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第61話 「オレに、なにしてしい?」
しおりを挟む冷静に考えたら、いったい何を言い出してるんだ、と思えるはずなのに。
冷静なんていうものは、頭から消え去っていった。
バクバクバクバクと心音が、血流が、鳴っている。震えてる。
バカなことしてるってわかっているのに、先輩のパーカーを掴む手が、離せない。
先輩の顔を見ることができない。
子どもみたいな言葉で先輩を引き留めて。ああ、こんなことするのが、イヤだったのに。
汚い醜い感情に支配されて青葉先輩の邪魔をするのが。迷惑になるのが。軽蔑されるのが。
それが怖くてイヤだったのに。
手は離れない。心臓の音は止まらない。
ああ、先輩が困ってしまう。どうしよう。
どんな顔をしているのか。そこに嫌悪があったら。拒絶の意思があったら。
きっと地獄へと続く門の前だってこんなに怖いことはないだろう。
なんの声もかけられない。先輩はなにも言わない。
その沈黙はたった数秒かもしれないけれど。時間が引き延ばされてどこまでも長い長い時間が経った気がする。死ぬ前にみる走馬灯が駆け抜けてもおかしくないような体感。
でも、僕は走馬灯よりも。
今の先輩が、どう思っているかのほうが、知りたくて。
怖くて仕方ない。だけど。この沈黙が続けば、僕は自ら走馬灯にひたる時間を捨てて、死んでしまいそうだった。
震えて動けない体のまま、なんとか目だけを先輩に向けようとする。
おそるおそる、自分の睫毛が震えていることすらわかるくらい、ゆっくりと、目の前の人を、視界におさめる。
いつの間にか、薄雲が晴れたのか。影のなかにいた僕に引き留められた青葉先輩は、はっきりとした月のあかりと、人工的な看板のあかりに照らされて。夜だというのに驚くほどよく見えた。
そして、そんなふうに、はっきりと見えた青葉先輩の顔は。
「――そっか」
心臓が、破裂した。
眉尻が下がって。併せるように目尻も下がって。逆に口の端はゆるやかに上がっていて。ともすれば、少し困った顔のように見える。でもそれは、もっと口角があがってしまいそうになるのをとどめているようで。
夏、太陽がおりて、ざわざわと胸がかきみだされそうになる、橙色と紫が混じりあって、迎える満天の星空みたいな。
そんな、嬉しそうな、表情。
破裂した心臓のせいでいっそ静かなくらいで。
だけど僕の心臓のことなんかおかまいなしに、青葉先輩は、今まで見たことないくらい嬉しそうで。喜びを抱えきれないような笑い方で僕を見つめる。
その目にはどこも嫌悪もなにもない。むしろ優しくて、でも優しさ以外のなにかを表すのをたたえていて。そのなにかがなにかなんて、今の僕にはわからない。
ただわかるのは。
目の前の先輩の笑顔は。
今までで見てきた中で、いちばん、見惚れそうになるくらい、きれいだった。
「――ごめん、ケイタ! オレ、用事あるからこのまま帰るな!」
先輩が一瞬だけ後ろを向いて、ケイタさんたちに叫ぶ。けれどすぐにまた僕を見て、さっきと同じ笑顔を向ける。
心臓が破裂して再生もしていない僕には、まるで映画のスローモーションの中のようだった。
喧騒も何も聞こえない。ケイタさんたちがどんな顔をしたのかも、なんて返したのかもわからない。
唯一、ゆっくりと動く静かな世界の中で、青葉先輩の動きと声だけがわかった。
先輩はパーカーをつかんだまま解けない手を、さらりと、でも優しく外して代わりに自分の手で握り込む。
そのまま引っ張って、ケイタさんたちのいたあちら側と反対のほうに進んでいく。
街灯の影を通り越して、暗いほうへ。
いつもなら。暗いところといっても、他のひとがいるとこで手なんか繋いだら、変に思われる、と言うはずなのに。言葉はなにもでてこなかった。
感覚はスローモーションの映画の中にいるようでも、世界は、先輩は動いてく。
人通りの少ない路地にはいって、ちょうど居酒屋やビルの裏側、小さな駐車場みたいな、建物に囲まれて周りから死角になる場所へと連れていかれる。
移動距離としてはさほど離れていない。見えない表側では、きっと他のひとたちの賑やかな声がするんだろう。
だけど先輩につれてこられたこのスペースでする音は、わずかなボイラーの音とか、風で揺れる音とか、それくらい。
気づけば、とん、と押されるようにして、ビルの壁に背中を預けていた。
