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第42話 「勝者のワガママってやつ?」

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「あれ、コーヨーさん。あんまり眠れてないんですか? 目赤いしクマっぽいのできてますよ」

 朝。あまり食欲がなく、気怠くダラダラと朝食を食べていたらサカイさんに目ざとく寝不足なことを気づかれた。

「うん、まあ、そうかな。男子の大部屋、もう一晩中いびきひどくって」
「あぁー、廊下まで聞こえてましたよ! 確かにアレに囲まれてたら熟睡なんてできないですよねー」

 あいまいに誤魔化したけども、僕が昨夜ろくに眠れなかった原因はまるで違う。
 原因を思い浮かべて、そっと不自然にならない程度に、三年生が座っているところに目を向ける。

 爽やかな短髪の黒髪。動きやすそうな薄藍色の麻のハーフパンツ。スポーツ用のパーカー。青いスニーカーに、左耳に赤いピアス。
 いつも通りの、好青年らしい様子で、快活な笑顔で離している、青葉先輩こそが僕の睡眠を妨害した原因だ。

 隣の布団で眠る人が、また布団にもぐってきやしないかとか、また触られたり管理人室に行こうと誘われるんじゃないのか、また――いや、ちがう――今度こそ、本当に求められたりするんじゃないだろうか、とか。
 求められた時に、僕は、拒むのか、受け入れる、のか。

 そんな益体もない考えが寝ようとしても浮かんできて、朝日がのぼるまで、ほとんど睡眠らしい睡眠をとれなかった。

 おかげで体がだるいし、目がしばしばする。なにより、眠たい。

「なに、コーヨー寝不足? キツイんなら無理すんなよ。寝てていし」

 朝食を食べ終わったのだろう。食器を片付けるために横を通り過ぎようとした青葉先輩が、ぽん、と頭を叩いてくる。
 先輩は全く寝不足を感じさせない。むしろ快眠したとしか思えない肌つやで、思わず恨みがましい目を向けてもきっと許される。

「……いえ、そこまでじゃないですし。ちゃんと撮影の手伝いに……」
「午前中はセットに必要なものもの少ないし、昼までなら寝てても平気だろ。オレからツルさんに言っておくしさ」

 な? と念押しするように先輩に言われて、しぶしぶ頷く。
 今日も暑い。無理して倒れられたほうが周りに迷惑だろう。
 さらには青葉先輩は「それも今食べられないんだったら、ラップかけて残しとくから」とほとんど箸が進んでいなかった食器を持っていかれてしまう。
 ぽんぽんと話が進んでいって、ただ残された僕は、サカイさんの声にあいまいに返すしかなかった。

「青葉さんって、面倒見のいい先輩ーって感じですよね!」
「うん、そうだね」

 全部ただの先輩と後輩としての会話と接触。
 現にサカイさんは不審に思わない。睡眠不足にさせた犯人が青葉先輩なんて思いつきもしないし、僕への『接触』は面倒見のいい先輩の範疇に収まっている。
 それはいいことだし、そうじゃなきゃ困る。けど。

 ――こっちは睡眠不足になるくらい悩んでたのに、ひとりで平気な顔しているのは、なんか、こう。
 ずるくないだろうか。

 一人で大部屋に戻りながら、そんなことを考えずにはいられない。
 これは八つ当たりの部類だし先輩はなにも悪くない。いや、寝られない原因を作った部分は責任を追及したいけど、なんで眠れなかったか、つまり何を考えていたかっていうことを話さなきゃいけなくなるから、それもできない。
 釈然としない思いのまま、寝不足の身体を布団に横たわらせる。
 スマホの着信がなって、メッセージの中身を確認する。青葉先輩からだった。

『ツルさんには連絡済み。ゆっくり寝てて。あとで起こしに行く。
 ところで、夜這いならぬ昼這いはしてもいい?』

 夜這いの言葉に、昨日布団にもぐってきた先輩を思い出して。
 それを昼してもいいか、とか、ホント、もう。

『連絡ありがとうございます。
 バカなんですか』

 寝不足と八つ当たりを兼ねて返信した。
 恋人同士という関係になってからこんなに明け透けな言葉を使ったことはない気がする。けど、睡眠不足の頭はシンプルに「青葉先輩ならこれくらいで怒らないだろう」と結論をだした。
 もし本当に昼間から昨日みたいなことをしたら、やっぱり「バカ」っていってちょっと殴ろう、って思いながら、眠りについた。






 ぐっすり眠って、平穏無事に昼を迎えられた。
 青葉先輩が寝込みを襲うことはなかった。単純にみんな昼食のためにコテージに戻ってきていて、青葉先輩以外のひとたちもいたから、っていうのもあるかもしれないけど。

