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第47話 「ビール買って」

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 嵐山、と名前を呼んできたのは同じゼミの男子生徒だった。
 近くには彼の友人がいる。学部棟でなんとなく見かけたことのある顔だ。
 このお祭りは大学から近いから、彼らがいることは不思議ではなかった。

「嵐山もきてたんだ」
「うん、まあ。そっちも?」
「やー、昨日から飲んでたんだけど、そういや祭りあるなって話になってさ」
「なんだよそれ。結局ずっと飲んでるだけだろ」
「そうともいう!」

 ははっと笑う彼の手にはビールのコップがある。飲める口実があればなんでもいいというのはまさに大学生らしい。
 彼がチラリと青葉先輩のほうを見る。映研の知り合いではないから、二人とも初対面だ。

「あ、ども。俺、嵐山と同じゼミのシノザキです。えーっと」
「映研の三木です。どーも」

 青葉先輩が三木、と名乗るのはなぜか新鮮だった。三木青葉という名前だけれども、映研のみんなは「青葉」と呼ぶから。

「ああー映研の。そういえば嵐山って映研だったっけ? なに、じゃあ映研のひとたちできてるの?」

 シノザキのなんてことのない言葉に一瞬喉が詰まる。

「えっと、うん、まあ、そんなとこ」

 とっさに肯定してしまう。
 青葉先輩のほうは振り向けなかった。

「あ、あとで他の二年も何人かくるかもって言ってたから、時間あったら顔出してや。んじゃ、俺ら行くな! 混むから早めに場所取りしたほうがいいぞー」
「あーうん、わかった」

 シノザキは何の疑いもなく、この場を去っていく。
 心臓が冷えて、イヤな音を鳴らしながらバクバクと高鳴っている。

 ここにきているのは青葉先輩と二人だけで、他の映研のメンバーなんていない。
 だけど。それを素直に大学の友人にいうのは、いいのかわからなかった。

 だって、ただの先輩と後輩が、二人だけで花火大会にくるのが普通か、と自分で問いかけたら。
 しかも男同士で。
 そういう場合もあるだろう。シノザキみたいに飲んでてなんとなく流れでやってきたとか、そういうことだってある。
 だから、わざわざつかなくてもよかったかもしれない。嘘、なんて。

 でも今の僕と先輩は、違う。
 前もって約束してここにきた。デートだな、なんて言われて。
 だから思わず、過剰に反応してしまった。変に思われないように、二人の関係を誤解されないように。思わず取り繕って出てしまった言葉。

 先輩の目の前で、先輩のことを誤魔化すような嘘を言ってしまったことがいまさら怖かった。
 怒っているか。呆れているのか。どんな顔をしているのか確かめられない。
 夏の夜の風が、やけに冷たく感じる。

「――嵐山、って呼ばれてるんだな」

 不意に横からいわれた言葉はそんなことで。
 ぎこちなく先輩のほうを振り返る。
 先輩はいつも通りの、普段と変わらない表情でひょいっと焼きそばを食べていた。

「そりゃ映研以外でコーヨーって呼ばれてるわけないか」
「まあ、それは、その」
「あらしやま」

 ゆっくりと一音ずつ、確認するように先輩の舌は丁寧に紡いだ。

「あらしやま、みつひろ」

 さっきまでの怖さはどこへ行ったのか。
 僕の心臓は現金に高鳴りだす。
 嵐山光洋という、名前なんてこれまでの人生、何度だって呼ばれてきた。いろんな人から当たり前のように。
 ああ、だけど。
 先輩が口にしたら。ゆっくりと味わうように、咀嚼するように、確かめるように呼ばれたら。
 当たり前の音の羅列が祭囃子よりも僕の心をかき鳴らす。

「んん。あらしやま、はやっぱ慣れてないからちょっと呼びにくいな」

 首をかしげ、にっと笑って。

「みつひろは呼びやすいんだけど」

 悪戯っ子のように口の端をあげて、それなのに優しい目をして。
 呼びやすい。そんなことあるだろうか。先輩はいつもコーヨーっていう呼び方をしていて。
 だからたまに、その四文字を呼ばれるとひどくうろたえてしまうのだけれど。
 けど今は、ただうろたえているだけじゃダメで。

