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最終章 鼎、倒れる時

第一話 二六一年 幸せな時間

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「……父上、元凱、何してんですか?」

 鄧忠は執務室で大量の書物や竹簡に囲まれた鄧艾と杜預を見て、不思議そうに尋ねる。

「今は蜀に動きはありませんが、演習をやらないと」

「それは諸葛緒将軍と師纂に任せているから大丈夫です。それよりこちらはこちらの仕事をやらないと」

「忠、邪魔するなよ」

「はぁ? 元凱こそ、似合わないことを」

「俺は文官だから、これが本業なんだよ」

 杜預はそう言って鄧忠を追い払う様に手を振ると、鄧艾に何か書き写した書簡を渡す。

「やはり、これを見る限りでは間違いないみたいですね。先日の党均からの情報と照らし合わせても間違いなさそうです」

「父上、何がです?」

「忠にもいずれ分かる話だから、そうせっつくな」

「それとは別にせっつく理由があるんだよ、元凱」

「お前が何故俺には敬語を使わないのかと言う理由なら、是非聞かせてくれ」

「父上、都に戻らないといけないでしょう? 先日司馬望将軍が言ってたじゃないですか。元凱も聞いていただろ?」

「敬語を使え」

 杜預は一瞬で間合いを詰めて、鄧忠の両頬を掴む。

「いてえ!」

「敬語を使うまで離さないぞ」

「どうやらそれまでには間に合いそうですね。では、急いで準備しましょうか」

 そう応える鄧艾だったが、立ち上がる素振りも見せずに書簡や竹簡を見比べて何か書き込んでいる。

 昨年の蜀軍の侵攻を防いだ直後辺りに司馬望が都に呼ばれて状況報告をする間、鄧艾は戦の間に気になったことを調べていた。

 その司馬望が雍州の前線拠点に戻ってきた時に、入れ替わりに鄧艾や杜預、鄧忠に一時洛陽への帰還が命じられた。

 鄧艾や杜預の家族が洛陽にいる事から、ある意味では休暇の様なものである。

 杜預や鄧忠はそう思っていたのだが、鄧艾だけはそう思っていなかったらしく、すぐにあらゆる情報を集め始めた。

 鄧艾が気になった事。

 それは蜀の負担である。

 姜維は結果として勝利しても、戦果をあげる事は出来ていない。

 かつての諸葛亮と同じく、兵の士気のみは高く戦で勝利し続けても戦果として土地を奪う事は出来ていないので、出費に見合った収益は無い戦を続けてきた。

 まさに司馬懿が仕掛けようとした罠を、司馬望と鄧艾は姜維に行ったと言う事になる。

 鄧艾や司馬望はそれを狙っての事ではなく結果的にと言うだけなのだが、それだけに姜維も予想以上に深くハマリ込んでしまった。

 あくまでも感覚によるところだったので、鄧艾は最近の戦の事だけでなく蜀の国力についても調べ、そして蜀に潜入していた党均にも直接見てきた事を聞く事によってその情報の裏付けも行った。

 党均が実際に見た蜀は、都である成都は非常に豊かでそれこそ洛陽にも劣らないほどだったが、それはあくまでも都だけ。一歩でも郊外に出るとその豊かさは剥がれ落ち、そこからは加速度的に荒廃していたと言う。

