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第14話 「最後までは、しないから」

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「おー、おつかれ」

 青葉先輩の部屋におとずれて、出迎えてくれた先輩は、ラフな半袖のシャツを着た格好だった。
 その髪が少し湿っていて。シャワーでも使っていたろうことはすぐわかって、それだけで心臓が変な音を立てる。

「外、暑かったろ? コーヨーもシャワー浴びる?」
「あー……ハイ、すみません、借り、ます」

 以前、来た時と同じような質問をされて、いつもなら断るそれを受け入れたのは、この後のことを考えたから、だ。
 鞄だけ先にリビングに置かせてもらう。そのとき、開けっ放しの扉か寝室のベッドが見えた。
 どくん、と心臓が騒ぐ。
 今日、僕は。

 先輩に触られる、のか。





 合宿いくまでに一度試したい。
 
その言葉を忘れていたわけではない。なんだったら青葉先輩は「どのローションがいいとか希望ある?」と真剣に聞いてきたりもした。その質問には「あんまりべたべたしないやつで」と返した。なんとなく、先輩の手が汚れるのはイヤだったからだ。
 ゲイの僕のほうがアナルセックス用のローションを探すべきなのかもしれない。かといって、経験がない身では青葉先輩とそんなに知識は変わらないし、なにより青葉先輩と「そういうこと」をするためにローションを探すのは羞恥の海で溺死しそうだった。だから青葉先輩に全部任せた。
 まだお盆すらきてないのに合宿は8月末で、時間の猶予は逃げたくなるほどあって。気分はいつ死刑宣告がくだるのかを待つことしかできない罪人のようだった。
 いっそきちんとイメージトレーニングをして備えようと思っても、先輩のやわらかいキスや、ピアスに触れる指の感触、キスをしようとするときに細められた目を思い出した段階でそれ以上進めなかった。

 あの唇が、僕のくちびる以外に、耳以外に、キスをしたり。
 あの指先が、僕の肌に這うように触れたり。
 あの目で、そんな姿の僕を、見られるのか、と。

 頭の中で再生される記憶と、どんなふうになるかという想像があわさったらそれだけで破壊力がつよくて。僕は自分の想像で自分の心臓を止めそうになった。
 いまだに守られている毎日の電話のときも、電話越しに声をきくだけで体が熱くなって、ろくに会話もできなかった。たぶんそれは先輩もわかっていただろう。楽しそうに笑いながら「ムリしなくてもいいよ」と言った。

「え、いえ、その、だいじょうぶです」
「そう? 明日のバイト、時間ずれて夜あいたんだけど。コーヨーは?」
「明日の夜は……僕もシフトはいってないですね」
「明後日はどうだっけ」
「えーっと。明後日は午後からです」
「そっか。明日なんか予定いれてた?」
「いえ、なにも」
「うちくる?」

 気軽で唐突なその言葉に一瞬息をのむ。

「……ハイ」
「ああそれと、ほしかったやつ、今日届いたから」
「え」

 ほしかったやつ、というのは、きっと先輩が頼んだ、ローション、だろう。
 アナルセックスの時に使うローションは、一般的なローションよりも乾きにくいほうがいい。どうしたって自ら濡れる機能がないからだ。だからアナル用ローションなんていうものまである。先輩はわざわざ探して通販で注文したらしかった。
 それで、それが届いて、明日の夜に、家に誘われて。
 つまり、それは。

「……そのつもりで、いてほしいんだけど」

 ほんの少し、ためらいがちな、ひそめた声が僕の想像を肯定していて。
 思考回路がショートして、何も返せなかった。

「コーヨー?」
「え。あ。は、はい」
「体調とかもあるだろうし、イヤだったらムリしなくていいし。最後までは、しないから」
「は、い」
「それと……あーっと、洗うの、オレは一緒にやってもいいけど、どうする?」

