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レプリカント After Story

01

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 コツコツ。コツ、コツ。不規則に、何者かが小さく何かを叩く音で目を覚ます。薄っすらと瞼を持ち上げ窓がある方側を見ると、もう朝日を浴びて嬉しそうにしている。小さな植木鉢に植えられた植物が目に入った。丸い、緑色の地肌に。とても小さく産毛のような、棘を生やした。サボテンくん。白いそれらは、キラキラと輝いていて。寝転がったままの姿勢を維持して、視線だけを下に。そうすると、ちょっと似ているけれど。長さも柔らかさも違う。白、というよりはもっと朝日を浴びて光り輝いている被毛が。僕の身体を横断するようにして。すう、すう。とても静かな当然僕のではない誰かの寝息。背に感じる。もふもふした、温もり。背後からするそれに、思わず笑みを零し。起こさぬように気を遣いながら、僕の上から腕を退ける。上半身をベッドに手をついて持ち上げ、振り返ると。僕が使っていたマクラとは別に、もう一つのお揃いの柄が入ったマクラを使用して眠っている。人ではなく、狼の頭。上半身は裸のままで。下は一応ズボンを履いてくれているけれど。裸族の血筋だからか、夏場とかは全部脱ぎたそうではある。そんな人。
 座り直し、支えるのに不要になった手で。そっと、相手の頬に触れる。手のひらに感じる、毛皮の感触。そして触れた傍から、頬が痙攣のようにぴくぴくと反応して。条件反射的な反応にちょっと面白がる。そのまま、首筋に指を這わすと。毛の量が増すから、指先の第二関節まで埋もれた。気候的に、夏毛から冬毛にと生え変わる時期だろうか。まだ早いくらいか。指通りが問題ないのは、手入れしている僕が熱心なのもあるのだろう。何もしないでいると、すぐボサボサのまま銀狼自身すらそれを放置するのだから。
 さらに下へ下へと、胸の位置に辿り着く。別に寝ているのを良い事に彼にセクハラをしようだとか、そういったやましい気持ちでそうしたわけではない。ちょっとやそっとで起きない、眠りが深い彼の事だから起きる心配がないのと。意識がない内にだけ、そうしたい理由があった。
 不自然に毛が生えていない、古傷のようであって。肉が焼け爛れて、何かの図形を描いてるそれに。人の指先が触れる。自分でした本人よりも、僕の方が痛ましいと。感傷に浸っているのだから。起きている彼に問えば、まるで勲章のように胸を張って。気にしていないと言うのだけれど。
 でも知ってるんだ。君が、洗面所の鏡に映った自分の上半身。その烙印を触りながら、いつも僕の見ていないと思って。目を細め、何かを考えているのを。声を掛ければ、隠すように明るく笑うのだった。嘘が下手だね。
 どれだけその時は後悔がないとしても、時間が経てばその時の勢いも弱まり。じわじわと、こうすれば良かった。ああすれば良かったなんて、人は思うものだ。いくら獣の顔をしていても、精神性はとても人に近しいのだから。別にそれで、君がそうしたのに、選んだのにって。責めたりはしない、責められるべきは僕であり。彼がした責任の所在は全て僕が受け持つべきだった。
 市長の息子という立場も。住み慣れた家も土地も捨てさせ。銀の毛を持った、きっと尊い血筋なのだろうに。子孫を残せない男である僕を選び。
 払った代償に対して、どれだけの物を得たというのだろうか。僕なんかにそんな価値、きっとないのに。
 コツコツ。またあの音がして。狼の男から視線を外し。また窓を見やれば、サボテンくんよりももう少し隣に。鶏の頭。それが、嘴を使い。窓を叩いていた。いけない、寝過ごしただろうか。枕元にある筈の、アラームをセットしている時計を確認すれば。針は深夜を示す位置で止まっており、秒針すら動いていない。どうやら、入れておいた電池が。もう寿命らしい。困ったな、あんまり簡単に手に入らないのに。また、隣に居る寝坊助さんにお願いして。どこかの廃墟で探して来てもらうしかないか。保存状態が悪いと、せっかく見つけても。液漏れで白い粉がカビのように付着していたりして。使えない場合もある。ショッピングモールの跡地とか、こんど一緒に行くのも悪くないかもしれない。食料品は根こそぎ漁られた後が大半だが。
 ベッドから腰を持ち上げて、立ち上がろうとした。のだが、ぐっと自分の身体が何かに縫い付けられたように動かなかった。少し痛みを感じて。原因を探れば。僕の手首を、とても強い力で握っている。男の手。丁寧に爪は丸く整えられているので、強く握られても幸い肌を傷つけるには至らないが。それでも、このままは良くはない。毛むくじゃらの手から、腕、肩。そうやって辿っていくと、いつの間にか起きていた。狼の鋭い目と視線が合う。眠そうで、欠伸でもしそうなものとは違い。驚いたように、切羽詰まったとも取れるぐらいに。その両目はこちらを凝視していて。呼吸すら忘れていたのか、遅れて吐息を吐き出していた。
「ガルシェ」
 銀の毛が眩しい、その狼の名を呼べば。僕の声がトリガーとなり、緩む力。解放された手首を見れば、ちょっと肉球が痕になっていた。なんだか可愛らしい形だ。呑気にそうやって眺めていると。布擦れがして。掛け布団が落ち、ギシリとベッドまでも軋む。起きた時には一本だけだった腕が、こんどは二本。両側から僕の身体に回され、起きた銀狼に抱き寄せられる。深呼吸するように、首筋に押し当てられた狼の鼻からする、その鼻息が擽ったい。広い胸板が、忙しなく浮き沈みする。