もうとっくに人のいなくなったビルにあかりは灯っていない。
そんな薄暗がりの中。
顔の横に先輩の手がおかれる。
薄暗がりの世界で、壁に背中を預けて、両横は囲われて正面の青葉先輩だけがしか見えなくなる。
先輩はまだ嬉しくてたまらない、という顔をしていて。
その表情と同じくらい、嬉しさと楽しさを織り交ぜて、抱えた声で囁いた。
「――あとは?」
スローモーションの世界が急速に現実に戻ってくる。ああ、だけどどこか非現実的だ。
だって、暗いはずなのに。先輩の顔だけは夜の星座のようによく見える。
夜の星空に、つかまって、捕らわれたような感覚。
そんな星のきらめきをこぼしながら、先輩はさらにたずねてくる。
「ほかに、オレに、なにしてしい?」
身体を染め上げてしまいそうな、低くて、心地のいい、よろこびにそまった声。
「オレに、どうしてほしい? コーヨーは、どうしたい? なあ――みつひろ」
ああ。
そんな顔で。そんな声で。僕の名前の四文字をつむがれて。
僕は。夏の夜に、陥落した。
「……元カノと、仲良くしたり、するの、イヤ、です」
「うん。いいよ。他は?」
「僕以外の、ひとに、合鍵わたしたり、しないでください」
「うん。しない。合鍵はコーヨーだけのものだし。他には?」
「……僕、以外の、ひとに」
声が、つまる。
「僕以外のひとに、触ったり、触らせないで、ください」
先輩がじっと見つめる。
ああ、わかっている。先輩がいう、してほしいことはなにか、という質問。
この答えは、僕の本当の望みの、迂遠な伝え方でしかない。
正直にさらけだすには、いまだに躊躇してしまう。
けれど。
見透かすように、先輩の左手が、僕の耳たぶをなぞるから。
僕の、ピアスに、先輩の長い指が、触れる、から。
「うん。……それで?」
震える。からだでも心臓でもない。もっと奥にある、衝動や感情があるところ。
「――触って、ほしい、です」
剥き出しの願望が、か細く、引きつった声になって、口から飛び出る。
ピアスを撫でていた指がピタリと止まる。
「先輩に触ってほしいし――せんぱい、に、触りたい、です」
もうぜんぶ。さらけだした。さらけだしてしまった。
ぜんぜん具体的じゃない。だけど、どうしようもなく素直で単純な欲求。
正しい言い方なんて知らない。わからない。ただ、心の奥底に置いて、秘めて、見ないふりをしていた衝動。
ただひたすらに。
青葉先輩をもっと知りたくて、感じたくて、近くになりたくて。
自分だけのものが、ほしい。
この夏の空みたいなひとを、ひとりじめしたい。
「――うん」
空から星が、ふってきたみたいに。
いきなり呼吸が奪われる。視界がすべて同じものに染まる。
重ねられた唇は、抑えていたものを弾けさせるみたいに、全てを奪うように舌がはいってくる。
ひとつのすきまも、息をつむぐ余裕もぜんぶなくそうとするみたいなキスが。
先輩の左手が、僕の頬に触れる。右手が僕の背中に回って、服一枚の距離すら腹立たしいというように身体を抱きしめられる。
絡んだ粘膜がとけあって、にじんで、そこから熱がこぼれる。あふれる。
破裂した心臓が再生して、ドクドクと身体中に熱を送り込んでいく。
ざわざわと、産まれたばかりの心臓の裏側が歯がゆい。急速に熱があがっていく。
先輩の熱に、煽られるようにして。
ふっと熱がとぎれる。
口は哀れにも酸素を求めて、荒い息がもれる。力が抜けて倒れそうになる。でも、そんなふうに力がなくなった身体を先輩の手が支える。
いや、それは支えている、というより。
「オレも」
逃がさない、と、いうように。
「コーヨーに――みつひろに、触りたいし、触ってほしいよ」
目の前で、深い深い青空に浮かぶ太陽と、紺色の夜に輝く星の輝きが混ざる。
ああ。
頭より先に身体の奥底で理解する。予感する。
きっと。これから。
「――オレの家に、行こっか」
ぼくのからだは、すべて、目の前の熱に、染められる。
これまでなら。たった少し前の僕なら。きっと逃げてしまっただろう。
だけど。
夏の盛りに、きらきらと咲く花のような笑顔を前にして。夏の夜に、こもってじりじりとたまっていくような熱をたたえた声に誘われて。
僕は、再生した心臓がまたすぐに破れそうになる鼓動を感じながら。
ただ、こくりと、頷いた。
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