものだと言っただろ?こんなに真っ赤になって、ぶたれたのか?」
そう言って、赤くなった頬に右手を添えた。その手の暖かさに、ホッとしたのか緊張が解けたように涙がポロポロとこぼれ、泣き笑いを浮かべた。
「困ったお嬢さんだなぁ」
と、言いながら唯を抱きしめると、何度も何度も背中をさすり、
「大丈夫。よくやったな」
と、声をかけてくれた。
出口に向かう途中、スタッフのみんなに挨拶をしていないことを思い出した。
「あ、みんなに挨拶を」
「大丈夫だから。みんなに唯を連れて帰ると言ってある」
「ありがとうございます」
椎名は、車の助手席へ唯を乗せ、ゆっくりと走り出した。
「有村さんから連絡があったんだ。唯が、ちょっと困ったことになってるってね。さっきの電話でも様子がおかしかったし、何かあったなとは思ってたんだけど」
「有村さんが」
「唯なら、自分でなんとかできるだろうと思ったけど、三浦さんと二人で対応してると聞いて、マズイことになるんじゃないかと心配になってね」
「ご心配かけて、すいません」
唯は、事の一部始終を話して聞かせた。
「来てよかったよ。あの人は、俺に執着してるというか、気に入らないんだろうな、俺のことが。唯まで巻き込んで、すまない」
「そんな。弓弦さんが謝ることなんてないですよ。それに、助けに来てくれましたし。嬉しかったです」
赤信号で止まった椎名の顔を見つめた。
その頃、三浦は舌打ちを繰り返し部屋にある椅子を蹴飛ばしながら荒れていた。
椎名から仕事も彼女も奪ったものの、家庭は上手くいかず、妻とは最近口もきいていない。
それが、こちらにきてみたら、椎名が唯と幸せそうにしているのを目にし、焦りと苛立ちを覚えた。
再び、壊してやりたくなり、唯を自分に振り向かせようとしたのだった。
唯は、意思が弱そうで、強引に持っていけばなんとかなりそうだと思ったのだが、クレームをつけてきた客への対応といい、なかなか芯の強い女性だった。
そこへ、椎名が現れるとは予想もしておらず、三浦は諦めきれない思いと、歯がゆさで苛立ちの持って行き場がなかった。
「くそっ」
乱暴にドアを閉めると、松谷に後を任せて帰って行くのだった。
有村のイベント企画も拍子抜けするほどあっさり通り、準備も着々と進んでいた。
CDの制作は以前から進められていた為、一ヶ月後にはイベントの予定だ。
「柴咲、会議の資料はできているか」
「はい。第二会議室に準備してあります」
「よし。時間だ。皆、会議室へ集まってくれ」
三浦がイベントの各担当者へと声をかけた。
会議の資料には、前回のイベントの際に集めたアンケートを元に、様々な角度から分析したデータがまとめられていた。
「このデータをまとめたのは誰だ」
「私です」
唯が手を上げると、三浦が驚いた顔でこちらを見ていた。
「なにか不備でもありましたでしょうか」
おずおずと尋ねると、「いや」と小さく首を振り頷いた。
会議の中盤では、松谷がリサイタルの演奏を映し出した。
あの時の感動や、椎名と一緒にいたあの瞬間が瞬時に甦り胸が震えるのと同時に、隣にいない空間を認識させられ寂しさの波が押し寄せてきそうになった。
映像が終わり、松谷が説明を始める。
「ええ当日は『愛の夢』を通して、イベントの様子を編集し、プロジェクターにて映し出す予定です。曲は、あと二、三曲用意してもよいと思っています。いかがでしょうか」
皆が異議なしと受け取れるように頷き合い、特に意見も出ないと思われたその時、三浦が声を発した。
「ほぼ、この線でいこうかと思うのだが、前回のイベントに来て、その素晴らしさにCDの発売が決まったと聞いている。そのイベントに足を運んだ方は、今回のPRイベントにもきっと足を運んで下さるだろう。前回のイベントの感動を呼び起こせるような何かが、このプロジェクター以外でもう一つほしいのだが。何かないだろうか」
