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レプリカント After Story

03

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 上り坂を汗を垂らしながら、それでも不思議な爽快感。とても気分は晴れやかで。いつもよりも帰りの道中が苦に感じない。
 あの後商人は、観念したのか。正当な額を提示して。それにはちゃんとここまで運んだ運送料も入っていて。びくびく尻尾を股に挟んで、僕のご機嫌を窺い。最初。極端に値下げし始めたけれど、正直後々が怖いし。商人の人も、それで食っているので。次にこの村で商売をする時、同じ値段で取引できなくなり。赤字続きになったりしたら、不要な怨みを買うのを避けたいというのもあった。だから値下げたのに、それにも口出しして。あくまでも正当な価格をと言う僕に対して。もう全てお任せして見世物を楽しむみたいに囲む漁師さん達も変な奴って。そんな顔していたのだった。
 少しでも遺恨は残さないに限る。僕だけが怨まれるならまだいい。だが漁村の人まで巻き込んで。変な噂を流されて、別の商人まで立ち寄らなくなったら。結果、僕のした事はとてもはた迷惑なもので終わるだろう。今この場は良くても、ずっと先の未来も考えて行動しないと。後でとても痛いしっぺ返しを食らうのだから。
 逃げ帰るように、とても腰が低くなった商人さんのその背を見送って。数日後、数週間後。結果がどう転ぶかはわからないが。あの人もこれからはもう少しまともな商売をして欲しいものだった。金蔓として、この漁村は良いカモだったのかもしれないが。そこまで足元を見られるような見た目はしていないのになって。体格の良い、男どもの風貌を思い返す。ヤクザとかマフィアとか、そういう仕事をしてる方が。しっくりくるぐらいには。本当に全員厳つい。
 買い物を終えたシャチくん。細めた目で、僕を見下ろしていて。何も言わず。僕もそのアイパッチの方をつい見返して。傷、早く手当してねとか。そう言うぐらいしかできないで。遅れて一回りも二回りも大きい、古傷だらけで片目が潰れているシャチさんが駆けつけると。仲間から事情の説明を受け。そのまま、シャチくんの頭を掴むとまるで地面に頭を埋めるようにして。強引に深々とこちらに下げさせていた。そこまでしなくてもいいのにって、内心そう思っていると。何するんだよ親父って、シャチくんは小さい声で抗議していて。黙れと、一喝されていたのだった。礼に、このまま家で食事でもとかそういった申し出をされたが。丁寧にお断りして。だって、僕には銀狼が帰りを待ってる筈で。早めに帰るつもりが、随分と遅くなってしまった。このままでは日が暮れちゃう。人助けの為とはいえ、これはガルシェに怒られるなって。そう感じて、急いで帰らないといけないのでって。僕までも逃げるように漁村を後にするしかなかった。
 急いで、本当に急いで。見えた我が家。日が落ちて、暗くなってきた周囲の景色。そして家から明かりが零れていないから。良かった、ギリギリセーフかなってそう一瞬だけ思ったけれど。玄関で朝見た時と同じ格好のまま、仁王立ちしている。とても、それはとても不機嫌そうな顔をさせている狼さんが居て。
 自転車のブレーキを使い、キーって耳障りな音をさせながら減速し。庭に入ると僕を見て軽く跳ねてコケコケ鳴く鶏達。そんな中でアーサーは、知らないわよって。知らんぷり。基本日が落ちる前に帰るようにしているので。門限を破ったのは僕なので、助け舟は今回はなさそうだった。でも、ちょっと苦し紛れに。
「お帰り、ガルシェ」
 僕の方が後に帰ったのに、玄関の前で待っていた男に。そう声を掛けながら。自転車を定位置に停め。急ぎ足で近づく。僕のそんな態度に、眉を顰めて。片耳がぴくぴくと反応していた。
「遅い」
 ただ一言。狼の低く、よく通る声が響くと。仁王立ちしていた腕を解き、一歩こちらに向こうからも歩んでくる。だが、何かに気づいたのか。もう一歩、銀狼の足がこちらに進み出たと思ったら。凄い勢いで距離を詰められ、まるで胸倉を掴まれそうだとそう錯覚するぐらいの形相で。僕の手首を取ると。狼のマズルが首筋に突っ込んできて。濡れた鼻が当たり、ひんやりとした感触につい。冷たいってそんな意味を込めた。ひゃんって声を出していた。
「血の臭いがする。どこか怪我をしたのか、ルルシャ。誰にやられた!」
 狼はとても怒っていた。数秒前まで僕に対して。今は、僅かに残った痕跡を嗅ぎ取り。姿のわからぬ、番に危害を加えたかもしれない輩にだ。
「まって、ガルシェ落ち着いて」
「誰だ。あれほど村の連中に気を許すなと言ったのに。ああ、お前に何かあったら、俺は。俺は……」
 心配する気持ちが先走って、何があったか問い詰めるようであったけれど。人の話なんて聞いちゃいない。心配させた手前、強引に止めるのもどうなのかなって気持ちもあって。恐らく、彼が嗅ぎ取ったのはシャチくんの血であろうし。僕は一切怪我を負わなかった。一番引っ掻き回したのにだ。あまりの慌てように、ちょっと大袈裟なんだからと。ぐりぐりマズルを押し付けてくる狼の頭を押し返しながら、でも徐々に背が仰け反って。後ろに倒れるのも時間の問題であった。足元は固い煉瓦の床であったから、危険というのもあり。
 両手で。左右から挟み込むようにして、ぎゅむって。狼の頬を押す。僕のせいで変顔になる、目付きの悪い男。何するんだよって、そんな態度を取られる前に。鼻筋にちょっとやり辛いけれど。軽く口を開き。歯を当てる。僕の口じゃ、狼のマズルを甘噛みするのは不向きだなって思った。至近距離にある、僕の顔を反射した瞳が。ぱちぱちと、瞬きして。あまり、こういった。彼らの愛情表現は僕からしないから。かなり意表を付けたと感じる。だって、あんなに人の話を聞かなかった銀狼が。硬直して、腰をぶるりと震わせているのだから。徐々に視界の端に見える、尾がパタパタ揺れる。うん。予想通り効果覿面。恥ずかしいから、あんまりやりたくないけど。
