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彷徨える龍

知略と言う名の翼 2

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 その事件は、何より曹操陣営に衝撃をもたらした。

 曹操は黄巾賊の残党に悩まされる劉岱に代わって、見事青州一帯の黄巾賊の残党を制圧する事に成功した。

 しかし、その時の傷が元で劉岱は曹操に後の事を全て託して、この世を去った。

 それからの曹操の活躍は目覚しく、許昌を拠点としてその地盤を固める事に成功する。

 それによって曹操は地元から一族を許昌に呼ぶ事にしたのだが、その道中の護衛を徐州の陶謙が自ら名乗りを上げて買って出た。

 曹操もそれを任せる事にしたのだが、その護衛役が金品を奪うばかりか曹操の一族を皆殺しにして姿を消してしまったのである。

 曹操はその報告を受けた当初、特にこれといった反応を示さず、きょとんとしていた。

「そうですか。大きな問題ですので、軍師を集めて協議したいと思います」

 いつも通りに、淡々と言う曹操に周りの者達は違和感を覚えていた。

 実の父親が殺されたと言うのに反応が薄く、家族の仲が悪かったのではないかとか、肉親の死にも動じないのはさすが乱世の姦雄などと言う声もあった。

 が、軍師が集まり、いざ協議しようとした時に曹操は突然卒倒し、そのまま三日三晩意識を失うほどだった。

 この時、曹操軍の軍師の中軸は四人の人物がいた。

 一人は曹操の旗揚げ当初から共に行動して、勢力の地盤を作ってきた陳宮。一人は袁紹の元から身を寄せ、曹操から高い評価を得て『我が子房しぼう』とまで言わしめた荀彧。荀彧の推挙で曹操の元へやって来た郭嘉かくか奉孝ほうこう、曹操や荀彧の声望を聞いてやって来た程昱ていいく仲徳ちゅうとくの四名である。

「これは報復があるな。いや、むしろ報復するべきだ」

 そう主張したのは郭嘉である。

「徐州攻略の大義としては悪く無い。『報仇雪恨』を知らしめる事で、徐州を攻めるべきだろう」

 程昱も郭嘉の言葉に大きく頷く。

「兵を動かすなど、愚かな事」

 しかし、陳宮はそれに対して真っ向から反対した。

「今回の悲劇の責任を問うと言うのであれば、徐州ではなく陶謙であり、外交圧力のみで陶謙は屈する。無為無用の血を流す事に意味は無く、ただ兵と国費を費やすのみ。今はそんな事に意識を向けるような時ではない」

「はっはっは。実に情け深い、女の浅知恵よ」

 程昱は陳宮を笑うが、陳宮は冷ややかに程昱を一瞥する。

「策を用いる者が、その内容ではなくその者の性別をのみ問題視すると言うのであれば、底が知れる。貴殿と話すような事は、今後も無いだろう」

「ははは、こりゃ程昱のダンナが一本取られましたな」

 郭嘉が楽しげに笑うのを、程昱は苦々しく睨む。

 曹操軍の頭脳を担う四人だが、その内三人、陳宮、郭嘉、程昱にはそれぞれ性格に難があり、扱いやすいと言う人材ではない。

「議論が進んでいるようですね」

 四人の軍師が議論する場に、意識が回復した曹操が現れ、そのまま席につく。

「この度の件、殿はどのようにお考えですか?」

 荀彧が曹操に尋ねる。

「内容を聞いていた限り、郭嘉と程昱は主戦論、陳宮は外交と言う感じでしたね」

 曹操は目を閉じて腕を組み、言葉を選ぶように眉を寄せる。

「結論から言うと、徐州を攻める」

 即座に反論しようとした陳宮だが、曹操は目を閉じたまま手を上げて陳宮を制す。

 彼女がすぐに動こうとする事を予見していたのだ。

「人は失うべきでないモノを失った時、これまでと同じではいられないのです。私は先年、母を病で失いました。それについては、悔やむ事ばかりです。西園八校尉以降官職にもつかず雌伏していた私ですが、それについて後悔はありません。ですが、そんな私の事を母がどう思っていたかを考えると心苦しく、胸が痛みます」

