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第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は
第十五話 二五九年 嵐の前の
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「父上! 突然ですが、嫁をとる事にしました」
鄧忠のあまりにも突然の言葉に、鄧艾は言葉を失っていた。
「……は?」
「嫁です! 俺もそう言う歳になってますから」
「……いつの間に?」
鄧艾としては、そうとしか言い様が無かった。
鄧艾の仕事は多岐に渡り、雍州方面軍の副司令でありながら司馬師直属だった頃からの農政官としての仕事もある。
蜀軍の動きが無い時には雍州での練兵の他、洛陽に戻って農政の仕事もこなしていた。
その場合には杜預が同行しているのだが、息子と言う事もあって鄧忠も一緒に都に来る事も多かったのは事実である。
「母上は知っていますよ?」
「……いつの間に?」
しかし、幼い頃から教育係も行っていた杜預すら、その事を知らなかったらしい。
「元凱には隠していたんだ。絶対からかわれるから」
「そんな訳ないだろう。まずは見てからだ。呼べ、今すぐ呼べ」
「嫌だ!」
鄧忠がはっきり答えるのに対し、杜預が素早く鄧忠の両頬を摘む。
「ほう、忠。いつの間にか随分偉くなったじゃないか? この俺にそんな口がきける様になったとは」
杜預は笑いながら言うが、両頬をつねる力はかなり強い。
「い、いやいやいや、これには訳があって、ありまして」
「おう、聞いてやるから話してみろ」
「手を放してもらいますか?」
「いいから話してみろ。聞いてやるから」
杜預は手を放そうとしない。
「これには奥方様のご意見もあるんです」
鄧忠の言う奥方様と言うのは、杜預の妻である司馬氏の事である。
「は? 何で?」
「夜に、母上や奥方様から説明してもらいます! それで良いですか?」
「よし、許してやろう」
杜預はそう言うと手を放す。
「ちくしょう、覚えてろよ!」
「あ? まだ足りないのか?」
杜預が動こうとすると、鄧忠は素早く逃げて行く。
「……悪いね、ウチの息子が迷惑をかけて」
「いえいえ、子供の頃から知ってますから」
鄧艾が苦笑いするのに、杜預は朗らかに笑う。
「しかし忠が嫁をもらうんですか。まぁ、確かに悪くないでしょうね」
「私は驚きですよ」
「驚いているのは俺も一緒です。あいつ、雍州で練兵とかしてたじゃないですか。ウチの妻も一枚噛んでるって事は、その嫁は都の女性と言う事でしょう? 本当にいつの間にって感じです」
鄧艾は極めて多忙と言う事もあって、育児は妻の媛に任せきりだったのだが、その媛も鄧艾の母や杜預に押し付けていたところもある。
そんな訳で、と言う事でもないのだが、鄧忠に関しては父親である鄧艾より杜預の方が詳しいくらいだった。
が、今回の事はその杜預ですら知らなかったらしい。
職務が終わって都にある鄧艾の家に帰ると、そこには既に数人の来客があった。
「あ、士載、おかえりー。先に始めてるわよー」
数ヶ月ぶりの帰宅なのだが、媛は相変わらずである。
媛の変わらない態度は、この時代の価値観で言うのであれば失礼極まりないのだが、鄧艾には有難かった。
いつ戻っても、いつもと変わらない日常に戻れるのは、戦の事を忘れる事が出来た。
「お久しぶりです。お邪魔させていただいてます」
媛と違って、丁寧に挨拶する人物が二人。
一人は杜預の妻である司馬氏、もう一人は羊祜だった。
羊祜は復職した後に下位の政務官に任じられたまま、まだ出世していない。
羊祜の能力で言えばこの様な下位の政官に置く意味も理由も無く、それ相応の地位につけるべきだと鄧艾は思うのだが、どうやら羊祜の出世を止めている人物がいるらしい。
「士季ですよ」
「まあまあ。私は今の職務も気に入ってますから」
杜預が苦り切った表情なのに対し、当事者である羊祜はさほど気にした様子は無い。
「叔子を遊ばせるのは考えものよねー」
媛は杜預の意見に賛成らしい。
