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最終章 鼎、倒れる時
第二十四話 二六四年 間道での戦い。そして……
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「矢が来るぞ! 皆、避けよ! 周旨、荷台の下だ!」
鄧艾はそう叫ぶと、自らを運ぶ馬車の上から転がる様に降りて、車の下に隠れる。
建前とは言え鄧艾には謀反の疑いをかけられているので騎馬した状態を許す事は出来ず、周旨は鄧艾を馬車にて護送していた。
馬車と言っても馬に引かせた荷台であり、天蓋などがあるはずも、ましてや装甲などがある訳でもない。
それでも野ざらしより遥かに安全な場所は、その荷台の下で鄧艾と護送の責任者を兼ねる兵長の周旨は、その近くにいた。
「最前方の騎馬はそのまま駆け抜けよ! 都よりの監督官である龐会将軍と合流出来るかも知れない! こちらの心配は無用! 最後尾は反転して成都へ駆け戻れ!」
鄧艾は更に兵に対しても指示を出す。
本来であれば彼らに鄧艾の指示に従う義理は無いのだが、突然の奇襲への冷静極まる対応と的確な指示だった事もあり、兵はすぐに反応してそれに従った。
「将軍、縄を解きます」
周旨は荷台の下で、鄧艾を縛る縄を切る。
「悪いな、周旨。下手に私の近くにいたばかりに、難儀なところにとどまらせる事になった」
「とんでもない。俺なんて、将軍の言葉が無ければ矢の雨の中で立ちすくんでいました」
「鄧忠! 丘本! 無事か!」
鄧艾は周旨に対して頷いた後、二人を呼ぶ。
「俺は大丈夫ですが、馬をやられました」
「こちらも似たようなモノです」
鄧忠と丘本が応える。
「やむを得ない、馬や鞍を楯にしてやり過ごせ。敵の矢はそれほど多くないはず。すぐに頭上の利を捨ててこちらに斬りかかってくる。その時が好機だ」
「頭上の利を捨てる? 奴らは矢を射るだけで我らを皆殺しに出来るのに?」
「その矢の数が足りないはずだ」
周旨も実戦は経験しているだろうが、鄧艾とは比べ物にならない。
その為に鄧艾の言っている事が理解出来なかったのだろう。
「希望的観測ってのも、あるにはある。だが、根拠もあるんだ。鍾会が成都に入って私に捕縛命令が出るまで、ほとんど日を要していない。それに頭上を押さえるのは師纂だが、その師纂にしても歓迎の宴には出ていたのだから、奴らにもそれほどの準備期間は無かったはず。前もっての準備とこの経路を使うと言う事も知っていたとしても、いざその時その場にいるとは限らないのだから、大荷物は邪魔になるはずなんだ」
鄧艾自身が最初に言った様に、希望的観測と言うところを出てはいないが延々と打ち続けられるほどの矢は無いだろうと、鄧艾は確信していた。
それに予定では一斉射で一網打尽にするはずだっただろうが、鄧艾が自陣を薄くしてでも前後に兵を出した対応にも追われるはずである。
後方の部隊はまだしも、前方に抜ける様に指示した兵を無視する事は出来ない。
これは師纂一人で出来る事ではなく、まず間違いなく鍾会の指示で動いている。
令状が出たと言う事で司馬昭も知っているのかとも思ったが、司馬昭の指示であったなら捕縛などと言う回りくどい事をしなくても、謀反により死刑と堂々と宣言するだけで良い。
わざわざ周旨と言う若い兵を使って捕縛し、司馬昭の元へ送ろうとしている途上で伏兵を置くと言うのは、鍾会の後ろめたさによるものだ。
つまり、魏軍全軍の総意ではないと言う事。
そんな中で大量の兵や物資を投入する事は出来ないと言う事も、師纂の用意出来た矢はそれほど多くないと予想出来る根拠でもある。