 先輩は少し残念そうに「あーあ、昼襲えるかと思ったのに」とこっそり言ってきて、「バカなこと言わないでください」と軽く肩を殴った。殴る、というか、まあ叩いた、くらいの感触だけど。
 そうしたら先輩は実に嬉しそうに笑って――笑ってから無常にヘッドロックをかけてきた。

「ちょ、いたたたっ! 痛いですって!」
「おらおら、先輩をバカ呼ばわりしたお仕置きだって―の」
「それはっ……って、首! あーもー僕が悪かったですから! すみません!」
 
 首にかかっている腕をタップして降参の意をしめす。
 とはいっても。本気で痛いわけじゃない。
 先輩がしているヘッドロックはほとんどポーズみたいなもので、首に腕が回ってるけど喉はしまっていない。真剣にヘッドロックをかけられたら喉がつぶれるから、そもそも声を出すこともできない。

 だから、僕も先輩もこれがただのお遊びだってわかっている。なんてことのない、男子大学生がするお遊び。

 でも。後ろに立っている先輩が自分の体に近づけるように、首に腕をかけているから。
 ふわりと香る、夏の土と汗のかおり。
 接する背中越しに伝わる体温。

 だから。こういうことを、先輩後輩の接触に紛れてやらないでほしい。
 心臓がヘッドロックの苦しさとは別の理由で苦しくて暴れてる。もう、ほんとドキドキしてたまらないから。やめてほしい。

 その気持ちをこめて、何度も先輩の腕を叩いているのに、先輩の楽しそうな声は途切れない。

「ホントかぁー?」

 くいっとさらに肘が内側に入る。体が持ち上がるようにそらされて、背中が先輩の胸元にぴったりくっつく。先輩との距離がほとんどゼロになる。
 近づきすぎた耳元に、急に低い声で囁かれる。

「まだまだイケるだろ?」

 思わずゾクリとする。ひそめられた声。

「――ダメです、もームリですって! 先輩のホールドから、逃げられないですからっ」
「んー、じゃあ今回はオレの勝ちな」

 さっきと反してパッと離れる腕、身体。
 さりげなく距離をとって、首をさすりながら恨みがましい気持ちをこめて先輩を見あげる。

「体格差あるんすから、僕が負けるに決まってるじゃないですか」
「そうか? わかんないだろ。やってみる?」

 すっと首を差し出す仕草に慌てる。簡単にひとに急所をさらさないでほしい。

「……イヤ、遠慮します。かけたらなんか代わりにコブラツイストとかしかけられそうですし」
「ははっ。そうするかもな。コーヨーが逃げないように」

 ふっとまつ毛を伏せて、奥になにかを湛えてそんなことを口にする。
 思わず面食らってしまう。
 だって、なにを言っているんだ。そんなこと、言われなくたって。

 揶揄と婀娜っぽさを含んだその視線を受け止める。
 赤くなりそうな顔を背けるこのを、ぐっと我慢しながら、踏みとどまって真正面から先輩を、見る。
 先輩の右耳にある、赤いピアスが太陽の陽を浴びて、きらりと光る。

「――逃げませんよ」

 だって――先輩から逃げられないなんて、今更確認するまでもない。そんなの、ただの事実でしかないんだから。
 むしろ望んで、先輩の腕に、束縛に、独占欲に縛られていたいのに。

 先輩はさっきまでの空気を霧散させてキョトンと僕を見る。
 なんでそんな驚いているのか不思議で首を傾げようとして、気づいた。

 ――今、僕は。ものすごく大胆な、なんかすごいことを、言ってしまったんじゃないか?

「あーっ、でもっ。わざと泣かせる映画見せるとか、あと、その、昨日……みたいな、そういう不意打ちとかは、別ですよ、そういうのは別ですっ!」

 慌てて言い訳を並べたてていく。まあ、その、逃げる気がないこととこっちの心臓に悪いことをしてくるのを全部許すのは、別だし。イヤ、なんとなく結果的に許してることも多い気がする、けど、それは多分気づかないほうがいいこだ。うん。
 自分の心にも否定と言い訳を連ねていくけど仕方ない。これくらいは見逃されたっていい。たぶん。