 曹操は淡々と話す。

「今、こうしてようやく地盤を得て、せめて母に出来なかった孝行を父にやっていこうと思っていたところだったのです。私の兵力を整える為に、祖父の代から蓄えてきた財貨の全てを投げ打って投資してくれた父に、たとえ僅かであっても返す事が出来るのであれば、私はそれに尽力しようと思っていたのですよ」

 そこまで言うと、曹操は目を開く。

 これまでと違い、その目には明らかな憎悪と狂気が宿り、異様な光を放っていた。

「人とは、ここまで怒れるものなのですね。今は下手人として名前の上がっている張闓ちょうがいや、そもそもその様な人物を父の護衛に当てた陶謙だけでなく、徐州の全てが憎い。その全てを血の海に沈めてやりたいと望む自分を抑えられません」

「その怒り、もっともな事。それは身の内に押さえ込むべきものではなく、外へ吐き出し、周りに見せつけるべきです! 我ら曹操軍を敵に回すとどうなるかを。お父上を亡くされた殿の悲しみと、その怒りを! 『報仇雪恨』を掲げ、全土に知らしめ、徐州を平らげるべきなのです!」

 我が意を得たりとばかりに、程昱は曹操に言う。

「郭嘉はどうですか?」

 程昱の言葉に頷いた後、曹操は郭嘉に尋ねる。

「俺は治める為にこの陣営に加わったのではなく、戦う為にここへ来ましたからね。殿が戦うと言うのであれば、もちろん喜んで戦いますよ」

 郭嘉は平然と答える。

「荀彧は?」

「……徐州と言う土地はかつて黄巾党の勢力下にありながら、その実、黄巾党でも漢王朝でも無く、地方の豪族がその地域を支配しています。現状、漢より太守を任じられている陶謙ですが、実際には陶謙の影響力は少なく、相変わらず数名の豪族による支配が行われています。漢王朝において、それは望ましい状況ではありません。漢の影響力の為にも、それら利権を貪る豪族を正す事は必要だと、私個人は考えています」

 荀彧は曹操の質問に、そう答えた。

「陳宮は?」

「断固反対です。理不尽に対して理不尽で返すなど、ただ恨みを連ねるばかり。曹操殿の怒りも悲しみも人として当然のモノであり、それを否定するつもりはありません。であればこそ、道理をもって当たるべきです。今回の事に対して罪ありとするのであれば、陶謙に張闓とその周辺の者達を捕縛させ、我々の元に出頭させるべきで、もし陶謙が正当な理由無く断ってきたり、あるいは反発するなどの行為を見せた時に軍事行動を取るべきで、いきなり徐州へ攻め込むなど蛮行以外の何物でもありません」

 陳宮は曹操だけでなく、他の三人も説得するように言う。

「さすがは陳宮、道理をよくわきまえている」

 曹操は頷いていう。

「が、徐州へ攻め込む事はすでに決定事項であると考えるように」

「何故です?」

 曹操の決断に、陳宮は食い下がる。

「まずは陶謙に調査させるべきでは?」

「我が父、曹嵩そうすうが徐州で惨殺されたと言う報が私の元へ届いているのですよ? 徐州の陶謙がそれを知らないはずは無く、もし知らないと言うのであればそもそも論外。もし知っているのであれば、陶謙の方から張闓とその一派を捕らえる事を私に知らせるのが筋でしょう。こちらから調査を以来するまで知らぬ存ぜぬを決め込むとあっては、陶謙も同罪であると見るべきであり、徐州民も大罪人を匿うと言うのであればそこに同情の余地無し。違いますか?」

「それはあまりに極論」

 曹操の言葉に、陳宮は首を振る。

「曹操殿が怒りに身を焼いているとしても、それは陶謙や張闓といった取るに足らない小物に対してではなく、この事態を察知する事も出来ず、対処も出来なかったと言う忸怩じくじたる思いから来ているもの。例え徐州民全てを虐殺したところで、その怒りは消える事も無く、むしろご自身で自らを焼き続けるようなもの。是非ともご再考を」