「止めを刺すぞ! 俺に続けぇ!」
師纂が叫ぶと、騎馬で突撃してくる。
「ほらな。ここからが本番だ。楽じゃないが、どうにかなる」
「凄いですね、将軍は」
周旨は本気で感心していた。
「ま、師纂の事はよく知ってるからね」
武勲第一に考える師纂は、頭上からの掃射だけで済ませるはずも無いと言うのも予想出来た。
師纂の性格であれば、第一射である程度の損害を出させた後には自らの手で勝利を決定付たいと思う事だろう。
もちろん、いずれはそうする必要はあるのだが、師纂の判断は性急に過ぎた。
また、率いる兵の質にも問題があった。
雍州軍の兵は少年兵が多数投入されていたが、その若い少年達は鄧艾達による厳しい訓練や幾度となく繰り返されてきた過酷な実戦を経て、魏の中央軍の精鋭達と比べても遜色ないどころか、それすら上回るほどの戦闘能力を身に付けていた。
が、その精鋭揃いの雍州兵を鄧艾の捕縛には使えないと言う問題がある。
理屈の上では、雍州軍の総司令官は司馬望であり鄧艾ではない。しかも一州軍であって、大将軍である司馬昭の命令には従う必要がある。
そうは言っても、絶大なる信頼を得ている鄧艾の捕縛を命じられた時、兵が鄧艾の側に付いて反乱を起こす事は考えられる。
その為に、いかに高い能力がある雍州軍の兵であっても使う事が出来ないのだ。
また、蜀からの投降兵で構成された鄧艾軍の兵も使えず、秘密裏に行うに適しているのは実戦経験に乏しい鍾会の手勢のみ。
師纂は慣れたつもりで高所から馬を走らせて突撃してきたが、それに着いて行く事が出来ずに落馬する者や、馬共々落下する者が相次ぎ、後続もそれを見て躊躇うほどだった。
それもあって、師纂の率いる兵の数は千にも満たず多く見ても五百前後と言ったところである。
とは言え、それを迎え撃つのは総数でも五百を少し超える程度と数の上では不利だっただけでなく、先ほどの奇襲により兵の数は半減している。
しかも残った者達のほとんどが手負いの状態だった。
それもあって、師纂は勝機十分と判断したのだろう。
「鄧艾! その首、貰い受ける!」
師纂は荷台の下から姿を現した鄧艾に向かって突撃して来たが、死体の影に隠れていた鄧忠の槍によってそれを阻まれた。
「いきがるなよ、師纂。父上の首だと? 寝言抜かすなよ」
鄧忠も左肩に矢を受けていたが、それでもにやりと笑って師纂の前に立ちはだかる。
「鄧忠、命乞いの言葉くらいは聞いてやるぞ?」
「だから言ってるだろ? 寝言抜かすなよ」
馬上の師纂の方が圧倒的に有利であるはずなのだが、狭い間道と転がる死体が邪魔で馬の機動力を活かす事が出来ない。
それでもまだ師纂の方が有利なはずなのだが、鄧忠を抜く事が出来ないでいた。
「くっ、構うな! 一気に押し潰せ!」
楽勝であるはずだった戦に苦戦している師纂は兵に命じたが、兵の動きも遅かった。
彼らにしても、楽勝であると踏んで参加していたのである。
「丘本! 今だ!」
「行くぞ!」
荷台に立つ鄧艾の合図に反応する様に、丘本を始め死体の影に隠れて生き延びた兵士達が立ち上がって、攻め込むのが遅れた師纂の後続である兵に襲いかかる。
彼らも手負いであったが、師纂の率いる兵とは決定的な差があった。
士気の高さである。
大人数同士の戦であっても、士気の高さは勝敗の決め手になる。
実は少人数の方が士気の差は出にくいものなのだが、それは指揮官の影響力によるもので抑えが効くと言う事である。
その指揮官の差から生まれる士気の差は、もはや覆しようもない。
鄧艾と師纂では、話にならないほどの差だった。
丘本の受けた傷は鄧忠より深かったが、それでも彼の苛烈な意思は揺るぐ事無く、兵としての役割をまっとうする。
