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第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は

第七話 二五八年 決着

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 寿春城から険悪な雰囲気は消えた。

 もちろんそれは諸葛誕と呉軍が和解した、と言う事ではない。

 もはや誰の目にも勝敗は明らかだったので、城内の士気がとても戦出来るような状態ではなくなった事が原因である。

 魏だけでなく、呉でも文鴦と司馬一族の因縁は誰もが知っている。

 弟の文虎だけならまだ分からない話ではなかったが、文鴦本人が投降を許されたと言っているのだ。

 内乱に参加した将兵達は、ほとんどが戦う気力を失ったのである。

 だが、全員ではない。

「諸葛誕将軍、お話したい事がある」

 うなだれて抜け殻の様になった諸葛誕に対し、于詮が声をかける。

「事、ここに至っては勝敗は決したと言わざるを得ないでしょう。俺は呉に戻らせてもらうが、よろしいか?」

「好きにするが良い」

 消え去りそうな声で、諸葛誕は答える。

「とはいえ、ここから呉に帰るにはこの囲みを破らねばならない。将軍、もはや城に籠ったところで打てる手は無し。共に城から打って出て決戦と行きましょう」

「決戦?」

「さよう。ですが、決戦と言っても、司馬昭とではありません。司馬昭は勝ちを確信しているでしょうから、この城への総攻撃を仕掛けてくるはず。その前に敵の目の前である西門を開いて投降を希望する者を城から出すのです。用心深い司馬昭の事、投降を希望する者が偽りの投降兵に見える事でしょう。そうすれば本隊の守りを固めるはず。それに合わせて全ての門を開いて城から兵を出します。司馬昭は守りを広げる必要があり、それぞれの囲みは薄くなるでしょう。そこで我らは南門から囲みを突破して安豊を目指し、呉軍と合流するのです。将軍はご子息を呉に送った事によって、呉からの信用も得ているのです。たとえ一敗地に塗れようと、再戦の機会を自ら放棄してはなりません」

 于詮の説得に、諸葛誕の表情に生気が戻ってくる。

「将軍の言葉、もっともである。この戦、敗因は全てこの諸葛誕にあるという事か。そなたの様な名将の言葉すら耳に入らなかったとは。これでは勝てるはずもない」

「まだ気を抜ける状況ではありません。どの様な策を用いても、どの様な手を打っても、我らの逃走は南が本命である事は向こうも知っているのです。多少兵を動かす事は出来ても、最後には自らの武で切り開かねば道は出来ないのですから」

「もっともだ。南は王基、胡奮胡烈の兄弟であったな。確かに油断ならない難敵だ」

 もう少し前にこうなってくれれば、と思わずにはいられない。

 せめて文欽を切る前にこうなってくれていれば戦えたはずだが、ここまで追い詰められたからこそ吹っ切れたのだろう。

 だが、それでも于詮は考えずにはいられなかった。

 せめて文鴦がいれば、と。

 寿春の城を捨てて呉を目指すと言っても、諸葛誕に説明した通り困難の極みである。

 もし文鴦がいれば、城の西から文鴦が打って出る。

 そうすれば嫌でも司馬師の事を思い出すはずで、慎重な司馬昭でなくても本陣の守りを固くするように考えたはずだ。

 そうなれば包囲も薄くなった事は確実なのだが、それは言っても仕方ない。

 あと出来る事は、とにかく一点を突破するしかない。

 攻勢に強い胡奮と胡烈は、まず間違いなくこちらに向かってくるだろうが、そこにこそ隙は生まれる。

 前掛りに来るのであれば、その最も危険なところさえ抜けてしまえば活路を見出す事も出来るはずなのだ。

 分の悪い賭けである事は承知しているが、于詮にはこれしか打つ手が思い浮かばなかった。

 それでも、いざ城を出るとなった時には于詮は自分の実力不足を嘆く事しか出来なかった。

 魏軍が守りを固めるどころか、予備戦力まで投入して完全に決めに来たのである。



 これに関しては魏軍の中でも色々とあったのだ。

「おそらく諸葛誕は寿春の城に篭る事はしないでしょう」

 軍議の中で鍾会がそう言う。

 すでに物資が尽きている事は寿春からの投降者の情報から、間違いないのも確認が取れている。

 諸葛誕の軍と呉の軍の間に致命的な亀裂が生じている事も。

「ですが、ここまで状況が悪化してしまえば、その溝も埋まる可能性はあります。呉の軍が寿春の城に残っていると言うのであれば、城を捨てて呉に戻ると言い、おそらく諸葛誕もそれに同行するでしょう。城を捨てて逃げると言うのであれば、その逃走経路は南か東。おそらくは南。寿春からまっすぐ東に向かったところですぐに呉へは戻れない事もあり、南の安豊を頼るはず」