「士季はちょっと性格がアレですからねー」
司馬氏もどうやら鍾会に良い感情は持っていないらしい。
今の魏での出世頭と言えば、間違いなく鍾会である。
元々極めて優秀であった事は間違いなく、かつては対呉戦略を司馬懿から課された人物の一人だった。
後の二人である羊祜と杜預だが、鍾会からすると自身の対抗勢力となると警戒しているのだろう。
特に二人は司馬一族に連なると言う強力な後ろ盾がある為、出世の道に乗ればそこからは早いのは鍾会でなくても分かる事である。
「ところで叔子まで来ていると言う事は、忠の嫁取りにお前も噛んでるのか?」
杜預の質問に、羊祜は首を傾げる。
「はい? 私は両奥方様からお呼びいただいたので、のこのこと顔を出させてもらったのですが」
「ありゃ? 忠の事、バレてる?」
媛が首を傾げている。
「忠の方から宣言しに来ましたよ?」
「あー、それで隠れてるのか。呼んでくるわね」
「あ、お姉さま、私が行きますー」
「お姉さま違うから」
このやり取り、まだやってたんだな。
鄧艾は媛と司馬氏を見て思う。
「本当は陳泰将軍もお呼びしたのですが、何分ご多忙との事で」
羊祜がそう言うと、鄧艾も頷く。
陳泰も一軍の将軍でありながら、内勤においても非常に重要な人物である。
「まぁ、建前は、ですが」
と、羊祜は小声で付け足す。
なるほど、そう言う事か。
鄧艾もその一言で全てを察した。
最近では都でも物騒な噂が流れている。
皇帝である曹髦と、大将軍である司馬昭の間に亀裂があると言う噂だった。
あくまでも噂だと鄧艾などは信じていたかったのだが、あの秘密主義の司馬昭はそれでなくても疑われる行動が多い。
その上皇帝の曹髦も若く血気盛んであり、とにかくせっかちなところがあると司馬望が言っていた。
以前司馬望が皇帝の側仕えも兼ねていた時には、司馬望は城から離れたところに住んでいたらしいが、呼んだ時にすぐに来れるようにと言う事で曹髦から専用の馬車と従者まで与えられていた事があった。
知恵者でありながら豪放磊落なところもあった司馬師であればともかく、司馬昭ではいずれ大きな問題になるかもしれないと司馬望は心配していたし、羊祜も復職する時にそんな不安を抱いていた。
鄧艾も今では雍州軍の副司令であり、司馬望や杜預といった司馬一族に連なる者とも近しい立場である。
そんな中に下位の職である羊祜はともかく、要職にある陳泰がやって来たのであれば無用の誤解の種を与えるだけになる。
陳泰はその事を考えて、今日のところは遠慮したのだ。
「……つまり、そんな事にまで気を使わなければならない様な事態、と言う事ですね?」
鄧艾の質問に、羊祜は頷く。
現在の羊祜は小間使い的な立場であるとは言え、今は亡き司馬師の義理の弟である。
いかに現在の出世頭とは言え、鍾会が勝手に何か出来ると言う人物ではない。
しかし、それ以外の力を持たないと言う事で羊祜への警戒は、陳泰ほどではない事もあって行動は多少自由である。
今の魏はそう言う状態なのだ。
「嵐が来る、か」
「おそらくは」
鄧艾の言葉に、羊祜は小さく頷く。
本来であれば皇帝である曹髦に対して、大将軍である司馬昭は服従するしかないのだが、今の司馬昭には皇帝を凌ぐ権威がある。
問題が起きた時、嫌でも選ばなければならないのだ。
形だけの大義を貫いて皇帝である曹髦につくか、実利だけをとって司馬昭につくか。
間違いなく先に動くのは曹髦だと、鄧艾は考えている。
司馬昭は曹髦の激発を誘うだけで、自分から動く事は無い。
それくらいの事は、司馬昭なら確実に出来る。
若く血気盛んな曹髦は、そんな状況を長く耐えられないだろう。
だが、この策は必ずしも万能ではない。
もし曹髦がここを耐え凌げば、司馬昭の非道は人心を失う事になる。
何しろ曹芳の時と違って、曹髦には責めるべき落ち度がない。
そうなると真っ先に行動するのは、司馬家の重鎮であり軍に強い影響のある司馬孚だろう。
そこまでくれば、苦境の曹髦は一気に形勢逆転して司馬昭は失脚する可能性が出てくるほど危険を孕んでいる。
