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第三章 泥塗れの龍と手負いの麒麟は

第一話 二五七年 疑心、暗鬼を生む

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 発端は些細な事であったのかも知れない。

 だが、二五七年の諸葛誕にとってそれはすでに些細などと言えるものではなく、彼の許容範囲を超える事になっていた事を自覚していなかった。

 彼が置かれた淮南の地は、対呉戦線の最前線であり、諸葛誕の能力を買っていた司馬師による人選だった。

 諸葛誕としては、司馬師には恩義すらあると感じていた。

 今は亡き曹爽派として名声を得てきた諸葛誕にとって、司馬一族は政敵であると言っても過言ではない。

 それにも関わらず、司馬師は諸葛誕の能力に見合う地位を与え、重用されていると思っていた。

 それだけに諸葛誕も、曹爽派や司馬懿派などと言う小さな括りではなく、魏の重臣としてその身を置こうと考えた。

 が、その司馬師が急死してしまった事が事態を大きく変える。

 誰しもが認める大器であった司馬師のあとを継いだのは、あの司馬昭である。

 持っている能力が悪くない事は、諸葛誕も否定するつもりはない。

 しかし、猜疑心と独占欲の強い司馬昭が大将軍と言う権威を手に入れた場合、それは魏にとってどれほど危険なものかを考えない訳にはいかない。

 司馬師と違い、司馬昭はかつての曹爽派を許していないのは見ていれば分かる。

 それはこの淮南での戦いの際に、司馬昭がひたすらに諸葛誕に文句をつけてきた事からも簡単に分かる事だ。

 いや、それ以前から妙なところがあった。

 諸葛誕は喉に刺さった小骨の様な違和感の正体に思い至った。

 以前、司馬師が呉を攻めようとした時の面子を思い出した時、はっきりとした。

 あの時、あの呉との戦だが、司馬師は本気で戦に勝とうとしていた反面、万が一にも敗れた場合にもそれで良い面子を集めたのではないか。

 事実としてその後に毌丘倹と文欽は反乱を起こし、毌丘倹はこの淮南の地で討ち取られ文欽は呉に亡命して魏を去っている。

 何かと評判の悪かった韓綜も、ごく自然な形で処分する事が出来ている。

 名声のあった胡遵も、その息子である胡奮や胡烈を臣下に迎えてからは不必要になったとも取れる。
 実際にあの敗戦の後まもなく、胡遵は他界している。

 そう考えていくと、あの戦で主力を担った武将で健在なのは諸葛誕と王昶くらいであり、今尚兵権を握っているのは諸葛誕だけと言う事になる。

 そんな状況を、あの司馬昭が許すだろうか。

 許すはずがない。

 あの陰険な策を弄する者が、何も手を打たないと言う事の方が不自然である。

 諸葛誕は、対呉に備えると言う名目で兵を集めた。



「将軍、何か呉が動いたと言う情報でもありましたか?」

 同じように淮南に留められている、旧知の王基が諸葛誕の元に訪ねてきて確認する。

「いついかなる時であっても、備えは万全にしておくべきであろう? 呉が攻めてきました、よしそれじゃ兵を集めよう、では話にならないからね」

 諸葛誕は前髪を払って、王基に向かってそう説明した。

 これは嘘偽りない本心である。

 今のところ呉に侵攻の気配はない。

 だが、今その気配が無いからと言って備えを怠っていいと言う事にはならないのは、殊更諸葛誕が説明するまでもないだろう。

「確かに将軍の言われる事はもっともな事。ですが、呉にこれと言って大きな動きも無い中で急速な軍備の増強はあらぬ疑いを持たれはしませんか?」

「あらぬ疑い? あらぬ疑いとは何か! この諸葛誕、誰に対しても後暗いところなど微塵も無い! それとも、王基。貴様はそのあらぬ疑いとやらで、この最前線の軍備を弱めても良いと申すのか?」

「どうなさったのですか、諸葛誕将軍。この王基、将軍とは昨日今日の付き合いではありません。ですが、これほど余裕の無い将軍は初めて見ます。名将諸葛誕をして、これほど余裕を削られるほど呉とは脅威なのですか?」