 固まった相手。マズルから口を離す。ちょっと涎がついてしまった。ごめんね。そんな気持ちを込めて、さっと服の裾で汚れたそこを拭った。
「落ち着いた?」
「……お、おう」
 身長差のある相手の首筋に鼻先を埋めていたので、前屈みのまま。僕から視線を逸らす銀狼。照れているのか、ちょっと耳の裏が赤い。そりゃ、今まで一度もしなかったものね。これ。ガルシェにはなんどもされたけれど。僕の手首を離してくれた男の手が、そのまま。自身の股間に向かう。なんだか、居心地悪そうに。どうしてそうするのかなって。手を目で追って。股間の一部分が、じんわりと生地の色を濃くして。湿っていた。えっと。その。効果覿面。でしたか。別の場所がこんどは落ち着かなくなったのか。ガルシェは目を合わせてくれない。先程までの勢いをなくし、今にも消えてしまいたいかのように。耳を倒して。早く家の中に入りたそうだ。直接刺激しないと別に勃起はしないから。今朝のような、テントを作っていたりはしないけれど。いやらしい液体は漏れたみたい。僕のせいで。
 微かに、漂ってくる。尿とは違う、どこか饐えた臭い。
「とりあえず、中。入ろうか?」
 どうすればいいか、僕まで彼を直視できないで。でもそんな言葉を聞いたガルシェは。ぶんぶんと頭を縦に振ったのか。ちょっと風圧がこちらまで。僕が扉を開け、先にどうぞと促すと。前屈みのまま、家の中に入っていく。本当に最近、僕に対して。その男としての欲望を隠したがるから。可愛らしく感じたりもするが、そうまで恥ずかしがられると。僕までその雰囲気に当てられそうで。よく見ると、銀の被毛は。埃や煤で汚れていて。
「ガルシェ、電池は見つかった?」
 こちらを一瞥した銀狼は。少し考えた後。申し訳なさそうにしながら、首を横に振る。成程、成果はなしと。揺れていた尾はまるで中の骨を抜かれたかのようにぐったりとし、先がフローリングの上を擦っていた。掃除は定期的にしているけれど、あまりその状態でうろつかれると。箒みたいに毛先をさらに汚しそうだった。
 成果はなくとも、表面についた汚れから。きっとかなり探し回ってくれたのだと察した。鼻を使い、床を、棚の中に顔を突っ込んだり。汚れるのも厭わず。かなり、頑張ってくれたのだろうなって。この男の性格からそう思って。
「お風呂いこっか」
 僕がそう言うと。自分からとぼとぼと、脱衣所の方へ歩いていこうとする悲壮感を漂わせる広い背中。だが、そんな男を追い抜く過程で。だらんと垂れていた手を取り、僕が先導する。俯いていた男の顔が持ち上がり、意図を汲み取れないのか。不思議そうにしていた。
「ありがとう、ガルシェ。お疲れ様。今日は僕が洗ってあげる。一緒に入ろう」
 疲れているだろう相手を、労いたい気持ちで深く考えず。自然とそう口にしていた。必ず一緒に入るわけではなくなったけれど。それはあの街で僕からの依存を取り除こうと、独り立ちとは違うけれど。元々一人暮らしであったし。暮らしていた後半の方では、別々に入っていたから。その延長で、この家でもそうしていて。たまに、僕の気まぐれで一緒に入るぐらいであった。貯水タンクの、使うお水の節約にもなるという世知辛い理由もあったが。銀狼自身が、どうしてか。あまり一緒に入りたがらないというのもあった。でもこうして、僕から誘うと。あんなにだらんとしてた尻尾に、活力が戻るのだから。不思議なものだった。
 この男の時折垣間見せる生理的なものであったり。そういった性的な部分を全く気にしないように努めているので。だから、股間の染みもあまり気にせず。嬉しそうにする狼を連れ、風呂へと誘った。
 お風呂場にあるスイッチを入れ。そうすると、家の小型発電機が稼働し。照明が付く。この家で唯一。電気が使える場所だった。普段は蝋燭や、ランタンだけれど。冷蔵庫よりも、お風呂場を優先したのは。かなりの僕のわがままだった。常に稼働しなきゃいけない、燃料を大量に消費する電化製品と。こうして、ほんの少しの時間。家の水道と、ろ過装置を連動させて。貯水タンクから水をキッチンとお風呂場。そして洗面台に行き渡らせるのとでは。消費するガソリンの総量がかなり違う。シャワーは使えた方がいいし。ただ、湯を沸かすのは諦めた。そこまでの贅沢はできなくて。もう少し大きな発電機と、湯沸かし器の修理。多めのガソリンがあれば。できなくはないが。それは高望みかなって。実際、お風呂に入る頻度も。ユートピアで暮らしていた時よりは落ちている。ガルシェはあまり苦ではないのだろうけれど。だんだんと獣臭くなっていく夫の体臭に、それでくっつかれるのは僕の方なわけで。
 そしてどうしても動物と違い人間なので髪とかギトギトしてくるし、正直辛い。
 僕が暫くお風呂に入れなくて機嫌が悪いと、銀狼が不思議そうな顔して。そんなに気にしなくても、ルルシャのにおい普段より濃くなって俺は好きだぞって。頭頂部に狼の鼻を埋めながら言われてもだ。それってつまり臭うってわけだし。
 お互いにかって知ったるもの。自分の手であっという間に服を脱ぎ、洗濯籠に脱いだ服をお互いつっこんで。僕は大きなタライを運び込んで準備をする。脱いでる途中に見えた、男の生殖器が。興奮の残火として鞘から少し尖った頭を出しているが。もうガルシェも吹っ切れたのか、隠さなかった。元々タオルで股間を隠すような人ではなかったし。そこに性的な、いやらしい雰囲気なんて僕達にはなかった。僕も、ガルシェも、ただお風呂に入るだけってわかっているから。いまさら、お互いの裸にそこまで反応しない。そう高を括っていたけれど。獣の瞳が少しだけこちらを意識しているのか、ちらちらと。僕の身体を見てくる。気づかれていないと思っているらしい。そわそわして、落ち着きがないから。すぐわかった。ガルシェって、自分がかなりわかりやすいって、気づいてないのかなって。たまに心配になる。あまり嘘がつけない性格であるし、しかたないのだろうけれど。今朝の事と、さっきの玄関の事と。普段しない行動を取ったのは僕の方で。内心嬉しいけれど、どうしたのかなって不安を煽ったのかもしれなかった。