「もし陛下に意見を伝える事が出来れば、くれぐれも軽挙せずに耐えてください、と言うくらいでしょうね。念の為、司馬望将軍にも司馬孚様に書状を送っていただきましょう。手元に渡るかどうかは分からないですが」
鄧艾の言葉に、杜預も羊祜も頷く。
「お待たせー。今日の主役連れてきたよー」
こちらで話している事の内容を知らない媛は、明るい声で言うと鄧忠とその妻候補と思われる少女が連れてこられる。
媛や司馬氏が絡んでいると言う事なので、同じ様な天真爛漫な少女かと思っていたのだが、慎ましやかと言うか、媛や司馬氏に完全に呑まれて緊張しているのが一目で分かる。
いかにも育ちが良さそうな色白でふくよかな少女だが、今は緊張しているせいか攫われてきた令嬢と言う雰囲気である。
「彼女を嫁にする事にしました!」
「うん、まぁ、それについては反対するつもりも無いのだが、どこのお嬢さんだい?」
「私の遠縁に当たる子ですー」
鄧艾の質問に答えたのは、司馬氏だった。
「と、言う事は司馬一族の?」
「あ、遠縁なので司馬一族と言う訳ではないんですよー。でも、気立てがよくて、とっても良い子ですー」
司馬氏はそう言うが、言われている当人は今にも卒倒しそうである。
「……これ、人身売買とかじゃないだろうな」
「失礼な事言わないで下さいー。今となっては鄧艾将軍は、魏でも随一の名将と言われているんですよー? だったら、その息子の嫁と言うのも引く手数多なので、変な子に捕まるよりはとお姉さまからも言われて見つけてきたんですー」
鄧艾も考えていた事を杜預も感じていたらしいが、司馬氏がむくれて反論する。
「ま、司馬家のお墨付きなら問題ないでしょ?」
媛の方も軽く言っているが、媛はさほどそう言う権威と言うものを重視していない。
その上でそう言うのだから、媛もこの少女の事が気に入っているのだろう。
しかし、司馬家でも本家筋と言える司馬氏からの言葉であれば、なかなか断れるモノではないだろう、と鄧艾は思う。
「実はすでに子もいます」
鄧忠の言葉に、鄧忠とその妻になる少女以外の全員が彼の方を見る。
「……いつの間に」
それは媛も知らなかったらしく、驚いている。
「これは、私から反対するつもりは無かったのだが、そちらはそれで良いのですか? ちょっと今更な感じは否めませんが」
鄧艾の質問に、少女は遠慮がちに頷く。
「叔子さんのところの奥様も連れてくれば良かったのにー」
司馬氏がにこやかに言う。
「いえ、ウチは多少事情がありますので、姉のところに預けてあります」
羊祜の妻は夏侯覇の娘と言う事もあり、その事も羊祜を攻撃する材料となっていた。
しかし夏侯一族は今尚皇族の一員でもある事から、いかに蜀に亡命した武将の娘であると言ってもいきなり罪に問われる様な事にはなっていない。
それはもちろん羊祜の姉が司馬師の妻だった事も関係しているが、実際に羊祜が妻を娶ったのは夏侯覇亡命より前の事であった事も、彼女を救った一因でもある。
「あ、ごめんなさいねー」
「いえ、それより今日は若い二人の門出を祝う席。その事を祝福しましょう」
羊祜はまったく気を悪くした様子も無く、鄧忠やその妻の少女に席を進める。
「これで母上も祖母になる訳ですね!」
「……そっかぁ。そうなるのかぁ。まったくいつの間に」
鄧忠は楽しそうに言うが、媛は複雑な表情を浮かべていた。
「お姉さま、いつまでもお若くて美しいですわよー?」
「お姉さま違うから」
媛はあくまでもそこは認めないらしい。
「そういえば士載、今回物凄く苦戦したらしいわね」
食事が進んでいく中で、媛が切り出してくる。
「苦戦しました。負けるかと思いました」
「あのね、士載。そりゃ蜀の姜維は手強いって事は、戦に出ない私たちでさえ知ってるわ。でも、士載。あなたは負けてはダメなのよ?」
媛がらしくない事を言い始めたので、全員が彼女の言葉に耳を傾ける。
「もしあなたが負けてしまったら、ここにいる女性陣は全員未亡人になるんだからね」
「肝に銘じます」
「でも、ただ戦で勝つだけなら、敵にも同じ未亡人を作るのよね。出来ればその事も頭に入れておいて」
媛は何気なく言ったのだが、それは戦略として理想的な事でありながら智将であればそれを目指さない者はいない勝ち方だろう。
