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第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は
第十三話 二五八年 麒麟を蝕む毒
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満身創痍の鄧艾だったが、それでも蜀軍の囲みを破り最終的には百数十名程度まで兵を救出し敗残兵を率いて陣に戻ると、司馬望も陣に戻っていた。
司馬望は姜維を足止めしていたつもりだったのだが、姜維はすでに鄧艾の本陣奇襲を看破していた事もあり、司馬望が姜維を足止めしていたのではなく、姜維が司馬望の動きを封じていたのである。
十分に時間を稼いだと判断した姜維は、司馬望に鄧艾の奇襲の全てを看破している事を説明し、その上で八陣図を敷いて動揺する司馬望の軍に攻撃してきた。
本来であれば守りに適した八陣図だが、変化出来る陣型の中には攻めに適した陣もある。
司馬望はそれに対してまともにかみ合うような事はせず、矢を射掛けて応戦した。
しかし、姜維はその程度で足を止めるような事は無く、一気に攻め込んで来る。
このまま戦っては危険だと判断した司馬望は後退していったのだが、姜維の速度は司馬望の予想を超えていた為、危うく逃げ遅れるところだった。
その危機を救ったのは、予備選力を率いていた諸葛緒である。
諸葛緒は後方から司馬望を救う為に姜維の側面を攻撃する、といった常道ではなく、おもむろに祁山へ向けて兵を進めたのだった。
姜維は祁山の夏侯覇にも出撃を要請していて、逃げる司馬望を挟撃するつもりだったのだが、諸葛緒の予想外の動きに夏侯覇を動かす訳にはいかなくなった。
出撃するはずだった夏侯覇は祁山に閉じ込められ、それによって司馬望が渭水の陣に逃げたのを確認すると自身もすぐに撤退したのである。
司馬望としては鄧艾が戻ってきてから本格的な姜維対策を練ろうとしていたのだが、戻って来た鄧艾は重傷であり、部隊もほぼ壊滅、さらに副将であった鄭倫までも失うという惨敗で、かろうじて生き延びたというほどの状態だった。
「鄧艾将軍、起きていて大丈夫なのですか?」
全身に軽いとは言えない傷を負いながらも、鄧艾は幕舎にやって来て軍議に参加しようとしたので、司馬望の方が驚いていた。
「寝ていられないのです。私の失敗で、取り返しようのない損失を出してしまったのですから」
「ですが、その状態では策を立てたとしても動く事もままならないでしょう。ここはもう、援軍を送ってもらうほか無いのでは?」
そう言ったのは諸葛緒だったが、司馬望を含めてその場にいるほとんどの武将がそう考えていたが、鄧艾は首を振る。
「それだけは絶対に出来ません。それこそ姜維の狙い。今援軍を頼むと、おそらくは送ってくれる事でしょう。ですが、緊急性を考えて出す兵は長安の守備兵となります。姜維はそれを待っているのです。長安の守備兵が出てきた事を確認してから姜維は全面攻撃の素振りを見せるでしょう。こちらも全軍で当たらざるを得ない状況を作った上で、夏侯覇の別動隊が手薄となった長安を落とすつもりなのです。長安を奪われては、雍州は放棄せざるを得なくなり、魏は喉元に切っ先を突き付けられた状態になるのです」
自身はボロボロでありながら、鄧艾の目は他の誰よりも先を見通しているのが分かる。
「ですが、そもそもの打つ手が無い以上、諸葛緒将軍の言い分も間違っていないのでは?」
打開策が無い事には違いないので、杜預が敢えて鄧艾に尋ねると鄧艾は首を振る。
「確かに打つ手が無いように見えるが、我々がこの最終防衛線に踏み留まる事によって姜維は攻めあぐねている。姜維も長安攻略の為に兵を残しておきたいのだ」
「ですが、妥協点として雍州を奪う事で良しとした場合には、我々はこの防衛線から雍州を奪われるのを見守る事になります。将軍、ここは……」
「党均はどうですか?」
唐突に司馬望が口を開く。
「……は?」
杜預が不思議そうに司馬望の方を見る。
「確か、以前の戦いで蜀に旗を返した事があったでしょう? あの時に党均は蜀の実力者と繋がりを持ったという話では無かったですか?」