その言葉を聞いた唯が静かに手を上げた。
「花は、いかがでしょうか」
「ああ、前回のイベントでも使っていたな」
「はい。有村さんの音楽に生花の香りがプラスされれば、あの日の感動が胸に呼び起こされるでしょう」
「しかし、予算的には家元を呼ぶことは無理だ」
三浦の言葉に、皆が何か他の案がないかと意見を出し合い、唯も意見を述べた。
「では、花をアレンジするのではなく、前回と同じ花を用意して、CDを買って下さった方々に一本ずつお渡しするのは、いかがでしょうか。それなら、アレンジする必要もなく、生花の香りが漂う中でイベントを行うことができます」
「そうか、有村さんにサインと握手をしてもらう際に花を渡してもらおう」
唯の意見に松谷が後押しをする。
「予算的にどうなるか検討して、いけそうならその線で行こう。他に意見はないか」
三浦が問いかけるが、反対する者は一人もいなかった。
イベント前日。携帯が鳴った。
「弓弦さん」
「いよいよ明日だな。唯の企画、有村さんも喜んでくれるといいな」
「はい。弓弦さんの声を聞いたらパワーが出てきちゃいました。明日、頑張ります。本社の方どうですか?」
「俺?順調だよ」
一瞬、途切れた間が気になる。
「何かありました?」
椎名は、フッと笑みを含んだ吐息を漏らす。
「何かあったよ」
「弓弦さん、なんでも言って下さい」
「なんでも?」
「はい。なんでもです」
そう意気込んで返事をする唯に、
「唯が足りない」
と言って、小さく笑った。
「あの、私も同じです」
そんな椎名に、はにかむように答えた。
「という訳で、イベントの次の日、そっちに行くよ」
「ほんとですか?」
「ああ。唯はイベントの後、休み取ってるんだろ?」
「はい。弓弦さんも合わせて、お休みを取ってくれたんですか?」
「ああ」
「嬉しいです」
「明日のイベント、頑張りなさい」
「はい!全力で頑張ります!」
椎名との電話を切った後、無駄に漲るパワーを抑えつつ、明日の為にと早めにベッドへと入るのだった。
当日、早めに会場入りした唯は有村の到着を待ちながら、控え室のセッティングを行っていた。
「柴咲さん!」
控え室のドアが開くと同時に有村が唯に抱きついた。
「あ、有村さん」
「挨拶、挨拶。でも、こんなところ椎名さんに見られたら怒られるかな」
と、笑った。
「有村さん、本日はよろしくお願いします」
そんな相変わらずな有村に唯も笑いながら、ぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、頼むね。柴咲さんに任せておけば、大丈夫だと思うけど。頼りにしてるよ」
「ありがとうございます。あ、私もCDを購入させて頂きますね」
「なんだ、言ってくれればプレゼントしたのに」
「とんでもないです。ちゃんと購入させて下さい」
「じゃあ、これ先にあげるよ」
そう言って、CDを取り出すとサラサラとサインをしてくれた。
「わぁ。ありがとうございます」
「代金は、マネージャーにでも渡しといてくれたらいいから」
「はい。先に頂けるなんて本当に嬉しいです」
唯はCDをバックにしまうと、有村にコーヒーを用意しながら、今日のスケジュールを説明していく。
「CDを買ってくれた人に、サインと握手と花だね?」
「はい。バッチリです。では、後程お呼び致しますので、しばらくお待ち下さいね」
「はぁい」
明るい返事に二人で笑顔を交わし、唯は控え室を後にした。
会場に戻ると慌ただしく準備を進めている中へ入り、何度も往復しながら花を運んだ。
むせかえるような花の香りと、プロジェクターから流れるピアノのメロディーが瞬時にあの日の胸の高鳴りを蘇らせ、再び味わってもらうことができるのだと思うと、自然に心が弾む。
外の入口には何時間も前から、たくさんの人が並んでいた。
唯は受付に立つと、CDの販売に備えた。
