上 下
30 / 52
< 6 >

 6 - 6

しおりを挟む
 * * *

「森の湖に近づいてはいけませんよ。赤い目をした魔物が棲みついているんですから」
 これは伯爵領内の誰もが知ることだった。親は子に、子はまた自分の子に言い聞かせる。
「子どもを食べるのが大好きで、いつもよだれを垂らしてうろつき回っているんです」
 だから森の近くに住む子どもたちは、暗くなれば外を怖がってすぐに家に帰った。ただ一人、この少年を除いては。
 日は沈みかけているというのに、どうしてひとりで湖を覗き込んでいるのだろう? 答えは簡単だった。少年には居場所がないのだ。
 その事実は少年の兄が毒を盛られた時も変わらなかった。
 屋敷に来てから三回目の晩夏のことだった。
「ごほっ……ぁ、く、ごほっ、ごほっ」
 深夜、少年は吸い寄せられるように兄の寝室へ赴いた。今まで大して交流をしてこなかった兄ではあるが、失うとなると話は別だ。華奢な胸には寂寥の念が溢れていた。
「誰か、水を……」
 屋敷の執事や侍女が交代で兄の世話をしていた。この日は壮年の執事の担当であったが、椅子でうとうとと船を漕いでいる。少年はテーブルの上にあった水差しを手に取った。
「お前……、ユアンか」
「う、うん」
 少年の心臓が高鳴った。面と向かって名前を呼ばれることなんてなかったからだ。弟はずいと兄に近づく。だが、浴びせられた言葉は予想だにしないものだった。
「……いい気味だと、笑いに来たのか」
「え? なんで」
「くそっ……完璧だったのに……ごほっ、ごほっ。どこでバレたんだ……ぅっ」
「しゃ、喋らないほうがいいよ」
「……俺は、聖騎士になるんだ……っ、あんな女のせいで……死ぬわけにはいかない!」
 老人のようにしわがれた声だった。それでも力を込めて、兄は弟を睨み上げて、言った。
「お前が代わりに死ねばいいのに」

 少年は走った。涙を流しながら、がむしゃらに、暗い森を走った。自分の居場所を作るために、生きていてもいい理由を作るために、走った。兄を助ければそれがきっと叶うから、だから。
 そこはささやかな幸せさえ存在しない、太陽の届かぬ世界だった。


 * * *

 ――……さま。
 声がする。誰だろう。
 ――ユアン様。
 これは……僕の好きな人の声だ。
 ――目を覚まして、ユアン様。
 そうだ、この人の名前は。
「ヴィクト……っ」
 急激に意識が浮上し、ガバリと起き上がる。はぁはぁと肩で息をした。眩しい。朝だ。
「ひどい汗」
 指摘は正しかった。夜着がしとどに濡れている。
「昨日のこと覚えてる? 帰ってきてすぐ倒れ込むように寝ちゃったんだ」
「あー……うん。覚えてる。ごめん、迷惑かけたね」
 手の甲で首筋の汗を拭った。もしかして心配して看病してくれていたのかな。
「嫌な夢でも見た? ひどいうなされようだった」
 やっぱり。聞かれちゃったのか。
「……大丈夫」
「強がるな」
「大丈夫だって。そんなことより、ヴィクト」
 僕は彼に言わなければいけないことがある。
「ごめんなさい」
「っ……何を」
 ベッドの上で正座をした僕は、両手をつき、誠心誠意深く頭を下げた。ついさっきまで見ていた夢が――鍵をかけていた少年の頃の記憶が――僕に確信をもたらした。
 レイチェルを殺したのは兄さんだ。間違いない。
 そしてレイチェルがどんな人であろうと、死んでしまっていい理由にはならない。
「……僕の兄さんが、殺してしまった……レイチェルを殺してしまった……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「待ってくれ。なぜユアン様が謝る」
 ヴィクトが僕の肩を掴んで体を押し戻す。
「だって、僕の兄だ。半分血を分けた兄弟なんだ。弟の僕のことをヴィクトがよく思わないとしてももっともだよ。それに……僕は」
 唾を飲み込む。息を吸って、続けた。
「兄さんのことも、助けてしまった。イリサに毒を盛られて死ぬはずだったあの人を……死ぬべきだったあの人を、助けてしまったんだ」
 この短い期間に、僕は黒く染まってしまったみたいだ。魔物のレイチェルがヴィクトを悪しざまに言った時、怒りにまかせて頬をはたいてしまった。そして冷静になった今、今度は自分の兄に対して死ぬべきだったなんて気持ちを抱いている。
「ユアン様」
 ヴィクトの声がゆっくりと鼓膜を震わせた。
「唇、噛まないで」
 血が滲んでいる、と言って彼は悲しそうな顔をする。どうして僕はこの人のことを笑顔にできないんだろう。もう随分とカラカラとした笑い声を聞いていないような気がする。
「ほんと、清いよね。無垢で、澄みきってて。眩しすぎて俺には直視できない」
「え?」
「いい? 聞いて。レイチェルが死んでしまったことにユアン様は全く関係ない。セオドアを助けたことも、あなたの純真さが成せた業だ。尊敬はすれど責める気なんてさらさらないさ。むしろ……心配だ。辛いんじゃないのか? ユアン様はあれだけまっすぐにあいつを慕ってたから」
「……っ、それは、でも」
「でも禁止」
 ヴィクトの手が僕の頬をむにゅむにゅとつまむ。
「でもでもでもって非生産的だろ。辛いくせに。思ったこと感じたこと、隠さずに伝えるんじゃなかったっけ? その謝り癖もなんとかしたいよなぁ。お仕置きするしかないのかなぁ」
「にゃんだって」
「ん? お仕置きって言ったの。まぁ、冗談だけど」
「だ、大事な話をしてるんだ。茶化すにゃよ……」
「茶化すよ」
「にゃんで」
「そんなの――」
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