 僕だって、ある日突然ガルシェがいつもより優しかったり。普段と違う行動をすれば何かあったなって思うのだから。彼の場合。自制しているお酒が飲みたくて許可を取ろうだとか、甘えたい前兆だったりするので。特に害はなかったが。
 大きなタライの中に座り込んだ大男。僕は背後でシャワーノズルを手に取り、その段階で耳を塞ぐガルシェ。会話がなくても特に問題はなく。そのまま蛇口を捻る。きめ細かい穴から出る水流はちょっと少なく感じるが。貯水タンクをそもそも増設しないと、使用できる水量的にこれ以上は無理そうであった。何かと生活をしていると、水を使うのだ。飲み水だって必要で。我慢できる部分は我慢するべきだった。全体的に被毛を濡らし、そこにボディーソープを塗り込んでいく。当然僕も同じのを使う。日用品を旅商人から買う時、選ぶのは僕ではなくガルシェ。あまり、においが強いのは狼の鼻に対して刺激が強すぎるので。避けていた。僕の鼻では大丈夫でも、彼は駄目かもしれない。それと、僕がこれなんてどうって選んだ場合。こちらを凝視しながら、それで良いって言いそうな気がしたのもあって。なら最初から、相手に選ばした方が僕も気兼ねなく使えるというのもあった。フローラルな香りとかしないけれど。意外に泡立ちが良いので、僕としては満足している。だから、指を立てて。今日も僕の為に頑張ってくれた番の背中をごしごし洗っていくのだった。
 毛の根本を念入りに、毛先に泡を馴染ますようにして。そうしていると。だんだんと気持ちよさそうに、うっとりと目を細めた銀狼。僕と一緒なのもあるのだろうけれど、綺麗になるのはやっぱり嬉しいみたい。ただ濡れるのと、拭くのがめんどくさいから嫌なだけであって。本当にお風呂嫌いなのも筋金入りだった。一生直らなさそうだ。僕と一緒な限り、無理やりにでも定期的に入ってもらうけれど。不潔な男は、いくら好きな人でも無理です。廃墟とか探索するから、汚れてすぐ埃臭くなるし。たまに泥だらけになってたり。そこに蓄積される獣臭さ。狼だけれど、野良犬みたいな体臭は。ちょっと、本当に、無理だった。我慢
どうこうではない。生理的に受け付けない。
 雨が降らない日が続き、お風呂の水が確保できない場合。そういうタイミングに限って、ガルシェがかなり汚れて帰ってきた時。寝床を別にするしかなかった。心苦しいが、ベッドまで汚れてしまう。僕から雨が降って貯水タンクが満タンになるまで、別々に寝てってお願いしたら。まるで死刑宣告みたいに、膝から崩れ落ちてうぉんうぉん泣き出した時は困り果てて。それでやっぱり共にベッドで寝ようとかは思わないのだが。一日目は問題なく、ソファーで寝た夫。まるで家庭内別居だなって思いもしたが、別に喧嘩したわけではないし。寝る時だけ別で、昼間は普段通り会話するのだから何も問題がないかに思えた。
 だが、早朝。おはようと声を掛けると、目を充血させた銀狼が。げっそりしてソファーで横になっていて。どうやら、僕と一緒じゃないから寝付けなかったのと。床に散乱する不自然に多い銀の毛から、ちょっと自分で掻き毟ったりしたのか。僕にとってはたった一日。されど彼にとっては、とても大きな影響を与えたらしい。二日目の夜。緊急処置としてしかたなく一緒にソファーで寝た。革張りの生地は、少々の汚れは水拭きすれば問題ない。ガルシェに抱き締められたまま狭苦しい場所というのもあっただろう、身体が寝苦しくてバキバキになった。夫が体調を崩すよりはマシだと言いきれたが。
 灰狼が番と喧嘩して会話もなく過ごした日々、触れあえないと強い精神的ストレスがかかると。そう僕の髪を切りながら教えてくれたのを思い出していた。贔屓目に言っても、自惚れでもなく。ガルシェは、かなり僕という存在に依存している。普通に過ごしているとそうでもないが。こうして家の中でさえ離ればなれになると、その傾向は顕著に露見して。番に何かあると、食事も喉を通らず。衰弱死したりする狼って、本当に難儀な生き物だと感じた。何か役にたちたくて、傍に居ようとする。物を取ってくれたり、何か欲しい物はないかしきりに聞いてきたり。世話を焼きたいというよりか。その本質は、目の届く範囲に僕が居ないと心が休まらないのだろう。突如何も言わず彼の元を一度は去ったのだから。心の傷も影響していて。そういう素振りは多々あったのだった。
 今一度、夫婦間の性生活をどうするか。考え、歩み寄るべきと。そう思い。どうしたら上手く行くかなって。改めて番になった後。ガルシェという名の狼の男が、僕をどう想い、どうしたいか。どうして欲しいかを観察していた。これまでの日々を振り返りながら。
 僕から触れられて嬉しいのか、前を自分で洗いながら。鼻歌まで奏でていた。その後頭部を見つめている人の視線に気づき、振り返りながらどうしたって。狼が優しく微笑む。僕に対するこういう笑い方が最近多くなったなってのも、観察しているからこそ気づいたのだった。
 なんでもないよって、もう少し力を入れた方が良いか聞くと。丁度良いって、タライの中に半分沈んだ尻尾がばしゃりと一度跳ね。水飛沫が舞う。
 膝立ちでこうして洗っていると、流れていく泡や水が少々黒い。今回はかなり汚い場所を探索したらしい。彼の頑張りが、その分汚れとなって。毛に纏わりつくのだとしたら。歓迎しないまでも、いつもありがとうって。そんな気持ちで。しっかり落としてあげたかった。ガルシェの毛並みは、丁寧に洗い櫛を通して整えると。本当に惚れ惚れするくらい綺麗なのだから。
 泡でもこもこになった男の姿に、お水掛けるよってこの時だけ声を掛けて。上から順に泡を洗い流していく。入る前よりも、水気を吸っているのもあると思うが煌めきが違うなって。