「おはよう」
 優しい声音で。唯一自由な腕を使い、ぽんぽんと。男の頭頂部を優しく触る。あやすように。それを続けていると。ぱさぱさとシーツを叩く何か。ガルシェの尻尾だ。そこまできて漸く、男はおはようと。そう返してくれるのだった。
 安心したのか。男の腕が解かれたら、ベッドから先に立ち上がり。そのまま寝室を後にする。廊下を通り、洗面台へ。大きな鏡に自分を映しながら、今日はどうするかなって考え。頭頂部に見慣れないもの。いけない、寝癖が。
 歯を磨いた後、リビングに移動しキッチンスペースにある勝手口から外へ。その際に鶏用の餌が入った袋を持つのを忘れない。これを忘れたら一大事だ。庭に出る程度の、ちょっとした用事で履く為のサンダルをパタパタと鳴らし。足音を聞きつけたのか。そうすると、バサバサと。白い羽が宙に舞いながら。一匹の鶏がお出迎えしてくれる。頭の上にある立派な鶏冠を揺らし、力強く鳴いてくれる。雄鶏。
「おはよう、モルゴース」
 早く早くと急かす彼に連れられて。柵で覆われた庭を歩いて行くと、人工的な窪地ができており。そこに降りる為の階段まであった。その中には、大勢の雛達と。それを統括する、目の前を先導してくれる雄鶏よりも一回り大きな。雌鶏。アーサーが居た。もう数羽、大人の鶏は居たが。彼女が一番体格が大きく、目立っていた。遅い。そんな声が聞こえて来そうな態度で、仁王立ちとばかりに、両翼を胸の前で組んでいる。本当に、その骨格どうなっているの。
 僕達はこうして、どこかの誰かの家。今は誰も住んでいない空き家を修繕して。そこで暮らしている。元々住んでいた人は金持ちだったのだろうか。こうして、庭にプールまでついていて。ガレージまである。ただ経年劣化で穴が開きプールはもう水を溜める事は叶わず、小さな小屋を設置して鶏一家の巣になっているのだが。ガレージだってシャッターが動かないから、銀狼が使用する仕事道具とかを置いておくただの物置だ。以前暮らしていたプレハブ小屋から比べると。庭もあるし、家自体も3LDKと破格のグレードアップに思えるが。立地が他に誰も住んでいない孤立した場所であるし。電気も来ておらず。とても不便である。辛うじて、水だけは使えるように。元々あった貯水タンクに小型のろ過装置を取り付けてもらい使用しているが、それでも以前のように贅沢に使い放題とはいかない。雨が全く降らない日が続くと、近くにある海から汲んでこなければいけない。それも、海水であるからそのまま使えないのが困りものだ。
 肌を撫でる潮風。ほのかに香るそれに釣られ、遠くを見やれば。どこまでも続く、空と海。隣にある一軒家は、途中から多きく崩れ。というより、地盤自体が崩れていた。ここは海が見える富裕層が暮らしていたであろう場所で、今はもう見る影もない。大地震か、別の何かの要因で。変わり果てていて。実際に僕が今暮らしている家も、3LDKと称したが。実は一部が崩れ2LDKに間取りが変貌していた。屋根とか強い衝撃で弾けたような崩れ方だったから、自然の猛威とは関係なさそうで。使用禁止とばかりに、扉は二度と開かぬよう。木板と釘で固定されている。余ったもう一室も、特に別々に寝る理由もないので。使ってるのは寝室一つと、リビングだけだった。
 餌やりは僕の担当。なのだが、だいぶ遅刻してしまったようで。まだまだ幼い雛達ですら、ピヨピヨ猛抗議してくる。僕の足首に届くかといった背の低く丸い机の上、そこに大量に並んだステンレスの器。鶏一家の家族分ある餌入れ一つ一つに、丁寧に入れていく。そうすれば、机を囲む。数羽の成鳥と、雛達。どこか、名前のせいか円卓会議のようだが。残念ながらこれからするのは、会議ではなく。何の変哲もない朝ご飯である。全ての器を準備し終えると、僕が机から一歩後ろへ下がり。そうして、この一家を統制するアーサーの号令により。慌ただしい食事が始まる。雄鶏は、完全に尻に敷かれているのか。発言権はない。当の雄鶏は、それで良いのか。かなりおっとりとした性格で、恐らく。僕らを起こしに来たのも、彼女、アーサーに言われてだろう。
 住む場所を探しながら、場所を転々とし。ここに辿り着き、落ち着いたのを見計らうと。どこからともなく、彼を連れてきて。僕達があれだけ遠回りしたのを嘲笑うかのように、さっさと番ってしまったのだった。彼女から押し倒すのは、なかなか迫力があったが。アーサーという名は伊達ではないということだろうか。後日、こうするのよって。お手本のようなどや顔を僕にしていたけれど。参考には正直なりません。あれよあれよと増える鶏。雄も増えたが、雌も増えたので。最初はどれだけ増えるのだろうと。恐れたのだが。それで一定数増えたのを機に、アーサーが全て管理してるのか。僕達が強引に引き離す必要もなく。家計に響かない程度に子供を増やすのを控えてくれていた。本当に、不思議なぐらい賢い。こちらの言葉をだいたい理解しているような反応を見せるし。謎が多い。だというのに、モルゴースこと彼女の旦那は。話しかけても、反応は至って普通の鶏である。
 一日に採れる無精卵の個数が増えて、消費される餌も増えたが。子育てに忙しく、まったくもうと毎日ムスッとしているが。どこか満更でもない、幸せそうな彼女の姿に。見ているこちらまで、心が温かくなっていく。ほら、それを採ったら。さっさと部屋に戻りなさい、邪魔よとばかりに。翼の先でしっしってされて。どこに行ってもお姫様のような、姉御肌気質は、相変わらずであった彼女に。恭しくお辞儀をして、頂いた卵を食べる為に。家の中に持ち帰る。