 青葉先輩は笑った。
 透き通る、太陽の光すら白すぎて、空に溶けて見えないような、そんな青空みたいな笑顔。

「オレも逃げないよ。――相手が、コーヨーなら」

 ドキっと跳ねる心臓。
 ばくばくと血流が過剰に体内を駆け巡る。
 先輩はそんな僕の血管事情なんて知らないで、僕の頭をくしゃりと撫でてくる。

「ま、その調子なら午後は平気そうだな。体調もし悪くなったらすぐに言えよ」
「あ、は、はい」
「うっし。んじゃあ行くか。……ああ、それと」

 撫でた頭が離れる間際。
 髪に隠れているピアスに、先輩の指がかすかに触れる。

「夜の花火、楽しみだな」

 すぐに離れた指。けれども、耳にはしっかりとその感触は残っていて。
 赤い顔を誤魔化したくて、無駄な足掻きと知っていて顔を横に背ける。

「……線香花火、どっちが長く続けられるか、勝負しましょうか」
「えっ、オレが教わるって約束なのに? こっちが不利すぎない?」
「先輩が勝ったら、今までのツケ、半分くらいナシにしてもいいっすよ」
「うわ。ちょっとその条件は……アリだな」

 なんとなく負けっぱなしが悔しくて言い出した、他愛のない勝負。
 他のメンバーと合流するために歩き出す。

「うーん、悩むな……あ、ってかコーヨーが勝ったらどうすんの?」
「そうです、ね」

 首をかしげて、ふいに上に広がる空を見上げる。

「………僕がヘッドロックかけるときに、抵抗したり避けちゃいけないとか?」
「待て待て、それはガチで落ちる。失神するだろ」

 ぎょっとして驚く先輩に思わず笑ってしまう。
 燦々と眩しい太陽の日差しが、絶え間ない水色の空から降り注いでいた。







 片手に手持ち花火、片手にビールという、まさに大学生らしい様子でみんな花火を楽しんでいた。

 風は少なく、生ぬるい空気がだだっ広い駐車場にただよっている。街灯がほとんどなくて、コテージの明かりだけが頼りという薄暗い夜の駐車場で、白や黄色、たまに赤い光が鮮やかに弾けている。

「もう打ち上げ花火あげてもいいっすかー?」
「おっと、焦んなー! どうせなら10連打ち上げとかしたいだろ」

 上級生がせっせと打ち上げ花火をコンクリートの地面に並べていく。
 夜の暗闇も、10人近くが休むことなく花火をつけていたら明るいくらいだ。5本同時に火をつけるというお決まりのことをしたり、走りながら燃える火の軌跡でなにかの模様をつけようと騒いでいる人。

「お、打ち上げ花火するなら撮るからちょっと待ってくれ! ピント調整しないと……」
「ええー、監督がそれしはじめたらいつまでたっても打ち上げはじめらんないっすよ!」

 そこに監督こと猫柳さんがカメラを構え始める。
 ガチ班は忙しくて来られないだろう、と思っていたのだが、編集のキリがよかったらしいのと「夜の花火は撮れ高だ!」と言って意気揚々と参戦してきたのだ。
 ただ、猫柳さんが本気で撮影準備をはじめたら、不平をあげた映研の言う通り、最低でも30分は時間がかかるだろう。

「大丈夫、大丈夫。そこまで時間はかけないさ……うーん、三脚持ってきたほうがいいか? この距離でピント合うかな……」
「猫柳さん、私お手伝いしましょうか?」
「あっ。ナツメちゃん。ちょっとお願いしてもいい? そうだな、この花火を持って、そのあたりに立ってくれない?」

 ナツメさんがそっと猫柳さんに声をかけて、言われた通りに花火を持って少し離れた位置に立つ。
 カメラに映る夜と花火の光を調整しながら「おお、これもいい取れ高! ナツメちゃん、ちょっと顔こっち向けて!」と嬉しそうな猫柳さんの声が跳ねる。
 花火を持っているだけで、普段の美人度に拍車がかかっているナツメさんも、すこしはにかみながら猫柳さんのカメラに視線を向ける。
 きっと今、二人はカメラ越しに視線を交わしているのだろう。
 その光景は花火に負けないまぶしさがあった。

「ナツメさん、楽しんでるみたいでよかったな」

 二人を眺めていると青葉先輩が声をかけてきた。僕は「そうっすね」と答える。

「この感じなら、今は男除けやんなくてもいいか。二人で楽しそうだし」
「むしろ今あそこに混ざったら、ただの邪魔にしかならないですよ。監督の撮影に混ざろうとする人もいないでしょうし」
「だな。監督のカメラを止めるとか、ガチ班以外できねえし」

