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最終章 鼎、倒れる時

第四話 二六三年 蜀に向けて

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 当初、今回の出征は呉を討伐するという名目であった。

 参加した諸将や兵士達もそのつもりであったのだが、すぐに不可解な事実に気付く。

 呉を討つというのであれば、進路は東か南でなければならないはずが都を西門から出た事が原因だった。

「皆何故進路が西なのか、皆疑問に思った事だろう」

 都を出て二日ほど行軍した後に、鍾会自らが軍に説明した。

「呉と言う国を攻略する上で、避けて通れないのは水上戦である。だが、水上戦と言うのは野戦と比べて準備に時間がかかる。それ故に呉に気付かれて戦準備にかかられてはこちらの被害も大きくなりかねない。まず我々は蜀を攻めると見せかけ、呉に戦から気をそらす。その為にまずは西に兵を進めているのだ」

 鍾会は全兵士にそう説明すると、主だった武将達を幕舎に集める。

「改めて集めたって事は、別の何かがあるって事だよな? 坊ちゃん方よぉ」

 胡烈がニヤニヤと笑いながら、集められた者達に言う。

 そこには衛瓘や田続と言った、幼少の頃から鍾会との付き合いのあった者達が多い。

 胡烈も司馬昭直属ではあるが、鍾会達と幼い頃から付き合える様な家柄では無かったので繋がりも薄い。

 後に胡烈の父親である胡遵が将軍として出世した事と、鉄籠山で兄の胡奮が命がけで司馬昭を守った事から、司馬昭勢力の中でも一定の地位についていた。

 また、元々武勇に優れていた事もあったのだが、先の諸葛誕との戦いや皇帝暗殺の犯人とされた成済を討った事により、胡烈自身の名声も今回集められた武将達と比べて劣るものでは無くなった事も胡烈の気を大きくさせていた。

「もちろんです」

 そんな中、鍾会だけはにこやかな表情を崩す事無く答える。

 胡烈には兄の胡奮の様な人懐っこさは皆無であり、いかにも粗暴者といった風体である為、その見た目だけで威圧する事も出来た。

 田続などは最初から近寄らない様にしているのだが、そんなもので震える鍾会ではない。

「以前、それこそ後漢の時代の様な群雄割拠の時代ですら、間者は各勢力に入り込んで情報を収集してきました。今ではそれぞれ二国の情報を集めるだけで事足りるのですから、兵の中に蜀と呉の間者が入り込んでいる事は間違いありません。なので、伝えてほしい情報を伝えてもらう為に言った事ですよ」

「つまり、別の目的がある。真の標的は蜀、と言う事か」

「ご名答。ですが、蜀には呉を狙うと思ってもらい、呉には蜀を狙うと思ってもらう訳です」

 鍾会は表情を変えず、にこやかに答える。

「その事を全員に説明するつもりで、集まってもらいました。ただし、これは秘中の秘。決して他の者には漏らさない様にして下さい」

 これは事実であり、鍾会としても隠すつもりも無い情報である。

 この戦は魏にとってだけではなく、司馬昭による新国家建国の為にも、そして鍾会にとっても極めて重要な戦である。

 衛瓘や田続であればともかく、血の気の多過ぎる粗暴な胡烈などに引っ掻き回されるのは何としても避けたい。

「だが、そういう事情もあって作戦の全貌をこの場で全て明かす事は出来ません。どうしても作戦を小出しにしていく事になると思いますが、それも策の内だと思って皆さん協力して下さい」