「……離間の計、ですか。なるほど、よくよく考えてみれば我々の敵は蜀軍であって姜維ではない」
「でも、姜維は丞相と大将軍を兼ねているんですよ? 誰が姜維に口出し出来るというのですか?」
「一人いるじゃないですか」
杜預の言葉に、鄧艾はごく自然に答える。
「皇帝、劉禅を動かすのですよ」
「あら、党均じゃないの」
「黄皓様、お会いいただいてありがとございます」
「あーら、あなたなら大歓迎よぁ。また、儲け話でも持ってきたのぉ?」
「それはもう、格別なお話です」
党均は満面の笑みを浮かべて言う。
「なんでも今回の戦、蜀軍の歴史的大勝利らしいですよ」
「まぁ、本当なの? このところ姜維ときたら、魏軍にいいようにやられていたみたいだけど」
「それがとんでもない。今回は長安まで落とす勢いだそうですよ」
「うふふ、それで魏の商人としてはさっそく私のところに挨拶に来たという事ね。党均、あなたのそういう抜け目の無いところ、私は好きよ」
黄皓はにやにやと笑いながら言う。
「ここで長安を落とす事が出来れば、魏との最前線はそちらに移る事になるでしょうし、国力の差もかなり埋められる事でしょう。姜維大将軍も、今後は丞相として国内の事に注力される事でしょうし、あの諸葛亮先生ですら成しえなかった偉業ですから、場合によっては遷都もあり得るかもしれません。商人にとっては初動が極めて重要ですから、ぜひとも黄皓様にお力添えをと思いまして」
党均はにこにこと笑いながら説明するが、黄皓はすでに笑ってはいなかった。
なるほど、鄧艾将軍の狙いはコレか。
この策を引き受けるにあたって、鄧艾から特に注意された事があった。
一つには今回は蜀軍が大勝しそうだという事。
それを伝える時には魏の人間が悔しがる様な口調ではなく、蜀の勝利を喜ぶ様に伝える事を念押しされていた。
もう一つは、それは姜維の功績であり、これからは内政に力を入れるであろうと伝える事。
きわめて優秀な人物である姜維であれば、長安と言う戦略拠点を手中に収めた場合、その勢いのままに洛陽にまで侵攻する様な無謀な賭けではなく、兵站を繋げる事と兵を休める事、さらに国力増強も兼ねて内政に注力する事は十分すぎるほどに考えられる。
それを敢えて黄皓に伝える事まで、鄧艾は指示してきた。
いくら何でもこちらの手の内を明かすだけでなく、敵を利する様な情報まで流すのかと疑いもしたが、鄧艾は会った事も無いはずの黄皓の事を実際に顔を合わせた党均以上に分かっている様だ。
黄皓が私財を貯め込んでいるのも、姜維がいないから出来る事である。
姜維が内政に力を入れるという事になれば、黄皓が不正に入手してきた財宝も接収される恐れがある。
黄皓は一宦官でありながら、皇帝である劉禅の側仕えにまでのし上がった者であり頭も切れる。
今回の大勝利は蜀にとっては歴史的勝利であるのだが、その場合には自身の破滅が待っている事を察する程度には先が見えるはずである。
「ただ、一商人として少々心配事もあるのです」
黄皓の顔色が変わった事に手応えを感じた党均は、助け舟を出す様に別の話を切り出す。
「心配事?」
「ええ、僕は姜維大将軍の事をよく知りません。この蜀で大将軍と言う地位にある御方なのでさぞかし立派な方なのだろうとは思うのですが、戦続きで兵が疲れている場合には勝利の興奮から略奪に関しても目を瞑る事があるというのも知っています。さすがに昔の董卓の様な事は無いでしょうが、やはり心配なのです。もしよろしければ、黄皓様からも軽く言葉を添えていただけないでしょうか」
「……無くはない、わね。分かったわ、私の方からではさすがに聞く耳を持たないでしょうけど、何とかするわよ」
黄皓は難しい表情のまま言う。
その表情は、とても蜀軍の勝利を祝う者の表情ではなかった。
この場で確証は得られなかったとはいえ、党均には確かな手応えを感じていた。
「大将軍、これからの手はいかがいたしますか?」
張翼は姜維に尋ねる。
雍州方面軍に大打撃を与えた事もあり、蜀軍の将軍達は姜維の幕舎に集まって軍議を行っていた。
「残るは渭水の最終防衛線のみ。長安の兵を引っ張り出す予定だったのですが、司馬望なのか鄧艾なのか、なかなかしぶとく粘っていますね」