 ごぽごぽと大きな音をさせて、泡と抜け毛で排水口が詰まりそうになっていた。一度入るだけで、大型犬を洗うよりも大量の抜け毛が、それも大柄な成人男性の全身から抜けるのだから。それなりな量になるのは当然で。毎回必ず掃除しないといけなかった。ユートピアの配水管は、自分達が使うからか。太めの物を使用していたがここは元は人間用の住宅である。タライの中に胡座をかいたガルシェが、自分のすぐ傍にあるタイル状の床と同化していた蓋を開け。配管まで流れ込まないように、受け止めていた受け皿から銀色のマリモみたいな物体を掴むと。水切りのついた三角コーナーの中に、べちゃって投げ捨てていた。今日もたくさん取れたね、ガルシェ。
 シャワーノズルを戻しながら。綺麗になった相手の姿を見つめる。その狼の凛々しい顔を、少しだけ横から覗き込んだ。流れていく水滴。毛の流れを辿り、顎を伝い。集合した小さなものは、大きくなり。表面張力にも負け、垂れ落ち。ぽちゃん。銀狼が座り、かさましされたタライに満ちる水面を叩いた。首筋に至ったものは、そのまま鎖骨がある窪みに溜まり。鍛えられ豊満な胸による谷間の中を進むものまで。彼と共に二度目の冬を迎えようとしていて。冬毛になりつつある被毛豊かな全身は、今はぴったりと。肉体に張り付き。無駄のない身体を露わにしていた。斜め上を向いて、吐息を吐き出したガルシェの姿が。どこか魅惑的に映った。男性として、鍛え抜かれたその身は。たとえ同性であったとしても。とても魅力溢れるもので。羨望の眼差しを向けるに値する。軽く首を振り、人間が髪を振り乱すみたいに水気を飛ばして。水滴がこちらまで飛んでくる。
 すんっ。湿気が多い空間を、狼の鼻が嗅いで。ゆっくりとこちらに振り向く銀狼。さっきみたいな穏やかな顔をしていなくて。人の顔をちょっとだけ見たと思ったら。すぐに逸らして。胡坐をかいていた足。その片方、丁度僕側の膝を立てて。まるでその動作は自身の股間を隠すように。姿勢を正し、膝立ちのまま。片手だけ、男の広い背中を触る。背骨と、肩甲骨と。とても逞しい。同じ性別で。でも異種族だから、毛皮があってぜんぜん違う手のひらから感じる手触り。体温。
「ねぇ、ガルシェ。ガルシェはやっぱり。僕と、その……。セックス、したい?」
 聞いた。聞いてしまった。ずっとお互いに避けていた話題。なあなあに、先延ばしにしていた。愛する相手にだけ我慢を強いて。そのまま。今は安全ではないから。忙しいから。言わないから。触れないから。都合よく言い訳だけ述べて。見ないふりをして。
 ちょっとだけ、黙ったまま何かを考えているのか。ガルシェは僕に背中を向けたまま。たまに後頭部を爪で掻き毟るようにして。めんどくさそうに、溜息を吐いていた。
「むりはしなくていい」
 まるで突き放すように、彼らしからぬ平坦な声音で。いつも、愛情が滲んだ。とても優しい言い方をするのに。どうして、今だけ。なんでこっちを向かないの。わかりやすいくせに。背中だけでは、思ったより相手の考えている事なんて見通せない。表情を、銀狼の顔を見ないと。僕にはそうしないと、彼みたいに。においで相手の感情なんてわからないから。よく動く耳や、尻尾はこの時ばかりは。とても静かだった。
「してないよ」
「誰かになにか言われたろ」
 違うよって、言いかけて。そう言ったところでまるで意味がない事に気づいた。押し黙ってしまう。否定しなくても。このタイミングで言い淀むと、それで。たとえ嘘で塗り固めても、彼の鼻なら簡単に見抜ける。嗅ぎ分ける。汗のにおいや、焦った微妙な変化といったもので。僕達の間では正直に話すべきだ。そうするべきだった。誠実に接するべきだった。ずっとそうしてくれていたのは、誰でもない。ガルシェだ。
「うん、言われた。番って、もう一年近くになるのかな。あの街を出て、旅をして。こうして二人で暮らせる場所を見つけて。僕って、君になにが返せるのだろうなって、そう思ったら。とても不安になって。考えて。しなきゃいけないのかなって。だから」
「俺は義務感でされたくはない」
 ばっさりと言い捨てられてしまった。遠まわしであったけれど、僕の今ある心の中をよく表している一言だった。本当に、僕の夫は。僕の事をとてもよく見ているのだった。
 俯いてしまう。触れていた手を離す。離してしまう。まるで心の距離を体現しているかのように。ぶるりと身体が震えた。ガルシェを洗う為に。僕も裸で、水に濡れたからだった。奪われた体温。触れていた男の肌が恋しい。
「ルルシャ」
 ばしゃり。タライの中で座っていた銀狼が立ち上がる。下半身はまだ溜めた水に浸かっていたから。ぼたぼたと雨水のように大量に落ちるそれらが、タライの中に戻ろうとして。タン、カンカン。そんな不思議な音をさせていた。足首が少しこちらを向いて、浮き上がる。その場でガルシェが、身体の向きを変えていた。こちらを向いて。見下ろしている気配がする。視界にあるのは、俯いているから、彼のずぶ濡れの脛と足が二本。
「こっちを見ろ」
 どこか有無を言わせぬ圧があった。雄の狼としての、普段は僕に向けない。そんなものが、ぐっと肌に纏わりつくようにして。恐ろしい威圧感に、恐る恐る顔を男の指示に従い。上げて、そうして見えた眼前の光景に硬直する。
 至近距離にある、太い脹脛。筋肉一つ一つが浮き上がり。固く引き締まったそれらは流線形の中に、大なり小なり。形を変えて。僕の棒みたいなものではなく。太腿だけで複数のパーツで構成されてると、わかるような。そんな肉付き。そしてその付け根。そこには当然男性としての。シンボルが存在していて。たわわに実るようにして、二つある。鶏の卵を超えるような大きさの、ふてぶてしい陰嚢をぶら下げて。その上に息づいている。毛皮でできた鞘状の包皮は。後退し、先にある黒い唇のような部分が開き。赤黒い肉の突起を露出させていた。
「俺が、そうだな。ルルシャと交尾するとして。きっと途中で止まらないし、止められない。泣こうが、喚こうが。無理やりにでもこれを押し込むだろう」
 ずいって、ガルシェが腰を突き出す。よく見えるように。そうすると膝立ちだったのもあって、相手は普通に立っているから。身長差も手伝い。ちょうど僕の顔に、当たりそうなぐらい。狼の生殖器が。目と鼻の先に。本当に、鼻先をかすめそうなぐらい。