入口が開けられたとたん、押し寄せる人々に次々にCDを売っていく。
プロジェクターの前で、立ち止まりうっとりとした表情で有村のピアノに聴き入る人、握手をしてもらい涙ぐむ人、さまざまな人がこのイベントに足を運んでくれた。
それを見ているだけで唯の胸はいっぱいになるのだった。
CDも完売し、後は有村の前に並ぶ人が花をもらい終わるとイベントも終了のはずだった。
完売の札を立てたとたん、一人の女性客がものすごい勢いで飛び込んできた。
「はぁはぁ。CDを下さい」
唯は驚きつつも、完売した旨を案内し丁寧に頭を下げた。
すると、一気に怒りに満ち溢れた顔で、女性客が怒鳴りだした。
「あたしはね、何時間もかけてここに来てるの!14時までって、これに書いてあるじゃない!まだ、30分もあるじゃない!」
「お客様、大変申し訳ございません。こちらに完売次第、終了させて頂きますと、ご案内させて頂いております」
周囲からヒソヒソと好奇の目に晒され、唯に恥をかかされたと思った女性客は、顔を真っ赤にして次第にヒートアップしていった。
「こんな小さな字じゃ、わからないわよ!あんたじゃ話にならないわ!責任者を呼んでちょうだい」
会場が騒然とする中、三浦が飛んできた。
「お客様、こちらではなんですから、あちらでお話しを伺います」
やわらかな笑顔と落ち着いた物腰の三浦に、女性客も少し落ち着きを取り戻し、素直に応じてくれた。
唯は震える心を奮い立たせて、精いっぱいの笑顔を浮かべ
「お騒がせ致しまして申し訳ありませんでした。さ、お次の方、どうぞ」
と、有村の前へと案内をした。
有村も、唯の指先が震えているのを見て取ると、何事もなかったかのように
「いつも応援してくれて、ありがとう」
と、ファンの方に両手で握手をしてくれた。
そして、大丈夫と言うようにニッコリ笑って頷いたのだった。
やがて、最後の一人が花を受け取って帰ると、唯は有村の元へ駆け寄り深々と頭を下げた。
「もう少しで、イベントを台無しにしてしまうところでした。大変申し訳ありませんでした。もっと配慮のあるお断りをすればよかったのに、あんな杓子定規な断り方をして、お客様を怒らせてしまいました」
「でも、大事に至らなかったんだから気にしないで」
有村は、そう言ってくれたものの、気持ちは大きく沈み込んでいた。
そこへ、松谷が真っ青になって走ってきた。
「柴咲、ちょっと」
そう言って、唯を連れ出した。
「さっきの女性客が、柴咲に謝らせろって、それからサイン入りのCDを持ってこないと帰らないって言ってるんだ」
唯は、唇を噛みしめると、
「わかりました」
と、スタッフの控え室へと歩いて行った。
唯は、自分のバッグから有村から譲ってもらったサイン入りのCDを取り出した。
CDを見つめていると、不意に携帯電話が鳴った。
「もしもし、唯?イベント終わったか?」
椎名の声を聞いて、一瞬すがりつきそうになる気持ちを抑え、唾を飲み込んだ。
「はい。もうすぐ片付きます」
自分でも声が震えているのがわかる。
「どうした?なんか元気がないみたいだけど」
「そんなことないですよ。無事に終わって、ホッとしていたところだったんです」
「そうか、お疲れ。明日、大丈夫か?」
「はい。早起きして待っていますね」
その時、後ろから柳瀬の声が聞こえた。
『弓弦!早くしないと遅れるわよ』
「ああ、すぐに行く。今から打ち合わせなんだ。唯、ほんと何かあったんなら」
後ろから聞こえた柳瀬の声に、隣にいない距離を改めて実感した。
心配をかけちゃいけないと、わざと大きな声で被せるように話し出した。
「あ、すみません、今から後片付けがあるので、後でお電話して大丈夫ですか?」
「ああ。イベント、無事に終了したのか気になってな。また終わったら連絡をくれ」
「わかりました。お忙しいところ、ありがとうございました。じゃあ、あとで」