 声をおさえて、二人でこっそり笑う。映画好きの監督の邪魔するなんて、恐ろしくてできやしない。

「打ち上げ花火はじまるまで時間あるだろうし、ホラ、やろうぜ線香花火」

 先輩は線香花火だけの単品袋を差し出してくる。大体こういうときは、いろんな手持ち花火のセットに入った大袋がメインだと思う。が、打ち上げ花火といい、買い出し組がはりきっていろいろ買ったのだろう。
 未開封の袋を見て思わず「どんだけやるつもりですか」と呆れて言ってしまった。先輩は笑って「ここらへんじゃ明るすぎるし、あっち行こうぜ」とスタスタとみんなの輪から外れていく。方向的には肝試しをした空き別荘があるほうだ。

 コテージからも、花火の舞う火花からも遠くなっていく。
 ほーう、とフクロウみたいな鳥の声が聞こえた。
 視界にあちらの明るさは入っているけれど、このあたりは林が近いのもあって、大分薄暗い。隣の青葉先輩はなんとか見えるけれど、気を抜いたら転びそうな程度の暗闇。

「だいぶ暗いですね」
「なに、怖い?」
「別に怖くはないっす」
「ふーん。じゃあ、このまま夜の散歩デートでもする?」
「……え?」
「この間の空き家の別荘まで行くとか。肝試し代わりに?」

 それは、どちらがメインなのか。肝試しと、でーと、というもの、の。
 というか、でーと。デート、って。
 悪戯っ子の笑顔をした青葉先輩がわずかに見える。でも、その目から真意を探るには、暗すぎる。

「なーんて、な。冗談だよ。二人でいきなりいなくなったら、向こうも心配するかもしれないし」
「そ、ですよね」
「ま、このあたりでいいか。あんまり明るすぎても風情がないけど、さすがにこの先は暗すぎるからなー」

 先輩はしゃがみ込んで、スマートフォンの明かりで線香花火の準備を始める。
 さっきの言葉の衝撃と動揺を落ち着かせられないまま、でも今は暗いから、きっと顔が赤くても先輩には気づかれないと自分に言い聞かせて先輩に倣う。

「ん-と、とりあえず火つければいいの?」
「あ、待ってください。その前に、ここのところをちょっとひねるんです」

 線香花火の一本を手に取る。薄い紙をねじって作られた細長い花火。その心もとなさに勝手にシンパシーを感じる。線香花火に共感っておかしい話なのはわかっている。
 でも、今、一応こちらから見えているとはいえ、みんなと離れたところで、鳥と虫の音しかしない暗いところで先輩と二人きり、という状況をまともに考えたら。線香花火のようにあっけなく心臓が燃えて、顔にまで火がつきそうだ。

「ここの火薬の上を、ちょっとだけひねるんです。これがゆるんでると、火薬より先に紙が燃えちゃうんです」
「へえ、そうなんだ。気にしたことなかった」
「あとは火のつけ方なんですけど……本当はロウソクとかがいいんですが、ないですよね?」
「あー持ってきてないな。袋の中にも入ってないし。ライターならある」
「じゃあ、ライターで大丈夫です。花火を下に向けて火をつけるんじゃなくて、斜めにして火をあてると長持ちするんですよ」

 なんでこんなことに詳しいかっていうと、子どものころに弟たちとも線香花火勝負をしたことがあるからだ。弟にいいところを見せたくて、こっそりやり方を調べていた。
 先輩はポケットからくすんだオイルライターを取り出して、カチッと火をつける。
 そっと、火に近づけすぎないように注意しながら、斜めに持った線香花火を慎重に近づける。

 すぐに、じじ、と燃える音が聞こえだす。

 ライターもスマートフォンも仕舞って、二人の暗闇の中で、震える橙色の光だけになる。
 他に光源がないから、その頼りない光の球だけが明るい。

「線香花火って、段階があるんだっけ」
「そうです。最初の丸くて燃えてるのが牡丹、勢いよく火花が出るのが松葉、火花が落ち着いて下がってくのが柳、最後が散り菊です」

 ぶるぶると丸い火の球、『牡丹』から橙色と白を混ぜたような火花が爆ぜる。
 大きくなった光の球から、『松葉』が始まる。松の葉のように枝分かれした火花がバチッバチッと今が盛りというように煌めく。ここで燃え落ちてしまわないように、腕を動かさないように注意する。
 段々とおさまっていき、橙色の光が垂れ下がる『柳』。じっと息をつめて見つめていたら、それがだんだんとおさまっていき、最後の美しさをかざるように、『散り菊』の名にふさわしく菊の花びらのように火が静かに舞う。
 終わりに、火の球がジュっと燃え尽きる音が、静かな空間に響いて、暗闇が戻ってくる。
 一分程度の線香花火の一生を終えて、ふうと息をつく。