「あの、先輩、さっきの」
「うん? なに?」

 きょとんとした顔を見かえされる。さっきとっさについた嘘に先輩は気づいてなかった、のか。
 いやそんなわけない。先輩が気づかないわけ、ない。あんな変な誤魔化し方をして、先輩の顔もまともに見られなかった僕がいたのに。
 いつだって誠実に接してくれる先輩を裏切るようなことをして、気にしないでなんていられない。
 だけどどう切り出せばいいかわからなくてもごもごと口ごもる。

「あー、そういえば、喉かわいたな―」

 棒読み気味に先輩がそんなことを言い出す。

「コーヨー、ビール買ってきてくんない?」
「え? はい、それは、いいです、けど」

 青葉先輩がこういうことを後輩に頼むことは、あまりない。パシリみたいな扱いをすることはほとんどなくて、さっきの屋台みたいに自分の好きなものを買ったり、シェアすることのほうが多い。

「じゃーお願い。そんで、さっきの気にしてんならそれでチャラ。な?」

 ぽん、と頭を叩かれて。夏の涼しい空のような笑顔を浮かべられて。
 ああ、かなわないな、って思ってしまう。
 先輩は確かに僕がさっきしたヘタな誤魔化しに気づいていて。その上で、気にしなくていい、と言ってくれていて。

 きっと「気にするな」と言われても、僕はグダグダ悩んで、気にしすぎてしまうから、こんな簡単な取引を持ち出す。

 さっきの嘘については、僕が先輩のぶんのビールを買ってくる。それ以上は何も言わなくていいし、引きずらなくていい。この話はそれで終わり。
 たいして高くもない、なんなら安いくらいのこんなことで許してくれるのは、先輩のためよりも、きっと僕のためだっていうのがわかって。

 ビール一杯分の、優しさ。

 無性に心臓をかきむしりたい。それができないならベッドの上でじたばたと騒ぎたい。
 見透かされていることの恥ずかしさも、先輩が僕を考えてくれる優しさへのドキドキも、僕じゃ全然かなわない、先輩がほんとにかっこよすぎることも。
 いろんなものが混ざって重なって、胸がぎゅうぎゅうする。

「んじゃ移動ついでに買ってもらうか。花火どこで見る? 河川敷は混んでそうだな」

 気づけば日が暮れて、空はすっかり藍色に染まっている。
 花火の打ち上げ時間が近くなって、周りの人の量も増えてきている。
 騒がしかった心臓が一気に冷え込む。

 もしかしたらさっきのシノザキのように、他に知り合いもきているかもしれない。
 そうしたらまた、先輩の前で、先輩とのことを嘘をついてしまう、かもしれない。
 秘密にしてほしい、って頼んでいるのは自分なのに。撤回する勇気もないくせに。
 それでも、できれば先輩の前で嘘なんてつきたくない。

「……見にくいかもしれないです、けど。近くの公園とかのほうがいいかもしれないですね」

 それが問題から逃げてるだけだとしても、一度顔をだした不安は無視できない。
 チャラにして終わりにした話が、もう一度目の前に現れることが、怖い。

 後ろ向きの気持ちが言葉に染み込んでいたかはわからない。先輩が気づいたかは、わからない。
 先輩が振り返って僕の目を見る前に、反射的に俯いた。

「……ま、確かに混んでるよりはいいか? この近くに公園あったっけ」

 さくさくと人の流れに逆らって先輩は進んでいく。あっさりと提案を受け入れられて、驚いていた僕は慌てて後をついていく。
 人波に逆らって歩くと、周りにぶつからないように慎重になって、同じ進行方向を進む青葉先輩と自然と近くなる。

「あんまりこっち側こないんだよな」
「えっと、確かあっちの裏路地に公園があったはず、です」
「あっち……ああー、あの花屋あるとこ?」
「あ、そうです」
「そういやあそこらへんにそんなのあったな。裏路地に面してるから人気ないんだよな、あんまり」
「周りにアパートとかたってるんで、花火は……ちょっと隠れるかも、しれないですけど」