「ちゃんと見ろ。ルルシャ。俺の獣の部分を。よく見て考えろ。犯したくて、犯したくて。まだ何もしていないのに、先走りが出そうになってる。俺のチンコを」
 犯す。ガルシェはきっとわざとその言葉の部分を強調していた。その気配を、彼のペニスから。感じる。触れてもないのにぴく、ぴくってかってに少し動いてるその先端。小さい空洞。尿道口から、ちょっとだけ透明な液体が滲み出てきて。小さな玉となり、ペニスが振動するのと一緒に震え。ぴって、急に勢いよく僕の額に飛んできた。反応ができなかった。圧倒されていた。初めて、冷静なガルシェに。性欲を目の前に文字通り突き出されているというのもあった。こんなにも露骨に。鼻先に、もう少しだけ鞘から出てきたペニスが。むにって、柔らかく接触する。そこでガルシェの腰がちょっとだけ揺れ。尖ったペニスの先端を使い。まるで筆のように。先走りが塗り付けられるのを、寄り目になりながら。焦点が合い切らずぼやけた視界で確かに肌でも感じた。
 興奮すると鞘から出てくるけれど、男のそれはまだ勃起していないから。固くはない。握れば内部に陰茎骨があるから芯があるとしても。まだまだ全力を、全貌を曝け出してはいない。鼻腔に漂う、雄の臭い。普段しまわれているからか、蒸れて。多少洗っても染みついたそれは、至近距離で嗅げば。目を瞑っていたとしてもソレとわかるぐらい、雄臭かった。つんと、僅かにアンモニア臭もしていて。恐らく、鞘の内側にこびりついた恥垢とか。そういったものがあるのかもしれない。ちゃんと剥いて洗わないといけないと思うが、今日は僕がお風呂に同伴したのもあって。目の前で剥いて洗う余裕がなかったのかもしれなかった。洗ったというのに、その部分だけ。銀狼のとても濃い体臭を煮詰めたような。退化した僕の鼻でも。雄のフェロモンを感じそうだった。
「怖いか」
 ガルシェのペニスを見つめながら、彼の好きなように顔を先走りで汚されて。動けないままの僕を見て、そう問われて。確かに恐ろしいと思った。異種族の生殖器だから、当然僕とはぜんぜん違う。口の中の粘膜をそのまま表に出したように、血管だって透けて見えて。
 銀狼の手が、僕の肩を軽く押して。咄嗟の事で反応ができず、そのままタイル張りの床に背中から転がる。幸い頭をぶつけたりはしなかったが。それどころではなかった。僕の下半身を跨ぐようにして、ガルシェが膝立ちになり。せっかく離れたペニスとの距離を、縮めてくる。だがまた顔にというわけではないようで。片手で僕の肩を押さえ軽く体重をかけ、起き上がれなくすると。もう片方の手で、自身のペニスを。鞘の上から握った。
「ッ、ハッ……」
 刺激に、息を詰めた男の声。僕を見下ろす獣欲を称えた瞳。歯を食いしばり、耐えるような表情で。男は、普段そうやっているのだろうと感じさせる手つきで。隠れて見えないところで自慰をするように。僕の真上で自身のペニスに刺激を与えだした。まだ全身の水気を取っていない、ずぶ濡れ状態の狼は。身動きする度にぴちゃぴちゃと水音が鳴り。対して、緩やかに上下運動をする。手で輪っかを作り、その中をペニスを通し。擦り、抜く音は。乾いた、しゅっしゅっていったものであって。与えられた快感に嬉しそうに涙を流す、グロテスクな雄の象徴は。まるで僕の射精のように。ぴゅ、ぴゅって、熱い先走りを。擦られて狙いがつけられぬまま。あらぬ方向に飛ばしだす。ガルシェのペニスは。カウパーの分泌がとにかく多い。円滑油の役割と、相手の中を洗う役割があるって。その狼の口で、教えられたものが。目の前で繰り広げられていて。大量に、スプリンクラーのようにぷしゃぷしゃと。男の下で寝そべっている、人間の肌の上に雨の如く降り注ぐ。お腹の上を。胸の上を、頬を。お風呂場で、浄化水でないもので濡らしていく。細められた目。ハッ、ハッと荒い息。擦る動きを速めながら。自慰に耽る銀狼。その視線は真っすぐに、僕に向けられていて。僕も、目が逸らせなかった。臍の上に、とろりと。粘着質な液体が落ちてくる。歯を食いしばった、ガルシェの口の端から垂れてきた唾液だった。
 カウパーを大量に分泌し、僕の身体と、自身のペニスまでも十分に濡らすと。いつの間にか、男の手の中からも。ぴちゃぴちゃと同じような。でも全く違う、とても卑猥な音がしていた。自慰の最中、彼の握ったモノに変化が訪れた。細く、まだ短かったのに。血液が送り込まれ、男の手の中で膨張を始める。狼のペニスは、相手に挿入した後で勃起するから。こうして、手で刺激されて。反射的な反応を起こしているだけだった。輪っかを作った男の指。人差し指と親指の先が、内側から押され。離されていく。ぐんぐん膨張し、長く、太く。その分毛皮の鞘を根本に押しやって。露出する面積を広く。漂う雄の臭いをより濃く。鞘の中でより膨張し膨らんでいたモノが隠し通せなくなったのか、勢いよく剥かれ。もう一対の、ちょっと歪な睾丸みたいなものが飛び出てくる。その頃には、あれだけ噴き出ていたカウパーは止まっていて。ガルシェのペニス。狼のそれは、しっかりと屹立し。ついにその全貌を露わにした。完全勃起したのを確認すると、深く息を吐き出しながら。握って輪っか状にしていた手を解き、ペニスから手を離してしまう銀狼。びくん、びくん。そうやって刺激が途中で止んで不満そうに。勃起して質量が増したペニスが重たそうにしゃくりあげていた。手を離しても、まるで別の生き物がそこに生まれたかのように。赤黒い粘膜が、びくりびくりと。独りでに揺れている。長さは二十センチはあろうかというもので、太さも僕の指では回りきらないのを知っている。人間みたいに雁首といったものはなく、先端だけ尖った棒状の。まさに肉の棒。先端から幹の部分にかけてだんだん太くなり、根本の方に行くとちょっとだけ細く変わったと思いきや。その根本にあるのは、不自然に横にボコッと張り出した綺麗な円形ではない一番太い瘤。亀頭球と呼ばれる。より異種族の生殖器を象徴する部位だった。ただでさえ、ペニスも太いのに。瘤はもっと太い。表面は全体的に、勃起した人の亀頭のように皺がなくなるぐらい膨張しツルツルとしているのに。充血し、太い血管が樹木に絡まる蔦のように。枝分かれしながら、細かい段差を作っていた。そのすぐ近くで重そうに揺れている陰嚢が。早くペニスをぶち込み、溜まりに溜まった中身を注ぎたいと存在感を負けじと放っている。
