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穏やかな春、静かな家、聞こえてくる鳥たちのさえずり①

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 住み込み給仕の朝は早い。

 太陽が昇り始める頃には起きて、仕事を始めなければならない。スマートフォンのけたたましいアラーム音で無理やり起きた私は、眠気を飛ばすために冷たい水で顔を洗い、歯を磨き、黒を基調とした和風の制服を着て、敷地内にある住み込み使用人のための住居から、現当主が住んでいる本館へ入る。

 「おはようございます」

 「おはよう深咲みさきちゃん。今日もよろしくね」

 台所には既に先輩給仕の雪歩さんがいて、朝食の準備を始めていた。
 本当は雪歩さんの隣に立って私も朝食の準備をしたいのだけれど、包丁の使い方すらままならない私は、今のところテーブルを拭いて食器を並べるくらいしかやれることがない。雪歩さんは「それも立派な仕事よ」と言ってくれるのだけれど、お金を貰って働かせていただいている私は、不甲斐なさを感じてしまう。
 このことを雪歩さんに打ち明けたら、「そこまで言うなら、練習しましょうか」と言ってくれた。今日から空き時間に料理を教えてもらう予定だ。

 そんな事を考えながらも、きっちりとデーブル周りの準備を終えた私は、ふと部屋の隅にある趣深い柱時計が視界に入った。その長針は12を指していた。
 
 「もう六時過ぎですけれど、晴彦様、下りてきませんね」

 私は漆塗りのお椀にご飯をよそっている雪歩さんに尋ねてみた。
 この家の現当主である九十九晴彦様は、よく食事を抜く。朝が苦手とかじゃなくて、昼食だろうと夕食だろうと食べないときは食べない。雪歩さん曰く、ダイエットをしているとかじゃなくて、考え事をしている時に食事を取ると集中力が途切れるかららしい。
 
 「そうね……今日は食べると思うから、呼んできてみてくれる?」

 雪歩さんの晴彦様に関する勘はよく当たる。先々代の当主が生きていた頃から九十九家に仕え、若くして死んでしまった晴彦様の両親に代わって晴彦様をここまで育てられた人だからだろう。

 「わかりました」

 晴彦様の部屋は階段を上がって右手側にある。
 扉の前で深呼吸して、声がかすれないように咳払いしてから、ノックをする。

 「晴彦様、朝食の準備ができました」
 
 努めて落ち着いた声音で、晴彦様に扉越しに話しかける。

 「わかった。すぐいく」

 もしかしたら寝ているかもしれないと思ったけれど、すぐに返事が来た。どうやら今起きたばかりらしく、声がまだ眠そうだった。
 すぐに行くと言われておいて、ここで待っていても仕方がないので、私は雪歩さんのところに戻って朝食を運ぶ手伝いをする。

 丁度全ての料理をテーブルに並べ終えたときに、晴彦様は作務衣姿で眠そうに目をこすりながら下りてきて、無言で席につき、手を合わせてからご飯を食べ始めた。

 今年で二十歳になる私よりも一つ年下の晴彦様は、新進気鋭のアーティストで、今は油絵を制作している。サラサラとした真っ白な髪が人間離れしたアーティストって感じの雰囲気を醸し出しているのだけれど、あの髪はブリーチをかけているわけではなく、二年前くらいから自然に白くなっていったらしい。九十九家の人間が代々短命なことが関係しているのかもしれない。

 なんて事を考えている内に、晴彦様は朝食をほとんど食べ終えてしまっていた。食後に温かいお茶を飲む明彦様のために、お茶を入れにいく。
 茶葉を急須に入れて、沸かしてから少し経っている薬缶からお湯を注ぎ、一分ほど茶葉が広がるのを待ってから湯呑に入れる。
 そのお茶をお盆に乗せて持っていくと、最後の一口を食べた晴彦様と目が合った。

 「熱いので、お気を付けください」

 そう言ったにもかかわらず、晴彦様はお盆から直接湯呑を手に取って、勢いよく飲み出した。
 
 「だ、大丈夫ですか!?」

 びっくりして思わずお盆が手から離れた。
 それを見た晴彦様は少し笑って、

 「大丈夫ですよ」
 
 とのこと。  
 どうやら私はからかわれたらしい。たまにこういう年相応なことするので、晴彦様も私と同じ人間なんだなぁと感じる。
 晴彦様は、その後すぐに二階へと上がっていった。
 
 晴彦様が使っていた食器を片付けると、今度は私と雪歩さんの朝食の時間となる。
 雪歩さんの料理は本当に美味しいのだけれど、美味しすぎて食べ過ぎてしまうせいで、最近体重が少し増えてきている。でも、食べちゃう。
 
 「深咲ちゃんは何でも美味しそうに食べてくれるからいいわぁ」

 雪歩さんは、目を細めてそう言う。優しい視線に慣れていない私は、何だか恥ずかしくなる。
 
 「雪歩さんが作ってくれるものが全部美味しいからですよ」
 
 恥ずかしさに悶えながらも、私は雪歩さんの方を見てそう言う。
 母さんともこんなやり取りができていたら良かったのにな、なんて戯言が、一瞬だけ頭に浮かんで消える。無理な事を夢見ても空しいだけだ。

 「そう言ってくれるのは深咲ちゃんだけよ。あの人は昔から感情を表に出さない人でね。何が好きとか何が嫌いとかほとんど言わないの」
 
 雪歩さんの話すことは、大体が晴彦様についてで、特に彼に対する不満が多い。理由はわからないけれど、九十九家は周囲の人達からあまり好かれていないから、話せる人がいなかったのだろう。

 「あの人は、絵さえ描ければ後はどうでもいいって感じなの。今日も、あれだけ朝食を食べたらお昼は食べないと思うわ。本当は三食きちんと食べて欲しいのだけど、あの人は『どうせ短い命なんだから、健康よりも作品を優先したい』って言うの」

 その不満の内容も、晴彦様を心配するが故のもので、私はなんとも言えないような気持ちになる。私の両親も、今頃もしかしたら雪歩さんみたいに私の事を心配してくれているのかもしれない、なんてことを考えてしまう。でも、きっと私の両親は、相変わらず寝る間も惜しんで仕事に励んでいるだろうけれど。
 
 「でも、若くして大成するようなアーティストは、晴彦様みたいな人じゃないとなれないのかもしれませんね」
 
 この言葉には、少しだけ嫉妬が混じっていた。私は、晴彦様のように一生懸命に打ち込める何かを見つけることすらできなかったから。
  
 「そうかしら?芸術って、いくら心血を注いで描いても駄作は駄作だし、鼻歌交じりに描いても傑作は傑作になる世界でしょう。作品それ自体が評価されるわけで、作品に対する懸命さが評価されるわけではないのだし」
 
 確かに、一生懸命にやれば必ず評価されるなんて、考えが甘いのかもしれない。
 しばしの沈黙の後、手を叩いて立ち上がった雪歩さんは、私の方を見てにっこりと笑った。

 「さて、おしゃべりはこのくらいにして、料理の練習をしましょうか」

 私の頭の中が、別方向の不安で一新された。
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