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第二章 血と粛清の嵐の中で

第三十一話 二五六年 それぞれの戦後処理

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「鄧艾将軍! 将軍こそ、誠の名将! 見事と言うほかありませんな!」

 大きな声で鄧艾を称えるのは、胡奮だった。

「いえ、幾つもの幸運に助けられた故で、私の実力と言う訳ではありません」

「いやいや、運も実力の内。そもそもその運を活かす実力が無ければ、これほどの勝利は得られるはずもありません!」

 興奮気味に諸葛緒も賛同していた。

 何もそれは胡奮や諸葛緒に限った事ではなく、雍州方面軍全体が勝利に湧き上がっていた。

 無理もない。

 これまで雍州方面軍は対蜀の最前線として幾度となく戦い、蜀軍を撃退する事には成功していたが、それは蜀軍の物資不足などによる退却まで守り通したと言う戦が多かった。

 これほど明確な勝利となれば、それはかつての街亭以来の快挙なのである。

「将軍の千里眼、まさに叔父上の如しでした」

 司馬望までもこれ以上無いくらいに賞賛してくれるが、先に言った通り、今回の勝利は幾つもの偶然が重なった勝利である事は、鄧艾が一番よく分かっていた。

 まず何より大きかったのが、蜀軍は夏侯覇込みで鄧艾の事をよく知らなかったのに対し、魏軍は鄧艾の能力を知り信頼してくれた事である。

 どれほど優れた策や戦術であったとしても、それは実行されて初めて優れた策であり、立てただけでは机上の空論にすぎない。

 将軍位としてはさほど高位ではなく、しかも出自も下賤でありながら雍州の武将達は鄧艾の策に全て従ってくれた。

 それは陳泰や司馬望と言った最上位の将軍位であり、名門の中の名門の出自の将軍達が率先して鄧艾の策に乗ってくれたと言う事も大きい。

 また、夏侯覇が持っている鄧艾の情報が古かった事もある。

 夏侯覇が持つ鄧艾の印象と言えば、遼東で司馬懿に歯向かってトバされた事と単騎で説得に来て時間稼ぎした程度であり、兵を率いて戦ったと言う印象が無かった為に正確な情報を得られなかったのだろう。

 それらの事が姜維の油断に繋がった。

 もし夏侯覇を頼らなければ、姜維は以前鄧艾と戦っていた事に気づいたかもしれない。

 夏侯覇が蜀に降った直後の、句安が魏に降らざるを得なくなった戦いのおり、姜維は一度鄧艾に策を看破されている。

 あの戦いでは陳泰や郭淮の影に隠れていた鄧艾だが、夏侯覇から情報を得られなければ、逆にその事に行き着いていたかもしれない。

 そうなっていたら、今回ほど油断はしていなかっただろう。

 また、戦が始まってからも姜維はあまりにも有利な点の多い今回の戦で、勢いに任せすぎたところもあった。

 姜維と言う武将はただ武勇に優れた武将ではなく、本来であれば多種多様な策を同時に取り扱う事の出来る智将である。

 それが今回の戦では優位に添うだけで十分と見たのか、魏に体勢を整えさせるのが惜しかったのか、深い策を弄する事なく勢いに任せて進軍していた。

 もちろん祁山での旗による仕掛けなど、随所にはいかにも姜維らしい策を散りばめていたが、やはり司馬望や鄧艾と言った新任武将達が郭淮や陳泰と言った前任より劣ると言う侮りがあったのだろう。

 完全な偶然が功を奏したのが、武城山だった。

 祁山から上邽に狙いを変えたと察した鄧艾は、薄く配置していた兵を招集して何とかして数を集めていた。

 その集合地点に定めたのが、武城山だったのである。

 鄧艾の当初の目論見であれば、緊急で集めた兵たちを武城山で少し休ませ、姜維が上邽を攻めている背後を襲うつもりだった。

 そうして混乱させ、撤退しているところに鄧忠達の伏兵でさらに致命的打撃を与えるはずだったのだが、姜維が突然転身して武城山に攻め込んできたのである。

 かろうじて合流後だったから防ぐ事が出来たが、もし鄧艾がそのまま上邽の守備に回っていたり、合流する兵達が遅れていたら取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。

