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* * *
「森の湖に近づいてはいけませんよ。赤い目をした魔物が棲みついているんですから」
これは伯爵領内の誰もが知ることだった。親は子に、子はまた自分の子に言い聞かせる。
「子どもを食べるのが大好きで、いつもよだれを垂らしてうろつき回っているんです」
だから森の近くに住む子どもたちは、暗くなれば外を怖がってすぐに家に帰った。ただ一人、この少年を除いては。
日は沈みかけているというのに、どうしてひとりで湖を覗き込んでいるのだろう? 答えは簡単だった。少年には居場所がないのだ。
その事実は少年の兄が毒を盛られた時も変わらなかった。
屋敷に来てから三回目の晩夏のことだった。
「ごほっ……ぁ、く、ごほっ、ごほっ」
深夜、少年は吸い寄せられるように兄の寝室へ赴いた。今まで大して交流をしてこなかった兄ではあるが、失うとなると話は別だ。華奢な胸には寂寥の念が溢れていた。
「誰か、水を……」
屋敷の執事や侍女が交代で兄の世話をしていた。この日は壮年の執事の担当であったが、椅子でうとうとと船を漕いでいる。少年はテーブルの上にあった水差しを手に取った。
「お前……、ユアンか」
「う、うん」
少年の心臓が高鳴った。面と向かって名前を呼ばれることなんてなかったからだ。弟はずいと兄に近づく。だが、浴びせられた言葉は予想だにしないものだった。
「……いい気味だと、笑いに来たのか」
「え? なんで」
「くそっ……完璧だったのに……ごほっ、ごほっ。どこでバレたんだ……ぅっ」
「しゃ、喋らないほうがいいよ」
「……俺は、聖騎士になるんだ……っ、あんな女のせいで……死ぬわけにはいかない!」
老人のようにしわがれた声だった。それでも力を込めて、兄は弟を睨み上げて、言った。
「お前が代わりに死ねばいいのに」
少年は走った。涙を流しながら、がむしゃらに、暗い森を走った。自分の居場所を作るために、生きていてもいい理由を作るために、走った。兄を助ければそれがきっと叶うから、だから。
そこはささやかな幸せさえ存在しない、太陽の届かぬ世界だった。
* * *
――……さま。
声がする。誰だろう。
――ユアン様。
これは……僕の好きな人の声だ。
――目を覚まして、ユアン様。
そうだ、この人の名前は。
「ヴィクト……っ」
急激に意識が浮上し、ガバリと起き上がる。はぁはぁと肩で息をした。眩しい。朝だ。
「ひどい汗」
指摘は正しかった。夜着がしとどに濡れている。
「昨日のこと覚えてる? 帰ってきてすぐ倒れ込むように寝ちゃったんだ」
「あー……うん。覚えてる。ごめん、迷惑かけたね」
手の甲で首筋の汗を拭った。もしかして心配して看病してくれていたのかな。
「嫌な夢でも見た? ひどいうなされようだった」
やっぱり。聞かれちゃったのか。
「……大丈夫」
「強がるな」
「大丈夫だって。そんなことより、ヴィクト」
僕は彼に言わなければいけないことがある。
「ごめんなさい」
「っ……何を」
ベッドの上で正座をした僕は、両手をつき、誠心誠意深く頭を下げた。ついさっきまで見ていた夢が――鍵をかけていた少年の頃の記憶が――僕に確信をもたらした。
レイチェルを殺したのは兄さんだ。間違いない。
そしてレイチェルがどんな人であろうと、死んでしまっていい理由にはならない。
「……僕の兄さんが、殺してしまった……レイチェルを殺してしまった……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「待ってくれ。なぜユアン様が謝る」
ヴィクトが僕の肩を掴んで体を押し戻す。
「だって、僕の兄だ。半分血を分けた兄弟なんだ。弟の僕のことをヴィクトがよく思わないとしてももっともだよ。それに……僕は」
唾を飲み込む。息を吸って、続けた。
「兄さんのことも、助けてしまった。イリサに毒を盛られて死ぬはずだったあの人を……死ぬべきだったあの人を、助けてしまったんだ」
この短い期間に、僕は黒く染まってしまったみたいだ。魔物のレイチェルがヴィクトを悪しざまに言った時、怒りにまかせて頬をはたいてしまった。そして冷静になった今、今度は自分の兄に対して死ぬべきだったなんて気持ちを抱いている。
「ユアン様」
ヴィクトの声がゆっくりと鼓膜を震わせた。
「唇、噛まないで」
血が滲んでいる、と言って彼は悲しそうな顔をする。どうして僕はこの人のことを笑顔にできないんだろう。もう随分とカラカラとした笑い声を聞いていないような気がする。
「ほんと、清いよね。無垢で、澄みきってて。眩しすぎて俺には直視できない」
「え?」
「いい? 聞いて。レイチェルが死んでしまったことにユアン様は全く関係ない。セオドアを助けたことも、あなたの純真さが成せた業だ。尊敬はすれど責める気なんてさらさらないさ。むしろ……心配だ。辛いんじゃないのか? ユアン様はあれだけまっすぐにあいつを慕ってたから」
「……っ、それは、でも」
「でも禁止」
ヴィクトの手が僕の頬をむにゅむにゅとつまむ。
「でもでもでもって非生産的だろ。辛いくせに。思ったこと感じたこと、隠さずに伝えるんじゃなかったっけ? その謝り癖もなんとかしたいよなぁ。お仕置きするしかないのかなぁ」
「にゃんだって」
「ん? お仕置きって言ったの。まぁ、冗談だけど」
「だ、大事な話をしてるんだ。茶化すにゃよ……」
「茶化すよ」
「にゃんで」
「そんなの――」