丘本だけではない。
彼が率い、彼に従う兵士達もまた手傷を負い、中には深刻な深手を負った者も少なくなかったが、それでも手には武器を取り、己の血を流しながらも敵となった魏兵に襲い掛かり、切り伏せていく。
「怯むな! こいつらはただの死にぞこないだ! 止めを刺してやれ!」
師纂は声を張り上げるが、自身が鄧忠を抜く事が出来ないでいる事が、兵の士気を奮わせない結果になっていた。
「どうした、師纂。手負いであれば俺に勝てるとでも、夢を見たのか?」
鄧忠は笑いながら槍を突き出す。
万全とは言えないはずの鄧忠の槍は冴え、師纂の接近を許さない。
「降伏しろ! これ以上の戦いは無意味だ!」
「ふざけるな! 謀反人に降伏などするものか! ここで鄧艾を討たなければ、全員皆殺しにされるぞ!」
鄧艾の降伏勧告に対して、師纂は兵に向かって叫ぶ。
「それだけではない! 謀反に加担した者だけではなく、三族に至るまで全て殺されるのだ! 逃れるのは降る事ではなく、打ち倒す事! 活路は前にこそあるぞ!」
「踏み止まったか。有能な敵と言うのは、こう言う時に困る」
鄧艾は困り顔で言うが、思い悩むと言う事はない。
それどころではない、と言う方が正しいだろう。
ここで踏みとどまると言う事は、兵達がこちらを本気で殺しに来ると言う事である。
鄧艾は近場にあった槍を拾う。
いかに周旨が気を使ったと言っても、謀反の疑いをかけられた鄧艾に武装は許されておらず、刀槍の様な武器は当然の事で鎧なども一切身につけていない。
この戦場でもっとも無防備なのは、鄧艾なのである。
師纂の兵もその事に気付いたのか、雄叫びをあげて突き進んでくる。
「まったく、面倒な事だ」
それでも鄧艾は焦る事無く、槍を構える。
丘本の兵達を突き抜けてきた魏兵だったが、彼らはまだ鄧艾の実力を知らなかった。
敵としての鄧艾の実力と言うのであれば、むしろ蜀の兵達や姜維達蜀の武将の方が正確に知っていただろう。
迂闊に挑むべき相手ではない、と。
鄧艾は瞬時に槍を突き出し、その瞬間に敵兵の首を五つも宙に舞わせたのである。
それを見て、動きを止めない者などただ一人。
その状況を作り出した鄧艾のみ。
誰もが目を疑い、動きを止めたその瞬間を鄧艾は見逃さなかった。
彼はすかさず前に踏み出し、次々と魏の兵士達を突き崩していく。
形勢は完全に逆転した。
数は今なお師纂の兵の方が多く、装備の面でもまた万全であると言う点でも戦闘能力で言えば明らかに有利である。
一方の鄧艾は鎧もつけない無防備で、率いるのは師纂の兵の半数程度。しかもほぼ全員が手負いの状態。
にも関わらず、先に戦意を喪失したのは師纂の兵だった。
勝てる気がしないのだ。
手負いとはいえ、獣の様な戦闘能力を見せる丘本らの兵。
同じく手負いでありながら、馬上の師纂を相手に一歩も譲らず互角以上に戦う鄧忠。
そして、鎧も身につけないのに槍の間合いに入った瞬間に、正確無比かつ神速の一撃で命を奪う鄧艾。
それらを相手に五百程度では少な過ぎる、と彼らは判断してしまった。
そして、鄧艾らは手負いの上にほとんどが歩兵。
馬もいたのだが、先に矢の雨に打たれて絶命している事もあり、逃げると言うのであれば確実に逃げられると言うのも、彼らの戦意喪失に拍車をかけただろう。
そこからの流れは早かった。
数に勝る師纂の兵達が一斉に逃げ始めたのである。
「戻れ! 殺されたいのか!」
師纂は叫ぶが、それで戻る兵はいなかった。
「勝負アリだ……」
鄧艾はそう言いかけた時、新手が頭上に現れた事に気付いた。
龐会か、と思ったのだが、そう思った事が致命的な遅れとなった。