通話終了ボタンを押したとたん、込み上げるものをグッと飲み込む。
こんな時、椎名がいてくれたらと泣き出しそうになる気持ちを振り切って顔を上げた。
「それ、さっきの女性客にあげるの?」
振り返ると、有村が控え室のドアにもたれて立っていた。
「すいません。せっかく譲って下さったのに。私のミスですから」
「それ、柴咲さんに心をこめてサインしたんだよ。そんな俺に対して失礼じゃない?」
ハッとした。
いくら、追い詰められたからって、有村の気持ちも踏みにじるところだった。
女性客の気持ち、有村の気持ち、どちらも踏みにじった自分が恥ずかしくて情けなくて涙がこぼれた。
「自己犠牲と言えば聞こえはいいけど、柴咲さんらしくないよ」
唯は思い出していた。
椎名が支店に来た時に言われた言葉を。
『偽善者ぶった態度は虫唾がはしる』
「ごめんなさい。有村さん、本当にごめんなさい」
涙がポタポタと足元を濡らす。
「わかってくれればいいんだよ。参ったな、泣かせるつもりじゃなかったんだけどな」
「違うんです。私、自分が情けなくて。前に椎名さんからも同じような指摘を受けたのに、ちっとも成長していなくて」
有村は、優しく背中をさすると、
「さぁ、深呼吸して。どうするのが一番いいか、柴咲さんなら答えを見つけられるよ」
「はい」
「このCDは、仕舞っておいて。それに今、これを出したら、はじめからあったのに出さなかったと、余計な怒りを買うだけだと思うよ」
「そうですね。私、誠心誠意、お詫びをしてきます」
唯は涙を拭うと、小さく笑った。
「そうだね。あの女性も、後に引けなくなってるところもあるだろうし。女性に伝えてもらえるかな?遠いところから来てくれて嬉しかったこと、残念ながらCDは完売してしまったけど、これからも応援してくれると信じてると。一緒に行ってあげられればいいんだけど、これから行かないといけないところがあるから」
「いえ、大丈夫です。有村さん、ありがとうございました」
「柴咲さん、また連絡してね。心配だから」
「はい。必ず、ご連絡致します」
「あ、どうしてもの時は、サイン入りのCDを後日、会社に送るから」
「ありがとうございます」
唯は、ギュッと拳をにぎると、そう言って控え室を後にする有村に頭を下げた。
女性と三浦がいる部屋の前まで来ると、ゆっくりと深呼吸の後、ドアをノックした。
中に入ると、女性は鋭い目線で唯を睨みつけた。
「さあ、どうしてくれるの?」
怯みそうになる気持ちを抑えて、女性の方へと一歩、足を進めた。
「お客様、あの様な場でお客様に落ち度のあるような言い方をしてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
「あたしは、大勢の前で恥をかいたわ。そんな当たり前なお詫びの言葉なんていらないのよ。CDは、どうしたの?」
「あいにく、CDは完売しておりまして、大変心苦しいのですが、こちらには一枚も残っておりません。しかし、お客様の有村さんに対するお気持ちは、とてもよく理解できます」
慎重に言葉を選んで訴えた。
「どう理解しているのよ。そんな、わかった風なこと言わないでちょうだい」
「それは、私も有村さんのピアノが大好きだからです。有村さんも、お客様のことを、とても気にかけていらっしゃいました」
ふと、女性の表情が変わる。
「遠いところから、自分の為に足を運んで下さったこと嬉しかったと仰っていらっしゃいました。それなのにCDが完売してしまったことを大変申し訳なく思っておられ、自分の為に、あんなにもご立腹されたお客様なら、これからも応援して下さると信じていると伝えてほしいと言われました。私も、そんなお客様のお気持ちをお察しできず、大変申し訳なく思っております」
女性が、一瞬聞く耳を持ってくれた瞬間を見逃さず、一気に言い切った。
唯は、女性が言葉を発するまで、頭を下げたままの姿勢で、ひたすら待った。