 花火を見るためなら、多少混雑を我慢してでも河川敷や歩道橋で場所取りをしたほうがいい。
 もともと花火を見ようという話だったのに、先輩は本当にそれでいいのか。あっさりと公園に向かわれて心配になる。
 薄暗い気持ちを持て余す。うまく言葉をつむげないでいると、すぐ隣を歩いていた先輩が少しかがんで僕の耳元に唇を近づける。

「別にいいよ。それに……二人だけのほうが、デートっぽいだろ?」

 囁かれた言葉を認識して、途端、顔が熱くなる。

「べ、つに、そんなつもりで言ったんじゃ、ありません!」
「えー。オレはコーヨーから二人っきりになりたいって言われたらめっちゃ嬉しいけどなー」
「言いません、そんなことっ」

 恥ずかしさを隠すために先輩の背中を軽く小突く。先輩は笑って「オレはいつだってコーヨーと二人っきりになりたいけどな」なんて言う。
 早くここから離れて、公園に行きたかった。ここじゃ明るすぎて赤い顔を隠せやしない。
 だけど公園についたらついたで、もし先輩が言うように他に人がいなかったら、って考えたら。
 心臓がバクバクとうるさい。それは恥ずかしいからか、期待しているからか、わからなかった。





 祭りの喧騒から離れるように、表通りから離れて路地を進んでいくと、どんどん人が減っていく。
 祭りの一帯から10分も離れていない路地の中に目的地はあった。
 ベンチにブランコ、シーソーくらいしかない、ひっそりとした小さな公園は薄暗かった。ビルやマンションに囲まれているから、花火が打ちあがっても半分くらい建物に隠れてしまうかもしれない。かといって、無人、というわけではない。少人数のグループがいくつか屋台メシを食べて花火を待っている。
 それを見て先輩は「ざんねん」なんて言った。僕はもう一度先輩の背中をたたいたあとで「ビール買ってきますね」と約束のビールを買いに行った。

 二人きりじゃなくてよかったという安心と、どこか残念に思う気持ちと。制御できないグラグラした気持ちは、花火が近づくにつれて高揚感が高まっていく人波と喧騒に合わさって、浮足立っていく。

 ふわふわとした気持ちのままビールと、ついでにつまみになるような枝豆なんかも買って公園に戻る。
 ビールをこぼさないように注意をしながら。プラカップについた水滴がぬるくなって指につたう。

 先輩は公園の奥にあるベンチに座っていて。
 せんぱい、と声をかけたかった。
 あおばせんぱい、と名前を呼びたかった。

 だけど。
 身体は声という機能をすっかりなくしたように。
 血液の中にいる酸素すら取り上げられたように。
 目にはいった映像が、僕のすべての機能を止めた。

「青葉、すごい久しぶりだね」

 ベンチに座っている青葉先輩の前に立っている人がいる。
 他にも知り合いらしいひとが二人か三人いたけど、そのひとたちの顔を確かめる余裕もなかった。

 見たくないのに、視線が外れない。

 ゆるく巻かれたロングヘアに、明るいピンクのウエッジソールのサンダル。涼し気な白のシャツワンピース。

 そこにいる人を、彼女を見て、すぐに誰だかわかった。わかってしまった。

「……そういえば、もうこっち帰ってきてたんだっけ」
「後期からは復学するし。そうだ、後期の授業の相談したかったんだよね。青葉のとこの授業もとらないと単位やばくってー」

 明るい声は、公園の入り口に何もできないで突っ立っている僕の耳によく届く。
 今、聞いているその声と、昔、聞いていた声が重なる。
 先輩の横に立つその姿を見て、最近滅多に思い出さなくなっていた、過去の映像が再生される。

 青葉先輩の横に立つ、かわいらしい女性。
 その時、二人の薬指のつけ根には、同じ指輪がはまっていて。
 みんなの前で、当たり前のように先輩の横で笑って、話していた人。それが許されていた人。

 ぐらりと世界が揺れる。

 夏前に見たときと変わらない笑顔で、いまの青葉先輩の前に立っている彼女は。

 青葉先輩の、元カノだ。


「青葉、ひとり? どうせならうちらと一緒に花火見ない?」
「いや、オレは」

 そういって公園の入り口に向いた青葉先輩の目が、立ったままの僕をとらえる。
 心臓は動きを止める。
 つられるように青葉先輩の元恋人であるその人も、僕のほうを見た。