 あらう。洗う。洗う、というのは。この場合は。
 思いあたった瞬間、叫ぶように否定した。

「それは! 自分でします! 大丈夫です!」

 アナルセックスは、ハイどうぞとベッドに寝転んで始められるものではない。
 濡れたりしない、というのもあるけれど。まずもって、セックスで使う部分を、つまりは、後ろの穴の中を綺麗に洗わなきゃいけなくて。
 その洗浄を先輩に任せることができるようなメンタル、僕は持っていない。

「んー、まあそっか。だけど困ったら言ってな」
「えー……それは……」

 素直にハイ、と言えない。だけど先輩もさすがに尻を他人に洗われることの羞恥はわかってくれたのかそれ以上は言わず、あとは簡単に明日の時間とかを相談して、「それじゃあまた明日、おやすみ」と言って電話を終えた。
 電話が終わった後の僕は、通話終了画面のままのスマホを持って、ぐるぐるぐるぐる頭の中でいろんな感情ややらなきゃいけないことがめぐり続けて、整理するのに時間がかかった。
 明日。
 最後までしないとしても。
 今まで超えてこなかった何かの一線を、超えてしまうことは、確実だった。




 シャワーの温度を下げて、つめたい水で少しでも頭を冷やそうと努力する。
 ここに来るまでに自分の部屋でも体を洗ってきた。それでも、少しでも汗臭いとか、そういうのがないようにシャワーを借りた。
 いつもなら青葉先輩が普段使っているシャワーなんて緊張してたまらないのに、今はこの後のことのほうの緊張指数のほうがよっぽど突き抜けていて、それどころじゃない。
 ボディソープを泡立てて、手早く、それでも洗い残しがないように全体をくまなく洗っていく。
 問題の、その、自分の後ろのところは、ここに来る前に自分の部屋で綺麗にしてきた。よく市販薬の浣腸薬を使うと思われがちだが、それだと効果が強すぎて逆効果になる場合がある。だからシャワーを使って中を綺麗にしたり、石鹸と一緒に中を洗うほうがいい。やり過ぎないほうがいいとは知っているけど、慎重にずいぶん時間をかけて洗ってきた。多分、大丈夫、のはずだ。
 体についた泡を流すときに、浴室の鏡に自分の身体がうつる。

 そこにうつっているのは、特筆することのない、凡庸な、少し痩せてるくらいの、ただの男子大学生の身体で。
 薄い胸。触れたら柔らかな乳房なんてなくて、すぐに皮膚の下の骨にたどりつく。
 胸だけじゃなくて、女性のような柔らかさなんてどこにもなくて、触って楽しい部分があるのだろうかと素直に疑問がわく。
 先輩は女性とは違うこの身体を見ても、そのつもりのままで、いられるんだろうか。

 ドクン、と心臓が音を立てる。それなのに血が頭から引いていくよな、おかしな感覚になる。
 ざっとシャワーを頭からかぶって浴室を出る。そこには用意してもらっていたタオルと、僕用の、先輩からもらった部屋着。
 ようやく初めて、それに袖を通す。アイボリーの首回りが広いTシャツに、細身のライトグレーのスエット。触り心地のいい生地は普段なら人心地つけるのだろうけど、頭がまともに動かない今は、機械的に濡れた体をふいて、ただ着るだけだ。
 よろよろとリビングへ戻ると、ソファに座っていた先輩がこっちを向く。

「おー、大丈夫? 使い方わかんないのとかなかった?」
「だいじょうぶ、です」
「全然髪乾いてないじゃん、こっちきて」

 手招きされるままにソファに座る。先輩は僕が適当に肩にかけたタオルを取って、濡れたままの頭を包みこむように吹く。

「コーヨーの髪の毛、あんまり癖ないよな」
「あー……うちの家族みんなそうなんで、遺伝ですね」
「いいな。ちょっと細くて、さわっててきもちいい」

 タオルで水分を取った髪を、先輩の指がさらりと梳く。

「ドライヤー使う?」
「あ、や、たぶん、すぐ乾くんで」

 先輩の何気ない言葉や、行動にいちいち心がざわつく。
 大分水気がとれた髪を手でてきとうに整えて、先輩の顔を見ないようにテーブルのほうに目線を向ける。
 たまたま見ただけだったけど、そこに見慣れないものがあった。