 鍾会の生まれは極めて名門ではあるのだが、今回の出征のメンツの中では若手である。

 それでも蜀攻略の主力部隊を任されているのは、司馬昭からの信頼の厚さと諸葛誕との戦いで見せた深謀を高く評価されての事だった。

 一般的な武将であれば何ら心配いらないところだが、狂犬じみたところのある胡烈にはそう言う常識が欠けたところがあるので、鍾会は一際胡烈には警戒していた。

「まずはこのまま蜀を目指します。次の指示で本格的な蜀攻略の策を伝えますので、それまで兵に一切この事を漏らさないように」

「あー、坊ちゃん。いや、鍾会将軍。もう一つ聞きたい事がありますがね、よろしいですか?」

 胡烈のわざとらしい口調にはイラつくが、鍾会はそれを表情に出さずに頷く。

「何故俺を? 本当に蜀を討つというのであれば、兄貴の方が適任じゃなかったのか? 実力の上で俺が兄貴に及ばない事は無いが、兄貴は以前雍州に赴任していた事もある。蜀を討つのであれば雍州組との連携は不可欠だろう? それを見込める兄貴じゃなくて俺を選んだのには理由があるんじゃないのか?」

 胡烈の質問は、鍾会には意外だった。

 この狂犬の事だから、兄の胡奮ではなく自分が選ばれたのは武勇に優れたと認められたなどと考えて、浮かれていると思っていたのだ。

 なるほど、これでも司馬昭閣下に認められた武将と言う事か。

「見た目より随分と細かい事を気にするんだな? それとも案外小心者なのかな」

 ここぞとばかりに田続が優位に立とうとするが、胡烈からひと睨みで黙らされる。

 無理しなくても良いのに。そう言うところが、実際の能力より小物に見られるのを自覚した方が良い。

 鍾会は呆れ気味に田続を見る。

「答えは先ほど言った事の延長です。確かに胡奮将軍であれば雍州方面軍との連携も取れるでしょうし、実際に姜維と戦った事もあるので頼れるところもあるでしょう。しかし、それこそが問題なのです。もし胡奮将軍を選んだ場合、いかに呉を攻めると言う情報を得たとしても音に聞こえた智将姜維であれば、そのまま蜀に攻めてくるのでは、と言う考えが頭を過るでしょう。それに対し胡烈将軍であれば、蜀軍との戦闘の経験は無く、逆に諸葛誕との戦いで示した武勇によって呉でも警戒すべき武将として名が通っています。呉を攻めると言う虚報も真実味を帯びるでしょう。その勇猛さの上に策の成功率を上げる為にも胡奮将軍ではなく、胡烈将軍を僕が推挙しました。全て包み隠さず話しましたが、まだ信用出来ませんか?」

「いや、さすが司馬昭閣下の知恵袋。淮南での戦いはまぐれではないと言う事だな」

「自分で言うべきでは無いのはわかっていますが、まぐれで諸葛誕には勝てませんよ」

「言うじゃないか。わかった。納得がいっている間は、坊ちゃんの指示に従おう」

 胡烈はニヤリと悪い笑顔を浮かべる。

 やはりこの男は危険だな。駒として使いやすいヤツでは無さそうだが、使い道はある。

 鍾会も笑顔を浮かべていたが、心の中ではそう思っていた。



「これほど壮大な策を打ち立てたのが、あの百姓将軍とは……」

 鄧艾の書簡を見ながら、賈充は唸る。

 都では軍を見送った後、司馬昭が自身の参謀達を集めて今回の事の全てを説明した。

 この作戦は司馬昭の名で発令されたが、実際には鄧艾の立案であり、鍾会がそれに多少の手直しをしたと言う事も伝えている。

「この私も本隊を率いて出立する必要がある。さほど時間があるわけではないが、それでも諸君達に説明しておこうと思ったのだ」

 そうは言っても、さすがに文武百官全員を呼んでいる訳ではない。

 腹心である賈充と荀顗などの他、数名の期待されている若手達も含まれていた。

「賈充殿が驚かれる通り、これは見事としか言いようがありません。ですが閣下、果たして上手く行くでしょうか?」

 疑っているのは荀顗だった。

「うむ。もし士載の立てたこの策の通りに動けば、おそらく今年の内に蜀は滅びる事になるだろう」

「危険ではありませんか?」

 口を挟んできたのは、若手の参謀の一人である邵悌しょうていだった。

「何が危険に思えたのだ? 申してみよ」

 思わず口をついた言葉だったのだが、それに興味を示したのは司馬昭だった。

「し、失礼致しました」

「構わぬ。いや、むしろ聞かせてくれぬか。私は士季をよく知っている。だが、それ故に見えてない部分もあるだろう。何を危険と感じたのだ?」

 司馬昭から問い詰められては、邵悌も答えないわけにはいかない。

「鍾会将軍の優秀さを疑う者など、魏にはいないでしょう。ですが、鍾会将軍は独身であり、両親もすでに他界しております。もし鍾会将軍がその能力以上の野心を持った時、それを説得しうる肉親と言う者がおりません。そこを憂慮しての事にございます」

