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第二章 血と粛清の嵐の中で

第二章最終話 二五六年 先行きの暗雲

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「なるほど、陳泰の件は了解した。そう言う事であれば、止むを得ん」

 杜預の報告を受け、司馬昭は頷く。

「大将軍の弔いくらい、ゆっくりさせて欲しいものですが」

「そうはいくまい。以前は曹爽も同じ事をやっている。我々だけが蜀を批難すると言う訳にはいかないからな」

 杜預は本気で思っていたのだが、司馬昭は思いのほか冷静だった。

 多少とはいえ日をおいている事から、冷静さを取り戻しているのかもしれない。

 報告も済んだので雍州に戻ります、と言いたいところだったがさすがに杜預にとっても司馬師は義兄であり、また尊敬すべき大将軍であった事に変わりはなかった。

 また、都の様子も気になったと言う事もあり、そのまま国葬に参列する事にした。

 さすがに大将軍の国葬と言う事もあって盛大なものだったが、中でも皇帝曹髦は印象的だった。

 最初司馬師は曹髦を皇帝にする事を反対していたと言う。
 だが、後ろ盾となる郭太后の強い後押しもあって、最終的に司馬師も曹髦を皇帝に決めたと言う経緯がある。

 その事を知っているのかは分からないが、それでも曹髦は亡き司馬師に対して号泣していた。

「子元、子元よ! そなたは朕の師父であろう。それなのになんだ! こんなところで終わるのか! 朕はまだ師父から何も教わっておらぬぞ! 子元、この不忠者! もし真に朕に対して忠誠を示すのであれば、生き返ってこい! 天の理に背いたとしても、朕が許す! 朕の為に、今一度目を覚ませ! 子元よ!」

 司馬師の柩に寄り添いながら泣き叫ぶ曹髦の姿は、魏の臣下達に深い感銘を与えた。

 当然杜預もその中の一人だったのだが、必ずしも全員が同じように考えていた訳ではない。



「……司馬師様を不忠者呼ばわりですか。皇帝とは言え、年少者が随分と言ってくれますな」

「煽らずとも良い、賈充かじゅうよ。私の思い描く魏の未来は、父や兄とは違う事はわかっている」

 司馬昭は傍らに控える、参謀の賈充に言う。

 父はあの王凌の同僚で非常に優れた文官の賈逵であり、賈充自身もかつては曹爽派だった。

 が、曹爽の堕落を目の当たりにしてからと言うもの、彼は曹爽派にいる事に疑問を持つ様になっていた。

 しかし彼が曹爽と距離を置く前に、曹爽は政敵であった司馬懿に敗れた事によって失脚し、そのまま獄中で命を落とした。

 本来であれば彼も夏侯玄や桓範らの様に死罪になるところだったのだが、それまでほとんど接点の無かった司馬昭によって能力を買われ、その時以来彼の参謀となっていた。

 とは言え秘密主義の司馬昭直属である為、賈充は父とは違って日陰の生活を余儀なくされていたのだが、それが思いのほか苦にならなかった。

 むしろその方が自分に適していたのではないかと思うほど、賈充は自分の能力を発揮出来ている自覚があった。

「ですが司馬昭様、陛下の今の言葉には野望が隠れております。陛下は曹家の力を取り戻す為、司馬家の力を削ごうと考えておられる様子。何かしら手を打つ必要がありましょう」

「ああ、私も同じ事を考えていた」

 魏の重臣達が幼さを残す皇帝にもらい泣きする中、司馬昭と賈充は冷徹な目を曹髦に向ける。

「既に手は打ってある。陛下の側仕えだった子初は切り離して、今は鍾会や荀顗じゅんぎといったこちら側の者を付けている」

「石苞はいかがいたしますか? かつては毌丘倹の副将でもあり、実績、人望共になかなかの者。しかも陛下を司馬師様に押したのも石苞であったとも言われておりますが」

「案ずるに及ばぬ。あの者は我が父、仲達によって今の地位を得た事をよく知っておる。話の分からぬ男ではないので、こちらに付ける事は出来よう。それより問題になる者がいる」

