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龍の生きた時代

何を望み何を求め何を得て、そして何を失ったのか 9

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「まずかったかな?」

「何がです?」

 曹操を見送る呂布の言葉に、陳宮が尋ねる。

「いや、曹操をこのまま帰らせる事が、だけど」

「そんな事でしたか」

 陳宮はそう言うと、大きくため息をつく。

「まずい事と言えば、それどころでは無いくらい色々とアレなので、今更その程度の事では大した問題ではありません」

 陳宮の鋭すぎる言葉に、呂布は何度も胸をえぐられる思いだった。

「ここで曹操を射抜く事は将軍の腕であれば簡単ですが、私の考える漢再興には執政官としての曹操の手腕は捨てがたいところがあります。また、話し合いに来た者を弓で射抜いたと言われれば将軍の武名にも傷が付きます。あの場ではあれで良かったです」

「そうか、なら安心だ」

「ですが、別の事でまずい事はあります」

 まだあるか、とげんなりする。

「仕方が無かったとはいえ、さすがに曹操軍にもバレたと思うべきでしょう」

「……だなぁ」

 どれほど演じたところで、呂布は複数の戦場に同時に現れる事は出来ない。

 それ故にこれまでそれが出来るフリをしてきたのだが、実際に曹操の西側からの伏兵をあの時に動かさせる訳にはいかなかったので、露骨だとは思ったのだが曹操を威嚇する必要があった。