「とりあえず、こんな感じです」
「おー、すげえな。松葉ってのにはいってからすぐ終わってた気がする。こんな長いんだな。オレもやってみよう」
「けっこう簡単ですよ」

 先輩が手持ちの線香花火に火をつける。「いや、待って待って、ふつうに途中で落ちた」「揺らしたからじゃないですか」なんて言いながら、二人で次々に線香花火の火花を散らす。
 ぱちぱちと、橙色の火花が生まれては消える。そのたびに先輩の横顔をオレンジに照らされて、影になる。
 口元をほころばせて、楽しそうに小さな火花を見つめている。そんな先輩の横顔が暗闇でぱちぱちと照らされる。
 線香花火の火花よりも、それは、綺麗で。

 ふいに先輩がこちらを見た。

 花火よりも先輩のことを見ていたことに気づかれたかと思ってドキっとする。けれど先輩は無邪気に笑いかける。

「よし、コツつかんできたし、勝負しようぜ」
「あー……はい、いいですよ」

 先輩が用意したライターに、二人で同時に線香花火のこよりを近づける。
 じじ、と二人同時に線香花火の音が鳴りだす。

 ぶるぶると震える、橙色の小さな玉。次第に大きくなって、暗闇の中、二人分のオレンジの閃光の花が舞いはじめる。
 ぱちぱちと輝くその火を絶やさないように集中していた時。

 ぎゅ、と花火を持ってないほうの手を握りしめられた。

「えっ」
「やっぱキレイだな」
「え、あ、え」

 先輩は様子を変えず、線香花火を見つめ続けている。
 だけどそれよりも。
 僕は、隣でしゃがんでいる先輩に握りしめられた手のほうが、大問題で。

「あの、せんぱ……あっ」

 もしも誰かに見られたら、と慌てて言おうとしたとき。
 バチバチと燃えていた松葉にかかっていた僕の線香花火の、火種が落ちた。

「お、コーヨーの消えたな。じゃあオレの勝ちだな」
「いや、先輩、だって、そんな」

 手元の線香花火より、勝負より、手を包む大きな掌の感覚のほうに気を取られて。そんな線香花火を保つことなんてできやしない。
 こんなのズルだ。こんなことされて、僕がまともに勝負なんてできるわけがないのに。

「今けっこーいい感じだから、もうちょっと待って」

 待ったら離してくれるのか。オレンジの火花が明滅する横顔からはわからなくて。
 火花が次第に垂れ下がり、ゆっくりと最後の花を散らしていって、先輩の線香花火の火の玉も、静かに消えていった。
 途端、一気に暗くなる。

 その間、先輩の手はずっと離れていなくて。

 このあたりは二人だけだし、誰かが近づいてきたらわかる。けど、視界にはいったり喧騒が届くくらいには、他の人たちがすぐそこにいて。
 ただの先輩と後輩の範疇を超えているこの場面を見られたら。

 不安が混ざって心臓がバクバク音を立てる。

「あの、先輩、コレは」
「勝ったら、ツケ半分ってことだったけどさ」

 さすがにコレはまずくないか、という言葉は先輩の言葉で遮られる。

「代わりに、もうちょっとこのままにさせて」

 ぎゅうっと、ひときわ強く、手を握りしめられる。

「勝者のワガママってやつ?」

 暗くて先輩がどんな顔をしているか、よくわからない。
 だけど、手を包む体温だけははっきりしていて。
 何も言えなくなった時、ピュウルルっという音が、離れたところから聞こえた。

「あ、打ち上げ花火はじめたんだな」

 打ち上げ花火、といっても素人が買ってやれるものだから、そんなに大きなものでもない。
 だけど。暗闇を裂くように、ぱあんと地面に近いところで光る白い花火は鮮やかで。
 続けて、次の打ち上げ花火があがる。
 白と黄色が混ざった、線で描いたような花が暗闇に咲く。

「なあ、綺麗だな」

 打ち上げ花火を囲んでいる、誰かの楽しそうな声。それが遠い世界のように思える。
 低い低い夜空に、白や黄色、オレンジの花火が舞っていく。

「……そう、ですね」

 みんな、10連発なんてことをしている打ち上げ花火に夢中だから。
 だから、こっちを気にする人なんかいない。
 一つの打ち上げ花火が終わって、また暗闇が戻る。
 包まれていた手を、わずかに緩めた。

 ぱあ、と一瞬だけ明るくなる夜空。

 緩めた指の隙間から、先輩の長い指がはいってきて。
 互いの指を絡めるように、やわらかく握りしめられた。


 白や黄色の花火が上がる。
 僕と先輩は、ただじっと、それを眺めていた。
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