姜維は困り顔で言う。
すぐにでも長安から援軍が来ると思っていたので、夏侯覇にはそれを確認次第大きく迂回して長安を攻める様に伝えていたのだが、魏軍には動きがない。
「鄧艾をあの時に討ち取っていれば」
王含は悔し気に言うが、廖化が首を振る。
「あの鄧艾を討つ事は無理だった。もしあの場で討つのであれば姜維大将軍や夏侯覇将軍にも劣らぬ武勇が必要だ。私は実際にお会いした事はありませんが、講談師から聞いた五虎将軍とはあの様な武勇だったのでしょう」
廖化としても鄧艾を討てなかった事は惜しいと思うのだが、あの時の鄧艾は想像を絶する槍の冴えを見せ、多大な犠牲を出してしまった。
「いずれにしても長安から兵を出さないつもりであれば、渭水の拠点を壊滅させて雍州の平定に目標を切り替えましょう。私の主力でわざと目の前で渭水の渡河を行います。おそらく雍州方面軍の主力がそれを止めに来るでしょう。そこで夏侯覇将軍の別動隊が祁山方面から攻め込んで下さい。おそらく敵の予備戦力がそれを止めに来るでしょう。そこで張翼将軍の第三軍がとどめの一撃として攻め込んで下さい。そうなってから長安から援軍を出しても間に合いません。これで勝負ありです」
姜維の作戦は、これ以上は無いくらいに正攻法なのだが、それがこの局面ではもっとも効果的な戦術でもある。
第三の攻撃となる張翼は最後の一撃になるのだが、それを止めるとすればそれは雍州方面軍の主力の一部を割いて対処するしかない。
そうして薄くなれば、姜維の主力が正面から雍州方面軍を粉砕する事も出来る。
いつもなら一言二言反論してくる張翼も、今回の事には異議を唱えようとしなかった。
姜維は魏軍の仕掛けの早さから雍州方面軍の脆さを見抜き、八陣図によって脅威を思い知らせて兵力差のある雍州方面軍を壊滅寸前まで追いつめている。
その流れから長安まで狙うというのも現実味のあるところまで見えてきたが、長安守備隊が動かないのであれば雍州方面軍を壊滅させて雍州平定と言うのは、より現実的な武功だと言えたからである。
が、蜀軍はまったく予想もしなかった形で侵攻を止められる事になった。
「陛下からの書状?」
まったく予想もしていなかった事態に、姜維だけでなく蜀軍の諸将全員が困惑する。
さらに不可解なのは、書状の内容が全軍撤退を指示するものだった事である。
「撤退? 何を馬鹿な! 今まさに我々が完全勝利を収めようとしているというのに、ここで兵を退く事などあるか! その書状、魏の策略ではないのか!」
夏侯覇は露骨に怒りを見せるが、それは何も夏侯覇だけの怒りではなかっただろう。
「この書状は確かに陛下からのモノではありますが、魏の策略と言うのも間違いないでしょうね」
姜維は目を閉じて眉を寄せる。
「大将軍! 将、軍にありては君命をも受けざるところあり、とも言います! 今ここで撤退など、今後二度とこの様な好機は訪れません!」
「否! それはいかん! 陛下からの勅命を、大将軍の地位にある者が武功第一の考えで背く事などあり得ない! また、その様な前例を作ってはなりません!」
夏侯覇と張翼は真っ向から反対意見をぶつけ合う。
張翼の言う事はもっともであり、姜維もその通りだと思う。
しかし夏侯覇の言う通り、この様な好機はもう二度と来ないだろう。
司馬望もそうだが、何よりあの鄧艾を相手に今回ほどの失策を期待する事など出来そうもない。
長安を落としていればもちろんだが、雍州を平定する事が出来れば蜀の兵糧事情も、最前線への兵や物資の移動も大幅に改善される事になる。
そうなれば、魏を滅ぼす事もあり得ない話ではないのだ。
「大将軍、私が諫言するのは必ずしも大将軍の名誉の為だけではございません。今回は大勝利であり、完全勝利一歩手前と言うところではありますが、ここ数年の連戦では苦戦が続いていました。兵達の疲れも心配です。疲労と言うのはじわじわと蓄積していき、ある時突然限界を迎えます。今は士気も高く誰も意識していませんが、ソレが表に出た場合には我々は撤退すら危うくなりかねません。ここは勝利の余韻を兵に与える事によって疲れを癒す為にも、陛下の勅命には従うべきです」
「……張翼将軍の言、まことに道理です。ここは陛下の勅命に従いましょう」