 王基に心配されて、諸葛誕は大きく息を吐く。

「……なるほど、僕とした事が、目に見えない敵を自分で」

 諸葛誕は前髪を払う。

「作っていたみたいだな。それで呑まれていては、話にもならない。すまなかったね、王基。八つ当たりしてしまって」

「いえいえ、将軍の魏への忠誠、誰も疑ったりしませんので心に余裕を持って下さい」

「そうしよう。礼を言うよ」

 諸葛誕は笑顔を浮かべて、王基に頭を下げる。

「将軍、何か悪い事ですか?」

「おや、諸葛靚しょかつせいか。ちょっと見ない間に大きくなったなぁ」

 王基は城の中で、諸葛誕の息子である諸葛靚に会う。

「随分と難しいお顔をなさっていましたけど、何か悪い事ですか?」

「いや、今はまだ、ね。それより、父上を見ていてやってくれ。随分とお疲れのご様子だから」

「最近あまり眠れない様です」

 諸葛靚も心配そうに言う。

 まだ少年兵にも参加出来ない様な幼い息子にまで心配されるとは、諸葛誕の余裕の無さは王基が予想していたよりさらに悪い状態の様だった。

「このまま、何も無ければ良いのだけど」

 王基はそう言って自分の任地へ戻ったのだが、彼の心配はさほど時を要する事無く現実のものとなった。



 王基の後に諸葛誕を訪ねてきたのは、賈充だった。

 元は曹爽派であった事もあって面識のある二人だが、今の賈充は司馬昭の腹心である事は諸葛誕も知っている。

 それでもさすがに知らんぷりを決め込む訳にもいかず、諸葛誕は賈充を迎える事にした。

「公休殿、お久しぶりにございます」

「大将軍の使者との事だったが、こんな僻地にまでどの様なご要件かな? 今は呉にもこれといった動きは無く、大将軍に使者を出してもらわねばならない事など無いのだが?」

「はっはっは、これは手厳しい。されど、最前線の武将たる者、常にそのような緊張感が必要なのでしょうな」

 諸葛誕の先制攻撃に対し、賈充は笑って受け流す。

 いかに旧知の間柄と言っても二人に接点は少なく、また諸葛誕は司馬昭が自分の事を信用していない事を知っている。

 そこに賈充を送ってきたのだから、よほどの事であると予想していた。

 今ので多少感情的にでもなってくれれば良かったのだが、賈充とて極めて能力の高い人物である。

 もし曹爽が司馬懿に勝っていたら、何晏や桓範、夏侯玄にも劣らない人物として曹爽を支えていた事だろう。

「すまないね、賈充殿。つい先日にも王基から注意されたのだが、どうにも最前線にいると気持ちに余裕が無くなってしまってね。いやいや、僕もまだまだだね」

 諸葛誕も賈充に合わせて笑顔で応えるが、警戒は怠っていない。

 それでも気取られない為に、諸葛誕は賈充をねぎらう意味も込めて酒宴を設けて歓待する事にした。

「して、賈充殿。今回はどの様な役目があってこの様なところに? 何か理由があってわざわざ来られたのだろう?」

 ある程度酒が進んでから、諸葛誕は改めて賈充に尋ねる。

「その前に確認しておきたいのですが、随分と軍備を増強しておられる様子。先ほどは呉には動きは無いと仰せでしたが?」

「それに関しては先日王基からも尋ねられましたが、何を言われ、何を思われようともここは最前線。常に備えておかなければ、不測の事態に対処出来ない恐れがあるのだよ。今でこそ呉軍に動きは無いが、動きを確認してから兵を集めるのでは話にならないだろう?」

「なるほど、さすがは将軍ですな。そんな将軍だからこそ、大将軍も将軍の事を買っておられるのです」

「何? どう言う事だ?」

 予想していた答えと違う事を賈充が口にしたので、諸葛誕は眉を寄せる。

「この度、大将軍は諸葛誕将軍に三公の一つ、司空の地位を与えると私に言われたのです。諸葛誕公休と言う人物は、武将にしてその視野の広さたるや他の追従を許さず。故により広く能力を活かせると言う意味を込めて、大将軍は司空の座を将軍に用意されたのです」

「司空? この僕が?」

 諸葛誕は前髪を払って尋ねる。

「その通りです! つきましては就任に際して洛陽に同伴していただく必要があるのですが、それは問題ありませんか?」

「妙な人事だな。腑に落ちない」

 諸葛誕は賈充を睨む。

「妙とは? 大将軍は諸葛誕殿を高く評価されているのですよ? 将軍の実績であれば司空に値すると」

「実績と言うのであれば、僕より実績があり年長である王昶殿こそが適任ではないか? 僕が王昶殿を差し置いて三公の地位に就くのは違うのではないか?」

「それは……」

「それに、司空ほどの地位であれば、大将軍ではなく陛下の使者ではないのか? 賈充よ、お前は大将軍の使者と名乗ったが陛下の使者とは名乗っていない。何のつもりだ?」

 諸葛誕に凄まれ、賈充は僅かに言葉を詰まらせるが、やがて力を抜いて笑う。

「まだ十代の陛下にそれほどの大任重責を担えましょうか。司馬大将軍は能力人望共にあり、充分過ぎるほどに国に尽くしております。何故形だけの皇帝に従う必要がありましょうか。今なお敵は蜀と呉があると言うのに、幼さの残る皇帝では戦えようはずもなし。いっその事、皇位を譲られた方が国の為でもありましょうに」

「よくその様な事がほざけたものだな、賈充よ!」

 諸葛誕は卓を叩いて立ち上がる。

「私は世の評判の話をしているのです。将軍はその様にお考えにならないのですか?」

「何が世の評判か! 国を誤らせる不忠者め! 亡き司馬仲達、司馬子元はどれほど疑われようとも国の為に尽くしてきたと言うのに、司馬子尚めはその様なだいそれた事を企んでいたとは! 貴様も同罪だ、賈充! この諸葛誕、十万の軍兵がある! お前らの如きの好き勝手にはさせぬ! 本来ならば切り捨ててやるところ、昔のよしみで見逃してやる。司馬子尚の元へ戻って伝えるが良い。貴様には今の職責ですら重荷であろうから、然るべき者に席を譲って隠遁するようにとな。さもなくば、史に汚名を刻む事になろう!」

「……大将軍への侮蔑の言葉、翻意の現れと取りますぞ?」

「陛下に仇なす不忠者が何を言うか! 翻意と言うのであれば、子尚にこそ向ける言葉であろう!」

 諸葛誕はそう怒鳴りつけると、賈充を城から叩き出す様に指示する。
 もっとも、賈充の方もこれ以上諸葛誕を説得するつもりもなく、自ら席を蹴って城から立ち去っていった。



 全ては、計画のままに。
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