負ける訳にはいかないが、ただ勝つだけでは恨みを残す、か。
鄧忠のあまりにも突然の言葉に、鄧艾は言葉を失っていた。
「……は?」
「嫁です! 俺もそう言う歳になってますから」
「……いつの間に?」
鄧艾としては、そうとしか言い様が無かった。
鄧艾の仕事は多岐に渡り、雍州方面軍の副司令でありながら司馬師直属だった頃からの農政官としての仕事もある。
蜀軍の動きが無い時には雍州での練兵の他、洛陽に戻って農政の仕事もこなしていた。
その場合には杜預が同行しているのだが、息子と言う事もあって鄧忠も一緒に都に来る事も多かったのは事実である。
「母上は知っていますよ?」
「……いつの間に?」
しかし、幼い頃から教育係も行っていた杜預すら、その事を知らなかったらしい。
「元凱には隠していたんだ。絶対からかわれるから」
「そんな訳ないだろう。まずは見てからだ。呼べ、今すぐ呼べ」
「嫌だ!」
鄧忠がはっきり答えるのに対し、杜預が素早く鄧忠の両頬を摘む。
「ほう、忠。いつの間にか随分偉くなったじゃないか? この俺にそんな口がきける様になったとは」
杜預は笑いながら言うが、両頬をつねる力はかなり強い。
「い、いやいやいや、これには訳があって、ありまして」
「おう、聞いてやるから話してみろ」
「手を放してもらいますか?」
「いいから話してみろ。聞いてやるから」
杜預は手を放そうとしない。
「これには奥方様のご意見もあるんです」
鄧忠の言う奥方様と言うのは、杜預の妻である司馬氏の事である。
「は? 何で?」
「夜に、母上や奥方様から説明してもらいます! それで良いですか?」
「よし、許してやろう」
杜預はそう言うと手を放す。
「ちくしょう、覚えてろよ!」
「あ? まだ足りないのか?」
杜預が動こうとすると、鄧忠は素早く逃げて行く。
「……悪いね、ウチの息子が迷惑をかけて」
「いえいえ、子供の頃から知ってますから」
鄧艾が苦笑いするのに、杜預は朗らかに笑う。
「しかし忠が嫁をもらうんですか。まぁ、確かに悪くないでしょうね」
「私は驚きですよ」
「驚いているのは俺も一緒です。あいつ、雍州で練兵とかしてたじゃないですか。ウチの妻も一枚噛んでるって事は、その嫁は都の女性と言う事でしょう? 本当にいつの間にって感じです」
鄧艾は極めて多忙と言う事もあって、育児は妻の媛に任せきりだったのだが、その媛も鄧艾の母や杜預に押し付けていたところもある。
そんな訳で、と言う事でもないのだが、鄧忠に関しては父親である鄧艾より杜預の方が詳しいくらいだった。
が、今回の事はその杜預ですら知らなかったらしい。
職務が終わって都にある鄧艾の家に帰ると、そこには既に数人の来客があった。
「あ、士載、おかえりー。先に始めてるわよー」
数ヶ月ぶりの帰宅なのだが、媛は相変わらずである。
媛の変わらない態度は、この時代の価値観で言うのであれば失礼極まりないのだが、鄧艾には有難かった。
いつ戻っても、いつもと変わらない日常に戻れるのは、戦の事を忘れる事が出来た。
「お久しぶりです。お邪魔させていただいてます」
媛と違って、丁寧に挨拶する人物が二人。
一人は杜預の妻である司馬氏、もう一人は羊祜だった。
羊祜は復職した後に下位の政務官に任じられたまま、まだ出世していない。
羊祜の能力で言えばこの様な下位の政官に置く意味も理由も無く、それ相応の地位につけるべきだと鄧艾は思うのだが、どうやら羊祜の出世を止めている人物がいるらしい。
「士季ですよ」
「まあまあ。私は今の職務も気に入ってますから」
杜預が苦り切った表情なのに対し、当事者である羊祜はさほど気にした様子は無い。
「叔子を遊ばせるのは考えものよねー」
媛は杜預の意見に賛成らしい。
「士季はちょっと性格がアレですからねー」
司馬氏もどうやら鍾会に良い感情は持っていないらしい。
今の魏での出世頭と言えば、間違いなく鍾会である。
元々極めて優秀であった事は間違いなく、かつては対呉戦略を司馬懿から課された人物の一人だった。
後の二人である羊祜と杜預だが、鍾会からすると自身の対抗勢力となると警戒しているのだろう。