その一団は、先の師纂の奇襲と同じく矢の雨を降らせてくる。
おそらく味方であろう、師纂と逃げ惑う兵がいるにも関わらず。
それどころか、彼らも討伐対象であるかの様に矢を射掛けてくる。
「止めろ、田続! 俺は味方だぞ!」
師纂は頭上の一団に向かって叫ぶが、矢の雨が衰える様子も無く、師纂の体を貫く。
「おのれ、田続!」
「さっさと隠れろ!」
体中に矢を受けながらも叫ぶ師纂を鄧忠が引き倒し、兵の死体を楯替わりにして隠れる。
これは、厳しいな。
鄧艾と周旨はまたも荷台の下に隠れるが、今度の連中は師纂の時と違って油断も容赦も無い。
私は忠臣のつもりだったが、白起の災いが巡って来たか。
今度の矢の雨には鄧艾も無傷と言う訳にはいかず、数本の矢を受けていた。
「鄧艾将軍!」
「命に別状は無い」
鄧艾は矢が収まるのを待つ。
矢だけで全てを終える事など無いはず。たとえどれほど絶望的な戦いであったとしても、ここで死ぬ訳にはいかない。
ここで討たれては、謀反の罪を反論出来なくなり、鄧艾と鄧忠だけでなく一族全員に罪が及ぶ事になる。
「例え死ぬにしても、ここでは死ねないんだ」
瀕死であれ、虫の息であったとしても、鄧艾は司馬昭の前に行かねばならない。
「鄧忠! 生きてるか!」
「まだ生きてるよ! 師纂も楯には使える程度には生きてる!」
「誰が楯だ! 田続を殺したら、次はお前ら親子だ!」
「丘本はどうだ!」
「まだ……やれます!」
痛みや苦しみはあるだろうが、丘本の声にはまだ張りがあった。
「周旨も、今のままではこちら側になってしまうからな」
鄧艾は薄く笑顔を浮かべると、力強く言う。
「皆、生き延びるぞ!」
鄧艾はそう叫ぶと、自らを運ぶ馬車の上から転がる様に降りて、車の下に隠れる。
建前とは言え鄧艾には謀反の疑いをかけられているので騎馬した状態を許す事は出来ず、周旨は鄧艾を馬車にて護送していた。
馬車と言っても馬に引かせた荷台であり、天蓋などがあるはずも、ましてや装甲などがある訳でもない。
それでも野ざらしより遥かに安全な場所は、その荷台の下で鄧艾と護送の責任者を兼ねる兵長の周旨は、その近くにいた。
「最前方の騎馬はそのまま駆け抜けよ! 都よりの監督官である龐会将軍と合流出来るかも知れない! こちらの心配は無用! 最後尾は反転して成都へ駆け戻れ!」
鄧艾は更に兵に対しても指示を出す。
本来であれば彼らに鄧艾の指示に従う義理は無いのだが、突然の奇襲への冷静極まる対応と的確な指示だった事もあり、兵はすぐに反応してそれに従った。
「将軍、縄を解きます」
周旨は荷台の下で、鄧艾を縛る縄を切る。
「悪いな、周旨。下手に私の近くにいたばかりに、難儀なところにとどまらせる事になった」
「とんでもない。俺なんて、将軍の言葉が無ければ矢の雨の中で立ちすくんでいました」
「鄧忠! 丘本! 無事か!」
鄧艾は周旨に対して頷いた後、二人を呼ぶ。
「俺は大丈夫ですが、馬をやられました」
「こちらも似たようなモノです」
鄧忠と丘本が応える。
「やむを得ない、馬や鞍を楯にしてやり過ごせ。敵の矢はそれほど多くないはず。すぐに頭上の利を捨ててこちらに斬りかかってくる。その時が好機だ」
「頭上の利を捨てる? 奴らは矢を射るだけで我らを皆殺しに出来るのに?」
「その矢の数が足りないはずだ」
周旨も実戦は経験しているだろうが、鄧艾とは比べ物にならない。
その為に鄧艾の言っている事が理解出来なかったのだろう。
