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メビウスの約束
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高梨と初めて会ったのは、4月のある晴れた日の、この場所だった。
初めて担任になったクラスで、初めて点呼をして、返事がなく休みの連絡もない高梨という生徒が屋上でサボっていると知って、俺はここにやってきた。
二年生の夏頃から高梨の素行が悪くなったと、前の担任から話は聞いていた。
置かれている環境についても。
けれど、そんな他人から聞きかじった情報よりも、俺は、まず高梨自身と話がしたかった。
屋上の扉を開くと、まず目に入ったのは履き潰したスニーカー。
着崩した制服。
手元から伸びている灰色の煙。
俺は小さくため息をついて、高梨の背中に声を掛けた。
「高梨」
突然声をかけられたことに驚いたのか、高梨は勢い良く振り向いた。
赤茶色に染まった髪が、陽の光に煌めいている。
「………」
高梨は、罰が悪そうに舌打ちをして、持っていた煙草を地面に落とし、靴で火をもみ消した。
「あのなぁ、煙草は二十歳になってから堂々と吸ったほうが美味いぞ?」
高梨の胸ポケットから煙草を抜き取り、俺は、そこから一本取り出して火をつけた。
灰色の煙が、立ち昇っていく。
高梨が、驚いた表情で俺を見つめる。
「…怒んないの?」
「怒ったって、吸っちまったもんは戻らないしなぁ。ま、お互いチクるのは無しってことだ」
煙を吐き出して笑うと、高梨の眉間に寄っていた皺が和らいだ。
フェンスにもたれて、そのまましゃがみこむ。
俺も、その隣にしゃがみこんだ。
「…先生……の、親ってさぁ……仲良い?」
消え入るような声だった。
高梨の両親は、毎晩毎晩近所中に聞こえるほどの大声で言い争いをして、何度も何度も繰り返した争いの果てに、去年の夏、お互い別の道を行くことを決めたらしい。
近所で流れていた噂は親から子どもに伝わり、二年生のクラスで、高梨は噂話や陰口、嘲笑の的になった。
それを、全てに反抗することで、高梨は耐えてきたのだ。
「…仲は、悪かったんじゃないか?親父なんて、ろくに話したこともないまま出てったから、俺はよく知らないけどな」
もちろん、嘘偽りない事実だ。
中学の頃に出ていった親父は、仕事ばかりでろくに顔を合わせたこともなかった。
ほとんど、母一人で育ててくれたようなものだ。
「…そう、なんだ…」
「でも、俺はそれで良かったと思ってる」
高梨は、弾かれたように顔を上げた。
真っ直ぐな瞳が、俺を見つめる。
「…なんで?」
「俺と母親の、二人にしかわからないものがあったからな。
周りの声なんてどうでも良かったんだ。
どうせ、あいつらには何にもわからない。
好き勝手なことばかり言ってるが、あいつらは、本当は何も知らないんだよ」
幸せか、不幸かなんて、そんなものは他人が決めることじゃない。
周りが何と言おうと俺は母親と二人で幸せだった。
親父がいないことを、不幸だなんて思ったことは一度もなかった。
「そっか……そうだよね」
高梨は、何かに納得したように大きく頷いた。
さっきまで、その瞳に差していた暗い影は、もうどこにも見当たらなかった。
「俺、教室戻る」
すっと立ち上がり、高梨は踏み潰していたスニーカーを、履き直した。
「…そうか。先戻っててくれ。俺は、これ吸ったら行くよ」
少し短くなった煙草をひらひらと振って、高梨に背を向ける。
青い空が、白い雲が、大きな太陽が眩しい。
跳ねるような足音が、遠ざかっていく。
「先生!」
大きな声で呼ばれ、振り返ると、高梨が屋上の扉に手をかけて、こっちを見ていた。
「ありがと!!」
勢い良く頭を下げて、高梨は明るい笑顔を見せて、戻っていった。
その笑顔が、妙に焼き付いて離れない。
その感覚に、恋などという名前をつけなければならなくなった今の俺を、あの時の俺が知ったらどう思うだろう。
