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第55話 「つきあってねえっつうの」
しおりを挟む本館から学食へ戻るとき、顔が赤くなってるんじゃないかと、自分で触って確認している僕に「なに? キスたりなかったか?」という言葉に「ちがいますっ」と反射的に叫んだ。
そのせいで、もっと顔が熱くなった気がする。
だけどそんなことをした張本人は楽しそうに笑うだけで。僕はふてくされた顔をして、不本意なことを示して、恥ずかしさを隠すしかなかった。
学食に戻ればケイタさんもサカイさんもふつうで、今の自分が外から見ておかしくはなさそうだということに、ひとまず安堵する。
だけど、その安心はすぐに崩れる。
「あ、さっきの飲み会のやつ、向こうに話しといたから。あとで空いてる日、いつか教えてくれなー」
「んー、ああー…、わかった」
飲み会――ついさっき話題にしていた、エミさんがいる飲み会の話が出されて、ドキリとする。
青葉先輩はおざなりに返事をする。
「なんだよー、そのやる気のない返事ー! お前なぁ、エミちゃんもかなり人気あるんだぞ? エミちゃんとつきあってたころ、相当まわりからうらやましがられてたろうが」
「エミさんってそんなにモテるんですか?」
「サカイさん、そうそう。エミちゃん、かわいいし、性格もいい子だしな。留学で離れちゃったのは残念だったけどなー、なあ? 青葉」
「だから、もうつきあってねえっつうの」
視界の端で、青葉先輩の指がトントンとテーブルを叩くのが見える。
少なくとも楽しそうな雰囲気ではない。青葉先輩がこの飲み会に乗り気ではないのは、さっきの会話と、今の態度でもわかる。
そのことが素直に嬉しい。
だけどそんなことに嬉しさを感じるほど、自分に余裕がないというのもわかってしまう。それが息苦しい。
ああ、今からこんなんで、本当に飲み会にいって大丈夫だろうか。
先輩はきっと僕のことを配慮してくれるだろう。それでも周りに先輩と僕の関係を言ってないのだから、できることには限りがある。
エミさんと話す、こと、だって、もちろんあるだろう。無視するのもおかしい話だ。そもそも青葉先輩は別れた恋人を冷たく扱うような人では、ない。
だけど、でも、それでも。
思い出すのは、大学で当たり前のように、先輩の隣にいた人のその姿。
絶対に届くことはないと、諦めて、感情をおさえて、ただ、ただ、見ているだけだったころ。
あの頃は、そういうモノだと、わりきっていたから。ちゃんと話してたし、笑えてた。笑えてたんだ。
だけど、今は?
いまのぼくに、それができるだろうか?
ふいに思い出した過去の映像。
それに合わせたように、まるで紙風船みたいな軽薄さで、頭を鈍器で殴るような言葉が飛んできた。
「んなこといってんなよ。今からエミちゃんくるのに」
「……は?」
左隣から、珍しい、間の抜けた声が聞こえた。
自分の声かと一瞬疑った。だけど今のは先輩の驚いた声で。
僕は驚きすぎて何の声も出せなくて。
「今からって、なに、ここに?」
「そうそう。エミちゃんも留学終わりの手続きとかで大学に用あったみたいで、どうせなら日程の話も一緒にしたほうが楽だからさぁ」
血流が荒れていく。
休息に熱が消え去る。バクバクと冷たく鳴り響く鼓動のせいで、周りの音が遠ざかっていく。
いまから、ここに、エミさんが。
青葉先輩の、前の、恋人が。
ダメだ。まだ覚悟ができてない。
あの頃みたいに、青葉先輩とその隣にいる人を見ても、後輩としてちゃんと笑える覚悟なんてできてない。
しかも、こんな、大学で。学食で。
思い出す。それが自然なように並びあう二人。
隣にいるのは僕じゃなくて。
薬指には、お揃いの指輪がはまっていて。
どこまでも、とおい、とおい存在なのに、いつだって羨ましさと妬ましさと、こわさが入り混じった存在。
もし、いま、ここでそんな光景を見てしまったら。
ついさっき、先輩がしてくれたキスも、抱きしめてくれた力の強さも、思い出せない。
隣にいるはずなのに。とても、とても遠く感じて。