「希望的観測ってのも、あるにはある。だが、根拠もあるんだ。鍾会が成都に入って私に捕縛命令が出るまで、ほとんど日を要していない。それに頭上を押さえるのは師纂だが、その師纂にしても歓迎の宴には出ていたのだから、奴らにもそれほどの準備期間は無かったはず。前もっての準備とこの経路を使うと言う事も知っていたとしても、いざその時その場にいるとは限らないのだから、大荷物は邪魔になるはずなんだ」
鄧艾自身が最初に言った様に、希望的観測と言うところを出てはいないが延々と打ち続けられるほどの矢は無いだろうと、鄧艾は確信していた。
それに予定では一斉射で一網打尽にするはずだっただろうが、鄧艾が自陣を薄くしてでも前後に兵を出した対応にも追われるはずである。
後方の部隊はまだしも、前方に抜ける様に指示した兵を無視する事は出来ない。
これは師纂一人で出来る事ではなく、まず間違いなく鍾会の指示で動いている。
令状が出たと言う事で司馬昭も知っているのかとも思ったが、司馬昭の指示であったなら捕縛などと言う回りくどい事をしなくても、謀反により死刑と堂々と宣言するだけで良い。
わざわざ周旨と言う若い兵を使って捕縛し、司馬昭の元へ送ろうとしている途上で伏兵を置くと言うのは、鍾会の後ろめたさによるものだ。
つまり、魏軍全軍の総意ではないと言う事。
そんな中で大量の兵や物資を投入する事は出来ないと言う事も、師纂の用意出来た矢はそれほど多くないと予想出来る根拠でもある。
「止めを刺すぞ! 俺に続けぇ!」
師纂が叫ぶと、騎馬で突撃してくる。
「ほらな。ここからが本番だ。楽じゃないが、どうにかなる」
「凄いですね、将軍は」
周旨は本気で感心していた。
「ま、師纂の事はよく知ってるからね」
武勲第一に考える師纂は、頭上からの掃射だけで済ませるはずも無いと言うのも予想出来た。
師纂の性格であれば、第一射である程度の損害を出させた後には自らの手で勝利を決定付たいと思う事だろう。
もちろん、いずれはそうする必要はあるのだが、師纂の判断は性急に過ぎた。
また、率いる兵の質にも問題があった。
雍州軍の兵は少年兵が多数投入されていたが、その若い少年達は鄧艾達による厳しい訓練や幾度となく繰り返されてきた過酷な実戦を経て、魏の中央軍の精鋭達と比べても遜色ないどころか、それすら上回るほどの戦闘能力を身に付けていた。
が、その精鋭揃いの雍州兵を鄧艾の捕縛には使えないと言う問題がある。
理屈の上では、雍州軍の総司令官は司馬望であり鄧艾ではない。しかも一州軍であって、大将軍である司馬昭の命令には従う必要がある。
そうは言っても、絶大なる信頼を得ている鄧艾の捕縛を命じられた時、兵が鄧艾の側に付いて反乱を起こす事は考えられる。
その為に、いかに高い能力がある雍州軍の兵であっても使う事が出来ないのだ。
また、蜀からの投降兵で構成された鄧艾軍の兵も使えず、秘密裏に行うに適しているのは実戦経験に乏しい鍾会の手勢のみ。
師纂は慣れたつもりで高所から馬を走らせて突撃してきたが、それに着いて行く事が出来ずに落馬する者や、馬共々落下する者が相次ぎ、後続もそれを見て躊躇うほどだった。
それもあって、師纂の率いる兵の数は千にも満たず多く見ても五百前後と言ったところである。
とは言え、それを迎え撃つのは総数でも五百を少し超える程度と数の上では不利だっただけでなく、先ほどの奇襲により兵の数は半減している。
しかも残った者達のほとんどが手負いの状態だった。
それもあって、師纂は勝機十分と判断したのだろう。
「鄧艾! その首、貰い受ける!」
師纂は荷台の下から姿を現した鄧艾に向かって突撃して来たが、死体の影に隠れていた鄧忠の槍によってそれを阻まれた。
「いきがるなよ、師纂。父上の首だと? 寝言抜かすなよ」
鄧忠も左肩に矢を受けていたが、それでもにやりと笑って師纂の前に立ちはだかる。