「あれ……爪のやすり? ですか」

 シンプルな、ステンレスの爪用のやすり。
 ドラッグストアで売っていそうな普通のやすりだけど、そういうものはネイルをする女子が持っているイメージがあったから、不思議に思ってしまった。
 「あ」と先輩は珍しく声を上げて、失敗した、というような顔をする。

「あー……それ、もともと部活やってた時に買ったやつなんだけど。同級生に、相手のユニフォームに爪ひっかけて爪がわれかけたやつがいたから、そうならないように使ってて……まあ、もう部活やってないし、今は爪切りで切ってるんだけど」

 大きな手で、自分の顔を隠すようにしている、その指先を見る。
 もともと先輩は恋人がいるときはマメに爪を切る人で。爪を短くしていた。
 今の、青葉先輩の手の爪は短い。だけど、僕が盗み見ていたときよりも、きれいに整えられていて。
 「あー」と答えあぐねるようにしていた先輩は、しぶしぶといったていで答える。

「……痛い思いさせたくないから、やれることはやっときたくて、久しぶりに使ったんだよ」

 片づけ忘れた。そういって顔を隠すけど、だからこそ、その指先がよく見えて。
 なめらかな曲線の形をしているその爪の形が、僕のため。
 え、と間抜けな声が出る。
 鼓動が早くなるのがわかる。
 妙な沈黙が部屋におりる。それは不快ではないけど、どこかを叩いたり押したりしたら、今にも崩れそうな、緊張感があって。

「……コーヨーも使ってみる?」

 いつも通りの声に戻った青葉先輩がテーブルの上に置いていたやすりを手に取る。
 そのまま先輩は僕の左手を取って、銀色のやすりの先端をあてる。
 かり、と僕の人差し指の爪から音がする。

「コーヨーの爪、きれーな色してるよなー」
「そ、ですか?」
「つるつるしてるし、健康的なピンク色ってかんじ」

 丁寧に、ゆっくりと、先輩は僕の爪にやすりをかけはじめる。
 たわむれのようなひと時。爪の舌の肉には触れないように、慎重に、爪切りでできた角張ったところにあてて、なめらかにしていく。
 長い指で下からすくいあげるように、僕の右手の指は固定されている。
 爪にやすりをかけられているそれだけなのに、その指の絡ませ方や、ことさら丁寧に時間をかけてやすりを動かす動作が、なんだか、いつもとは違う、空気の密度が、やけに濃くて。
 僕はその空気からどうやって酸素をとりこめるのか、わからない。
 たぶん、きっと、そんなに時間はたってないんだろうけど。僕にとっては長い時間に思えたそれを終えて、先輩は自らが磨いた僕の人差し指の爪を満足そうに見る。

「うん、うまくできた。さすがに全部やったら時間かかるから今はこれだけな」

 僕は指の爪から心臓を絡めとられたみたくなっていて、嬉しそうに笑う先輩に返事ができない。
 やすりで整えられた爪は、先端がゆるやかにきれいに弧をえがいていて。僕が適当に爪切りで切った他の指とは違っていて。
 そして、いまさら、今先輩に絡めとられている左手の人差し指は、いつも癖でピアスを握るときに使う指だな、なんてことに気づいて。
 先輩は何も言わない僕のほうをチラリとみる。
 それでもこの口からは、言葉も、息も出なくて。
 じっと僕を見ていた先輩は、視線を外さないまま、絡めた指を持ち上げる。

「あっ」

 ようやく声が出たのに、そのまま固まってしまう。
 青葉先輩は、自分で磨いた僕の人差し指の爪に、唇を落として。
 僕の目を見つめたまま、軽く口を開く。あかい、濡れた舌が見える。
 そうして開けた口で、僕の人差し指の指先をくわえる。

「――っ」

 見えないけど、先輩の口の中で、爪の先端を舌で舐められるのがわかる。
 濡れた感触が指先をおかす。
 整えた爪の形を舌先でなぞるように舐めて、指の腹に歯を立てられる。
 その感覚にぴくり、と体が揺れる。先輩はその反応を、唇をくわえたまま眺めていて、そのまま指の中ほどまでを口の中におさめてしまう。