 また、姜維が武城山攻めに来た事もあって、句安達が先に伏兵を配置出来た事も誤算だった。

 本来であれば姜維が上邽を攻める際に伏兵を調べさせ、そこに伏兵は無い事を確認させた上で配するはずだったのだ。

 そんな中で、諸葛緒が機転を利かせてくれたのが助かった。

 元来慎重な諸葛緒だが、淮南での戦いで見せた様に攻勢を見抜く目を持っている。

 今回も当初の予定と違う動きから、自ら兵を出して蜀軍の目を向けさせる事によって順序は変わっても鄧艾の策を活かす事が出来た。

 また、蜀軍の別動隊には少ない兵力ながら司馬望がそれを防ぎ、合流させなかった事も大きな勝因の一つである。

 そして、止めの一撃となる陳泰の存在を隠す事。

 これは杜預の策であった。

 決まり事に厳しい司馬昭ではあるが、杜預は今回の蜀の動きには最大の警戒が必要である事を司馬昭に説明する事を自ら買って出たのである。

 また、親しい間柄であるとは言え陳泰と違って、杜預は司馬師、司馬昭にとって義理の弟でもある。

 陳泰の名代としての資格は充分にあった。

 それによって司馬昭には陳泰が中央の招集に応じると言う返事を出し、秘密裏に杜預を中央へ派遣して存在を隠す事に成功したのである。

 結果としては大勝利を収める事は出来たが、それらは全て薄氷の上をかろうじて渡りきっただけというのが、鄧艾の感想だった。

「確かに偶然の助けもあったでしょうし、それらは全て薄氷の上の事かもしれませんが、それでも勝利は勝利。ここは喜ぶべきところですよ」

 陳泰からもそう言われ、ようやく鄧艾も勝利を実感する事が出来た。

「これによって蜀軍はしばらくは侵攻する事は出来ないでしょう。それこそ、魏で何か変事でも起きない限り」

「はっはっは、まさしくその通り。して、此度の武功のコレはいかがいたします?」

 胡奮は鄧艾の前に、蜀軍から奪った将帥旗を広げる。

 確かにこの旗こそ、今回の戦の勝利の証である。

「私に一つ考えがあるのですが、その旗は蜀に返そうと思っています」

 鄧艾の言葉に、全員が驚く。

「正気ですか? これこそ勝利の証ですよ? 司馬昭様も、陛下も武勲として認めてくださるはずですよ?」

 諸葛緒が尋ねる。

「確かにそれは魅力的なのですが、蜀と戦って分かった事があります。蜀軍はとにかく戦意が高い。魏に対する恐れや敵意と言ったものがその戦意に繋がっていると思われますので、まずはそこを薄める事から始めるべきかと」