「森の湖に近づいてはいけませんよ。赤い目をした魔物が棲みついているんですから」
これは伯爵領内の誰もが知ることだった。親は子に、子はまた自分の子に言い聞かせる。
「子どもを食べるのが大好きで、いつもよだれを垂らしてうろつき回っているんです」
だから森の近くに住む子どもたちは、暗くなれば外を怖がってすぐに家に帰った。ただ一人、この少年を除いては。
日は沈みかけているというのに、どうしてひとりで湖を覗き込んでいるのだろう? 答えは簡単だった。少年には居場所がないのだ。
その事実は少年の兄が毒を盛られた時も変わらなかった。
屋敷に来てから三回目の晩夏のことだった。
「ごほっ……ぁ、く、ごほっ、ごほっ」
深夜、少年は吸い寄せられるように兄の寝室へ赴いた。今まで大して交流をしてこなかった兄ではあるが、失うとなると話は別だ。華奢な胸には寂寥の念が溢れていた。
「誰か、水を……」
屋敷の執事や侍女が交代で兄の世話をしていた。この日は壮年の執事の担当であったが、椅子でうとうとと船を漕いでいる。少年はテーブルの上にあった水差しを手に取った。
「お前……、ユアンか」
「う、うん」
少年の心臓が高鳴った。面と向かって名前を呼ばれることなんてなかったからだ。弟はずいと兄に近づく。だが、浴びせられた言葉は予想だにしないものだった。
「……いい気味だと、笑いに来たのか」
「え? なんで」
「くそっ……完璧だったのに……ごほっ、ごほっ。どこでバレたんだ……ぅっ」
「しゃ、喋らないほうがいいよ」
「……俺は、聖騎士になるんだ……っ、あんな女のせいで……死ぬわけにはいかない!」
老人のようにしわがれた声だった。それでも力を込めて、兄は弟を睨み上げて、言った。
「お前が代わりに死ねばいいのに」
少年は走った。涙を流しながら、がむしゃらに、暗い森を走った。自分の居場所を作るために、生きていてもいい理由を作るために、走った。兄を助ければそれがきっと叶うから、だから。
そこはささやかな幸せさえ存在しない、太陽の届かぬ世界だった。
* * *
――……さま。
声がする。誰だろう。
――ユアン様。
これは……僕の好きな人の声だ。
――目を覚まして、ユアン様。
そうだ、この人の名前は。
「ヴィクト……っ」
急激に意識が浮上し、ガバリと起き上がる。はぁはぁと肩で息をした。眩しい。朝だ。
「ひどい汗」
指摘は正しかった。夜着がしとどに濡れている。
「昨日のこと覚えてる? 帰ってきてすぐ倒れ込むように寝ちゃったんだ」
「あー……うん。覚えてる。ごめん、迷惑かけたね」
手の甲で首筋の汗を拭った。もしかして心配して看病してくれていたのかな。
「嫌な夢でも見た? ひどいうなされようだった」
やっぱり。聞かれちゃったのか。
「……大丈夫」
「強がるな」
「大丈夫だって。そんなことより、ヴィクト」
僕は彼に言わなければいけないことがある。
「ごめんなさい」
「っ……何を」
ベッドの上で正座をした僕は、両手をつき、誠心誠意深く頭を下げた。ついさっきまで見ていた夢が――鍵をかけていた少年の頃の記憶が――僕に確信をもたらした。
レイチェルを殺したのは兄さんだ。間違いない。
そしてレイチェルがどんな人であろうと、死んでしまっていい理由にはならない。
「……僕の兄さんが、殺してしまった……レイチェルを殺してしまった……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「待ってくれ。なぜユアン様が謝る」
ヴィクトが僕の肩を掴んで体を押し戻す。
「だって、僕の兄だ。半分血を分けた兄弟なんだ。弟の僕のことをヴィクトがよく思わないとしてももっともだよ。それに……僕は」
唾を飲み込む。息を吸って、続けた。
「兄さんのことも、助けてしまった。イリサに毒を盛られて死ぬはずだったあの人を……死ぬべきだったあの人を、助けてしまったんだ」
この短い期間に、僕は黒く染まってしまったみたいだ。魔物のレイチェルがヴィクトを悪しざまに言った時、怒りにまかせて頬をはたいてしまった。そして冷静になった今、今度は自分の兄に対して死ぬべきだったなんて気持ちを抱いている。
「ユアン様」
ヴィクトの声がゆっくりと鼓膜を震わせた。
「唇、噛まないで」
血が滲んでいる、と言って彼は悲しそうな顔をする。どうして僕はこの人のことを笑顔にできないんだろう。もう随分とカラカラとした笑い声を聞いていないような気がする。
「ほんと、清いよね。無垢で、澄みきってて。眩しすぎて俺には直視できない」
「え?」
「いい? 聞いて。レイチェルが死んでしまったことにユアン様は全く関係ない。セオドアを助けたことも、あなたの純真さが成せた業だ。尊敬はすれど責める気なんてさらさらないさ。むしろ……心配だ。辛いんじゃないのか? ユアン様はあれだけまっすぐにあいつを慕ってたから」
「……っ、それは、でも」
「でも禁止」
ヴィクトの手が僕の頬をむにゅむにゅとつまむ。
「でもでもでもって非生産的だろ。辛いくせに。思ったこと感じたこと、隠さずに伝えるんじゃなかったっけ? その謝り癖もなんとかしたいよなぁ。お仕置きするしかないのかなぁ」
「にゃんだって」
「ん? お仕置きって言ったの。まぁ、冗談だけど」
「だ、大事な話をしてるんだ。茶化すにゃよ……」
「茶化すよ」
「にゃんで」
「そんなの――」
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