「そう。有村さんが」
女性の心が少し軟化してくるのがわかる。悪い人ではないのだ。
有村を好きなあまり、振り上げた拳をおろせなくなっているだけなのだ。
自分は、ただひたすらに女性の希望を叶えられなかったことに誠心誠意お詫びをするだけだ。
唯は、女性の言葉を待った。
思わず顔を上げそうになるが、グッと堪えていた時、三浦が先走って声をかけてしまった。
「それでは、お客様お許し頂けますでしょうか」
「ちょっと待って。なに、その待ってましたの態度は!」
「いえ、そんなつもりはございません」
三浦が慌てて否定するが、
「じゃあ、どんなつもりなのよ!あんた達はあたしのこと、バカにしてんでしょ」
と、女性が勢いよく立ち上がり、唯との距離を一気に詰めてきた。
女性の右手が振り上げられたのが目に入った瞬間、ギュッと目を瞑った。
頬を打つ音と共に焼け付くような痛みが走り、その場に膝をついた。
「柴咲さん」
三浦が駆け寄ってくるが、唯はかまわずに立ち上がると、
「重ね重ね、誠に申し訳ございませんでした」
と、頭を下げ続けた。
せっかくの有村さんのCD発売のイベントを、こんな形で終わりにしたくなかった。
「私達は、有村さんのピアノの素晴らしさを一人でも多くの人に伝える為に、今日のイベントを開催致しました。お客様に不愉快な思いをさせる為ではありませんでした。なのに、このようなことになってしまい、心から申し訳なく思っております。それは、本心からそう思っております。だって、有村さん自身も素敵な方だし、あなたの有村さんのピアノが好きな気持ちがわかるから」
最後は、もう敬語も忘れて必死に訴えかけていた。
三浦が何かを話そうと動いたが、唯はそれを制し、女性から目を逸らさずに伝わってほしい一心で見つめていた。
「あなたも、有村さんの音楽が好きなの?」
唯の必死の訴えが届いたのか、ぼそりと女性が話し出した。
「はい。とても素敵な演奏をなさる方です」
「そうね。特に、あの『愛の夢』は心が震えるほど切なくて、だけど魂を揺さぶられるようなダイナミックさもあって。デビュー当時からずっと応援していたの」
女性から目を逸らさず静かに頷いた。
「今回、あのイベントのCDが発売され、サインと握手会があると聞いて、仕事を必死の思いで片づけて来たの。それなのに、わかるでしょ?」
「はい」
「痛かった?」
「いえ、大丈夫です」
「嘘ね。赤くなってるじゃない。ごめんなさいね」
「お客様の想いを叶えられなかったことに比べたら、なんてことのない痛みです」
唯が、そうにっこり笑うと、女性も表情を崩して立ち上がった。
「CDは、後日近くのお店で購入するわ」
「ありがとうございます」
「また、有村さんのイベントを企画してよね」
「はい!」
「そうね、そういう企画が持ち上がったらここに連絡してくれない?早めに都合もつけたいから」
そう言って、一枚の名刺を差し出され、慌てて取り出した名刺を受け取ると、すっきりとした顔で帰って行った。
最後は落ち着いて話ができ、誰の心にも遺恨を残さず解決することができたことに胸をなでおろすのだった。
「柴咲くん、大丈夫かい?」
三浦が、ハンカチを出すと唯の頬にあてがおうとしてきた。
「大丈夫です。後片付けに行ってきます」
それを制して、部屋を出ようとする唯の手を三浦が引き寄せ唯を胸の中に収める。
「え?」
一瞬なにが起こったのかわからず固まってしまった。
「何も力になれなくてすまない。よくやってくれたね」
と囁いた。
唯は、グッと力を込めて三浦の胸を押し戻そうとするが、びくともせず必死で身をよじった。
「やめてください。私は大丈夫なので」
「無理しなくていいから」
どこまでも的外れな事を言う三浦から逃れようともがいていると、いきなり部屋のドアが開き、強い力で引き剥がされた。
驚いて自分の腕を掴む人物を見上げた。
