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「ふうー……うぅ」
いい天気だ。空気が澄んでいる。秋の風は冷たさを孕むようになったが、それも含めて爽やかで気持ちがいい。ぜひともエルドラード中の人にこの清々しさを堪能していただきたい。
僕? 僕は今、馬車に揺られて辿り着いた先、とある屋敷の前にいる。緊張をほぐすために発声練習をしているところだ。
「ふはっ。帰省でここまで挙動不審になる人初めて見た」
「挙動不審なもんか!」
失恋をした日からというもの、僕はひたすらに考えた。考え続けた結果、決めた。この命潰えるまではヴィクトの幸せを願おうと。嫌われ神子だった自分にも等しく接してくれた初めての人なのだ。人付き合いというものを教えてくれた初めての人なのだ。どんなにとげとげしい態度を取っても見放さないでいてくれた初めての人なのだ。僕の恋は叶わなくてもいい。でも彼の思いを叶えてあげたい。そう思うのは自然なことだろう?
だからこれまで以上に仕事に精を出すことにした。早くみんなに文句なしに認められて、ヴィクトが第一部隊に復帰できるように。
意気込んだ僕は、前々からやってみたかった慰問計画を立てるべくペンを取った。これまでこそこそと通っていた孤児院をはじめ、学校や地方教会、貧しい人の多くが暮らすいわゆるスラム地区といったところを候補地として挙げていく。国王にも相談をもちかけ、行くべき場所を精査していった。
するとどうだろう。どこから話を聞いたのか、ルシェルツ伯爵家から訪問を求める打診が届いたのだ。手紙の封を開けてびっくりした。というか拍子抜けした。伯爵が体調を悪くして臥せっているから助けてほしいのだという。それらしい理由を並べてあったけど、読めば要するにぎっくり腰だった。
「もしかしてユアン様、本当はあまり帰ってきたくなかった? 誰かと折り合いが悪いとか」
「うっ、うぐ……あの、その」
打診を受け入れるかは悩みに悩んだ。実の父親である伯爵に対してさえあまりいい思い出がない上、義母がいる。
でもあれから月日が経って、僕も大人になって、ルシェルツ家の面々にも時間薬が効いたと思うんだ。今ならきっと、違う気持ちで接することができるのではないだろうか。
「まぁ詳しくは聞かないよ。助けてほしくなったら言って」
「う、うん。ありがと。じゃあお願い。もし、僕がカッチコッチに固まっちゃったら、再起動させてくれ」
「なにそれ。再起動? どうやって」
「どんな手を使ってくれてもいい。入ったところに池があるから、なんなら落としてくれ」
「ふうん。わかった。じゃあちゅーするね」
「~~~っ!」
僕はグーで呼び鈴を鳴らした。
しばらくののち、細やかな飾りのついた門が開く。向こう側に人の気配を感じた。僕は目を凝らす。伯爵ではない。伯爵夫人でもない。仕着せに身を包んだ侍女だ。
「お待たせいたしました。本日ははるばる、ようこそおいでくださいました」
「あっ、えっと、その。……久しぶり」
「はい。長らくぶりでございます、ユアン様」
彼女のことは覚えている。使用人の女性の中でも比較的年齢が高く、物腰の柔らかな人だった。周りがみな僕を持て余している中で、彼女と彼女の仲のよかったもう一人の侍女だけは、僕に対して同情のようなものを抱いていたのではないかと思う。
同情でも憐憫でも、ありがたかったな。どんな形であれ僕に目をかけてくれる数少ない人のうちの一人だった。
そこまで考えて、この侍女と仲のよかったもう一人の侍女の顔を思い浮かべる。「仲のよかった」と過去形なのには意味がある。その侍女はもうここにはいない。消えてしまったのだ。あの夏、この屋敷から忽然と姿を消してしまった。
「どうぞ。旦那様がお待ちです」
「う、うん」
促されるようにして前庭を進む。ヴィクトが持ち前の気さくさを発揮して侍女に色々と話しかけていた。「子どもの頃のユアン様ってどんな感じだったの?」なんて聞こえたけれど、その答えがどんなものだったかまでは僕の耳は拾わなかった。頭の中には次々とあらゆることが思い出されていた。この屋敷で過ごした日々のこと。家族のこと。森のこと。あの事件のこと。
「ねぇ、覚えてる?」
屋敷の玄関に着いた時、僕は侍女に問いかけていた。ずっとずっと、気になっていたことだ。
「恐れながら何についてのことでしょうか、ユアン様」
「イリサのこと」
「っ……」
侍女の反応は肯定を示していた。
「ねぇ、イリサはどうして、兄さんにあんな仕打ちをしたのかな」
侍女は僕を見つめたきり、いよいよ押し黙ってしまった。ヴィクトが「イリサ?」と不思議そうにしている。
イリサというのは――忘れもしない。三年前、兄さんを死の淵まで追いやった犯人の名前だ。明確な殺意をもって兄さんの食事にだけ毒を盛り、その日の夜には屋敷からいなくなっていた侍女の名前だ。
「同じくルシェルツ家に仕えていた侍女だよ。二人は仲がよかったんだ。だけどイリサが、その、突然辞めてしまって」
「へぇ」
察するものがあったのか、ヴィクトからの追求はなかった。入れ替わるようにして侍女が話しだす。
「ユアン様」
切実な声。意を決したような顔つき。
「どうかお聞き届けくださいませ」
「……なに?」
「イリサは、あの子は、取り返しのつかないことをしました。それはまごうことなき事実です。ですが、私は思うのです。あれは、あの子なりの正義でやったことだと」
……正義?