姜維の言葉に夏侯覇は大きく溜息をついたが、反対はしなかった。
夏侯覇にも分かっているのだ。
これほどの好機は二度と訪れる事は無いが、それでも張翼の言葉が正しいという事を。
司馬望は姜維を足止めしていたつもりだったのだが、姜維はすでに鄧艾の本陣奇襲を看破していた事もあり、司馬望が姜維を足止めしていたのではなく、姜維が司馬望の動きを封じていたのである。
十分に時間を稼いだと判断した姜維は、司馬望に鄧艾の奇襲の全てを看破している事を説明し、その上で八陣図を敷いて動揺する司馬望の軍に攻撃してきた。
本来であれば守りに適した八陣図だが、変化出来る陣型の中には攻めに適した陣もある。
司馬望はそれに対してまともにかみ合うような事はせず、矢を射掛けて応戦した。
しかし、姜維はその程度で足を止めるような事は無く、一気に攻め込んで来る。
このまま戦っては危険だと判断した司馬望は後退していったのだが、姜維の速度は司馬望の予想を超えていた為、危うく逃げ遅れるところだった。
その危機を救ったのは、予備選力を率いていた諸葛緒である。
諸葛緒は後方から司馬望を救う為に姜維の側面を攻撃する、といった常道ではなく、おもむろに祁山へ向けて兵を進めたのだった。
姜維は祁山の夏侯覇にも出撃を要請していて、逃げる司馬望を挟撃するつもりだったのだが、諸葛緒の予想外の動きに夏侯覇を動かす訳にはいかなくなった。
出撃するはずだった夏侯覇は祁山に閉じ込められ、それによって司馬望が渭水の陣に逃げたのを確認すると自身もすぐに撤退したのである。
司馬望としては鄧艾が戻ってきてから本格的な姜維対策を練ろうとしていたのだが、戻って来た鄧艾は重傷であり、部隊もほぼ壊滅、さらに副将であった鄭倫までも失うという惨敗で、かろうじて生き延びたというほどの状態だった。
「鄧艾将軍、起きていて大丈夫なのですか?」
全身に軽いとは言えない傷を負いながらも、鄧艾は幕舎にやって来て軍議に参加しようとしたので、司馬望の方が驚いていた。
「寝ていられないのです。私の失敗で、取り返しようのない損失を出してしまったのですから」
「ですが、その状態では策を立てたとしても動く事もままならないでしょう。ここはもう、援軍を送ってもらうほか無いのでは?」
そう言ったのは諸葛緒だったが、司馬望を含めてその場にいるほとんどの武将がそう考えていたが、鄧艾は首を振る。
「それだけは絶対に出来ません。それこそ姜維の狙い。今援軍を頼むと、おそらくは送ってくれる事でしょう。ですが、緊急性を考えて出す兵は長安の守備兵となります。姜維はそれを待っているのです。長安の守備兵が出てきた事を確認してから姜維は全面攻撃の素振りを見せるでしょう。こちらも全軍で当たらざるを得ない状況を作った上で、夏侯覇の別動隊が手薄となった長安を落とすつもりなのです。長安を奪われては、雍州は放棄せざるを得なくなり、魏は喉元に切っ先を突き付けられた状態になるのです」
自身はボロボロでありながら、鄧艾の目は他の誰よりも先を見通しているのが分かる。
「ですが、そもそもの打つ手が無い以上、諸葛緒将軍の言い分も間違っていないのでは?」
打開策が無い事には違いないので、杜預が敢えて鄧艾に尋ねると鄧艾は首を振る。
「確かに打つ手が無いように見えるが、我々がこの最終防衛線に踏み留まる事によって姜維は攻めあぐねている。姜維も長安攻略の為に兵を残しておきたいのだ」
「ですが、妥協点として雍州を奪う事で良しとした場合には、我々はこの防衛線から雍州を奪われるのを見守る事になります。将軍、ここは……」
「党均はどうですか?」
唐突に司馬望が口を開く。
「……は?」
杜預が不思議そうに司馬望の方を見る。
「確か、以前の戦いで蜀に旗を返した事があったでしょう? あの時に党均は蜀の実力者と繋がりを持ったという話では無かったですか?」
「……離間の計、ですか。なるほど、よくよく考えてみれば我々の敵は蜀軍であって姜維ではない」
「でも、姜維は丞相と大将軍を兼ねているんですよ? 誰が姜維に口出し出来るというのですか?」
「一人いるじゃないですか」
杜預の言葉に、鄧艾はごく自然に答える。
「皇帝、劉禅を動かすのですよ」