「弓弦さん。どうして」
「恋人のピンチには、駆けつけるものだろ?」
と、いつもの口角を上げるだけの余裕の笑いを浮かべたものの、瞬時に厳しい表情に切り替えると凍りつくような冷たい目で三浦を見据えた。
「三浦さん、ご無沙汰しております。事情は伺いました。大変だったそうですね。唯を助けて下さったようで、ありがとうございました。後片付けも完了していたみたいなので、もう連れて帰ってもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ。かまわない。柴咲くん、ご苦労様だったね。気を付けて帰りなさい」
椎名の只ならぬ雰囲気に圧倒され、三浦が帰宅を許した。
「失礼いたします」
笑顔を見せてはいるが、ちらりと見上げた椎名の目は、ちっとも笑ってなどいなかった。
「あの、弓弦さん」
「とりあえず、帰る支度をしてきなさい」
そう話す椎名の乱れた息が自分の為に飛んできてくれたのだとわかる。
唯は控え室へと走ると、すぐに着替えて戻ってきた。
廊下の壁にもたれ腕を組み、唯を待っている姿を目にすると、さっきまで手を伸ばしても届かない距離にいた人が目の前にいる奇跡を信じられない気持ちで見ていた。
高い身長からスラリと伸びた長い手足、どこからどう見ても椎名本人であることを確かめずにはいられない。
ぼんやりとしていると椎名がこちらに気付き、小さく首を傾げた。
「どうした?」
ハッとして椎名の元へ駆け寄る。
「あの。どうして」
「恋人のピンチには、駆けつけるものだと言っただろ?こんなに真っ赤になって、ぶたれたのか?」
そう言って、赤くなった頬に右手を添えた。その手の暖かさに、ホッとしたのか緊張が解けたように涙がポロポロとこぼれ、泣き笑いを浮かべた。
「困ったお嬢さんだなぁ」
と、言いながら唯を抱きしめると、何度も何度も背中をさすり、
「大丈夫。よくやったな」
と、声をかけてくれた。
出口に向かう途中、スタッフのみんなに挨拶をしていないことを思い出した。
「あ、みんなに挨拶を」
「大丈夫だから。みんなに唯を連れて帰ると言ってある」
「ありがとうございます」
椎名は、車の助手席へ唯を乗せ、ゆっくりと走り出した。
「有村さんから連絡があったんだ。唯が、ちょっと困ったことになってるってね。さっきの電話でも様子がおかしかったし、何かあったなとは思ってたんだけど」
「有村さんが」
「唯なら、自分でなんとかできるだろうと思ったけど、三浦さんと二人で対応してると聞いて、マズイことになるんじゃないかと心配になってね」
「ご心配かけて、すいません」
唯は、事の一部始終を話して聞かせた。
「来てよかったよ。あの人は、俺に執着してるというか、気に入らないんだろうな、俺のことが。唯まで巻き込んで、すまない」
「そんな。弓弦さんが謝ることなんてないですよ。それに、助けに来てくれましたし。嬉しかったです」
赤信号で止まった椎名の顔を見つめた。
その頃、三浦は舌打ちを繰り返し部屋にある椅子を蹴飛ばしながら荒れていた。
椎名から仕事も彼女も奪ったものの、家庭は上手くいかず、妻とは最近口もきいていない。
それが、こちらにきてみたら、椎名が唯と幸せそうにしているのを目にし、焦りと苛立ちを覚えた。
再び、壊してやりたくなり、唯を自分に振り向かせようとしたのだった。
唯は、意思が弱そうで、強引に持っていけばなんとかなりそうだと思ったのだが、クレームをつけてきた客への対応といい、なかなか芯の強い女性だった。
そこへ、椎名が現れるとは予想もしておらず、三浦は諦めきれない思いと、歯がゆさで苛立ちの持って行き場がなかった。
「くそっ」
乱暴にドアを閉めると、松谷に後を任せて帰って行くのだった。
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