「ですが、そろそろ無理がたたる頃でしょう。バレるとしても悪くないところですよ」

 陳宮は冷静に言う。

 呂布が複数の戦場に現れた仕掛けは、驚く程単純で馬鹿馬鹿しいものであり、だからこそ軍師の盲点となっていた方法だった。

 と、言うより仕掛けも何も無い。

 南門で矢を射た後に、急いで西門に移動していたと言うだけである。

 そこまでは誰でも思いつきそうなものなのだが、一般常識で考えてそれは無いと結論付けるのが普通である。

 ところが呂布には、非常識な速度を実現させる方法があった。

 それが千年の名馬、赤兎馬である。

 通常の馬と比べて桁の違う速さのある名馬で移動しているので、曹操軍の予想を上回る速さで移動して、いかにも複数の戦場に呂布がいる様に見せていたと言うだけだった。

 一応それだけでなく、南の城楼裏に藁を積み重ね、その上から布を被せて飛び降りられる様にした事によって、階段で移動するより大幅に時間を短縮させる様な事もしていた。

 とは言っても策や仕掛けと言うより、ただ単に個人の突出した能力で無理に戦場を維持していたと言う綱渡りなのである。

 呂布の突然の参戦には、理由があった。

 過労によって体調を崩し、意識を失っていた厳氏が目を覚ましたのだ。

 呂布はこの時、本気で降伏を考えていたのだが厳氏の言葉は呂布の予想したものとは違った。

「将軍がお守りしてくださるのであれば、どこよりも安全ですね」

 意識は戻ったといってもまだ朦朧としている厳氏だったが、それでも弱々しいながらも呂布に向かって笑顔でそう伝えてきた。

 彼女は降伏するなどとは夢にも思っていないらしく、呂布が当然の様に守ってくれると信じている様だった。

「……もちろんだ。ゆっくり休むと良い」

 呂布は妻の手を握り、優しく、それでもはっきりと伝える。

 それを聞いて、厳氏はうっすらと微笑んで眠りにつく。

 今度は意識を失ったと言うより、安心してぐっすりと眠りについたと言う方が正しいだろう。

 だが、その僅かな時間の、妻の一言が呂布に覚悟を決めさせた。

 妻を安心させる為に、ゆっくりと休ませると言うただそれだけの為に、精強な曹操軍と戦う覚悟。

 これまで勝つ気も無いのに、戦えば勝ってきたと陳宮に言われた事を思い出す。

 陳宮から提案された必勝の策を足蹴にしてまで、呂布は妻の元へ走った。

 そのせいで、今の絶望的な戦況を招いてしまった責任は呂布自身にある事を自覚していた以上、それを取り戻す事は呂布の責任である。

 そう決意した呂布に、泰山の臧覇軍が敗北したと言う報告が入った。

 この報告によって、呂布軍の士気は低下して戦う事そのものが出来なくなる寸前となったが、その先陣に呂布は立つ。

 ほとんど崩壊寸前の呂布軍を相手に、ほぼ勝利を収めたと言えた曹操軍だったのだが、たった一人の参戦によってそれは覆される事になる。

 戦意喪失寸前だった呂布軍の兵士だったが、参戦した一人の姿によって再び立ち上がり武器を取り、ほぼ決まっていた戦場を膠着状態にまで持っていく事が出来たのだ。

 それだけでも奇跡と言える。

 しかし、代償はもちろんある。

 この膠着状態は呂布の個人的能力のみで支えられている状態であり、ほとんど全ての戦場で前線に立つ呂布の消耗は激しい。

 この戦い方を続けた場合、曹操軍を追い払う前に呂布が過労で倒れる恐れもあった事も考えられたので、陳宮としてはこれ以上この戦い方を続ける訳にはいかなかった。

 そこで、夜になってから各門に配置している武将を呼んで緊急会議を行う事になった。

「将軍、顔色が悪いですよ」

 侯成が心配そうに呂布を気遣う。

「ああ、大丈夫。それについて、軍師殿から話があるみたいだし」

 呂布自身、疲れは自覚していた。

 しかし、こちらが疲れているからと言って曹操軍が手加減してくれる訳でもない。

 当然ながら犠牲者の数は曹操軍の方が多い。

 しかも今年は冬の到来が早そうで、最近は急激に冷え込んできた。

 あと数日が勝負である事は、双方ともに分かっている。

 それが分かっているからこそ、呂布も無理をしてきたのだ。

「皆も分かっていると思うが、明日からは曹操軍もこれまで以上に本気で攻めてくる。そうなってはこれまでの様に楽に勝たせてはもらえないだろう」

「いや、これまでも楽ではないぞ」

 陳宮の言葉に、高順が不満そうに言う。

 北門や東門はともかく、高順が受け持つ西門は南門と同様に激戦を繰り広げていた。

 南は兵力を集中している事もあるが、西門はそもそもの守備兵が少なくしかも南門の様に飛び道具だけで迎撃出来る訳でもなく野戦によって迎撃してきたので、ある意味では南門より厳しい戦いを強いられてきた。

「だが、これからはさらに厳しくなる。曹操軍にも余裕は無いのだから総攻撃に出るだろう。そうなっては苦戦では済まないかも知れないから、ここから手を変える」

「だが、手を変えようにも張遼も臧覇も戦えそうにないぞ」

 陳宮の提案に対して、成廉が言う。

 下邳の防御だけでも兵力が足りていないと言うのに、何か手を打つとすればそれは泰山の兵しかいないはずだった。

 が、その兵力も一戦出来るかどうかまで減らされ、何かしようにも兵力がたりない。

「仕込みの種は蒔いている。一手でそれは芽吹き、曹操軍の総動員に待ったをかける事が出来る。もし泰山の切れ者がまだいれば、おそらく呼応してくれるだろう。ただ、呂布将軍の好みの手では無いでしょうが」

「好き嫌いを言っている場合では無い事は分かっているが、一応聞いておこう。どう言う手だ?」

「徐州の民を使います」

 陳宮は呂布に促されて答える。

「本来であれば曹操に協力した徐州城の連中は、その忠誠を示す為にもこの戦に参加して誰よりも武功を上げなければならない立場であるにも関わらず、まともに参戦どころか兵を動かす事も出来ていない。これは計画を立てた連中の予想より、徐州の連中が日和見だったと言う事。しかも徐州は周りが思っているより格差が激しく、かつては黄巾党を立ち上げるほど民衆には不満も溜まっていた地。少し煽ってやれば簡単に暴動に発展する。曹操軍には、そこに手を焼いてもらう」

「無関係な民を利用すると?」

 呂布が眉を寄せると、陳宮は頷く。

「その通り。ですが、前に曹操が攻めてきた時には徐州の民と言うだけで虐殺されています。それにも関わらず自分達は誰かに守ってもらうのが当然と言うのは、さすがに虫が良すぎる話でしょう。自分の身は自分で守る事だ、と煽るだけで十分な効果がある」

 陳宮はそう言うと、いまいち乗り気では無い魏続と郝萌の方を見る。

「この手を打つと東は忙しくなるぞ。元々徐州兵の中では呂布将軍を支持する者は少なくない。すぐにこちらに協力したいと言う兵も多数流れてくる。入れるのは良いが、一度入れたら絶対に出すな。必ず曹操軍の密偵が紛れているからな。もし脱走兵が出るようなら、切り捨てて構わない。出る者がいたら、お前たちも責任を問うからそう思え」

 陳宮はそう言った後、北門の成廉と宗憲の方を見る。

「以前も言ったが、もし曹操軍が何らかの策を使ってくるとすれば、それは北からだ。もし城門前に架けたままの橋を落とした場合、それが曹操軍の行動の合図だ。それを確認したら、何よりも優先して報告しろ。それは動き出したと言う事なのだから、時間に一切余裕は無いと言う事を忘れるな」

「言われるまでもない」

 成廉は大きく頷く。

「あと数日だ。それでこの戦いは終わる。それまではどんな泥も汚名も俺が被る。皆、力を貸してくれ」

 呂布としても乗り気な策では無いが、陳宮の提案する策に対する代案を出せないのでは仕方が無い。

 後はその責任を取る事が、呂布の役割だろう。

 方針が決まったところで緊急会議は解散となり、それぞれの持ち場の詰め所へ戻る事になる。





「どうするんだ、郝萌」

「もちろん、日和見を決め込む」

 魏続の質問に、郝萌は即答する。

「陳宮の命令でも分かっただろう? あの女は内通者を警戒している。俺達も当然疑われていると見るべきだ」

 郝萌の言葉に、魏続も無言で頷く。

 門を守る中でも、高順と成廉は十分な実力を持つ武将であり、さらに呂布と言う精神的支柱まで復活して、そう簡単に崩れる様子はなくなった。

 そのせいもあって、郝萌たちも進退を悩む事になった。

 彼らの守る東門に、曹操からの矢文が射られていた。

 書状にはごく短く記されている。

『降伏せよ、さすれば罪に問わず、厚遇を約す』

 圧倒的優位にあった曹操軍でありながら、やはり決め手にかけるらしく内通者を作ろうと企んでいた。

 陳宮がもっとも警戒する様に、下邳の守りは非常に固く内側から崩れない限り外からの攻撃だけで落とせる様なものではない。

 現状において、この一通の矢文の存在は呂布軍では郝萌と魏続の二人しかいない。

 この膠着した戦場において、郝萌と魏続の決断が曹操と呂布の勝利の天秤を動かす事が出来る存在になっていたのである。
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