与えられた熱は消え去って。かわりにヘドロが喉から心臓から、身体へ侵蝕していく。
ああ、もう、だめだ。
「――すみません、僕、もう」
「あっ! 青葉ー!」
帰ります、という言葉は、明るい、明るすぎる声で消え去った。
学食の扉を抜けて、手をふりながら、笑顔でこちらにかけよってくる、そのひと。
ふわふわの長い髪。
夏の終わりに似合う、麻のロングシャツ。
オレンジのサンダル。
それに。
まぶしいくらいの、水色のストール。
まるで、澄んだ、青空のような。
ああ。なんで、そんな。色で。
せんぱいの色みたいなものを身に着けて、なんで、昔と変わらないような、笑顔でせんぱいのそばに、くるんだろう。
エミさん。
「ケイタくんから学食にいるって聞いてさ、やっほ」
明るくて、なんの邪気もない笑みを浮かべながら。
エミさんは僕たちのいるテーブルに近づいて、それで。
ポン、と。何の気負いもなく、青葉先輩の肩に手をおく。
「あ、どうも。おじゃまします」
ぺこりとエミさんがお辞儀する。サカイさんは笑って会釈を返す。
ぼくは。
表情ひとつもとりつくろえないまま、先輩の肩に置かれた白い手と、空色のストールに目を奪われて、なにもいえなかった。
わかってる。べつに、その肩においた手は、特別に意識したものじゃなくて。
ただのあいさつの距離、で。
そのストールの色にだって、きっと、他意はなくて。
だから、そんな細かくてくだらないことを気にしてしまう自分が、バカなだけで。
だから、平気。平気な、はず、なのに。
なんで言葉がひとつもでてこないんだろう。
花火大会のときは、ちゃんと、できてたはずなのに。
「……休みなのに、大学きてたんだ?」
「そー。留学で休んでたぶんで、大学の事務と必要な手続きとか後期の相談とかいろいろあって。もう大変だよー。あ、このあいだは資料ありがとね! 青葉のおかげで助かったわぁ」
「別に、あれくらい」
「ケイタくんもひさしぶりー! 飲み会の話、ありがとうね」
屈託なく話す、その姿。
立ったままだけど。学食の椅子に座った先輩の隣に、慣れた様子で立っている。
それは、なんども、なんども、見ては、思い出しては、呼吸ができなくなるほど、ピアスに封じても意味ないほどの、激しい感情が揺さぶられてきた、光景で。
過去の映像と今目の前の光景が重なって。
一瞬で、あの頃の自分に戻ってしまう。
見てることしかできなかった。
ただの先輩と、後輩で。
その一線を越えることは決してないと、全部、全部諦めて。
それでも未練がましく気持ちを捨てきれなかった。
ピアスに痛みをすべて押しつけて、無理矢理、平静を保とうと足掻いていたあの頃に。
ああ。数か月前までは、それがあたりまえだった。
そっちが、あたりまえだったんだ。
だからここで耐えるのも、苦しみも、何度も体験しているのに。
なんで今更、こんなにも。
呼吸が止まって、心臓が裏返しになって避けるような痛みが襲ってくるんだろう。
「――それでナツメさんがくるって話で――」
「そうそう! 映研の合宿で――」
「――そういえばあっちは――」
誰かが会話しているのに、それが誰がしゃべっているのかも、内容も理解しきれない。
裏返しになった、剥き出しの心臓が、ズタボロに避けて、血が噴き出したみたいだ。
きっといま、ぼくのからだのうちがわは真っ赤っかだ。
なんで、今のほうが、前よりもつらいんだろう。
たぶん、それは。
何回も、何度も、窒息しそうなほど、シロップのような甘さを、与えられすぎて。
贅沢に溺れた僕の心は、シロップのせいで、これまでずっと保っていた殻を溶かされたせいで。
青葉先輩に、とかされたせいで。
いつの間にか心のやわらかい部分がむきだしになってしまっていたんだ。
だから。目の前の光景と過去の光景が――いや、過去の「ありえない」とずっと思っていた自分自身が、剥き出しの心に刃を立てる。
前の自分が言う。
ほら、言ってたとおりだろう? 目の前にあるものが、いちばん自然なすがただろう?
なんで、そこに自分が立てると思ってた?