 鍾会の言葉に、全端も頷く。

「そこに疑いは無いですが、その前の陽動としてこの本陣に奇襲をかけてくる事も有り得るのでは? もし自分であれば、必ずそうします」

 敢えてそう言ったのは文鴦だった。

 もしそれを実行するのが文鴦であれば、可能性はあった。

 しかしそれは文鴦の神懸かりな武勇があればこそであり、他の武将ではまず成功しない。

「とは、限りません。皆さんが考える成功と言うのは、武功を持ち帰るまでと言う前提かもしれませんが、もっと手前。自分が生きて帰ってくる事を考えなければ、意外なほどなんとかなるものです」

 文鴦の言葉に、司馬昭も込みで表情を険しくする。

 確かに帰りを考えないのであれば、打てる手は変わってくる。

「父上、于詮であれば……」

「有り得ない、とは言えないか」

 全禕の言葉に全端も頷く。

 十中八九は于詮は呉を目指すだろうと思う。

 全端が投降する時にはその前兆はあったし、文鴦が投降する頃には完全に諸葛誕を見限っていたところもあった。

 しかし、確実ではない。

 もし、その残り一の確率が出た場合、この圧倒的勝利の盤面を根こそぎ覆されるかもしれないのだ。

「まず有り得ない、と言っても絶対では無い以上、守りを固める必要があり、包囲の兵を回す他ない、か」

 司馬昭が言うと、これまで饒舌に話していた鍾会ですら言葉に詰まった。

「ならば、本隊を動かせば良いではないか」

 曹髦が簡単に言う。

「本隊を? それでは陛下を守る兵がいなくなります」

「今、この状況において朕を守る兵などそう多くなくとも良い。そうさな、三千もいれば充分であろう。それ以外の本隊の兵を全て投入すればいい」

「分かりました。ではその人選を……」

「人選も済んでおる。全端、焦彝と蒋班の兵で充分である」

 曹髦は事も無げに言うが、あまりにも大胆極まりない提案に誰もが耳を疑った。

「今の寿春の戦力を鑑みるに、もし朕を狙う兵を出すにしても、少数の精鋭による奇襲しか手は無いであろう。しかも分厚い本隊を躱してくる事が前提であれば速度を重視しての大回りしか無い。であれば、重厚な本陣より、こちらも軽やかな機動力を持ってかき回す方が相手には嫌な手のはず。その任に当たる事を考えても、この人選が最適であろう?」

 曹髦の提案は、確かに最適であると言えるのだが、投降したばかりの武将を厚遇する事はあるとは言え、それをいきなり皇帝の側近にするなど聞いた事が無い。

 いくら何でも大胆に過ぎる。

「そうか? 太祖は推挙されて間もない典韋、投降して間もない許褚を自身の親衛隊に置いたと言うではないか。朕としてはその故事ほど大胆とは思えないのだが?」

 曹髦は不思議そうに言うのだが、そもそも太祖である曹操が破格過ぎる人物なのでそこと比べられても困ると言うのが臣下の意見だっただろう。

 だが、曹髦の提案自体は悪くない手である。

 守りを考えた場合、ついその場で受けようとしてしまうが、状況によっては曹髦が言う様に受けるより躱す方が得策と言う事はある。

 戦術の面だけで見るのであれば、採用しない手は無い。

「しかし、投降したばかりの者を……」

 陳騫が遠慮がちに口を挟む。

 有り得ないとは思うのだが、もしこの投降者が偽装であった場合には皇帝を討つ絶好の好機となる。

 万に一つも無いかもしれないが、それでもこの者達が刺客であった場合にはを考えないわけにはいかない。

「はっはっは! 何だ何だ、存外胆の小さい者共よな」

 そんな中で曹髦だけが楽しそうに笑う。

「全端達は呉の皇族であったのだぞ? その者達が血を吐く思いで魏に降る事を決めたのだ。もしここで暗殺者のマネをしてみろ。それこそ呉では言われる事だろう。そうまでして手柄を立てたかったのか、と。まして焦彝と蒋班は同じ魏の者ではないか。疑う理由も無い」