「虫一匹殺せるような子ではなかったのです! 心優しくて、誰に対しても平等で、私からすれば年の離れた可愛い妹のような存在で」
「ちょ。ちょっと待って……正義だって?」
単純に理解が追いつかない。イリサが兄さんを殺そうとした動機なんて知らないし、皆目見当もつかない。どうしてあんなことをしたのだろうとずっと疑問だった。だけれどもこの侍女の言い方だと、あたかもイリサの行いには正当性があって、兄さんは苦しむに値した人物であるかのようだ。
一体全体、人に毒を盛ることのどこが正義だというのだろう?
「あなたは……やっぱり何か知っているの?」
「それは……」
侍女が口ごもる。そこから具体的な説明が続くことはなかった。彼女はヴィクトのほうを窺い見るようなそぶりを見せ、何かをためらったのち、下を向く。
「申し訳ございません。すべて憶測にございます。本当のことは私にも……わかりません」
いい天気だ。空気が澄んでいる。秋の風は冷たさを孕むようになったが、それも含めて爽やかで気持ちがいい。ぜひともエルドラード中の人にこの清々しさを堪能していただきたい。
僕? 僕は今、馬車に揺られて辿り着いた先、とある屋敷の前にいる。緊張をほぐすために発声練習をしているところだ。
「ふはっ。帰省でここまで挙動不審になる人初めて見た」
「挙動不審なもんか!」
失恋をした日からというもの、僕はひたすらに考えた。考え続けた結果、決めた。この命潰えるまではヴィクトの幸せを願おうと。嫌われ神子だった自分にも等しく接してくれた初めての人なのだ。人付き合いというものを教えてくれた初めての人なのだ。どんなにとげとげしい態度を取っても見放さないでいてくれた初めての人なのだ。僕の恋は叶わなくてもいい。でも彼の思いを叶えてあげたい。そう思うのは自然なことだろう?