さくり、と。ケーキをカットするより容易く、心臓にナイフが刺さる。
「――エミちゃんの留学のころの話も聞きたいし、どっか行く?」
「あ、いいよー。私は時間あるし。青葉は?」
「ん? オレは」
固まっていた視界に、ほんのすこし振り返った先輩の顔がうつる。
ハッキリとではないけど、こちらをうかがう様子をしているのがわかる。
ああ、こんな時でも、「今の恋人」の僕のことを心配してくれてるんだな、って、わかるのに。
わかっているのに。
そのわずかな角度で、先輩の、ピアスが、視界から見えなくなってしまった。
いつも見ていたはずなのに。
真っ赤っかな心臓が網膜にうつりこんだみたいで。
それが、どんな色をしてたか、なぜかうまく思い出せない。
「――せんぱいたち、で行くなら、今日は解散、ですかね」
わざとらしいくらいに唇の端をあげる。笑ってる、顔に見えるように。
少しだけ先輩の目が、驚いたみたいに見開いた気がする。だけどケイタさんが「そうだなー飲み会の詳しいことまた連絡するな」と普通に言って。
エミさんは「久しぶりのあそこのカフェ行きたいな」と言ったりしているから。
きっと、大丈夫、大丈夫。僕は、まだ自然にふるまえている。
でも、多分、長くはもたないから。
ろくに持っていなかった荷物を持って、立ち上がる。そのまま誰のほうも見ないで頭を下げて、何事もないフリをしてみんなから離れる。
一分でも、一秒でも早く。
ここから離れたかった。逃げたかった。
真っ赤な血液が、目から溢れそうになっているから。
「――コーヨー!」
学食を出て、小走りで逃げる僕の手首を大きな手がつかんだ。
見なくたってそれが誰かなんてわかる。わかるに決まってるだろ。どれだけ、その声を聞きたくて、少しでも話したくて、必死でいたと思っているんだ。
見ているだけの大きくて、長い指のサイズは、何度も肌に触られて、身体はしっかり覚えている。
ああ、そんな大きな声出して。
追いかけるみたいなことしたら、周りから、変に思われちゃうじゃないですか。
だめですよ、そんなの。
そんなことしたら、青葉先輩のために、ならないですよ。
そう言いたいのに、言葉を発したらまったく別の声が漏れそうで。
振り返ることもできなかった。
「コーヨー、オレは、あっち行かないから、帰るならオレも一緒に」
「ごめんなさい」
反射的に先輩の言葉を遮る。
いつもなら、一言一句、どれだけ恥ずかしくても、苦しくても、聞き逃したくないのに。
でも、今はダメだ。
いま、先輩に優しくされたら、ぼくは。
「――ごめんなさい、ちょっとだけ、ひとりにさせてください」
手首をつかむ力が緩んだ。そのすきを逃さずに、ぱっと手を離して、まっすぐ前を歩いていく。
その間。先輩がどんな顔をしているか確認することもできなかった。
そのまま大学からすぐ近くの自分の部屋に帰る。
玄関の扉を閉めても安心できなくて。ただただ後ろになにかこわいものがあるような気がして、走るように自分の部屋のリビングへ逃げ込む。
はあはあ、と荒い息がする。
ああ、こんなんじゃ、花火大会の日に逃げたときとまるで変わらないのに。
ずるずると、力なくフローリングに座り込む。
せんぱいにひどい態度をとったこと、謝らなきゃ。
そう思うけど。指一つ、動かす気力がなかった。
情けない。だけど。
あそこで、あんなところで、もしも優しくされたら。
大学の構内で、みっともなく泣いて、縋ってしまいそうだったから。
そんなこと、青葉先輩の迷惑になるだけだ。
のろのろと顔をあげて、テーブルの端においてあるケースがめにとまる。
重たい腕を伸ばして、それを開ける。
もうずっと。開けることのなかった。ピアスをいれておくだけのケース。
そこにしまい込んでいた、ひとつのピアス。
深い、小さな青の宝石紛いがついたピアス。
あの日。ここで、先輩の薄い耳たぶに僕の手が触れて、針を通すきっかけになった、青のピアス。
この色が好きだと、いった先輩の言葉を思い出す。
「……っひ、ぅ、っ、く」
気づけば。知らないうちに、あの日みたいに、目から涙がぽろぽろぽろ零れていた。
涙がどんな色をしているかなんてわからないけど。
きっと、それは。
この青のピアスにも、左耳のピアスにも、似合わないくらい、醜いいろだろう。
ぎゅっとピアスを握り込んで、僕はただただ、ひとりで、下手くそな泣き声をあげていた。
あの日と違って、優しくて大きな手は、ここにはなかった。
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