 まだ銀狼は寝室に居るのかなって。勝手口の扉を施錠していると、キッチンスペースでごそごそと動く巨体。どうやら先に朝ご飯の支度をしているらしい。フライパンを握りながら、こちらに空いた手を使い、手を振ってくれていた。ジュウって焼ける音と共に、漂う香ばしい。食欲を誘う湯気。広いリビングを通り過ぎ、巨体のガルシェと人間である僕一人が同時に同じ空間に居ても。狭く感じられないぐらいには広々とした調理スペース。ガスボンベから供給される燃料で、燃え上がるコンロ。一応、形程度の冷蔵庫に。軽く水洗いした卵を使う分と、使わない分と分別して。可動していない為に、冷気は一切ない。卵を置く専用のスペースに納めた。
 こうして普通に水が使えているのも、小型発電機で。貯水タンクから汲み上げているからだ。発電できるワット数は低めなのだけれど。水回りを優先した結果だった。
 ゆらゆら揺れている男の尻尾を避けながら隣に立ち、手元を覗き込めば。中には厚切りのベーコンが二つ。僅かに油と共に跳ねさせていた。すっと、手のひらを上にして何も言わず肉球のあるガルシェの手が。僕の目の前に差し出される。
 その上に持っていた卵を二個置くと、二つ一緒に握りこまれ。フライパンを振りながら、先に占領していたベーコンを寄せ。スペースを作ると。一個をまな板等を置く場所に仮置きし。コンコンと、硬い場所で卵をぶつけ。ヒビを入れる。ぶるぶると震えながら両手までも使い、慎重に、それはもう慎重に。前屈みになった男は。眉根を寄せとても真剣な表情で。黄身を傷つける事なく。熱された場所に落とした。勝利の喝采にと、ジュウジュウと透明な白身がどんどん真っ白に変わりつつある。安堵に緊張感から詰めていた息を吐きだしたのはどちらが先か。
 パチパチと小さく拍手を贈ると、ふふんと得意げにする狼の顔。続いて、仮置きしていた卵を掴むと。同じようにヒビを入れた後、こんどは両手ではなく、片手で。握りこんだのを、割ろうとして。それはもう呆気なく潰れた。
「あっ」
 狼と人の声が重なる。ふりふり上機嫌だった尾が止まり、フローリングの床に毛先がつく。ぼたぼたと、指の隙間から白身が滴り細かく砕けた殻と一緒に。フライパンの上で合流する様を見た後。僕が気まずそうにしている横顔を見上げていると。目線を合わせないようにいそいそと、落ちた殻を丸い爪で挟み救出していた。
「ル、ルルシャのはこっちな!」
 俺はこっち、とばかりに。黄身が割れた方を鉄製のフライ返しでさらに混ぜてスクランブルエッグにするガルシェ。それで混ぜると、加工されたフライパンの表面に傷がついて。焦げ付きやすくなるから嫌なのだけれど。あははと、不自然に笑う相手に。より気落ちさせる事をわざわざ言うべきではないと、今回だけは見逃すのだった。
 最初に比べてしまうと、これでも上達した方だと思う。まだまだ包丁の扱い方だって見ていて危なっかしいのだが。それでも焦がしたり、調味料の分量を間違えたりといった。そんな初歩的なミスはなくなっていった。続けていれば、家事が全くできない男もみるみる成長するものだ。やる気の度合いもあってか、あの街で暮らしていた頃より成長速度が早い。記憶がないながらも、器用にこなせた僕が逆に異質なのかもしれない。
 縁が少し欠けた、割れるにはまだ至っていないお皿を二つ取り。並べながら。視界に入った為に痣のできた手首をつい、擦る。治る前に、また新たにそこに刻まれるせいで。消えないままそこにあった。この家で暮らし始めて。外敵のない、安全を確保したから。お互い脅かされない安眠を満喫して。その筈で。
 あれから僕が、銀狼を起こした事例はあまりない。というのも、僕が毎回先に起きるのだが。彼は必ずと言っていい程に。飛び起きては、ベッドから抜け出そうとする僕の手首を掴むのだ。どれだけ深い眠りについていても。深夜に、珍しくトイレに行きたくて起きたとしても。必ずそうされて。理由に心当たりがあるとすれば。きっと、あの日。何も言わず出て行ったのが彼の心に深い傷となって癒えないまま残っているのだと思う。だからか、飛び起きて。不安そうに僕を探して、無意識に握りこんだ人の腕を見て。そうしてもまだ、と言いたげに。抱きしめて、存在を確かめたら。漸く落ち着くのだから。僕がした目に見えない罪が一つ。そこにあって。
 この痣は、消えない彼の心の傷が癒えるまでは。ずっと僕にも刻まれ続けるのだろうなって。そう思いながら擦っていると。視線を感じて。無表情の狼が、こちらを見下ろしていた。じっと、僕の手首を。見ていた。
「なに?」
「……いや、飯にしよう。ルルシャ」
 僕が今立っている場所を空けると、フライパンを持った男が代わりに立ち。お皿の上に、焼かれて表面がカリカリになった分厚いベーコンと。二種類の焼き方をされた卵をそれぞれに移し替えていた。僕用だと言った銀狼は、目玉焼きはとても静かに移せるが。続いてフライパンの中を細かくなった黄色い具を搔き集める動作をしながら、カンカンと甲高い音をさせフライ返しが叩く。なんだかそれで、今から食べられるぞって知らせのようでお腹が気づいたのか。実感と共に、空腹感が襲う。お腹空いたね。
 気にしてるなって思うもそれに気づかないフリをしながら。二つのお皿を両手にそれぞれ持った銀狼が、すたすた歩いて行くのだからその尻尾を追う。彼と違い、毛皮がない僕の肌はとても傷跡がよく目立つから。だから余計に、気にしてしまうのかなって。この痣はガルシェの所有や執着の証のように思えて、僕としては悪い気はしていないし。気分を害したようなにおいも、させていない筈だから。それは銀狼自身、わかっていると思うのだが。いくら僕が喜んでいても。だからと、やって良かったとか。そう前向きに思えるような人でもないのは。重々承知していたのだった。