 呼吸を落ち着けているガルシェを見上げながら。湿気の多い空間なのに、酷く喉が渇いたようにからからになった。そこに。ごくりと、唾液を飲み込み潤すが。どうしてか満たされない。
「怖いか」
 また、同じ質問をされていた。こんどは勃起した生殖器を向けられたまま。だから、そう言った男の顔を見たのは数秒。そして吸い寄せられるようにして。またグロテスクな肉棒を。僕は見つめてしまう。銀の毛から突如生えたそれは、とても生々しい。犬科の特徴をそのまま残した器官。何も答えられないでいると。ガルシェは、膝立ちのまま腰を下ろす。僕の太腿に座るように、位置を調節して。ペニスの根本が、僕の股間に来るように。全ての体重を乗せられた場合、潰れてしまうから。かなり加減はしてくれているのだろうが。
 ぶらぶら揺れる重たげなペニスが、目に見える質量そのままに。ずっしりと、僕のお腹の上に乗せられた。堪らないのか、銀狼がそんな光景に舌なめずりをして。ぶらんと、脇の方へ。かってに流れて、向きを変えようとする自分のペニスを軽く掴むと。僕のすぐ近くにあるちんちんを邪魔だとばかりに押しやりながら。真っすぐに、尿道を僕の胸に、それよりも先の顔に向けるようにして。お腹の上に、ガルシェのペニスが乗せられていた。感じる、重さ。肌から伝わる、粘膜だからか火傷しそうな。僕よりも高い男の体温がより顕著に。そして、尖った先端は。ちょうど臍のすぐ近くに。
「ああ、ルルシャ。交尾したら、きっと気持ちいいんだろうな。お前の中に、今見えてる位置まで。入り込んでしまうんだ。見てみろよ、ルルシャの臍。越えそうだぞ」
 酒に酔ったような。うっとりとした、猫なで声で。その先の銀狼の想像する未来を見据え。僕までも、同じ光景を想像してしまった。あの巨大な逸物が。異種族の生殖器が、僕を貫くのを。
「たくさんルルシャの中を俺のこれで、突いて、突いて、突きまくって。俺の形を覚えこまして。ちゃんと、亀頭球まで入れたら。同族でも痛がる場合もあるらしいこれを。ルルシャ相手に、好きなだけ、たっぷり。種付けできたら、どれだけイイんだろうな」
 肩を押さえていた手が離れ。さわさわと、男の手が撫でるようにして。そして狼の人差し指が僕のお腹の上をなぞる。ガルシェが見つめている、お腹。というより、その先。はらわたを透過しているのか。羨ましそうに、とても欲しいと。飢えたような。そんな雰囲気があった。ぐちゃぐちゃに、目の前の男の熱く滾った怒張で。乱暴に腰を振るい立てられ。滅茶苦茶に。お腹の中を、搔きまわされて。その末にどうなってしまうのか。想像して。してしまって。それで。
「怖いだろ」
 びくりと、ガルシェの言葉に身体が震えた。お腹の上にある、凶悪なそれを見つめたままであった僕は。それでやっと。銀狼が恐ろしい事を想像させる言い方ばかりしているというのに。酷く穏やかにこちらを見下ろしているのに気づいた。てっきり、野獣のように。瞳を爛々と輝かせているものと思っていた。今からそうするんだぞって、伝えているみたいなのもあったが。
 ははって、楽しそうに笑うと。上半身を倒し、寝転んだ僕の上で四つ這いみたいな姿勢を取る銀狼。開口した狼の顎から、長い舌が出てきて。僕の肌を汚した自身の先走りを舐めとっていた。胸、鎖骨。首筋と、徐々に上へと迫る男の顔。うっとりとしたままの表情で、人の肌を舐める様子は。どこか、とっておいた高価な飴を舐めるのに似ていた。顔まで来て、舌を引っ込めると。額に軽い口付けを落とされる。
「怖いよな。初めて俺のを見た時も、怯えたにおいさせてた。こんなに、俺とルルシャは。大きさだって、形も、違うし。俺は狼だしな。人間のルルシャが、無理して。俺の本能に付き合う必要はない」
 過剰に発情し、意識を失い倒れたあの日。ベッドに横たわった彼のズボンを寛げて、僕の手で掴みだし。刺激し。勃起させ、まじまじと観察したガルシェのあそこを。見て、どう感じたのかを彼はわかっていて、そして、覚えていたのかと。唖然と見上げていると、濡れた髪を掻き分けるようにして。彼の鼻先が左右に動いた。そうされるとより、男の表情が良く見えた。慈しみに満ちて。けれど、どこか諦めている。そんな顔。全部わかってるよって。そんな人がさせる顔だった。
「それなのに、俺の触って射精させるんだから。ルルシャって大胆なのかよくわからないな。あの時、俺の事。好きでもなかったくせに」
「ガ、ガルシェっ」
 思わず男の名を呼んだが。ちょうど開いた口に、狼のマズルが覆うようにして塞いでくる。ぬるりと、入ってくる舌。さっきまで僕の肌を、自分の先走りを舐めとっていたそれが。ぬちゃりと、僕の舌に絡まると思われたのに。器用に口の中でするりと避け。口蓋をちろちろと刺激してくる。なんでそんなふうに言うの。なんでもう諦めたような顔をするの。せっかく僕から歩み寄りたいと思ったのに。首飾りを受け取った時。ガルシェが考えといてくれって、シたいって。そう言ったんじゃないか。そんな、焦りとも。憤りとも。その両方にも感じられるものに突き動かされようとしても。男の表情を見ようとして、口内にある狼の舌に意識を持っていかれる。歯茎をなぞり。逃げる相手に追いかけようとして。追い詰められていたのはむしろ僕で。気づいたら絡まるようにして粘膜同士が。ガルシェの長い舌が人の舌に。唾液が降って来る。合わせた口同士。ぼたぼたと滴る。生暖かいそれ。
 あの時はそう。彼に気に入られようと。人間が原因で発情してしまい困惑する。狼である彼を、治そうとして。付き合っていたに過ぎない。行く宛のない僕が、全ての存在が敵か味方かすら確信が持てない。自分自身の存在自体、否定しそうで。怖くて。何もかもが怖くて。そんな中で優しさを見せてくれる相手に、惹かれていったのだ。立場を考えると、僕などさっさと所長に引き渡せば済んだのに。