「うむ、邵悌と申したな。そなた、中々に良い目をしておる。この場でも発言出来るだけの胆力を持ち、しかも言葉も十分に選んでおる。もう少し経験を積めば、良き官僚となるであろう」

 司馬昭は頷きながら、そう評価した。

「皆も知っての通り、士季には憂慮すべき野心があるだろう。その事は私も承知しておる。しかし、そう言う気概を持つ者でなければそもそも蜀と戦う事など出来ない。また、蜀を滅ぼした後に士季がその野心に目覚めたとしても、士季では蜀の民を収める事など出来ぬであろう。故に心配は無用である」

 司馬昭の言葉を聞いて場に安堵の空気が流れたが、荀顗だけは表情が険しい。

「荀顗、何か納得出来ぬところがあるのか?」

 その表情に気付いた賈充が、荀顗に尋ねる。

「おそらく晋公も考えられていると思うのですが、今回の戦、勝てると思いますか?」

「この策の通りに事が進めば、今年の内に蜀は滅ぶ。先ほど晋公が言われたではないか」

「そう、その通り。つまり、晋公もこの策の通りに事が運ぶとは思われていないのではありませんか?」

「何故そう思う?」

 荀顗の質問に対して、司馬昭は質問で返す。

「それこそ、士季の為人ひととなりです。あの者は能力と同様に気位も高い。この策を自ら考案したと言うのであればともかく、この下地はあくまでも鄧艾将軍の手によるもの。この策を完遂させて蜀を滅ぼした時、その名声を得るのは士季ではなく鄧艾将軍になります。士季がそれでも良しとするでしょうか」

「まさしく。私が思うのはそこだ」

 荀顗の言葉に、司馬昭は頷く。

「士季は姜維を知らぬ。いや、姜維に限らず蜀との戦いそのものをまだ知らない。それでもあの者であれば勝機を見出すかも知れぬが、何しろ下地となっているこの策がよく出来ている。この策のどこかをいじるとなれば、それは策全体にすら影響を及ぼすであろう。認めたくはないが、姜伯約は戦の天才。策に歪なところを見出せばそれを攻め、おそらく今回の出征は失敗で終わるだろう」

 鍾会だけでなく、司馬昭もかなりの自信家ではあるのだが、それでも司馬昭は自分の肌で姜維の凄まじさを知っている。

 以前鉄籠山での戦いで猛将徐質を失い、今は亡き智将陳泰の機転と文字通り壁となって蜀軍に立ちふさがった胡奮などの奮闘があって、かろうじて生き延びる事が出来た。

「士季の事だ。ただで敗れると言う事など無いだろうが、私の見立てでは姜維が生きている限り、蜀を滅ぼす事など出来まい。そう言う意味でも、士載の目の付け所は悪くないだろう」

「晋公は鄧艾将軍を韓信に例えられたとか。あの百姓将軍、そこまでの逸材ですか?」

 賈充は司馬昭に尋ねる。

「私は此度の戦、敗れると思っている。しかし、もし蜀に勝利する事が出来たとすれば、それは士季ではなく士載の手によってだろうとも思っておる」

 司馬昭はそう言うと、鄧艾の書簡を見ながら言う。

「おそらくその時に、私が士載を韓信に例えた事を皆も理解するであろう」

 司馬昭はそう言った後、こころの中で続ける。

 私では勝利の道筋を見出す事は出来ない。だが、士季ではなく士載が蜀を滅ぼした場合には、私が士載を恐れた意味も皆が知る事になるだろう。
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