公爵様のプロポーズが何で俺?!

雪那 由多
BL
近衛隊隊長のバスクアル・フォン・ベルトランにバラを差し出されて結婚前提のプロポーズされた俺フラン・フライレですが、何で初対面でプロポーズされなくてはいけないのか誰か是非教えてください! 話しを聞かないベルトラン公爵閣下と天涯孤独のフランによる回避不可のプロポーズを生暖かく距離を取って見守る職場の人達を巻き込みながら 「公爵なら公爵らしく妻を娶って子作りに励みなさい!」 「そんな物他所で産ませて連れてくる!  子作りが義務なら俺は愛しい妻を手に入れるんだ!」 「あんたどれだけ自分勝手なんだ!!!」 恋愛初心者で何とも低次元な主張をする公爵様に振りまわされるフランだが付き合えばそれなりに楽しいしそのうち意識もする……のだろうか?

転生貧乏貴族は王子様のお気に入り!実はフリだったってわかったのでもう放してください!

音無野ウサギ
BL
ある日僕は前世を思い出した。下級貴族とはいえ王子様のお気に入りとして毎日楽しく過ごしてたのに。前世の記憶が僕のことを駄目だしする。わがまま駄目貴族だなんて気づきたくなかった。王子様が優しくしてくれてたのも実は裏があったなんて気づきたくなかった。品行方正になるぞって思ったのに! え?王子様なんでそんなに優しくしてくるんですか?ちょっとパーソナルスペース!! 調子に乗ってた貧乏貴族の主人公が慎ましくても確実な幸せを手に入れようとジタバタするお話です。

期待外れの後妻だったはずですが、なぜか溺愛されています

ぽんちゃん
BL
 病弱な義弟がいじめられている現場を目撃したフラヴィオは、カッとなって手を出していた。  謹慎することになったが、なぜかそれから調子が悪くなり、ベッドの住人に……。  五年ほどで体調が回復したものの、その間にとんでもない噂を流されていた。  剣の腕を磨いていた異母弟ミゲルが、学園の剣術大会で優勝。  加えて筋肉隆々のマッチョになっていたことにより、フラヴィオはさらに屈強な大男だと勘違いされていたのだ。  そしてフラヴィオが殴った相手は、ミゲルが一度も勝てたことのない相手。  次期騎士団長として注目を浴びているため、そんな強者を倒したフラヴィオは、手に負えない野蛮な男だと思われていた。  一方、偽りの噂を耳にした強面公爵の母親。  妻に強さを求める息子にぴったりの相手だと、後妻にならないかと持ちかけていた。  我が子に爵位を継いで欲しいフラヴィオの義母は快諾し、冷遇確定の地へと前妻の子を送り出す。  こうして青春を謳歌することもできず、引きこもりになっていたフラヴィオは、国民から恐れられている戦場の鬼神の後妻として嫁ぐことになるのだが――。  同性婚が当たり前の世界。  女性も登場しますが、恋愛には発展しません。

