上 下
28 / 41
水沢 美園

2

しおりを挟む
「陶芸家」「川本真奈」「個展」この3つを見ただけで十分だった。
これに比べれば、上司の酷評も天使のささやきのようだ。
私は、封も開けず封筒を手に持つと、ふらふらと机に近づき、書類が入っている引き出しの一番下に隠すようにしまった。
だが寝る頃になっても、3つの単語と、その横に書かれていた数週間後の週末の日付を忘れることができなかった・・・

真奈ちゃんとは小学五年生の時、陶芸教室で出会った。
中学までは別々だったけど高校は同じところに入り、大学も同じ陶芸科。ずっと一緒だった。
そんな私たちが離れてしまった原因は私にある。真奈ちゃんとの約束を破って就職してしまったからだ。

中学生の頃、まだ別々の学校だった私たちは、週一回の陶芸教室の後、公民館の廊下の椅子に座っていつもおしゃべりをしていた。
多分その頃だと思う。私たちは「一緒に陶芸家になろうね」と約束した。
でも、大学3年の秋を迎え、陶芸の道に進むと両親に話してから全てが変わってしまった。

私は大学でも成績の良い方で、課題の提出にもほとんど苦労した記憶がない。
それは陶芸を始めたばかりの頃から変わらず、楽しく作っているだけで割と良い評価がもらえていたのだ。
そんなだったから、陶芸科の人はほとんどが私は卒業後も陶芸を続けるものだと思っていた。もちろん私自身もだ。

だが両親はそうではなかった。
「安定した仕事を選んでほしい」
私の作品が賞を取ったりするといつも喜んでくれていた父が、静かに、でもしっかりと私の目を見つめながら言った。

私の家は祖父の代からの自営業で、父は選択の余地もなく家業を継いだ。
父が高校を卒業した頃は、ちょうどバブル景気の頃で、寝る暇もないくらい仕事があり、もちろん売り上げもかなりのものだったらしく、週末は先輩のおじさんたちと豪遊していたそうだ。
そんな良い時を知っていたからこそ、バブル崩壊後は本当に悲惨だったらしい。
まったく仕事がない状態が何ヶ月も続き、同業他社はどんどん倒産。うちも給料が払えず社員はほとんど辞めてしまい・・・
経理をしていた祖母が、祖父に言わずにかなりの額の貯金をしてくれていたおかげで、なんとか倒産だけは免れたのだそうだ。結婚前の母は、祖母の下で事務仕事を手伝っていて、その顛末をずっと見てきていた。

そんな経験をしているからだろう。あの時の父の声には本当に迫力があった。事情を理解する母も、父の言葉にただ頷くだけだった。

そんな2人を前にして、なんの苦労もなく楽しく作品作りをしてきただけの私には、何も言い返すことはできなかった。
そう、これから私たちがやろうとしていることは紛れもない「自営業」
今風に言うなら「個人事業主」なのだ。
社員として会社に所属して得られるような保証はどこにもない・・・

両親とこの話をした後から、だんだんと真奈ちゃんに会うのが辛くなっていった。
真奈ちゃんと話すのはいつも陶芸の話。
勉強は私より得意な真奈ちゃんだったが、製作の方は普通より少し良いくらい。そんな真奈ちゃんは陶芸家になることになんの迷いも見せなかった。ご両親とは大学受験の時すでに話していたそうで、今では心配しながらも応援してくれているのを、私もよく知っていた。

だから私は真奈ちゃんに気づかれないように、就職活動を始めた・・・
しおりを挟む

処理中です...