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第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は

第十六話 二五九年 蜀の宴

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 蜀でも今回の撤退は揉めたのだが、最終的には皇帝には逆らえないという判断で撤退を決めた。

 ではどの規模で撤退するかという話にもなったのだが、まず大将軍であり書状を受け取った姜維は当然として、皇族である夏侯覇も姜維の貴重な後ろ盾として同行する。さらに副将の廖化もとなると、現場に残るのは張翼以外は若手や経験不足の武将が中心となる。

 さすがにその状態で鄧艾の攻勢を防ぐの難しいと判断して、姜維は全軍撤退を指示した。

「祁山も放棄ですか?」

 傅僉はいかにも惜しいというように尋ねる。

「やむを得ないでしょう。祁山の地形やあの陣営は非常に守りやすく、次も簡単に手に入れられるとは限りませんが、だからと言ってそこだけ守ったところで兵站を絶たれては孤立しますからね」

「傅僉、お前、鄧艾から祁山を守る自信があるのか?」

 夏侯覇に言われ、傅僉は言葉を失う。

 蜀では他の追従を許さない戦の天才の名を欲しいままにしている姜維と、文句無しに互角に戦う事が出来る武将であり、個人の武勇もかつて趙雲とすら一騎討ちを繰り広げた姜維とも戦えるのだから、自信家である事を自覚しているとはいえ傅僉ですら寒気を覚える相手である。

 しかも地下道を使った奇襲など、奇想天外な奇策すら用いるなど鄧艾は猛将と智将の資質を持っている。

「いやいや、傅僉。気にする必要は無いですよ。あの鄧艾と一対一で戦えと言われては、私でも勝てるとは言えませんよ。だから中途半端に兵を残す事の方が危険なんです。私も祁山は惜しいと思いますが、仕方が無いんですよ」