 そうやって不安を笑い飛ばした事もあって、魏軍はほぼ全軍を投入したのである。

 曹髦には帝位に就く頃から太祖の風格有りと言われていたが、この時の差配はまさに太祖を思わせるものだった。



 それによって将軍達の士気も上がり、総攻撃は苛烈なまでの攻撃力を発揮する事になったのである。

 とは言え、無差別な虐殺が行われた訳ではない。

 むしろ士気の高まった魏軍は投降者に対して寛容であり、敵対する者としない者をはっきりと区別していた。

 そこまで出来る余裕があったのだ。

 逆に南門では激戦となった。

 露骨に戦意の高い部隊が城から出てきたと言う事もあり、それに当たる胡奮と胡烈もはっきりと敵だと認識した事もあって攻撃は苛烈を極めた。

 于詮が想定していた以上の脅威として、胡奮の一撃は諸葛誕を守る兵達を粉砕した。

「諸葛誕!」

「胡奮か!」

 諸葛誕は剣を構えようとしたが、それより先に丸い体型からは想像もつかないほどの速度を誇る胡奮の大刀によって切り捨てられていた。

「見通しが甘かったか」

 諸葛誕に続いて城から出ようとしていた于詮は、切られた諸葛誕を見て息をつく。

「勝負はついた。降れ、于詮。ここで命を落としても無駄死にだ」

「この于詮、君命によって加勢に来た! 劣勢である事を理由に降る気は毛頭ない!」

 于詮は兜を投げ捨てて胡奮に向かう。

「胡奮! 後ろに回れ!」

 そう叫ぶと、王基が飛び出して于詮の槍を剣で受ける。

「王基将軍! ここは俺が!」

「違う! 呉軍が動いたのだ! 挟撃されるわけにはいかん!」

 王基はそう言うと、胡奮をそちらに行かせて于詮の相手をする。

「唐咨か! はっはっは! これはこちらも諦める訳にはいかないな!」

 于詮は勇を振るって戦ったが、王基も充分な実力者である。

 二人の戦いは三十合を打ち合っても決着はつかず、むしろ加熱していく。

 だが、決着は予想外なところからもたらされた。

 安豊から援軍としてやって来た唐咨だったが、胡奮と胡烈の強固な防御壁を破る事が出来ず、逆に石苞や州泰らによって包囲され投降するしかなくなったのである。

「于詮、勝敗は決した! 魏に降れ!」

 それは王基だけでなく、周りの魏兵達からも投降を呼びかける声が増えてきた。

 つまり、それだけここに兵を回せる様になったと言う事を于詮にも分からせたのである。

「于詮、良い腕だ。ここで死なすには惜しい。新天地で勇名を馳せよ」

 王基は于詮に言う。

「この于詮、呉の武将である! 大丈夫だいじょうふたるもの、敵に降り命永らえようなどと思わぬ!」

 于詮は槍を投げ捨てると、剣を抜いて自らの首をかき切る。

 この勇将の最期の抵抗を持って、この戦いは終結したと言っても良かった。

 僅かに残った城を守る為の諸葛誕の精鋭達も、投降するのをよしとせずに最期まで抵抗を止めずに主と運命を共にした。



 司馬昭が寿春の城に入った時、最後まで抵抗した呉の兵を殺せと主張する者もいた。

「いけません! 戦であればともかく、終わった後に投降した兵を殺す事は蛮行でありそこに誉れはありません。むしろ国に帰りたいと思うのであれば、帰してやるべきです」

 鍾会はそう進言し、その言葉に司馬昭は大きく頷く。

「士季の見識、誠見事である。軍師とはかくあるべし、だな」

 司馬昭はそう言って、鍾会を褒めたたえた。

 この内乱も、先の毌丘倹と同じく結果として圧勝と言えた。

 それどころか今回は出撃前より、戦が終わった後の方が陣容が厚くなっていると言う有り得ない様な圧勝、むしろ完勝である。

 圧倒的な実力を見せて勝利した司馬昭だったが、大国である魏崩壊の足音はすぐそこまで迫っていた。
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