「ハッ。ハハ……、やっぱ冬が近いからかな。いつもよりルルシャとこうしてると腹の奥の疼きが強いな」
 息継ぎの合間だけ、離れる舌。聞こえてくる、自分自身を俯瞰して。呆れたふうに、そう言うと。また僕が余計な事を言う前に塞いでくる。さらに深く。深くに。また喉奥に男の舌先が触れて。ごふりと、軽く咳き込む。そんな苦しそうな僕の様子を見たとしても、ガルシェは口を離してくれなくて。ともすれば、もっとそうなれとばかりに。積極的に喉に入ろうとしてくる。なんど目かの咽た拍子に。鼻からも液体を噴出して。それが彼に注がれた唾液なのか、元々自分から分泌されたものなのか。鼻水だったのか。判断がつかなかった。ただわかるのは。見下ろしている彼の瞳には、とても無様になった。いろいろな液体で汚している僕の顔が映ってるのだろうなって。息を荒げて、足りない酸素を取り込もうと必死だった。
 冬。そういえば。彼ら狼にとっては特別な季節。繁殖の季節なんだなって。前は過度な禁欲と僕のにおいに当てられたせいで秋なのに突発的に発情してしまったガルシェを思い出しながら。理性が宿る瞳で、本能を剥き出しにした下半身を擦り付けられながら。とても酷い事をされている僕の思考は、冷静に考えようとして恐ろしい雰囲気の狼にそれすら、乱される。
 丸く整えられた爪が、間隔が短く動く人の喉を触る。というより、首筋にある。未だ痕が残るある咬み痕を触っているようだった。小さい窪みにふっくらとした肉球が塞ぐように嵌り込んで。ぐりぐりと刺激してくる。獣の牙でそうされた名残は。目の前の狼にではなく、別の。友達にされたものであった。
「俺ならまだしも、番に痕を残させるなんて。そういう関係になる前だったし、ルルシャの自業自得でもあるから、それで怒りはしないけれど。それでもなんだか嫉妬する」
 淡々と告げるわりに。その咬み痕をなぞる男の手付きはとても執念深い。
「でも。ルルシャのキスも、初めては俺だし。これからも。誰にも。番の初めてを奪うのは、全部俺だし。いいのか。でも、見てるとイラつくんだ。これ」
 今の雰囲気に似つかわしくない幼い笑い方をすると。でもそんな顔を一瞬で引っ込めて。憎悪に近い、そんな表情をして。眉間と鼻筋に皴を寄せ。ぐるると唸ると、また咬み痕を触られる。とん。とん。人差し指が触れては、離れて。
「俺の牙で上書きしちゃダメかな。ああ、でも今は片方牙が折れてるから。二度も咬まないと……。上手く咬めるかな、ルルシャ。そうなると血だらけになるかな。どうしよう」
 困ったなって。耳を倒して。狼の頭が首を傾げながら、とても恐ろしい提案をしてくる。動脈にとても近い位置にある、不自然に残る陥没に。再び動物の牙が、食い込んで。後が残る程に、強い力でそうされた場合。かなり危険な行為であるのは、ガルシェにもわかっているのだろう。だからこうしてお伺いを立てているのだろうか。二度もされて。動脈を傷つけられて死ぬ可能性があるから。普段からかなり独占欲が強いとは思っていたけれど。それでもまだ隠していた部分があったんだなって。男の様子からそう感じていた。
 キスの相手が、実はガルシェが最初じゃないなんて。今言ったら、喰い殺されそうだった。不可抗力であり、相手もまた性的な意味合いは全くなかったが。墓まで持っていかないといけないのかもしれない。それぐらい、今の夫からは。そんな危うさがあった。性的に興奮しているというのもあったと思うが。
「ルルシャに嫌がられる事はしたくない」
 じゃあ。今のこの状況はなんなのだろうか。彼がわざと、僕を驚かそうと。怯えさそうとしているのはなんとなくわかる。それで、実際に平気そうなふりをしながら。怯えてしまっているのも。自分自身の状態を。ちゃんと理解していて。口先だけ受け入れたい、歩み寄りたいと。そう考え行動に移したところで。全て見抜かれてしまっていたのだった。
「そう言いながら。顔舐めるじゃん……」
 顔を逸らし、いじけたように。普段の彼のおこないを指摘する。人間同士なら絶対にしない行動。でも動物同士なら一般的なものであって。どちらの要素もある目の前の男は。二人っきりの時、たまにするそれを。僕は顔を唾液濡れにされるのはあまり良く思っていないから。毎回、度が過ぎると止めてくれと抵抗するのだった。別にガルシェが今その事を言っているわけではなかったであろうか。嫌なら無理やり抱かないと、ようはそう言っているのだろう。そうしてくれていいのに、そうしてくれたなら。と思わずにはいられない。でも怯えたにおいを醸し出す番相手に、この愛情深い狼が。それでわかりましたと手を出すかというと。そうではなくて。
「そういう時。ルルシャは表面上は嫌がりながら、嬉しそうなにおいさせてるから。ついやっちゃう」
 ニシシって、肩を震わせて笑う男に。相手の顔を見れないまま、赤面する。横を向いてるのだから、晒されている頬に。ぺろりと、控えめに言いながら舐めてくるガルシェ。だって、その行動が相手の愛情表現の一つと理解はしているから。好きと言われたわけじゃなくても、好きだと身体で表現されて。嬉しく思わないわけがない。僕だって彼が好きで。それで一緒に居たいとそう望んだのだから。その結果何もかも彼から奪い、我慢を一方的に強いて、苦労ばかりかけているとしても。敵わないなって思った。全部、その鼻で筒抜けになってしまうから。隠し事とか、別にする気はなくても。特に言っていない部分まで、伝わってしまう。伝わり過ぎてしまう。だから、ガルシェが普段。僕が嗅ぎ取れない分を補おうと、わかりやすく態度に、表情にわざと出してくれてるのかなって。そこは考えすぎだろうか。馬鹿ではないが、そこまでこの男が思慮深いとも思えない。僕に対してはどこまでも真っすぐ気持ちを向けていると知っているのだし。思慮深い人が、考えもなく身体が先に動いたりはしないであろう。というのもあった。