 おおよそ予想通りではあったのだが、それを報告する党均の表情を見る限りでは蜀の現状は鄧艾の想像より悪いかもしれない。

 それもあって、と言う訳でもないだろうが、姜維は北伐を一時中断して国境の守りを固める一方で屯田も始めたと言う情報も入ってきた。

 国庫に負担をかけていると言う自覚は姜維にもあっただろうが、屯田と言うのも始めてすぐに収穫を見込めると言うものではない。

 むしろ始めた直後と言うのは、逆に負担が増えるものである。

 蜀はそこまで追い詰められているのだ。

 鄧艾は、今こそ蜀への侵攻の好機であると考えていた。

 とは言え大将軍である司馬昭に、今なら勝てる気がすると言う様な曖昧な事情で兵を出してもらおうとするのはさすがに無謀である事は鄧艾にも分かる。

 司馬懿や司馬師であれば、その時の勢いで行ってみようと言う事にもなりそうだが、司馬昭はそうはいかない。

 具体的な勝算を提示しなければ、司馬昭は動かないだろう。

 それもあって、杜預の協力の元で膨大な情報をまとめていたのである。



 しかし、洛陽に戻ってすぐに司馬昭と面会し、蜀への侵攻の勝機を記した書簡と自信を持った説得を行うつもりだったのだが、実際には想像と違った。

「そうか。審議にかける故、この書簡は預かる」

 と、異常なくらいにあっさりと司馬昭は鄧艾の書簡を受け取り、そのまま解散となったのである。

「……何か、想像と違いましたね」

 杜預も司馬昭の様子が違う事には気になっていた。

 怒りなどで機嫌が悪いと言う訳ではなく、単純に避けられている感じがする。

「……将軍、何かしました?」

「いや、司馬昭将軍とはあまり接点は無かったと思うのですが。杜預殿の方こそ、義理の弟なのにあまりそんな感じが出てませんが?」

「子元兄さんの方はけっこう近しかったんですけどね。子尚兄さんはちょっと人見知りが過ぎると言うか、眉一つ動かさない表情のまま顔が固まってしまっているので。それに叔子の事もあって、子元兄さんの方ばかり親しくて」

 杜預も困った様な表情で言う。

 杜預だけでなく、実の妹である司馬氏も司馬師には懐いていたが司馬昭の事は少し避けている様なところもあるくらいだった。

「ま、大将軍の事は気にしても始まりませんよ。帰ってゆっくりしましょう。忠なんか先に帰ってますし」

「忠はまだ大将軍と会える様な位では無いですからね。本人も立ち会いにはあまり興味なさそうでしたので」

「大将軍に謁見するのは出世の近道なのに」

「本人は武勲に興味があるみたいですからね」

 鄧艾と杜預は想像以上にあっさりしていた司馬昭との面会を終えて、家に戻る事にする。

 今は杜預の妻である司馬氏の強い要望もあって、鄧艾の妻である媛を始め、鄧艾の母や鄧忠の妻、鄧艾と鄧忠の子供たちも、司馬氏と同じ屋敷に住んでいると言う。

 司馬一族でも長男の司馬朗が他界している為、本家筋となった司馬懿の娘である司馬氏の屋敷と言うのは、司馬家直系の住む家なので基本的に物怖じしない媛ですら気後れするほどの場所だったのだが、司馬氏に強引に連れてこられたらしい。