「くどい」

 曹操は短く言う。

「動くべきは陶謙であり、その機会はあった。にも関わらず陶謙は動かなかったのは陶謙の咎であり、これは陶謙が招いた所業。譲るべきは殿ではなく、陶謙なのだ」

 曹操ではなく、程昱が陳宮に向かっていう。

「っちゅうか、陶謙が全く知らなかったって事があるんスかねぇ」

 郭嘉は頭を掻きながら言う。

「元々オヤジ殿の護衛を買ってきたのは陶謙っしょ? もし本気で殿との友好を考え、そのつもりでいたのであれば、その護衛は腹心中の腹心をつけるはずじゃないかと思うんスよね。それなのに、オヤジ殿の護衛についたのは腹心どころか徐州の精鋭ですらなく、黄巾党上がりの、何の実績も無い将軍と言うかも怪しい様なヤツだった訳でしょ? 俺はそこに誠意は感じられないどころか、作為的なモノを感じますけどね」

 郭嘉の言葉は、ある意味では急所と言えた。

 知恵者である陳宮自身、そこに疑問を感じなかった訳ではない。

 それが意図されたものかを確かめる術は無いものの、陶謙の人選に大きな問題があった事は事実なのである。

 郭嘉が言うように、本気で曹操陣営との友好を望んで曹操の一族の護衛を引き受けたと言うのであれば、例えば反董卓連合にも参加していた陳登などを護衛につけるべきなのだ。

 また、曹操が指摘した通り、本来であれば不手際どころではない不祥事が起きた以上、まずは陶謙から直接事情を説明すべきところであるにも関わらず、陶謙からは使者どころか報告一つ無い。

 ここまで来ると郭嘉が指摘した通り、これは張闓と言う賊将が個人的な欲に負けて起こした凶行ではなく、当初から画策されていた陶謙の策略だったのではないかと疑われてもおかしくなかった。

「さて、では徐州への従軍ですが、郭嘉に命じます」

「俺ッスか? そりゃ構わないですけど」

「何故ですか? ここはこの程昱なのでは?」

 もっとも強く主張していたのは程昱だったので、程昱だけでなく郭嘉も自分が選ばれた事が意外だった。

「今回は私が感情的になっていますから。これ以上昂ぶっている人物が軍の指揮を取るとなると、ただ暴走するだけになりますので」

「あー、それなら俺でも止められないッスね。いや、もう、暴走は前提ッスから。あ、でも、確かに程昱さんも一緒に暴走しそうッスね」

「黙らっしゃい! おのれに言われとうないわ!」

「ほら、もう暴走してる」

 郭嘉は笑いながら言う。

 曹操は淡々と話し雰囲気はいつも通りの感じはするが、それでも時に狂気を含んだ寒気を感じさせる事がある。

 郭嘉はそれを感じ取り、あえておどけてみせているのだ。

「荀彧は引き続き治政の中心として据え置き、陳宮と程昱はその補佐を。何か問題は?」

「では、良いですか」

 荀彧が挙手して言う。

「伝え聞くところ、長安の政変によって追われた呂布が張邈のところにいるとか。曹操殿はそれに何か対策は考えていたりしますか?」

 荀彧の質問に、曹操は薄く笑う。

「世間では色々と言われていますが、呂布将軍は善良な男で、天下に対して野心を持っている様な人物ではありません。張邈にしても私に敵対する理由も無い事から、今回は何ら心配には及ばないでしょう」

「……そうなら良いのですが」

 呂布の事を知らない荀彧としては、曹操の言葉をそのまま鵜呑みには出来ないようだった。

 呂布と言う人物はことさら人を避けてきたと言う訳ではないのだが、その善良な性格から政争の中心人物でありながら、本人にその意識が無いせいで世間的に呂布の本当の人柄については驚く程知られていない。

 それに対して曹操は呂布の事を、あるいは本人以上によく知っている。

 卓越した技量の武勇を持ちながら、その温厚な性格は猛将として知られながら本人はまったく戦いを好まず、周囲の人間が想像もしないくらい事なかれ主義な人物でもあるのだ。

 だが、この時の曹操はいつもの冷徹な戦略家ではなく血に飢えた獣としての面が強く出ていた為、軍略家にとって禁物である先入観に囚われ致命的な隙を作る結果となるのだが、この時の曹操とその頭脳達の意識は徐州攻めへ意識が向いていた。

 ただ一人を除いて。
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