だからこれまで以上に仕事に精を出すことにした。早くみんなに文句なしに認められて、ヴィクトが第一部隊に復帰できるように。
意気込んだ僕は、前々からやってみたかった慰問計画を立てるべくペンを取った。これまでこそこそと通っていた孤児院をはじめ、学校や地方教会、貧しい人の多くが暮らすいわゆるスラム地区といったところを候補地として挙げていく。国王にも相談をもちかけ、行くべき場所を精査していった。
するとどうだろう。どこから話を聞いたのか、ルシェルツ伯爵家から訪問を求める打診が届いたのだ。手紙の封を開けてびっくりした。というか拍子抜けした。伯爵が体調を悪くして臥せっているから助けてほしいのだという。それらしい理由を並べてあったけど、読めば要するにぎっくり腰だった。
「もしかしてユアン様、本当はあまり帰ってきたくなかった? 誰かと折り合いが悪いとか」
「うっ、うぐ……あの、その」
打診を受け入れるかは悩みに悩んだ。実の父親である伯爵に対してさえあまりいい思い出がない上、義母がいる。
でもあれから月日が経って、僕も大人になって、ルシェルツ家の面々にも時間薬が効いたと思うんだ。今ならきっと、違う気持ちで接することができるのではないだろうか。
「まぁ詳しくは聞かないよ。助けてほしくなったら言って」
「う、うん。ありがと。じゃあお願い。もし、僕がカッチコッチに固まっちゃったら、再起動させてくれ」
「なにそれ。再起動? どうやって」
「どんな手を使ってくれてもいい。入ったところに池があるから、なんなら落としてくれ」
「ふうん。わかった。じゃあちゅーするね」
「~~~っ!」
僕はグーで呼び鈴を鳴らした。
しばらくののち、細やかな飾りのついた門が開く。向こう側に人の気配を感じた。僕は目を凝らす。伯爵ではない。伯爵夫人でもない。仕着せに身を包んだ侍女だ。
「お待たせいたしました。本日ははるばる、ようこそおいでくださいました」
「あっ、えっと、その。……久しぶり」
「はい。長らくぶりでございます、ユアン様」
彼女のことは覚えている。使用人の女性の中でも比較的年齢が高く、物腰の柔らかな人だった。周りがみな僕を持て余している中で、彼女と彼女の仲のよかったもう一人の侍女だけは、僕に対して同情のようなものを抱いていたのではないかと思う。
同情でも憐憫でも、ありがたかったな。どんな形であれ僕に目をかけてくれる数少ない人のうちの一人だった。
そこまで考えて、この侍女と仲のよかったもう一人の侍女の顔を思い浮かべる。「仲のよかった」と過去形なのには意味がある。その侍女はもうここにはいない。消えてしまったのだ。あの夏、この屋敷から忽然と姿を消してしまった。
「どうぞ。旦那様がお待ちです」
「う、うん」
促されるようにして前庭を進む。ヴィクトが持ち前の気さくさを発揮して侍女に色々と話しかけていた。「子どもの頃のユアン様ってどんな感じだったの?」なんて聞こえたけれど、その答えがどんなものだったかまでは僕の耳は拾わなかった。頭の中には次々とあらゆることが思い出されていた。この屋敷で過ごした日々のこと。家族のこと。森のこと。あの事件のこと。
「ねぇ、覚えてる?」
屋敷の玄関に着いた時、僕は侍女に問いかけていた。ずっとずっと、気になっていたことだ。
「恐れながら何についてのことでしょうか、ユアン様」
「イリサのこと」
「っ……」
侍女の反応は肯定を示していた。
「ねぇ、イリサはどうして、兄さんにあんな仕打ちをしたのかな」
侍女は僕を見つめたきり、いよいよ押し黙ってしまった。ヴィクトが「イリサ?」と不思議そうにしている。
イリサというのは――忘れもしない。三年前、兄さんを死の淵まで追いやった犯人の名前だ。明確な殺意をもって兄さんの食事にだけ毒を盛り、その日の夜には屋敷からいなくなっていた侍女の名前だ。
「同じくルシェルツ家に仕えていた侍女だよ。二人は仲がよかったんだ。だけどイリサが、その、突然辞めてしまって」
「へぇ」
察するものがあったのか、ヴィクトからの追求はなかった。入れ替わるようにして侍女が話しだす。
「ユアン様」
切実な声。意を決したような顔つき。
「どうかお聞き届けくださいませ」
「……なに?」
「イリサは、あの子は、取り返しのつかないことをしました。それはまごうことなき事実です。ですが、私は思うのです。あれは、あの子なりの正義でやったことだと」
……正義?
「虫一匹殺せるような子ではなかったのです! 心優しくて、誰に対しても平等で、私からすれば年の離れた可愛い妹のような存在で」
「ちょ。ちょっと待って……正義だって?」
単純に理解が追いつかない。イリサが兄さんを殺そうとした動機なんて知らないし、皆目見当もつかない。どうしてあんなことをしたのだろうとずっと疑問だった。だけれどもこの侍女の言い方だと、あたかもイリサの行いには正当性があって、兄さんは苦しむに値した人物であるかのようだ。
一体全体、人に毒を盛ることのどこが正義だというのだろう?
「あなたは……やっぱり何か知っているの?」
「それは……」
侍女が口ごもる。そこから具体的な説明が続くことはなかった。彼女はヴィクトのほうを窺い見るようなそぶりを見せ、何かをためらったのち、下を向く。
「申し訳ございません。すべて憶測にございます。本当のことは私にも……わかりません」
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