 ユートピアを出て。気づけばあれから一年近く経過していた。長いようで、短い。とても慌ただしい日々。僕たっての希望で、普段暮らす場所はこのように人が寄り付かない場所であって。ただ、それでも二人だけで生きていける程。自給自足できる土地でもないので、近くに存在している漁村、そこに身を寄せていた。あまり大きな街は近づきたくないし、かといって。誰かの手を借りないと生きるのもままならないのだから。狩猟民族みたいに、ガルシェが銃や槍を使い。野生動物を狩って、それを糧に生きる道もある。というか、時折そういった狩った動物の死体を掴んで。玄関前でこれをさばいて食べようと、優しい顔をして血だらけで立っていたりするので。なかなか勇ましいものだった。最初、ガルシェが怪我したのかと思い。悲鳴を上げたりもしたが。全部返り血で良かったが。白いTシャツはそれで一つダメになった。お気に入りの革ジャンは、事前にそうなるとわかっていたのか。家に置いてあったからそれは汚れずに済んだのだが。
 こうして、同じ食卓で。また同じご飯を彼と食べていると。なんだか本当に現実なのか不思議な感覚に陥る。あれだけ、捨てようと、離れようとしたのに。向き合って。時折、こちらと目が合うと。銀狼は照れくさそうに、微笑んでくる。今は腰ぐらいある高さの大きい机と、背もたれがある椅子があるから。床に座る必要もなく。ただガルシェ用の椅子だけは、背もたれが切り落とされていた。尻尾が当たって邪魔らしい。パイプ椅子みたいに途中が空洞であれば、まだ良いみたいだが。木製の椅子は、きっちり背中全体を支える構造であった為に。レプリカントである彼の身体には合わなかった。サイズが大きめの椅子であったから、僕は少し広々と使えてというより余る。ガルシェのお尻には丁度いいみたい。でも体重が脂肪より重い筋肉の鎧で百キロは余裕で越えているから、座る度にミシミシと椅子が悲鳴を上げていて。足がその内折れないか心配でもある。3LDKもとい、2LDKの間取り。広々とした空間のお陰で、家具を置くのに不自由はなく。元から存在している、五十インチはありそうな。壁に埋め込まれるようにして置かれているテレビは。供給される電力も、受信する放送もないので。ただのアンティークと化している。下の引き出しにある、年代物の映画のCDとか。せっかくあるのに、再生するのは叶わない。中のデータが無事という保証もありはしないが。
 ちょっと遅めに起きたけれど、寝室とは別にある。リビングの壁、その高い位置に掛けてある時計は。まだ時間に余裕があるのを知らせていて。全部のカーテンを開けて、光を取り込んでいるから。今はまだ家の中といえど明るいが。夜はランプや蝋燭を使い、明かりを確保する。消耗品であるから、油や新しい蝋燭を買い足さないといけないし。漁村では手に入らないので、これはたまに訪れる旅商人達から補充するしかない。本当に、あの街での。銀狼の家はとても生活水準が高かったのだなと。痛感する日々だ。それで戻りたいとは、欠片も思わないのだが。まだ、僕の気持ちと。もう大丈夫と確信が得られるまでは。戻れそうにない、というのが正しかった。
 あれから、ユートピアが機械達に襲撃されたとも。こうして身を寄せている漁村周辺に、機械が現れたとも。そんな知らせを受けてはいない。毎日、恐ろしいそんな悲報が来やしないか。怯えていた。現実には、まだなっていない。まだ、である。いくらガルシェが、大丈夫だと言ってくれても。僕という存在がある限り、安心などできない。
 自分が何者で、どういった存在か。言葉を選びながら、彼にはこの家に辿り着く前に。旅の道中で伝えていた。それでもやっぱり、男は関係ないと。そう言って。ルルシャは俺のだって。手を離してはくれないのだった。そうすると決めたのだから、どこまでも一度決めた決意を貫くつもりなのか。僕と添い遂げようとしてくれていた。あの時交わした約束。もしも僕が先に死んだらを考え。番を喪った狼は稀にそのまま後を追うように衰弱死する個体も居る。ガルシェは自分がどうなるか、確信でも持っているのか。後追い自殺までしてくれると言うのだ。そんな事して欲しくはないし。さっさと僕の事など忘れて、次のパートナーを見つけてくれてもいいのだが。実際に、ちゃんと生きて欲しいと伝えても。曖昧に濁すのだから。困った男だった。たとえ先に君が死んでも、僕は後を追うような真似はしないよと。そう薄情な態度を試しに取ったとしてもだ。
 時折、この男の僕へ向ける気持ちは。とても重く、恐ろしいもののように感じてしまう。本来なら、狼同士で釣り合いが取れるのに。その向ける対象は人間であり、人間の形をした何かであるのだから。別に、彼を愛する気持ちは。負けていないと自負しているし、これは勝ち負けでもないけれど。それでもやっぱり、その瞳の奥。どこまでも深い。どんよりとした、夜の海のような。深淵がこちらを見ているようで。ちょっと背中が落ち着かない。
 僕がそうした。そうさせた。愛されている。これ以上ないぐらい。もう二度と逃げたら許さない、逃がさないと、口には出さないが。そう言われているような気がする。だから僕の希望通りにしてくれる。この家もそうだ。文句一つ言わず、彼が毎日ちょっとずつ修繕してくれて。少しでも居心地が良いように。愛する番が暮らす、巣だとばかりに。雄の狼は、整えてくれる。