Switch!〜僕とイケメンな地獄の裁判官様の溺愛異世界冒険記〜

天咲 琴葉
BL
幼い頃から精霊や神々の姿が見えていた悠理。 彼は美しい神社で、家族や仲間達に愛され、幸せに暮らしていた。 しかし、ある日、『燃える様な真紅の瞳』をした男と出逢ったことで、彼の運命は大きく変化していく。 幾重にも襲い掛かる運命の荒波の果て、悠理は一度解けてしまった絆を結び直せるのか――。 運命に翻弄されても尚、出逢い続ける――宿命と絆の和風ファンタジー。

BLR15【完結】ある日指輪を拾ったら、国を救った英雄の強面騎士団長と一緒に暮らすことになりました

厘/りん
BL
 ナルン王国の下町に暮らす ルカ。 この国は一部の人だけに使える魔法が神様から贈られる。ルカはその一人で武器や防具、アクセサリーに『加護』を付けて売って生活をしていた。 ある日、配達の為に下町を歩いていたら指輪が落ちていた。見覚えのある指輪だったので届けに行くと…。 国を救った英雄(強面の可愛い物好き)と出生に秘密ありの痩せた青年のお話。 ☆英雄騎士 現在28歳    ルカ 現在18歳 ☆第11回BL小説大賞 21位   皆様のおかげで、奨励賞をいただきました。ありがとう御座いました。    

【完結済】(無自覚)妖精に転生した僕は、騎士の溺愛に気づかない。

キノア9g
BL
完結済。騎士エリオット視点を含め全10話(エリオット視点2話と主人公視点8話構成) エロなし。騎士×妖精 ※主人公が傷つけられるシーンがありますので、苦手な方はご注意ください。 気がつくと、僕は見知らぬ不思議な森にいた。 木や草花どれもやけに大きく見えるし、自分の体も妙に華奢だった。 色々疑問に思いながらも、1人は寂しくて人間に会うために森をさまよい歩く。 ようやく出会えた初めての人間に思わず話しかけたものの、言葉は通じず、なぜか捕らえられてしまい、無残な目に遭うことに。 捨てられ、意識が薄れる中、僕を助けてくれたのは、優しい騎士だった。 彼の献身的な看病に心が癒される僕だけれど、彼がどんな思いで僕を守っているのかは、まだ気づかないまま。 少しずつ深まっていくこの絆が、僕にどんな運命をもたらすのか──? いいねありがとうございます!励みになります。

俺は北国の王子の失脚を狙う悪の側近に転生したらしいが、寒いのは苦手なのでトンズラします

椿谷あずる
BL
ここはとある北の国。綺麗な金髪碧眼のイケメン王子様の側近に転生した俺は、どうやら彼を失脚させようと陰謀を張り巡らせていたらしい……。いやいや一切興味がないし!寒いところ嫌いだし!よし、やめよう! こうして俺は逃亡することに決めた。

【完結】僕の大事な魔王様

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
BL
母竜と眠っていた幼いドラゴンは、なぜか人間が住む都市へ召喚された。意味が分からず本能のままに隠れたが発見され、引きずり出されて兵士に殺されそうになる。 「お母さん、お父さん、助けて! 魔王様!!」 魔族の守護者であった魔王様がいない世界で、神様に縋る人間のように叫ぶ。必死の嘆願は幼ドラゴンの魔力を得て、遠くまで響いた。そう、隣接する別の世界から魔王を召喚するほどに……。 俺様魔王×いたいけな幼ドラゴン――成長するまで見守ると決めた魔王は、徐々に真剣な想いを抱くようになる。彼の想いは幼過ぎる竜に届くのか。ハッピーエンド確定 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/11……完結 2023/09/28……カクヨム、週間恋愛 57位 2023/09/23……エブリスタ、トレンドBL 5位 2023/09/23……小説家になろう、日間ファンタジー 39位 2023/09/21……連載開始

処理中です...