「あら、党均じゃないの」
「黄皓様、お会いいただいてありがとございます」
「あーら、あなたなら大歓迎よぁ。また、儲け話でも持ってきたのぉ?」
「それはもう、格別なお話です」
党均は満面の笑みを浮かべて言う。
「なんでも今回の戦、蜀軍の歴史的大勝利らしいですよ」
「まぁ、本当なの? このところ姜維ときたら、魏軍にいいようにやられていたみたいだけど」
「それがとんでもない。今回は長安まで落とす勢いだそうですよ」
「うふふ、それで魏の商人としてはさっそく私のところに挨拶に来たという事ね。党均、あなたのそういう抜け目の無いところ、私は好きよ」
黄皓はにやにやと笑いながら言う。
「ここで長安を落とす事が出来れば、魏との最前線はそちらに移る事になるでしょうし、国力の差もかなり埋められる事でしょう。姜維大将軍も、今後は丞相として国内の事に注力される事でしょうし、あの諸葛亮先生ですら成しえなかった偉業ですから、場合によっては遷都もあり得るかもしれません。商人にとっては初動が極めて重要ですから、ぜひとも黄皓様にお力添えをと思いまして」
党均はにこにこと笑いながら説明するが、黄皓はすでに笑ってはいなかった。
なるほど、鄧艾将軍の狙いはコレか。
この策を引き受けるにあたって、鄧艾から特に注意された事があった。
一つには今回は蜀軍が大勝しそうだという事。
それを伝える時には魏の人間が悔しがる様な口調ではなく、蜀の勝利を喜ぶ様に伝える事を念押しされていた。
もう一つは、それは姜維の功績であり、これからは内政に力を入れるであろうと伝える事。
きわめて優秀な人物である姜維であれば、長安と言う戦略拠点を手中に収めた場合、その勢いのままに洛陽にまで侵攻する様な無謀な賭けではなく、兵站を繋げる事と兵を休める事、さらに国力増強も兼ねて内政に注力する事は十分すぎるほどに考えられる。
それを敢えて黄皓に伝える事まで、鄧艾は指示してきた。
いくら何でもこちらの手の内を明かすだけでなく、敵を利する様な情報まで流すのかと疑いもしたが、鄧艾は会った事も無いはずの黄皓の事を実際に顔を合わせた党均以上に分かっている様だ。
黄皓が私財を貯め込んでいるのも、姜維がいないから出来る事である。
姜維が内政に力を入れるという事になれば、黄皓が不正に入手してきた財宝も接収される恐れがある。
黄皓は一宦官でありながら、皇帝である劉禅の側仕えにまでのし上がった者であり頭も切れる。
今回の大勝利は蜀にとっては歴史的勝利であるのだが、その場合には自身の破滅が待っている事を察する程度には先が見えるはずである。
「ただ、一商人として少々心配事もあるのです」
黄皓の顔色が変わった事に手応えを感じた党均は、助け舟を出す様に別の話を切り出す。
「心配事?」
「ええ、僕は姜維大将軍の事をよく知りません。この蜀で大将軍と言う地位にある御方なのでさぞかし立派な方なのだろうとは思うのですが、戦続きで兵が疲れている場合には勝利の興奮から略奪に関しても目を瞑る事があるというのも知っています。さすがに昔の董卓の様な事は無いでしょうが、やはり心配なのです。もしよろしければ、黄皓様からも軽く言葉を添えていただけないでしょうか」
「……無くはない、わね。分かったわ、私の方からではさすがに聞く耳を持たないでしょうけど、何とかするわよ」
黄皓は難しい表情のまま言う。
その表情は、とても蜀軍の勝利を祝う者の表情ではなかった。
この場で確証は得られなかったとはいえ、党均には確かな手応えを感じていた。
「大将軍、これからの手はいかがいたしますか?」
張翼は姜維に尋ねる。
雍州方面軍に大打撃を与えた事もあり、蜀軍の将軍達は姜維の幕舎に集まって軍議を行っていた。
「残るは渭水の最終防衛線のみ。長安の兵を引っ張り出す予定だったのですが、司馬望なのか鄧艾なのか、なかなかしぶとく粘っていますね」
姜維は困り顔で言う。
すぐにでも長安から援軍が来ると思っていたので、夏侯覇にはそれを確認次第大きく迂回して長安を攻める様に伝えていたのだが、魏軍には動きがない。
「鄧艾をあの時に討ち取っていれば」
王含は悔し気に言うが、廖化が首を振る。