 対等な存在である筈なのに、僕はそうされて。どれだけ、返せているだろうかと。自問自答する。するより、してくれる事の方が多いように思えてならない。家事だって、ユートピアの時と比べて。かなり手伝ってくれるようになった。少しでも、僕の不満を取り除こうとしてくれていた。なんてことのないように、狼の雄は。番った雌にはなんでもしてやりたくなるものだと、言ってのけるのだから。僕、男だけど。本来は、そうされて。愛されて、そのまま。愛の結晶として、子供を産み。子育てに翻弄されるのだろうけれど。そんなお返しはしてあげられない。それは僕が、どうしようもないぐらい。男という性別であり、彼の番としての役目を。予想通り、果たせていないのだからだ。
 愛されれば、愛される程に。自分という存在自体に不満を抱いていく。彼には相応しくないって、かってに辛くなっていく。一緒になれば、悩みなんて何一つなく。ただ楽しく、心穏やかに過ごせるものと思っていたけれど。実際は違っていて、理想の夫をしてくれる程に。僕は理想の妻を演じきれなかった。家事を分担した分、僕が家でできる事が減ったというのもあるだろうか。
 もしも、このどうしようもない。不満を口にしても、彼はとても優しいから。大丈夫だって、それでいい。今のままで良いって、言ってくれるのは。長い付き合いだからわかっている。わかっているけれど、見劣りする自分に。引け目を感じずにはいられない。手を繋いだり、キスしたり。抱きしめ合ったり。そうやって暮らす中で。実のところ、まだ身体を重ねていないのも。不安を煽る要因なのだろうか。
 ガルシェは、待ってくれると言ってくれていて。その通りに、身体を求めるような事はなかった。といよりも、隙だらけであるから旅の道中にそうするわけにもいかず。ここに住みだしても、何かと問題が多発して。雨漏りとか、迷い込んできた小動物とか。漁村との良好な関係を築くのに奮闘して、今に至るのだから。安定しつつある日常に。やっと、後回しにしていた問題が。こうして、追いついて来たとも言えた。彼が、一切そういった話題に触れないというのもあった。待つと言った手前、言いにくいのもあったと思う。性欲自体は強いのはもう、今更隠す関係でもないし。いつもお風呂場で一人でしているのも知っている。一度、手伝おうかなんて。冗談半分、本気半分で、ちょっと言ってみたりしてみたが、暫く硬直した後。強張ったまま、いいと。拒否されてしまった。
 こちらからストレートに誘うのも、なんだか恥ずかしい。だが、思った以上に。この銀狼、我慢強いようであった。それは、発情期で。あれだけ理性が飛んでも、こちらを気遣い。本番までには至らなかった事実が。裏付けとなっていたのだが。これ見よがしに、誘惑するのも。彼の気持ちに対してよろしくない。そんなんだから、こうして一年近く。手を出されないまま、同じベッドで寝続けている奇跡が起きているのだが。本当に、大事にされていた。なんどでも言うが、これ以上ないぐらい。だというのに、何が不満だというのだ。僕は。
 相談する相手もいないのだから、自分でちゃんと向き合い。答えを出すしかないのだが。本当に、贅沢な悩みだった。人に言ったら、きっと呆れられるぐらいには。こういう時、人生の先輩として。聞きたい人を思い浮かべ、灰狼の顔が過ったが。銀狼のお父さんである、その人に。息子さんとまだ性生活が停滞したまま。どう切り込んで良いかわからないんですなんて、聞くに聞けない。というか、聞いた瞬間。縛り首だとばかりに、笑顔を張り付けたまま縄を持ち出されそうだ。フォデライさんは家庭を持っていて、奥さんとの関係は良好だが。んなの、何も言わず裸になって部屋で待ってたら良いんだよとか。身も蓋もないアドバイスをされそうだ。これはかってなイメージなのだが、あまり間違っていなさそうなのが。下ネタとか、明け透けに言うおっさんというレッテルが。もう覆らない程度には、僕の中に存在してるので。失礼には当たらないと思う。
「何か、悩んでないか?」
 カツン、皿にフォークが当たり。食卓に思ったよりも大きな音が響いた。僕が考え事に思い耽って、味を感じる間もなくただ機械的に口に運んでいたから。突然、見透かしたように声を掛けられて動揺したから。動作に現れた証拠だった。
 何をなんて、とぼけるのも、誤魔化すのにも苦しい状況。自分の分の食事から恐る恐る顔を上げれば、とても穏やかな顔をした。雄の狼が、こちらを見ていた。自分は食べるのを途中で放棄し、フォークを握った手を机に置いて。なんだかその雰囲気が、お父さんをどこか彷彿とさせて。毛の色だって、目付きだって似てないのに。歳を重ねればそれだけ、きっと似ていくのだろうなって。そんな事を思った。
「ルルシャは、すぐ考え込んでしまうから。そしてとても、そういう時。複雑に混じったにおいをさせる。だから俺は、悩んでるってわかっても。何について悩んでるかは、わからないんだ」
 困ったように、首を傾げながら。狼が両耳を倒す。申し訳なさそうな言い方だったけれど、柔らかくちゃんと言葉にして悩みを共有して欲しいと。ようはそういう事だと思った。
 どういうわけか、あんなにだらしなかった男は。対等であろうと、頑張ってくれていた。結婚という、明確な線引きを経て。彼らの言う番とはまたちょっと意味合いが違うみたいだが、人間に合わせてくれていると言えた。
 そんな彼のこちらを気遣う様子に、途端に恥ずかしくなってくる。いつも、自分の事ばかり考えているなって。ガルシェはこんなにも、身の回りや、僕の心に寄り添おうとしてくれているのに。あれだけはっきりしてくれなかった人はどこに行ったのか。これが覚悟を決めた雄の狼だというのか。自分の至らなさにただただ、恥ずかしくなったのだった。