「諸葛誕、ですな」

 賈充の言葉に、司馬昭は頷く。

 諸葛誕はかつての曹爽派の一人であり、しかも兵権を預かる身分にある数少ない武将の一人であり、司馬家にとって目障りと言える人物でもある。

 しかし、ただ目障りであると言うだけで処分する事は出来ない。

「陳泰は目の届くところに置けるから心配はいらないが、諸葛誕は問題だ。何かしらの手を考えねば、今後の計画にも差し障る事に成りかねない」

「御意」

 この時、司馬昭の頭の中には別の人物も浮かんでいたのだが、差し迫った問題は諸葛誕の方であったので、賈充に伝える事はしなかった。



 もちろん、この様な密談が行われているとは知らず、杜預は司馬師の国葬を終えると妻である司馬氏の元へ一時帰宅する事が許された。

 と言っても、司馬氏も国葬には出ていたので合流した、と言った方が正しいかもしれない。

「ようやくお兄様を弔う事が出来ましたわぁ。ねえ、お姉さま?」

「いや、私、お姉さま違うから」

 媛が相変わらずの様子で、司馬氏に言う。

「私はすぐにでも弔ってあげたかったのですけどぉ、子尚お兄様が時期を見てから行うって言ってぇ、それでようやくですよぉ?」

「まぁ、それは仕方がないよ。今は蜀に対しても呉に対しても警戒する必要があるからね」

「そうですけどぉ」

 それでも司馬氏は不満そうだった。

 彼女は同じ兄弟でも司馬師に対しては敬愛の念を持っていても、司馬昭に対しては同じような念は薄いらしい。

 まぁ、それも分からないでもないと、杜預も媛も同感なところはあった。

 司馬師と比べて、司馬昭は余裕が無い。

 それは言葉一つとっても出てくるほどであり、司馬昭はどこか人を見下したところがある。
 常に優秀な兄を比べられ続けた事も、原因かもしれない。

「それより、義姉さんの憔悴の仕方が心配だった。ずいぶんと痩せていたし」

 杜預が心配しているのは、司馬師の妻である羊徽瑜の事だった。

 司馬師には先立たれた妻と離縁した妻がいて、羊氏は三番目の妻だったがその仲は極めて良好である事は皆が知っていた。

 しかし、二人の間に子は無かったものの、先妻との間の娘達とも仲が良く家庭も円満だっただけに、その衝撃が大きかった事は一目見ただけで分かったくらいだった。

「それは、私も心配だったんですけどぉ、何てお声がけしたら良いか分からなくってぇ」

「……そういう空気は読めるのね」

 媛が意外そうに言う。

「せめて叔子さんがいてくれたらって思うんですけどぉ」

「あいつ、今頃どこにいるのやら」

「私もそこは気になったから、復帰の手続きは済ませているわよ」

 媛は事も無げに言うが、杜預と司馬氏は不思議そうに媛を見る。

「何よ」

「いかにも当然みたいにさらっと言いましたけど、叔子の復帰の手続き済ませてるってどう言う事ですか?」

 杜預は首を傾げながら媛に尋ねる。

「だから、言葉通りの意味なんだけど。大体叔子くらい出来る子だったら、どこにいたって噂になるから、そこから当たっていけば多分本人には行き着くと思うのよね。そう言うわけで、まずは手柄が欲しそうな人を見つけて水を向けてやればその人が連れてくるんじゃない? 十中八九は故郷にいると思うけど」

「……鄧艾将軍もそうですけど、俺らとは違う何かが見えてるんですか?」

「でも、お姉さまぁ。叔子さんほどの御方がぁ、そんな事で説得に応じられるでしょうかぁ? 確かに義姉上様に会いに来るかもしれませんけどぉ、仕官とかは別じゃないですかぁ?」

「お姉さま違うけど、意外と鋭いわね。さすが、太傅様の娘」

 媛の目には司馬氏はどう見えているのか、杜預はちょっと興味があったが余計な飛び火を避ける為に黙っておく。



 媛の行動力に関しては杜預もよく知っていたが、それでもそれから一月も経たずに羊祜が復帰する事になったのには驚かされた。

「何か策が動いていると思いましたが、奥方様でしたか」

 復帰の挨拶と言う事で羊祜は杜預の元にやって来たのだが、そこに媛の姿を見つけて笑顔を浮かべてそう言った。

「私だけじゃないけど、お帰りなさい」

「ありがとうございます」

 羊祜は素直に頭を下げる。

 復帰に際して羊祜は事情を知らされて、まず最初に姉の元に行ったのだが、そこで姉から復帰の為に杜預や司馬氏が良くしてくれたと伝えられたので挨拶に来たのである。

 敢えて媛の名前を出さなかったのは、羊氏なりに弟を驚かそうとしたのだろう。

「でも、随分と早かったわね。ちょっと意外」

「正直なところ、私も復帰するかは悩んでいたんですが、そんな余裕が無かったもので」

 羊祜の言葉に、杜預や媛は眉を寄せる。

 実は羊祜自身の立場も、少々面倒な事になっていた。

 何しろ彼の妻は、蜀に亡命して魏の敵となっている夏侯覇の娘である。

 夏侯覇が蜀に亡命する前に羊祜は職を辞していて、妻もそれに付き添って都を離れて庶民となっていたので夏侯覇の反乱には関わっていないのだが、それでも反乱を起こした者の身内である事に変わりはない。