 姜維にそう言われ、傅僉も納得する。

 というより、せざるを得ない。

 それに口に出したのは傅僉だったが、それは傅僉だけでなく全員が思っていた事である。

「しかし、陛下には逆らえませんからね」

 張翼の言葉に、姜維は険しい表情で頷く。

 正直な事を言えば、姜維は現皇帝である劉禅が苦手だった。

 何というか、奇妙なのだ。



「伯約! 此度は大勝利だったそうではないか!」

 蜀の都である成都に戻った時、大将軍の姜維を皇帝である劉禅自らが迎えに出た。

 実年齢で言えば、姜維と劉禅はそこまで大きく離れている訳ではない。

 しかし、劉禅の見た目はどう見ても十代中頃にしか見えず、誰の目にも愛らしさを残した少年にしか見えない。

 そんな劉禅が大喜びしている姿に、姜維もつい表情が緩みそうになる。

 こういうところが苦手なのだ。

 姜維としては、自分の全身全霊を懸けて諸葛亮の遺業となった北伐を行うつもりでいる。

 例えそれ以外の全てを失う事になったとしても。

 と、思っているのだが、この劉禅を見ていると覚悟が緩むのである。

 もし今の軍備を国防のみに費やした場合、少なくとも姜維や劉禅が存命の間は蜀を守る事も出来るだろう。

 しかし二十年、三十年後には魏との国力の差は覆しようが無いほどに開き、蜀は滅ぼされる事になる。

 その未来が見えていたからこそ、諸葛亮は命を懸けたし、姜維もそのつもりだった。

 その覚悟が緩むほど、劉禅には不思議な魅力がある。

 この人が幸せなら、それで良いのではないか。

 そんな危険な誘惑すら感じさせられるのである。

「夏侯覇将軍も、今回は大活躍であったとか! 妻も喜んでましたぞ!」

「それは有難い」

 夏侯覇はにこやかに答える。

 劉禅はその後も主だった武将たちに一言ずつ声をかけている。

「陛下、続きは宴席を設けておりますのでそちらの方で」

 そう劉禅に告げる男に、姜維は見覚えが無かった。

「待て。その方、何者だ?」

「私ですか? 郤正げきせいと申します。この度、側仕え見習いとして引き立てていただきました」

「そうか、陛下の事、よろしく頼む」

 見慣れない者であったので姜維としては脅しも込めて声をかけたつもりだったのだが、郤正という男はそんな事とは思っていないらしく、ごく普通に答えていた。

 もし後ろめたいところがあれば、姜維からいきなり声をかけられた場合には身構えるものだが、そうでない者にとっては警戒する必要も焦る必要もない。

 郤正にはそういう後ろめたい事が無いのだろう。

 一目見て才気を感じさせる切れ者、という感じは受けないにしても目立たないなりに誠実そうな人物である様に姜維には見えた。

「投降した時に一度は顔を合わせているが、陛下は年を取らないのか?」

 夏侯覇は姜維に小声で尋ねる。

「私も不思議ですよ。先帝にもそう言うところがあったそうですが、神仙の血筋なのでしょうか?」

 とても同じ人とは思えない幼さの劉禅を見ると、そう思わずにはいられない。

 また、もう一つ同じ人とは思えない特殊な能力とも言うべきモノを劉禅は持っている。

 今回の撤退については、ほぼ全員が納得していない。

 それは撤退に否定的だった夏侯覇や傅僉だけではなく、姜維や張翼も同じ様に今回の撤退には不満があった。

 出来る事なら劉禅に厳しく問い詰めてやろうとも思っていたのだが、劉禅を前にするとそう言う不満や恨みが霧散してしまうのである。

 劉禅という主君が歴史上の名君達と比べて取るに足りないという事は、仕えている者なら誰もが知っている事ではあるが、劉禅に仕える者で彼を嫌う者は一人もいない。

 それは恐るべき資質である。

 だが、それではダメなのだ。

 主を名君とする為には、主だけではそこには至らない。

 臣下もまた、名君の臣下としての責務がある。

 正すべきは正し、律するべきは律する様に諌める事こそ臣下の道。



 蜀では戦勝の宴は割と伝統の様なモノであり、あの諸葛亮さえもそう言うのが嫌いでは無かった。

 実際に定着したのは費禕によるところが大きく、その時に『金はかかっていないのに盛り上げる方法』というものを考案しているので、宴席の費用が大幅に減額している。

 費禕が主張したのは、『宴席は雰囲気が何より重要で振舞われる酒や料理はそこまで高級でなくていい』というもので、実際に費禕が試したところ効果があったらしい。

 それは費禕の卓越した話術の賜物とも言えるのだが、確かに大人数でかつ良い雰囲気が出来ていれば振舞われる料理の善し悪しは多少なりとも誤魔化せるものである。

 費禕は面白おかしく話していたが、なるほどと姜維は思わされたものだ。

 が、この宴席は贅を尽くしたものであり、劉禅が本気で労ってくれているのはわかるのだが、蜀の国庫の事を考えると無駄な出費である。

「陛下、此度の撤退命令はいかなお考えで下されたのですか?」

 宴がある程度進んだところで、姜維は劉禅に尋ねる。

「伯約が大勝したと聞いてな。とにかく祝ってやりたかったのだ!」

 せめて目を逸らすなり、言葉を濁すなりして欲しかった。

 姜維はそう思ったのだが、劉禅は本当に嬉しそうに表情を輝かせながら言う。

「最近は魏に旗を奪われるほどの苦戦が続いておったであろう? それが此度はかつての諸葛丞相が如き大勝利であったと言うではないか! 朕はそれが嬉しくてなぁ」

「陛下、此度は確かに多少なりにも勝ちは致しましたが、とても諸葛丞相と比べる事など出来ません。ですが陛下、今まさに中原に攻め込もうというところであったのですが、この様な撤退命令など出されては腰砕けとなります。此度の事、魏よりの離間の計でありましょう」

「ほう、計略であったか。まぁ、良いではないか。朕は本当に伯約を祝ってやりたかったのだ! それに、兵も疲れておるであろう? 少しは休まねば、勝ち続ける事は困難ぞ?」