「せん、ぱい」

 あつくて、やわらかい舌が、指をゆっくりと舐める。
 異常にそこだけが鋭敏になって、熱を持ったようだ。わざと歯を立て、開いた口の隙間から、僕の指が、先輩の舌に絡みつかれているのが見せられて。

 先輩の、僕を見る目が、いつもより、あつい、気がして。

 わけがわからなくなって、僕は、ぎこちなく首を横にふる。そんな風に見られたら、そんな風にされたら。だめだ。じわりと、目が涙でにじんだ気がした。
 それが伝わったのか、わからないけど、青葉先輩はゆっくりと指を口から離す。最後に音を立てるように爪にキスをされて、音と刺激のどちらにも体が震えて反応してしまう。

「みつひろ」

 濡れた指先を呆然と眺めてたら、簡単に屈してしまう、あの四文字が先輩の口から発せられる。
 条件反射のように顔をあげたら、もう間近に先輩の顔があって。
 そのまま、くちびるが、先輩の唇でおおわれて。
 ついばむように僕のくちびるを緩く上と下の唇ではさんで、さっきまで僕の指をなめていた舌が乾いたくちびるを舐める。
 びくり、と反応して後ろに下がりそうな体を先に先輩の腕がとめる。座っている僕の腰に腕を回して、より近くなろうとするように舌が口の中にはいってくる。
 あつくて、ぬめった舌が、僕の縮こまった舌をとらえる。そのまま絡まれて、引き出されて、やわく先輩の歯で噛まれる。その刺激にびくっと体が揺れると、なだめるように先輩は唇を重ねて、舌先でくすぐられる。
 逃げられなくなった僕は、先輩の肩をつかんで、必死についていくしかなくて。
 そうやって先輩の、強引だけど、優しいキスに翻弄されてたら、するり、と背中の肌を触られた。
 腰に回した手で、服の裾から手をいれているんだとわかった。腰骨のあたりを大きな手で撫でられる。直接、素肌に触れられた感触に、大げさに肩が震えてしまった。
 それを見越したように、先輩はゆっくりと、服の中に侵入した手を動かす。触れるか触れないか、ギリギリのところを撫でられるその感覚に、身体がぞわぞわする。
 はっ、と、熱い息がでそうになる。でも、口はいまだに先輩の唇でふさがれていて、その吐息と唾液ごと、先輩に奪われる。
 そうしている間にも、先輩の片手が、ゆっくりと腰から上に、背骨にそうように、そっとつたって上がってくる。肌が伝えてくるその刺激は体がぞくぞくしてむずがゆくなる。
 これから起こることを想像して、心臓が飛び跳ねる。ぎゅう、と先輩の肩を握る力が強くなる。

 ああ、このまま、先輩の手で、暴かれて、すべてをさらけ出すのか。

 先輩の手が、心臓の真裏に達する。
 ゆるりと撫でられて、もう片方の手が、シャツの裾をつかんだ、その瞬間。
 不意に、鏡で見た自分の身体を思い出す。

 先輩は、本当に、僕の、男の体を見ても、平気なんだろうか。

 もしも、僕の体を見た時、想像とは違ったと、幻滅されたら。
 目の前で、がっかりする、先輩の顔を見ることになったら。
 やっぱり女性の身体じゃないからダメだと、言われたら。

 頭と体支配していた熱が急激に冷える。まるで夢から覚めるように。
 だめだ。もしも先輩にそんな顔をされたら、そんなことを言われたら。
 僕は、耐えられない。

「せんぱ、いっ」

 どこから出てきたのかわからない力で、ぐいっと先輩を引きはがす。
 急にキスも、服を脱がす行為も止められた先輩は目を丸くしている。だけどそんなこともお構いなしに、僕はとにかく、想像した恐怖から逃れようとした。

「あのっ。……服は、脱がないままでも、いいですか?」

 かすれた声で、なんとか声を紡ぎだす。
 
「……え?」

 と、先輩は、心底不可解そうな顔をした。
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