「あの鄧艾を討つ事は無理だった。もしあの場で討つのであれば姜維大将軍や夏侯覇将軍にも劣らぬ武勇が必要だ。私は実際にお会いした事はありませんが、講談師から聞いた五虎将軍とはあの様な武勇だったのでしょう」
廖化としても鄧艾を討てなかった事は惜しいと思うのだが、あの時の鄧艾は想像を絶する槍の冴えを見せ、多大な犠牲を出してしまった。
「いずれにしても長安から兵を出さないつもりであれば、渭水の拠点を壊滅させて雍州の平定に目標を切り替えましょう。私の主力でわざと目の前で渭水の渡河を行います。おそらく雍州方面軍の主力がそれを止めに来るでしょう。そこで夏侯覇将軍の別動隊が祁山方面から攻め込んで下さい。おそらく敵の予備戦力がそれを止めに来るでしょう。そこで張翼将軍の第三軍がとどめの一撃として攻め込んで下さい。そうなってから長安から援軍を出しても間に合いません。これで勝負ありです」
姜維の作戦は、これ以上は無いくらいに正攻法なのだが、それがこの局面ではもっとも効果的な戦術でもある。
第三の攻撃となる張翼は最後の一撃になるのだが、それを止めるとすればそれは雍州方面軍の主力の一部を割いて対処するしかない。
そうして薄くなれば、姜維の主力が正面から雍州方面軍を粉砕する事も出来る。
いつもなら一言二言反論してくる張翼も、今回の事には異議を唱えようとしなかった。
姜維は魏軍の仕掛けの早さから雍州方面軍の脆さを見抜き、八陣図によって脅威を思い知らせて兵力差のある雍州方面軍を壊滅寸前まで追いつめている。
その流れから長安まで狙うというのも現実味のあるところまで見えてきたが、長安守備隊が動かないのであれば雍州方面軍を壊滅させて雍州平定と言うのは、より現実的な武功だと言えたからである。
が、蜀軍はまったく予想もしなかった形で侵攻を止められる事になった。
「陛下からの書状?」
まったく予想もしていなかった事態に、姜維だけでなく蜀軍の諸将全員が困惑する。
さらに不可解なのは、書状の内容が全軍撤退を指示するものだった事である。
「撤退? 何を馬鹿な! 今まさに我々が完全勝利を収めようとしているというのに、ここで兵を退く事などあるか! その書状、魏の策略ではないのか!」
夏侯覇は露骨に怒りを見せるが、それは何も夏侯覇だけの怒りではなかっただろう。
「この書状は確かに陛下からのモノではありますが、魏の策略と言うのも間違いないでしょうね」
姜維は目を閉じて眉を寄せる。
「大将軍! 将、軍にありては君命をも受けざるところあり、とも言います! 今ここで撤退など、今後二度とこの様な好機は訪れません!」
「否! それはいかん! 陛下からの勅命を、大将軍の地位にある者が武功第一の考えで背く事などあり得ない! また、その様な前例を作ってはなりません!」
夏侯覇と張翼は真っ向から反対意見をぶつけ合う。
張翼の言う事はもっともであり、姜維もその通りだと思う。
しかし夏侯覇の言う通り、この様な好機はもう二度と来ないだろう。
司馬望もそうだが、何よりあの鄧艾を相手に今回ほどの失策を期待する事など出来そうもない。
長安を落としていればもちろんだが、雍州を平定する事が出来れば蜀の兵糧事情も、最前線への兵や物資の移動も大幅に改善される事になる。
そうなれば、魏を滅ぼす事もあり得ない話ではないのだ。
「大将軍、私が諫言するのは必ずしも大将軍の名誉の為だけではございません。今回は大勝利であり、完全勝利一歩手前と言うところではありますが、ここ数年の連戦では苦戦が続いていました。兵達の疲れも心配です。疲労と言うのはじわじわと蓄積していき、ある時突然限界を迎えます。今は士気も高く誰も意識していませんが、ソレが表に出た場合には我々は撤退すら危うくなりかねません。ここは勝利の余韻を兵に与える事によって疲れを癒す為にも、陛下の勅命には従うべきです」
「……張翼将軍の言、まことに道理です。ここは陛下の勅命に従いましょう」
姜維の言葉に夏侯覇は大きく溜息をついたが、反対はしなかった。
夏侯覇にも分かっているのだ。
これほどの好機は二度と訪れる事は無いが、それでも張翼の言葉が正しいという事を。
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