 考えての事ではないだろうが、劉禅の言葉は姜維の急所を刺してくる。

 確かに兵は疲れていたし、そこで無理をさせては勝ち続ける事は難しい。

「なれば陛下、誠実勤勉なる者をお側に置かれよく話を聞き、佞臣を遠ざけますよう。亡き先帝も、諸葛丞相もきっとそれを望んでおられるでしょう」

「うむ! 伯約よ、今後も朕の為とは言わぬ。蜀の為に戦ってくれ!」

「御意」

 いまいち分かってはもらっていない気もするが、姜維はそう言うと頭を下げる。

 劉禅が自分の席から離れ夏侯覇のところに行ったのを見届けると、姜維は別の席へ行く。

 この宴には蜀の文武百官が揃っている。

 姜維は最前線に出ている者はよく知っているが、後方支援の者とは多少距離がある事は自覚していた。

 今回の事で、劉禅には目付け役を付ける必要を感じたのである。

諸葛瞻しょかつせん将軍、少し良いかな?」

「大将軍、その様にかしこまらずとも、以前の様に思遠しえんとお呼び下さい」

 姜維が向かったのは、諸葛亮の息子である諸葛瞻だった。

 諸葛瞻は諸葛亮の息子というだけでなく、劉禅の娘を娶った皇族の一員でもあるので、最前線に出る様な事はなく後方支援が主であった。

 本人は最前線に出たいと思っているらしいのだが、周囲から猛反対を受けている。

 その才能は姜維も認めるところだが、さすがに最前線に出していい様な人物ではないので、姜維も諸葛瞻が最前線に出る事には反対していた。

「いや、これから話す事を考えると思遠などと気安くは呼ぶ事は出来ない」

 姜維がいうと、諸葛瞻は表情を改める。

「私の次の大将軍は、間違いなくそなただ。諸葛瞻将軍。故に頼みたい事がある」

「この諸葛瞻に出来る事であれば、何なりと」

「私は此度の戦でこれまでにない手応えを感じております。近く、必ず長安を落とし中原への足がかりを得る自信があります。その先を継いで欲しいのです」

「大将軍……」

「無論、これは私如きの欲ではなく、今は亡き丞相にしてそなたの父、諸葛亮様の御遺志にあられます。諸葛瞻将軍、頼めますかな?」

 姜維の言葉に、諸葛瞻は即答する事が出来なかった。

 それはあまりにも大きく、重い言葉であった為に諸葛瞻は自分が怯んだ事を自覚した。

 それでも、答える事が出来なかったのである。

「先ほど、陛下にも話した事であるが、誠実勤勉なる者を近くに置き苦言であれ正しき意見を取り入れ、おもねるのみの小人や甘言のみを垂れ流す佞臣を遠ざけ、陛下をお助けして欲しい」

「御意」

 諸葛瞻は力強く頷く。

董厥とうけつ樊建はんけん譙周しょうしゅう閻宇えんうよ。そなたらは当代の賢人たるに相応しい能力を持っておる。しかと諸葛瞻将軍を、ひいては陛下をよく助けて欲しい」

「……しからば、一つよろしいですか?」

 一人、譙周は返事をする前に姜維に尋ねる。

「良い。申してみよ」

「今は亡き陳祗ちんし様は容認されていたが、北伐による大規模な遠征を繰り返す事は蜀にとって損害ばかりが大きく、国庫にかける負担も、また国民にかかる負担も多大。これ以上の出兵を繰り返す事無く、国を治める事に注力されるべきなのでは?」

 譙周は姜維を恐れる事無く、自分の意見を主張する。

 それは必ずしも譙周に限った事ではなく、蜀には北伐に関して否定的な意見がある事は姜維も知っていた。

 最近まで内政の長であった陳祗は北伐を容認していたが、譙周は反対派だった。

 双方共に、互いの意見に聞くべき点がある事は分かっている。

 それだけに双方共に引くに引けず、常にこの意見は戦い合っていた。

「もし蜀の国を二十年持たせよというのであれば、そなたの意見こそ正しい。それであれば私もそうしよう。しかし蜀の国を二百年の先にも残し続けようとするのであれば、そなたの意見は誤りである。漢四百年を継ぐ蜀漢を共に四百年輝かせるのであれば、魏を討ち、呉を平らげる必要があるのだ。その事、わからぬ訳ではないであろう?」

 姜維の言葉に、譙周はこれ以上反対する事無く頷いた。



「なるほどねぇ。あの者達こそ、押さえるべき者達なのねぇ」

 姜維の行動を見ていた黄皓は、誰にも聞こえない様な小声でほくそ笑んでいた。

 蜀を蝕む毒は、姜維の想像を超えて深刻なものであったのだが、その事を知る者は今の蜀には存在しなかった。
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