特に二人は司馬一族に連なると言う強力な後ろ盾がある為、出世の道に乗ればそこからは早いのは鍾会でなくても分かる事である。
「ところで叔子まで来ていると言う事は、忠の嫁取りにお前も噛んでるのか?」
杜預の質問に、羊祜は首を傾げる。
「はい? 私は両奥方様からお呼びいただいたので、のこのこと顔を出させてもらったのですが」
「ありゃ? 忠の事、バレてる?」
媛が首を傾げている。
「忠の方から宣言しに来ましたよ?」
「あー、それで隠れてるのか。呼んでくるわね」
「あ、お姉さま、私が行きますー」
「お姉さま違うから」
このやり取り、まだやってたんだな。
鄧艾は媛と司馬氏を見て思う。
「本当は陳泰将軍もお呼びしたのですが、何分ご多忙との事で」
羊祜がそう言うと、鄧艾も頷く。
陳泰も一軍の将軍でありながら、内勤においても非常に重要な人物である。
「まぁ、建前は、ですが」
と、羊祜は小声で付け足す。
なるほど、そう言う事か。
鄧艾もその一言で全てを察した。
最近では都でも物騒な噂が流れている。
皇帝である曹髦と、大将軍である司馬昭の間に亀裂があると言う噂だった。
あくまでも噂だと鄧艾などは信じていたかったのだが、あの秘密主義の司馬昭はそれでなくても疑われる行動が多い。
その上皇帝の曹髦も若く血気盛んであり、とにかくせっかちなところがあると司馬望が言っていた。
以前司馬望が皇帝の側仕えも兼ねていた時には、司馬望は城から離れたところに住んでいたらしいが、呼んだ時にすぐに来れるようにと言う事で曹髦から専用の馬車と従者まで与えられていた事があった。
知恵者でありながら豪放磊落なところもあった司馬師であればともかく、司馬昭ではいずれ大きな問題になるかもしれないと司馬望は心配していたし、羊祜も復職する時にそんな不安を抱いていた。
鄧艾も今では雍州軍の副司令であり、司馬望や杜預といった司馬一族に連なる者とも近しい立場である。
そんな中に下位の職である羊祜はともかく、要職にある陳泰がやって来たのであれば無用の誤解の種を与えるだけになる。
陳泰はその事を考えて、今日のところは遠慮したのだ。
「……つまり、そんな事にまで気を使わなければならない様な事態、と言う事ですね?」
鄧艾の質問に、羊祜は頷く。
現在の羊祜は小間使い的な立場であるとは言え、今は亡き司馬師の義理の弟である。
いかに現在の出世頭とは言え、鍾会が勝手に何か出来ると言う人物ではない。
しかし、それ以外の力を持たないと言う事で羊祜への警戒は、陳泰ほどではない事もあって行動は多少自由である。
今の魏はそう言う状態なのだ。
「嵐が来る、か」
「おそらくは」
鄧艾の言葉に、羊祜は小さく頷く。
本来であれば皇帝である曹髦に対して、大将軍である司馬昭は服従するしかないのだが、今の司馬昭には皇帝を凌ぐ権威がある。
問題が起きた時、嫌でも選ばなければならないのだ。
形だけの大義を貫いて皇帝である曹髦につくか、実利だけをとって司馬昭につくか。
間違いなく先に動くのは曹髦だと、鄧艾は考えている。
司馬昭は曹髦の激発を誘うだけで、自分から動く事は無い。
それくらいの事は、司馬昭なら確実に出来る。
若く血気盛んな曹髦は、そんな状況を長く耐えられないだろう。
だが、この策は必ずしも万能ではない。
もし曹髦がここを耐え凌げば、司馬昭の非道は人心を失う事になる。
何しろ曹芳の時と違って、曹髦には責めるべき落ち度がない。
そうなると真っ先に行動するのは、司馬家の重鎮であり軍に強い影響のある司馬孚だろう。
そこまでくれば、苦境の曹髦は一気に形勢逆転して司馬昭は失脚する可能性が出てくるほど危険を孕んでいる。
「もし陛下に意見を伝える事が出来れば、くれぐれも軽挙せずに耐えてください、と言うくらいでしょうね。念の為、司馬望将軍にも司馬孚様に書状を送っていただきましょう。手元に渡るかどうかは分からないですが」
鄧艾の言葉に、杜預も羊祜も頷く。
「お待たせー。今日の主役連れてきたよー」
こちらで話している事の内容を知らない媛は、明るい声で言うと鄧忠とその妻候補と思われる少女が連れてこられる。