 また、同じ一族に処刑された夏侯玄もいた事から、羊祜の復帰はあまり望まれていなかったところもあった。

 が、羊祜の復帰には司馬昭が乗り気で、正式に大将軍になってから司馬昭が最初に手を付けたのが羊祜の復帰手続きであり、媛が動いた時にも滞りなく進んだのは司馬昭の手が回っていた事も大きかった。

 しかし、羊祜は当初これを断っていたのだ。

 彼も自分の妻の立場の不安定さは知っていたので、官職や権力に近づく事に慎重になっていた事や、そもそもさほど栄達に興味が無かった事もあり司馬昭の誘いを受けるつもりは無かった。

 その後に羊祜の元へやって来た使者が問題である。

 司馬昭の使者を断って、次にやって来たのは皇帝曹髦の勅使だった。

 それもわかりやすく皇帝が使う車である公車による招聘があったので、さすがに断る訳にはいかなくなったと言う訳である。

 一応の断りとして羊祜は姉の様子を見て、心配いらないと判断してから改めて官職に就く事を約束するとして、今に至っていると言う。

 姉である羊氏の様子は何とか持ち直しているようで、そこまで心配はいらなくなったと羊祜は杜預達に説明した。

 司馬師の遺児である娘達や、司馬昭から養子として受け入れ司馬師の跡を継いだ司馬攸しばゆうなどとも仲が良く、身内からの慰めによって日常を取り戻しつつあるとの事だった。

「さすが、叔子のお姉さんってところね」

「私など、姉の足元にも及びませんよ。それより心配なのが、この国の行く末です」

 羊祜は杜預と媛に言う。

 司馬氏は羊祜と共に挨拶に来た、妻の夏侯氏の相手をしている。

 彼女たちも幼い頃からの知り合いであり、夏侯氏にどれほどの疑惑の目を向けたとしても司馬氏は司馬一族の直系であり、血筋で言うのなら司馬師や司馬昭と同等である事から、周りに対しても強い力を持っている。

「国の行く末? 随分とデカい話になったな」

「元凱であれば、今の不安定な状況がわかっていると思っていたけど」

 羊祜は表情を曇らせる。

「私は以前の文帝陛下とは面識がありましたが、文帝陛下崩御の折に職を辞していたので、先帝や今の陛下との面識はありません。それなのに私如きに公車まで出して招聘したのは、はっきり言って異常です」

 そう言われると、杜預も媛もその異常さに気付く。

 もし羊祜の事を知っていれば、彼を登用するのにどれほどの厚遇をもってしても不思議ではないくらいに優秀である為、さほど妙だとは思わなかった。

 だが、どれほど将来を嘱望されていたとは言え羊祜にはさしたる実績は無く、むしろ淮南での運河造りによって箔を付けようとしたのに失敗して職を辞している。

 そんな人物に皇帝自らが登用の手を伸ばす事は、有り得ない。

 まして曹髦と羊祜の間には、まったく接点が無い。

「それなのに私にお声が掛かった。そこには明確な目的が無ければ、説明がつかないんです。奥方様なら分かるのでは?」

「……陛下は若くして優秀で、武帝を彷彿させる覇王の片鱗があると言われているわね」

「俺にも危うさが分かった気がする」

 杜預も眉を寄せて言う。

「もし今は亡き仲達様や司馬師様であれば、私は陛下ではなく大将軍の使者を何度か迎える事になっていたはずです」

 羊祜の言わんとしている事は、媛も杜預も分かっていた。

 今、宮廷では司馬昭による魏の乗っ取りが計画されていると噂されている。

 と言うより、その噂自体は司馬懿の時代からあったものなので、司馬一族が魏国を乗っ取ろうとしていると言う噂は、それこそ何十年も有り続けていると言ってもいい。

 それでも司馬懿や司馬師は笑って受け流していたが、司馬昭は良くも悪くもその噂を否定する事無く、いつも通りの秘密主義を貫いている。

 もし曹髦が無能な傀儡皇帝であるのなら、むしろ平和であったかもしれない。

 だが、優秀である場合には司馬昭による簒奪を警戒するのは当然過ぎるほどに当然だった。

 それはかつて、曹爽が司馬懿に対して警戒したのと同じだった。

 今の皇帝の勢力はその頃より弱体化している事もあり、司馬一族に連なる羊祜を取り込む事で皇帝側の勢力の強化を図る一方、司馬昭側の勢力を弱めようとしている。

「曹髦陛下が優秀であればあるほど、魏は分断の恐れがあるんです。奥方様、出来る事なら今はどちらにも近付く事無く、中立の立場を保つ様にして下さい。大乱に巻き込まれる恐れもあります」

「……叔子が復帰してくれて良かったわ」

 媛は難しい表情で頷く。



 魏に立ち込める暗雲は大きく厚く、そう簡単に晴れる事は無さそうだった。
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