 ぷしゅんっ。顔に水飛沫が少し掛かったのを自覚して。その独特の、どこか可愛らしい音と。正面を向くと。ずるると、鼻を啜る狼の顔がばつが悪そうにしているものだから。くしゃみをしたのだとわかったのだが。真正面に居る僕がそれで被害を被ったのだと冷静に判断して。生理現象だとしても。言わずにはいられなかった。
「ガルシェ、汚い」
「えっと、悪い」
 改めて男の身体を見ると、滴る水滴は減ったが。依然と全身が濡れたままであるのは同じで。毛が頭とかごく一部しかない人間の僕は、わりと肌は乾きつつあった。顔はぐちゃぐちゃだが。毛皮のある男はそうではなかったようで、ずっと濡れたままだった。それで長い時間放置していた場合。体温が奪われるのは必然と言えた。それも、温かいとは言えない季候。プレハブだった外装と異なり、今の家は断熱処理がしっかりされているのだが。暖房器具はないので、寒いものは寒い。お湯なんて出ないお風呂場ではなおさらだった。
「いいかげん出るか、寒い」
「そうだね。風邪ひきそうだし」
 ちらりと見た男の下半身は、いつの間にか勃起していた逸物が萎え、だんだんと鞘袋にその身を隠しつつあった。直接的な刺激でそうなるのだから、その刺激が止んだら。射精に至らなかった場合。萎えやすいというのもあったのだろう。それと、僕達がいやらしい雰囲気を見失ったというのもあったと思う。僕の上から身を引く銀狼。ぶるぶると震えているから、普段は僕よりも高い体温が。今はかなり低くなってしまっているのか。男の逞しい腕が自分を抱きしめるようにして、またくしゃみをしていた。これは速く拭かないといけないと。自分よりも体格が良い相手に覆い被さられていないのだから。自由になった今。やっと同じように後ろ手に支えながら身を起こし。立ち上がると。脱衣所へと急ぎ足で出る。棚から大きめのタオルを幾つか取り出しながら。
「ガルシェ。ほら、早く!」
 身を縮こまらせ、ずぶ濡れ狼が僕の掛け声でゆっくりとお風呂場から脱衣所に出てくると。
「わぷっ」
 男の顔目掛け、先ずは一枚。タオルを投げつける。続いて、その広い背中にもう一枚被せ。三枚目は自分で持ち、ごしごしと、水気を吸わせていく。触れた男の身体は、やはりちょっと冷たかった。早く拭かないと。そう焦燥感が、手の動きに反映されて。何か言いたげな狼も、ぐっと我慢したのか。自分も、頭に被せられたタオルを取ると拭きだした。だんだん吸収した水分で重さを増す布。それを床に破棄すると。新しい四枚目を棚から取り、だらりと垂れ下がる尻尾に取り掛かる。ふんわりと、包み込むように。そして、上から押さえ。普段は毛せいでとても太く感じる尾も、今だけは猫のように細くなっていた。意外に狼の尾も、こうして濡れると中身は細いのだとわかる。とても繊細な部分であるから、あまり強く擦ると。男の腰が嫌そうに逃げるので、ここだけは気持ちが急いても丁寧に扱うべきだった。それでも抵抗するように、タオルに包まれた中身が左右にもぞもぞ動き続けるのだが。
「ガルシェ。じっとして」
「う、ぐっ。おう……」
 にべもなく告げる僕に対して。どこか、悩ましい男の声。でもそう時間を要する部位でもなかったから、包んでいたタオルから解放すると。ぶおんぶおんと払いのけるようにして、大きな尾が振られる。水気はだいぶ取れたけれど、その毛並みはボサボサのトゲトゲだった。
 銀狼を拭いた後で、自分を拭くと。下着だけ男は少しゴムがくたびれてしまっているトランクスを履き。僕はちゃんと服を着て。リビングへとやって来た。そして、唯一あの街から持って来た櫛を手に取ると。ガルシェを座らせ、後ろに僕は立ちボサボサの毛に櫛を通していく。絡まるのに気をつけながら。僕は自分私物は処分してしまったけれど。ガルシェは僕を追いかける為に街を出る際に。食糧を多めに。そして、邪魔にならない爪切りと。この櫛をどうしてかリュックサックに詰め込んで。旅の道中では満足に水浴びなんてできなかったが。こうして住処を手に入れた今は、有効活用できている。これは、ルルシャの妻としての仕事だって手渡されて、背中を向けてくる夫のそんな仕草に。呆れ半分に。けれど黙って、言われた通りにして。それで、まんざらでもない僕と。あの街で一緒に暮らしていた時は、もっと身なりはちゃんとしろって気持ちで。お節介にも僕がかってにやっていた事。今は相手が求めてくるようになった内の一つであった。
「ルルシャ。愛してるぞ」
 手を動かしていると。そんな気負いのない言葉が聞こえてきて。それで背中を見つめていた僕は、前を向いても男の後頭部しか見えないというのに。
「お前が何を気にしているのか、狼の俺はわからないけれど。傍に居てくれるだけで、俺は幸せなんだ」
 あの時と似た言葉。告白の時にも言われたそれに。櫛を持った手を動かしながら。
「だから。もっと俺。頑張るからさ。人間であるルルシャの夫として、お前が幸せになれるように。番として相応しいように」
 続けられたそれに。つい、手が止まってしまう。またそれだった。またそれを銀狼は言うのだった。僕が一番気にしている事を。相応しくないのは、僕の方なのに。
「……ルルシャ?」
 櫛が背中の毛を梳くのを止めた事で、ガルシェが訝しんだのか。振り向こうとして。ちゃんと前を向いててと、ちょっと叱るように言うと。慌てて言う通りにする、僕の夫。異種族の男性。後頭部から首の後ろにかけても、前を向いてとそう言ったのだから。櫛で梳きながら。
「僕も大好きだよ。ガルシェ」
 嘘偽りのない、言葉に。素直に嬉しいと表現してくれる相手の肉体。座った状態で尾を振られると、足首に衝突して。わりと邪魔だった。嘘はなかった、なかったのに。どうしても、そう言った途端。苦しさに、息が詰まりそうだった。あまりにも無力な自分を、呪った。そうしたところで、何も変わりはしないとわかっていても。呪わずにはいられなかった。
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