「鄧忠、命乞いの言葉くらいは聞いてやるぞ?」
「だから言ってるだろ? 寝言抜かすなよ」
馬上の師纂の方が圧倒的に有利であるはずなのだが、狭い間道と転がる死体が邪魔で馬の機動力を活かす事が出来ない。
それでもまだ師纂の方が有利なはずなのだが、鄧忠を抜く事が出来ないでいた。
「くっ、構うな! 一気に押し潰せ!」
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彼らにしても、楽勝であると踏んで参加していたのである。
「丘本! 今だ!」
「行くぞ!」
荷台に立つ鄧艾の合図に反応する様に、丘本を始め死体の影に隠れて生き延びた兵士達が立ち上がって、攻め込むのが遅れた師纂の後続である兵に襲いかかる。
彼らも手負いであったが、師纂の率いる兵とは決定的な差があった。
士気の高さである。
大人数同士の戦であっても、士気の高さは勝敗の決め手になる。
実は少人数の方が士気の差は出にくいものなのだが、それは指揮官の影響力によるもので抑えが効くと言う事である。
その指揮官の差から生まれる士気の差は、もはや覆しようもない。
鄧艾と師纂では、話にならないほどの差だった。
丘本の受けた傷は鄧忠より深かったが、それでも彼の苛烈な意思は揺るぐ事無く、兵としての役割をまっとうする。
丘本だけではない。
彼が率い、彼に従う兵士達もまた手傷を負い、中には深刻な深手を負った者も少なくなかったが、それでも手には武器を取り、己の血を流しながらも敵となった魏兵に襲い掛かり、切り伏せていく。
「怯むな! こいつらはただの死にぞこないだ! 止めを刺してやれ!」
師纂は声を張り上げるが、自身が鄧忠を抜く事が出来ないでいる事が、兵の士気を奮わせない結果になっていた。
「どうした、師纂。手負いであれば俺に勝てるとでも、夢を見たのか?」
鄧忠は笑いながら槍を突き出す。
万全とは言えないはずの鄧忠の槍は冴え、師纂の接近を許さない。
「降伏しろ! これ以上の戦いは無意味だ!」
「ふざけるな! 謀反人に降伏などするものか! ここで鄧艾を討たなければ、全員皆殺しにされるぞ!」
鄧艾の降伏勧告に対して、師纂は兵に向かって叫ぶ。
「それだけではない! 謀反に加担した者だけではなく、三族に至るまで全て殺されるのだ! 逃れるのは降る事ではなく、打ち倒す事! 活路は前にこそあるぞ!」
「踏み止まったか。有能な敵と言うのは、こう言う時に困る」
鄧艾は困り顔で言うが、思い悩むと言う事はない。
それどころではない、と言う方が正しいだろう。
ここで踏みとどまると言う事は、兵達がこちらを本気で殺しに来ると言う事である。
鄧艾は近場にあった槍を拾う。
いかに周旨が気を使ったと言っても、謀反の疑いをかけられた鄧艾に武装は許されておらず、刀槍の様な武器は当然の事で鎧なども一切身につけていない。
この戦場でもっとも無防備なのは、鄧艾なのである。
師纂の兵もその事に気付いたのか、雄叫びをあげて突き進んでくる。
「まったく、面倒な事だ」
それでも鄧艾は焦る事無く、槍を構える。
丘本の兵達を突き抜けてきた魏兵だったが、彼らはまだ鄧艾の実力を知らなかった。
敵としての鄧艾の実力と言うのであれば、むしろ蜀の兵達や姜維達蜀の武将の方が正確に知っていただろう。
迂闊に挑むべき相手ではない、と。
鄧艾は瞬時に槍を突き出し、その瞬間に敵兵の首を五つも宙に舞わせたのである。
それを見て、動きを止めない者などただ一人。
その状況を作り出した鄧艾のみ。
誰もが目を疑い、動きを止めたその瞬間を鄧艾は見逃さなかった。
彼はすかさず前に踏み出し、次々と魏の兵士達を突き崩していく。
形勢は完全に逆転した。