媛や司馬氏が絡んでいると言う事なので、同じ様な天真爛漫な少女かと思っていたのだが、慎ましやかと言うか、媛や司馬氏に完全に呑まれて緊張しているのが一目で分かる。
いかにも育ちが良さそうな色白でふくよかな少女だが、今は緊張しているせいか攫われてきた令嬢と言う雰囲気である。
「彼女を嫁にする事にしました!」
「うん、まぁ、それについては反対するつもりも無いのだが、どこのお嬢さんだい?」
「私の遠縁に当たる子ですー」
鄧艾の質問に答えたのは、司馬氏だった。
「と、言う事は司馬一族の?」
「あ、遠縁なので司馬一族と言う訳ではないんですよー。でも、気立てがよくて、とっても良い子ですー」
司馬氏はそう言うが、言われている当人は今にも卒倒しそうである。
「……これ、人身売買とかじゃないだろうな」
「失礼な事言わないで下さいー。今となっては鄧艾将軍は、魏でも随一の名将と言われているんですよー? だったら、その息子の嫁と言うのも引く手数多なので、変な子に捕まるよりはとお姉さまからも言われて見つけてきたんですー」
鄧艾も考えていた事を杜預も感じていたらしいが、司馬氏がむくれて反論する。
「ま、司馬家のお墨付きなら問題ないでしょ?」
媛の方も軽く言っているが、媛はさほどそう言う権威と言うものを重視していない。
その上でそう言うのだから、媛もこの少女の事が気に入っているのだろう。
しかし、司馬家でも本家筋と言える司馬氏からの言葉であれば、なかなか断れるモノではないだろう、と鄧艾は思う。
「実はすでに子もいます」
鄧忠の言葉に、鄧忠とその妻になる少女以外の全員が彼の方を見る。
「……いつの間に」
それは媛も知らなかったらしく、驚いている。
「これは、私から反対するつもりは無かったのだが、そちらはそれで良いのですか? ちょっと今更な感じは否めませんが」
鄧艾の質問に、少女は遠慮がちに頷く。
「叔子さんのところの奥様も連れてくれば良かったのにー」
司馬氏がにこやかに言う。
「いえ、ウチは多少事情がありますので、姉のところに預けてあります」
羊祜の妻は夏侯覇の娘と言う事もあり、その事も羊祜を攻撃する材料となっていた。
しかし夏侯一族は今尚皇族の一員でもある事から、いかに蜀に亡命した武将の娘であると言ってもいきなり罪に問われる様な事にはなっていない。
それはもちろん羊祜の姉が司馬師の妻だった事も関係しているが、実際に羊祜が妻を娶ったのは夏侯覇亡命より前の事であった事も、彼女を救った一因でもある。
「あ、ごめんなさいねー」
「いえ、それより今日は若い二人の門出を祝う席。その事を祝福しましょう」
羊祜はまったく気を悪くした様子も無く、鄧忠やその妻の少女に席を進める。
「これで母上も祖母になる訳ですね!」
「……そっかぁ。そうなるのかぁ。まったくいつの間に」
鄧忠は楽しそうに言うが、媛は複雑な表情を浮かべていた。
「お姉さま、いつまでもお若くて美しいですわよー?」
「お姉さま違うから」
媛はあくまでもそこは認めないらしい。
「そういえば士載、今回物凄く苦戦したらしいわね」
食事が進んでいく中で、媛が切り出してくる。
「苦戦しました。負けるかと思いました」
「あのね、士載。そりゃ蜀の姜維は手強いって事は、戦に出ない私たちでさえ知ってるわ。でも、士載。あなたは負けてはダメなのよ?」
媛がらしくない事を言い始めたので、全員が彼女の言葉に耳を傾ける。
「もしあなたが負けてしまったら、ここにいる女性陣は全員未亡人になるんだからね」
「肝に銘じます」
「でも、ただ戦で勝つだけなら、敵にも同じ未亡人を作るのよね。出来ればその事も頭に入れておいて」
媛は何気なく言ったのだが、それは戦略として理想的な事でありながら智将であればそれを目指さない者はいない勝ち方だろう。
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しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
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