「お姉さま、旦那様達が帰ってきましたよー」

「お姉さま違う」

 このやり取りを聞くと、帰ってきたんだなぁと言う実感が湧く。

 媛はその社交的な性格から人と接する事を苦にしないのだが、何故か司馬氏とは噛み合わないらしく、司馬氏の方は媛の事を気に入っているのだが媛は相変わらず苦手らしい。

 と言うより苦手を克服する事を諦めているのだろう。

 司馬氏はそれくらい手ごわい相手と言う事だ。

「忠は先に帰ってきたけど、士載達はえらく遅かったわね」

「大将軍と謁見していたんですよ。皆さんは変わりなく?」

「変わりは……」

 媛が答えるより先に、屋敷の奥からけたたましい泣き声が響いてきた。

「アレくらいかな?」

「あー、家族が増えたんですよー」

 司馬氏はニコニコ笑いながら言う。

「士載様とお姉さま、もうお爺ちゃんとお婆ちゃんなんですよー?」

「孫、ですか? 実感がわかないですねぇ」

「歳って取るものなのねぇ」

 鄧艾と媛は同じように頷きながら言っている。

 その後、団欒での食事となった。

「あんた達、今回相当苦戦したそうね? 党均がやってくれなかったら、帰ってこれなかったんでしょ?」

「まったくです。党均には感謝してます」

 媛は皮肉混じりに言うが、鄧艾は大真面目に頷く。

 何故その話が伝わっているのかというと、司馬望と共に都に同行したのが党均であり、党均を推挙した媛に挨拶に来たそうだ。

 もちろん党均が自分の手柄を自慢した訳ではなく、党均の報告を司馬望が楽しげに少し脚色し、媛が面白がってさらに盛った結果がこの屋敷の中に広まっているのだ。

 杜預はさっそくその誤った情報を訂正していたが、こういう事では媛には中々勝てない。

「あら、賑やかだと思ったら、旦那様方が帰っていらしたのね」

「母上様! いらしていたのですか?」

 杜預と鄧艾は慌てて膝をついて、礼を取る。

「あらあら、そこまで畏まらなくても。ここは貴方達の家で、私は勝手に押しかけただけの居候なのですから」

 と、笑うのは鄧艾の母だった。

 鄧艾の母は官位などとは程遠い一般農民だったのだが、鄧艾の活躍もあって魏の名将の母としてもてなされている。

 が、鄧艾の母も媛と気が合う物怖じしない性格と言う事もあって、司馬氏とも上手く付き合っている。

 官位で言うのなら杜預や司馬氏の方が圧倒的に上なのだが、何故か二人共鄧艾の母を母上と呼んで慕っていた。

 久しぶりの団欒は賑やかだったのだが、その大半は生まれて間もない鄧忠の子供が話題の中心であり、ごく短時間とは言え平和な時間を過ごした。

 また、滅多に会えない杜預の息子達とも、色々と話し合ったりもした。



「蜀を攻めるんでしょ?」

 団欒の時間を終え、鄧艾と媛は二人で屋敷の外にいた。

「さすが、君が男だったら私などより出世も早かったでしょうね」

「私もそう思うわ。でも、士載は本気で出世しようとはしてないでしょ?」

 媛に言われて、鄧艾は首を傾げる。

「どう言う事です?」

「仲容なんか、出世の為ならけっこう胡散臭い事もやってるみたいよ? まぁ、アイツは昔からそう言うところあったけど」

「出世しようとしていない、と言う事はありませんけど。ただ、それこそ幼少の頃に石苞と話していたのですが、私達の出自ではよほどの幸運に恵まれでもしない限り官位は得られないと思っていました。また、もし幸運に恵まれたとしてもせいぜい兵長止まりだろうとも。私もそう思っていたところ、仲達様と言う天上人と出会って、私達が想像もしていなかったほどの高みへ引き上げられる事になってしまいました。石苞はさらに上を見ているみたいですが、私はその恩を返そうとするので精一杯。返すどころか、恩の方が積もり積もって今に至っている、と言う感じですね」

「士載らしいわね」

 媛は星空を見上げる。

「王経様の母君がね、処刑される最期まで息子の王経様の行いを誇っていたわ。一応王経様は大将軍暗殺を企てた首謀者の一人で、陛下まで誑かしたとして一族皆殺しと言う事になったのだけど、息子は最期まで欲に負けた佞臣ではなく陛下に尽くした忠臣であったと言われてね。気丈な方だったけど、それは強がりとか負け惜しみとかじゃなくて、本当に王経様を誇っていらっしゃったんだと思う」

 媛はそう言うと、鄧艾を見る。

「士載、私も母上様も、貴方が貴方らしくある事を願っている。それが例え王経様の二の舞であったとしても、私は鄧艾士載の妻だと誇っていたいの。それだけは忘れないで」

「……もちろん、そのつもりです」

 鄧艾が頷くと、媛は悪戯っぽく笑う。

「ま、手柄を立てて帰ってくる事が一番の望みだけどね。そうしたら少しはお姉さまと言われる事にも抵抗が無くなるだろうし」

「いやぁ、司馬家の血筋にはちょっとやそっとの手柄では追いつけませんよ」

 鄧艾も笑って答える。

 お互いに誤魔化しあってはいたが、聡明な二人であるが故に予感めいたものはあったのだろう。

 この戦が終わった後、おそらく鄧艾は生きてこの都に戻ってくる事は無いだろう、と。

 そして、この幸せな時間が生涯最期の団欒の時間なのだろう、とも。
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