数は今なお師纂の兵の方が多く、装備の面でもまた万全であると言う点でも戦闘能力で言えば明らかに有利である。
一方の鄧艾は鎧もつけない無防備で、率いるのは師纂の兵の半数程度。しかもほぼ全員が手負いの状態。
にも関わらず、先に戦意を喪失したのは師纂の兵だった。
勝てる気がしないのだ。
手負いとはいえ、獣の様な戦闘能力を見せる丘本らの兵。
同じく手負いでありながら、馬上の師纂を相手に一歩も譲らず互角以上に戦う鄧忠。
そして、鎧も身につけないのに槍の間合いに入った瞬間に、正確無比かつ神速の一撃で命を奪う鄧艾。
それらを相手に五百程度では少な過ぎる、と彼らは判断してしまった。
そして、鄧艾らは手負いの上にほとんどが歩兵。
馬もいたのだが、先に矢の雨に打たれて絶命している事もあり、逃げると言うのであれば確実に逃げられると言うのも、彼らの戦意喪失に拍車をかけただろう。
そこからの流れは早かった。
数に勝る師纂の兵達が一斉に逃げ始めたのである。
「戻れ! 殺されたいのか!」
師纂は叫ぶが、それで戻る兵はいなかった。
「勝負アリだ……」
鄧艾はそう言いかけた時、新手が頭上に現れた事に気付いた。
龐会か、と思ったのだが、そう思った事が致命的な遅れとなった。
その一団は、先の師纂の奇襲と同じく矢の雨を降らせてくる。
おそらく味方であろう、師纂と逃げ惑う兵がいるにも関わらず。
それどころか、彼らも討伐対象であるかの様に矢を射掛けてくる。
「止めろ、田続! 俺は味方だぞ!」
師纂は頭上の一団に向かって叫ぶが、矢の雨が衰える様子も無く、師纂の体を貫く。
「おのれ、田続!」
「さっさと隠れろ!」
体中に矢を受けながらも叫ぶ師纂を鄧忠が引き倒し、兵の死体を楯替わりにして隠れる。
これは、厳しいな。
鄧艾と周旨はまたも荷台の下に隠れるが、今度の連中は師纂の時と違って油断も容赦も無い。
私は忠臣のつもりだったが、白起の災いが巡って来たか。
今度の矢の雨には鄧艾も無傷と言う訳にはいかず、数本の矢を受けていた。
「鄧艾将軍!」
「命に別状は無い」
鄧艾は矢が収まるのを待つ。
矢だけで全てを終える事など無いはず。たとえどれほど絶望的な戦いであったとしても、ここで死ぬ訳にはいかない。
ここで討たれては、謀反の罪を反論出来なくなり、鄧艾と鄧忠だけでなく一族全員に罪が及ぶ事になる。
「例え死ぬにしても、ここでは死ねないんだ」
瀕死であれ、虫の息であったとしても、鄧艾は司馬昭の前に行かねばならない。
「鄧忠! 生きてるか!」
「まだ生きてるよ! 師纂も楯には使える程度には生きてる!」
「誰が楯だ! 田続を殺したら、次はお前ら親子だ!」
「丘本はどうだ!」
「まだ……やれます!」
痛みや苦しみはあるだろうが、丘本の声にはまだ張りがあった。
「周旨も、今のままではこちら側になってしまうからな」
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1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
ナポレオンの妊活・立会い出産・子育て
せりもも
歴史・時代
帝国の皇子に必要なのは、高貴なる青き血。40歳を過ぎた皇帝ナポレオンは、早急に子宮と結婚する必要があった。だがその前に、彼は、既婚者だった……。ローマ王(ナポレオン2世 ライヒシュタット公)の両親の結婚から、彼がウィーンへ幽閉されるまでを、史実に忠実に描きます。
カクヨムから、一部転載
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