 だからつい、余計な事とわかっているのに。
「ガルシェ。無理は、してない?」
「……どういう意味だ」
 俯いて、というより相手の顔を見ながら言うのが気まずくて。そうしながら。
「いや、僕と一緒で。人間なんかとって」
 ――ヴルル。
 そこまで言いかけて、というより。言えたのはそこまでだった。弾かれたように姿勢を正す。どうしてそうしたか。まるで縄張りに入ってきた侵入者に相対したみたいに。銀狼が唸ったからだ。それまでの穏やかな顔をしていた狼が一変。場の空気が一気に冷たくなったように感じる。しまったと思っても、もう遅い。一度飛び出した発言は戻ってきやしない。
「俺の、俺の気持ちを疑うのか。いくら番の発言でも、それは許せない、許しちゃいけない事だ。ルルシャ」
  かなり怒ってると思った。歯茎を剥き出しにして、片方が欠けた牙が見えるし。鼻筋は酷く皺を刻み。だというのに、場違いなぐらい声音は落ち着いていて。まるで論んすように言っていた。
 相手が僕でなければ、いっそ殴り飛ばしていたと感じるぐらいには。彼、ガルシェは、怒っていた。僕の視線と絡み、揺れている瞳か、震える唇か。自分が恐れられてると気づいた彼は、舌打ちをして。した後で、後悔したように。口元を押さえていた。
「いや。俺はルルシャの好きって気持ちを嗅ぎとれるし。ルルシャも俺の仕草からだいたいの感情を読み取ってくれるから、それに甘えていたな。種族柄、言わなくても伝わるのが普通だったから。最近ちゃんと言葉にしていなかった気がする。悪かった。不安にさせた」
 どうして、僕が謝られているのだろうか。どうして、傷ついたのはきっと彼の方なのに。謝っているのだろうか。ふうって、息と一緒に抱いた怒りを吐き出すようにして。ガルシェが椅子を引きながら立ち上がる。机を迂回するようにして、隣に立つと。少しだけ屈み、僕の顎を軽く人差し指の側面で上げ。強制的に顔を上げさせた。
 何をしようとしてるか、どうして今それをするのか。せつなそうな顔をした狼のマズルが迫り、僅かに空いたままの人の唇に重なる。呆然とそうされて、鼻息が頬を撫で。隙だらけであるから、ねっとりと彼の舌が入ってこようとして。それで調理中だとか関係なく、家の中だと基本半裸な男の。厚い胸板を指が毛に埋もれながらも構わず押し、顔を離した。
「待って、ガルシェ。僕は」
 急くように、次のは噛みつくように。離れた僅かな距離を、一瞬で埋めてくる狼の頭。片方だけ残った牙の表面が強く押し当てられ、僕の前歯とこつんと当たった。それと同時にか、やや遅れて。ガタンと、大きな音を背後でさせて椅子が倒れたのを知らせる。
 たたらを踏んで、それでも姿勢を崩したりしないのは。いつの間にか腰に、倒れないように銀狼が支える為に手を回したからだ。反る背中、下がった分踏み込んでくる間合い。踵に何かが当たったと思ったら、そのまま倒れるようにしてソファーへと押し倒されていた。
 ぼふりと、革張りのそれが優しく受け止めて。そうして、逃げ場所を損失する。囲うように男の腕があり、圧し掛かった上半身と。僕を跨ぐようにして片膝を立てて。男の体重でそこだけより深く沈み込む。家具屋だった廃墟で残っていた、一番傷んでいなかった品で。被っていた埃を叩き軽く除けると、試しに寝転がり。姿勢をなんどか変えながら。これがいい、これにするって。ガルシェが持ち帰った奴である。食後とか、お気に入りのソファーで寝転がってだらだらするのが日課であったから。住む場所が変わっても、それは譲れないのか。自分で抱えて運んでくれるのだから。僕も文句はなかった。重い家具をどこからともなく拾ってきて、住み心地はどんどん良くなっていくのだから。とてもありがたく。そうして、廃材を利用して。大工工事みたいに、ガルシェはハンマーと釘を使い。時には左官の真似事をして、家を直してくれるのだから。そんな場面で何のスキルもない僕はただ見てるだけでしかなく。情けないなって、せめて食事を用意するぐらいだった。この男、本当に何でも器用にこなしてくれるのだった。ただ銃を扱うだけではなく、軍にいると。有事以外ではわりと雑務が多かったらしいのだけど。賃金の良い、街の外の護衛を優先的に受けていたけれど。僕と同棲を初めてからは、そう長距離の任務も受けなくなったが。自然と身についたものだった。それが巡り巡って、こうして役に立っているのだ。とても良い事だ。凄い凄いって褒めると、照れ臭そうに。けれど嬉しそうにふりふりと尾を振る銀狼。番の役に立てるのが一番の報酬だとばかりに。それだけだ。それだけで良い筈なのに。
 僕の計算とか、そういったものは。二人の生活において、何の役にも立てず。街を出てからの旅の道中は足を引っ張ってばかりで。こうして、腰を漸く落ち着けた今でも。何の役に立てているのか。自問自答して。そう、不安になる。でもそれは、彼が言う不安ではない。愛されてるなって、感じている。ちゃんと。それは言葉にしなくても伝わっている。だというのに、受け取った愛を持て余して。抱きしめたまま、暗い顔をしてるだけだ。彼のせいじゃない。
 またキスしようとしてくる、マズルを手で押し。ガルシェの顔が横を向く。両想いで、夫婦で、番なのに。どうして拒むんだと。不可解だと言わんばかりに、金の視線が真上から注がれていて。
「何が不満なんだ。俺は、お前にふさわしい雄でありたい。ルルシャ、愛してる。至らないところがあったら言って欲しい。欲しい物があれば取ってくる。俺は、お前の為なら何だってする。できる。だって俺には、お前だけが全てなんだ」