事前に、もしもわかっていたなら…俺は、屋上に行かなかったんだろうか。
初めて担任になったクラスで、初めて点呼をして、返事がなく休みの連絡もない高梨という生徒が屋上でサボっていると知って、俺はここにやってきた。
二年生の夏頃から高梨の素行が悪くなったと、前の担任から話は聞いていた。
置かれている環境についても。
けれど、そんな他人から聞きかじった情報よりも、俺は、まず高梨自身と話がしたかった。
屋上の扉を開くと、まず目に入ったのは履き潰したスニーカー。
着崩した制服。
手元から伸びている灰色の煙。
俺は小さくため息をついて、高梨の背中に声を掛けた。
「高梨」
突然声をかけられたことに驚いたのか、高梨は勢い良く振り向いた。
赤茶色に染まった髪が、陽の光に煌めいている。
「………」
高梨は、罰が悪そうに舌打ちをして、持っていた煙草を地面に落とし、靴で火をもみ消した。
「あのなぁ、煙草は二十歳になってから堂々と吸ったほうが美味いぞ?」
高梨の胸ポケットから煙草を抜き取り、俺は、そこから一本取り出して火をつけた。
灰色の煙が、立ち昇っていく。
高梨が、驚いた表情で俺を見つめる。
「…怒んないの?」
「怒ったって、吸っちまったもんは戻らないしなぁ。ま、お互いチクるのは無しってことだ」
煙を吐き出して笑うと、高梨の眉間に寄っていた皺が和らいだ。
フェンスにもたれて、そのまましゃがみこむ。
俺も、その隣にしゃがみこんだ。
「…先生……の、親ってさぁ……仲良い?」
消え入るような声だった。
高梨の両親は、毎晩毎晩近所中に聞こえるほどの大声で言い争いをして、何度も何度も繰り返した争いの果てに、去年の夏、お互い別の道を行くことを決めたらしい。
近所で流れていた噂は親から子どもに伝わり、二年生のクラスで、高梨は噂話や陰口、嘲笑の的になった。
それを、全てに反抗することで、高梨は耐えてきたのだ。
「…仲は、悪かったんじゃないか?親父なんて、ろくに話したこともないまま出てったから、俺はよく知らないけどな」
もちろん、嘘偽りない事実だ。
中学の頃に出ていった親父は、仕事ばかりでろくに顔を合わせたこともなかった。
ほとんど、母一人で育ててくれたようなものだ。
「…そう、なんだ…」
「でも、俺はそれで良かったと思ってる」
高梨は、弾かれたように顔を上げた。
真っ直ぐな瞳が、俺を見つめる。
「…なんで?」
「俺と母親の、二人にしかわからないものがあったからな。
周りの声なんてどうでも良かったんだ。
どうせ、あいつらには何にもわからない。
好き勝手なことばかり言ってるが、あいつらは、本当は何も知らないんだよ」
幸せか、不幸かなんて、そんなものは他人が決めることじゃない。
周りが何と言おうと俺は母親と二人で幸せだった。
親父がいないことを、不幸だなんて思ったことは一度もなかった。
「そっか……そうだよね」
高梨は、何かに納得したように大きく頷いた。
さっきまで、その瞳に差していた暗い影は、もうどこにも見当たらなかった。
「俺、教室戻る」
すっと立ち上がり、高梨は踏み潰していたスニーカーを、履き直した。
「…そうか。先戻っててくれ。俺は、これ吸ったら行くよ」
少し短くなった煙草をひらひらと振って、高梨に背を向ける。
青い空が、白い雲が、大きな太陽が眩しい。
跳ねるような足音が、遠ざかっていく。
「先生!」
大きな声で呼ばれ、振り返ると、高梨が屋上の扉に手をかけて、こっちを見ていた。
「ありがと!!」
勢い良く頭を下げて、高梨は明るい笑顔を見せて、戻っていった。
その笑顔が、妙に焼き付いて離れない。
その感覚に、恋などという名前をつけなければならなくなった今の俺を、あの時の俺が知ったらどう思うだろう。
事前に、もしもわかっていたなら…俺は、屋上に行かなかったんだろうか。
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