 さっきまであんなに騒がしかった心臓が、壊れてしまったように静かだ。
 だから、笑顔を作ったのは多分条件反射で。
 今まで、何度もそうしたように。
 青葉先輩と、その彼女が二人でいるときに、ただの後輩らしく振舞おうとしていた習慣が勝手に身体を動かす。

「先輩、お待たせしました。これ、ビールです」

 声はフラットで、震えても何もいない。決められた型をなぞるように身体は先輩に近づく。自然と、横に元恋人が僕の隣に立っている。

 ふわり、と柑橘系の香水がかおる。

 そちらを見ないまま、先輩にビールを手渡す。
 青葉先輩はそれを受け取った。だからすぐに離れて、一歩下がる。
 顔には笑顔をはりつけたまま。

「コーヨー、」
「あ、すみません。さっき会ったシノザキから連絡あって、合流できないかって連絡きてて。ここにいても邪魔になりそうだから、僕あっちに行きますね」

 ついでに、と枝豆をベンチに置いて。

「今日はありがとうございました。遅くまでつきあわせてすみません。それじゃ、また」
「コーヨー、待て」

 立ち上がろうとした先輩は手元のビールをこぼす。揺れたカップからビールが飛び散って「きゃっ」とかわいらしい悲鳴が上がる。
 先輩はビールがあって、目の前の元カノはそのビールがかかって。二人ともすぐに動けない状態になる。
 ビールをこぼしたことには気づかないふりをしたまま、先輩と、彼女のグループにお辞儀をして、僕はきびすを返して公園を出た。
 後ろから名前を呼ばれた気がしたけど、振り向かなかった。


 公園を出て、路地の先に進む。はじめは歩いていたけれど、公園から離れるにつれ、速度を増して。完全に公園が見えなくなった頃には、全力で走っていた。

 身体は自分のものじゃないみたいに、何の感覚もしない。
 息があがっているけど、それを辛い、とも認識する感覚もなかった。
 突然の遭遇に頭は混乱している。でもどこか冷静な自分がいる。それは、薄暗くて醜い感情を覆い隠して、青葉先輩の前で「後輩」としてふるまっていたときの自分。


 結局、先輩にまた嘘をついてしまった。シノザキとの約束なんてない。
 そして今、みっともなく、ただ逃げるために走っている。


 人通りの少ない道路を、深く染まった藍色が影を落とす。

 ナツメさんとのときは、僕が勝手に思い込んで、勝手な想像を当てはめただけだ。
 でも、今回は違う。
 あの人は、確かに昔、青葉先輩の恋人、という場所にいたひとで。
 そして、それを隠す必要も、嘘をつく必要もない立場で。
 お揃いの指輪をはめて、周りからもつきあっていることを認められていた女性で。


 感覚がほとんどないのに、がむしゃらに走った体はどこかで無理がきて、足がもつれる。
 はっ、と息を吐き出して、その場で立ち止まる。
 荒い息を抑えるように、暗い衝動が吹き荒れるのを抑えるように、胸元のシャツをつかむ。


 青葉先輩の元恋人という存在は、漠然と、僕にとって恐怖と妬みの対象で。
 それが、なんの用意もなく、いきなり目の前に現れて。
 だから逃げるしか、なかったのに。

 胸のシャツを握って。その服の下にあるものを思い出す。

 今の二人がどんな関係なのか確かめることも、昔、二人で交わしていた親密さがまだ残っているのかを見ることも、怖くて逃げたのに。

 ああ、ほんとうに。
 自分はどれだけ醜いんだろう。


 もしも。
 もしも、先輩が望んだように。
 胸にひとつだけつけた、赤いキスマークを。
 服を着ててもわかるように。
 あのひとからも見える位置につけていたなら。
 そうすることができたら、僕のだ、って言えたんだろう、か。


 ピアスを開ける前とは違う、もっともっと汚くて、醜い、浅ましい欲望が渦巻いて。
 そんなの。こんな風に、嘘つきで、卑怯で、逃げることしかできない、臆病な自分に資格なんてあるわけ、ないのに。


 後ろでドン、と花火が打ちあがる音がした。

 あれだけ言っていた花火が、どんな色をして光っているか、わからなかった。




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