 違う、至らないのは僕だ。違う、何もできないのは僕だ。違うよ。君から何もかも奪って、僕しか見えなくしたのは。誰でもない、僕だ。お前だけが全てなんて、どこか歯の浮くような台詞だったけれど。これを聞いて、舞い上がったりそんな気分にはとうていなれなかった。どころか。抵抗していた手から力が抜ける。ぱたりと、ソファーの上に落ちた自分の腕。疑問を解消できないまま、でも人間は黙りを貫いているのだから。様子を窺いながら。そして、においを嗅ぎながら。続きをしていいかって、そんな顔をして。頬をぺろりと舐めてくる。
 唐突に、途轍もなく寂しくなった。どうしようもないぐらい。こんなにも、目の前に愛する人が居てくれるのに。ねえ、どうして。胸の内をかき乱されて。このぶつけようのない、誰かに向けてはいけない、消そうとしても湧いてくる鬱憤の正体はなんであろうか。
 唇の上を、狼の舌が這い。気持ちだけ置いてけぼりになりながら、熱に浮かされそうになっていく自分の身体。普段はあまり性欲を感じないというのに。こうして触れ合うと、不思議と昂ってくる。一度は横たえた腕。持ち上げ、男の太い首に。両腕を回す。もっとと、そう言うように。これには、驚いたのか。ガルシェが目を見開く。それはそうだ。積極的に自分から、特にこうした性的なスキンシップはあまり求めた事がなかった。僕からするのは、撫でたりとか、手を繋ぐ程度だ。だから、いざこうやって。誘うような行動をして。どういった反応が返ってくるかまるで未知数であり。そして気になった。ずっと自制させていた男の理性が。どこまで持つか。
 あの告白から、随分と経ったけれど。ただの一度も、彼の口からそういった誘いはないのだから。僕に対して欲求がないわけではないのは。僕の無防備な姿を見たり、じっと手を見たりして、気づいた時にはいつの間にか姿が消えていて。一時間ぐらいだろうか、暫くしたらお風呂場の方から戻ってくるのだから。そういった欲求が消えていないのは、明白だ。待ってくれている。でも僕から誘うのは恥ずかしい。だから、またとない機会のように感じた。今の乱れた心なら、あまり羞恥心も感じず。そうして、彼を煽れば。そのまま流れに任して。最後まで。
「ルルシャっ」
 切羽詰まったように、またガルシェが口を押し付けてくる。ぬちゃりと歯茎に当たる舌、軽く擽り。早く開けろとばかりに、狼が威嚇ではなく催促に唸る。こうして、彼と暮らすにようになって。怒りを表現する以外にも、唸り声を出すんだって。知った。微妙に喉の震わせ方であったり鳴き方が違うのだ。乞われるまま、上顎と下顎の隙間を作ると。待ってましたとばかりに、ガルシェの舌が押し入ってくる。そこにあるのは、当然人間の舌であり。迎え入れたのは自分だが、心の準備は追いついていない。怯え、喉奥に逃げるようにしていたけれど。それで逃がしてくれるような、相手でも、舌の長さでもなかった。直ぐに絡まる粘膜同士。銀狼が首を痛くなりそうなぐらい傾け。僕の顔と九十度角度を変える。そうすると、狼の顎が人の頬を挟み込むようにして。もっと距離を。まるで捕食されてるかのように、鼻先に黒いゴムみたいな部分が当たる。硬直した人の舌に、ぐるりと巻き付くようにして。狼の舌は絡み、舐め。唾液が流れ。そして収まらない分が、頬を濡らす。顎の関節付近に、ガルシェの牙があった。逃がさないと言いたげに、引っかけるようにして浅く食い込む。そうやって上にばかり気を取られていたけれど。僕の股間に、ふにふにと。だが棒状の芯のある物体が服越しに当たる。ぐっ、ぐっ、そうやって。視界に辛うじて見えた。銀狼の腰が前後に揺れていて。興奮にか、尻尾が見たことないくねらせ方をしながら。びくびく震えていた。
 ガルシェが、キスしながら股間を押し付けていた。僕の、まるでそこに女性器でもあるかのように。押し付けられる度に、感触が変わる。既に立ち上がっていた僕のを、押しつぶすようにしていたそれは。どんどん固く、そうしてジーンズを内側から押し上げて。見えなくてもわかった、彼のが勃起し始めているのが。人間のと違い、朝立ちという限定的な場面を除いて。彼のは性的興奮ではなく、刺激によって勃起する。陰茎骨があるから、勃起していなくても挿入するのに問題はなく。そして、入れた後で勃起させて。最後には、根本にある瘤。亀頭球と呼ばれるそれで蓋をして。抜けなくするのだ。実際に生の彼の生殖器を、そのプロセスも全部見て知っているのだから。今どうなってるのかは手に取るようにわかった。ハーハーと、息を荒げ。僕の股間を突き上げてくる彼の腰。完全に、膨張を済ませたのか。その生地は伸び切り、とても窮屈そうで山の天辺部分は下着であるトランクスも早々堰き止めきれなかったのか。湿った感触までしだした。大量に分泌される、彼のカウパーだった。僕の一回の射精よりも出すのだから、恐ろしい。そして、銀狼の射精はそれすらも超えるのだから。じわじわ染み込んでくる。僕のズボンに、下着に。
 もしも、お互いの衣服がなければ。僕のちんちんは無理やり彼の固く立ち上がったモノで押し潰され。没頭し、そのまま内部に突きこまれていただろうか。そう思わせるぐらい、ぐりぐりと。なんどもぶつかってくる。雌であったなら。がつがつ中を抉りながら腰を振っている頃か。彼の両手で掴まれた腰、それによってより密着度は増し。股間部の摩擦も、熱も上昇する。耳に聞こえてくる筈の服同士が擦れる音。だが、それを上回る。口の中でするくちゃくちゃといった、咀嚼音とは違う。狼の舌が暴れる湿った音。
 僕のは彼の体重と、腰をぶつける衝撃で押しつぶされて、正直痛みの方が強かったから。快感といえるものは、どちらかというと口内で動き回る。ガルシェの舌の方が勝った。必死で目を開けているけれど、視界にあるのはドアップの狼の頭と。理性を欠いた、獣の瞳。普段は自分で処理して、それで満足していると思っていたけれど。ずっとひた隠しにしていた、僕に対しての獣欲をついに呼び覚ましたように思えた。恐ろしい獣の鎖を解いてしまったようにも。
 んっ、ふっ。はっ、ふっ。息継ぎの合間に零れる声は、いったいどちらのか。上顎をなぞり、舌の裏側を探り。表面をねっとりと撫でるように。また、唾液を足されて。溢れかえるそれを、つい喉を大きく鳴らして。飲み干す。そうすると、獣の瞳が。三日月のように、嬉しそうに歪んだ。そんな中でも優しい雰囲気を纏い、ほら、もっとあげるって。容赦なく追加が。飲み込み切れない分が溢れ、もう僕の口周りは酷いもので。喉を伝い、胸元まで及んでいた。味は微かに、さっき食べていたベーコンと、卵。そこに混じるねっとりとした唾液。ガルシェの味と言っていいのか。わからない。口の中を犯される度に、跳ねる身体。ぞわぞわと背筋を駆け巡る、擽ったいとも、気持ちいいとも。あるいは両方か。ガチガチになったペニスをぶつけながら、上で先に深く交わり。さらに。高揚したまま狼の舌が乱暴に喉奥に入り込もうとして。思わず咽た。僕が咳き込んだ瞬間。驚いたガルシェは、持ち前の反射神経で。口の中から長い舌をずるりと抜き取り、身を起こす。ゲホゲホと、空気と、注がれていた彼の唾液をソファーと。フローリングにぶちまけながら。胸を押さえる。ハァ、ハァ。そんな二つの意味合いの違う呼吸音。ぐったりと、見上げれば。唖然とこちらを、やってしまったと。そんな顔をさせた。銀狼の表情。そして少し下へと、視線を変えれば。なおも興奮に立ち上がったままで、びくりびくりと震えて。下半身はまるで粗相でもしたかのように。びしょびしょにさせていた。それは、僕も同じだったのだが。僕のは、全部彼の分泌したものだった。人間の瞳がどこを見ているのか、気づいたガルシェは。さっと、手で自分の股間を覆う。揺れていた尾が、ぱたりと。ソファーの上に落ちるように、へたりこむ。
 何を言うべきだろうか。大丈夫だよって、そうやって。続きをしていいよって。でもなぜか、そんな雰囲気ではなくなっていて。でも場違いな程に、主張を続けている性欲の象徴と。それは、彼とて同じ筈なのに。いや、きっと本能的な部分が種族柄とても強いから。僕が感じているよりもずっと、収まりがつかない衝動に駆られている気さえする。声を、掛けようとした。したのだが。まだ絡まった喉に、浅く咳き込んで。それで銀狼がびくりと、身体を跳ねさせると。傷ついた表情をさせて、まるで何かから男は逃げるように。
「あ、俺……。風呂、入ってくる」
 そう言って、慌ただしく。前屈みで廊下へと消えた。行く場所は、告げていたし。そこで何がおこなわれるか、わからないわけではない。たぶん、爆発する寸前であったろうし。それぐらい、膨張していたものを押し付けられていた。棒状ではなく根本の瘤もだ。
 追いかけるべきなのかなって迷うも。ぐったりした身体は、とても億劫で。何となく、濡れた股間が不快だ。しっとりとしていて。人間より数度体温が高い毛皮持ちの体内から出したてであるからか。とてもほかほかと温かい場所に手を這わす。ぬちゃりと、僕まで。お漏らしでもしたかのように、濡れていて。着替えないといけないなって、考えながら。ぬちゃ、ぬちゃ、そうやって股間を揉み。別に自身のを刺激したいわけでも、一人で処理する気分でもなかった。甘い快感が、濡れた生地と一緒に揉むと確かにあると自覚はしてもだ。しとどに濡れた手を、そのまま顔の前にまで持ってくる。自分の手のひらからする、むわっとする。雄の臭い。ガルシェの、興奮の証。
 やっと、してくれると思ったのに。僕が直接誘う勇気がないから、このまま流れに身を任して。そうやって、彼に無理やり身体を拓かれて。滅茶苦茶にされて、壊されて。使い捨ててくれるかもって、そうしてくれると期待したのに。体格差もあるのだから、銀狼の馬鹿力で同族にするようにされた場合。無事でいられる可能性は低い。だが、五体満足でソファーに寝転んでいる人間が一人。取り残されていて。誰もいなくなった。僕だけのリビング。食べかけの朝食。冷えて油が固まってしまったベーコンの残り。すんすん。動物のように手を嗅いで。やっぱり。他人のそれなんて、嫌悪感しかない。その筈なのだが。でも、ガルシェのだと思うと。不思議と、あまり悪い気はしないのだった。僕で、興奮してくれた証拠。
「いくじなし」
 相手の気持ちも考えない。とても的外れな言葉が、つい。誰も聞いていないからと言ってしまって。言った自分に、嫌悪した。
 感情を、気持ちを整理しながら。した事を、感じた事を振り返って。感謝して然るべきそんな相手に、僕だってどうにか役に立ちたいのに。対等だと、そういうふうに扱われ。大事に、大事にされて。
 ソファーで仰向けに寝転がった状態で、天井を意味もなく見つめ。やがて、顔を腕で隠しながら。悔しさという、苦い思いがじわじわと侵食する。だからそれが。
 銀狼に対する、些細な。けれど積もった劣等感だなって。気づいた。もう一度、冷たくなっていく股間の湿り気を改めて感じ。消えたくなった。
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