 鄧艾は何も考えなしに武勲を手放そうとしている訳ではない事を、説明する。

 まず何より、蜀の魏に対する敵意の高さだが、これはやはり蜀の丞相であった諸葛亮の影響が大きいと、蜀からの投降者である句安も認めている。

 一方、魏からの投降者の受け入れには寛容だった。

 何しろ今であれば魏からの投降者でありながら大将軍を務める姜維や、魏の皇族であった夏侯覇などもいるのだから、魏から蜀へはかなり降り易い。

 その為、魏からも蜀に対して寛容であるところは見せなければならない。

 それが一つ。

「もう一つは、密偵を送り込む事が目的です」

 これまでは郭循と言う異才が蜀の内部に入り込んでいたが、その代役を送り込む為にも将帥旗返還と言う大きな目くらましが必要なのである。

 もっとも、郭循ほど軍部に入り込む事は事実上不可能であり、鄧艾の狙う人物は別のところにあった。

「郭循将軍は大将軍暗殺と言う偉業を成し遂げましたが、実際にはそれ以上の功績があります」

 鄧艾の言葉に、陳泰は頷く。

 郭循は蜀の情報を魏に流していたのだが、その中でも特殊な情報として買収に応じそうな人物の名前も挙げていた。

 かなりの数になる上に最新の情報でも無いのだが、それでも蜀の中枢部にいる者でそこに名前のある者であれば、その人物を操る事も不可能では無い。

 それらを調べる為の密偵を、自然な形で送り込む為にもこういう特殊な行動を取る必要がある。

「ですが、あからさまで返って警戒されるのでは?」

 諸葛緒が不安そうに尋ねる。

「先ほどの話の中にありましたが、蜀は魏からの投降者に寛容です。また、蜀へ出入りしている魏の商人もいます。姜維でなくても密偵の存在は考えるでしょうが、今回の使者だけでなく魏からの投降者、さらには魏から出入りする商人まで全ての人物を徹底的に調べて密偵を洗い出す事など、現実的には不可能です」

「それで、誰を派遣するつもりですか?」

「実はすでに蜀に入っています」

 胡奮の質問に鄧艾は答えたが、胡奮はもちろん司馬望ですら知らない情報だったので全員が驚いていた。

「戦の方に集中していただきたく、今まで隠していた事をお詫びします」

「なるほど、いかにも密偵を送り込む為の使者として将帥旗を返す、と見せかけて実はすでに入り込んでいると言う事からも目を逸らさせると言う事ですか。まさに神謀。私は全面的に賛成しますが、皆さんはどうですか?」

 司馬望は他の武将に意見を求めるが、ここまでの深慮遠謀がすでに動いている中で反対する武将は、誰ひとりとしていなかった。

「俺ももう少しここで戦いたかったですが、さすがにいつまでも中央の招集を無視する訳にはいきませんからね。ただ、士載殿と司馬望将軍であれば、何ら心配はいらないと言う事も確信が持てました」

 陳泰は、満足そうに頷いていた。



 一方の蜀では、今回の敗戦の責任を姜維は一人で被り、大将軍から後将軍への降格を自ら提案し、劉禅はそれを受け入れた。

 しかし、将軍位は降格したものの代わりの大将軍を立てる様な事はせず、後将軍でありながら姜維は大将軍代行も兼ねて、実質的な権限は何ら変わらず軍部の弱体化は防がれていた。

「大将軍、申し訳ございません! 俺が作戦通りに合流する事が出来ていれば、この様な事にはならなかったものを!」

 少数の司馬望の部隊に行く手を阻まれ挟撃作戦を完遂出来なかった胡済が、大将軍府にいる姜維に詫びるが、姜維は首を振る。

「詫びる必要がどこにある? 此度の戦、敗因の全てはこの姜維にある。胡済将軍はもちろん、戦場に散った鮑素、張嶷、多くの将兵達はよく戦った。ただ、私が敵を侮り、敵の策に落ちた。責任は私一人にあり、他の誰にも敗戦の責は無い」

「ですが……」

「もしそれでも詫びたいと言うのであれば、失った兵数と練度を取り戻す必要がある。それに協力してもらえるか?」

「もちろんです! 大将軍!」

「私は後将軍だよ」

「いえ! 蜀の大将軍は、姜維将軍をおいて他には務まりません!」

 胡済は、感激して姜維の前から去っていく。

「大将軍、俺は罰せられるに値する」

 胡済が去ったあと、夏侯覇が姜維に言う。

「先ほども言った通り、敗戦の責は私一人に……」

「いや! 俺が大将軍に誤った情報を与えてしまった! それによって大将軍の予断を招き、敵の策に対する視野を狭めさせてしまった! 陳泰が身代わりを立てて残る事など、予想出来たはずなんだ! それを俺が余計な事を言ったばかりに……!」

「それに責があるとするのであれば、当然こちらにも責任はあるはずでしょうな」

 夏侯覇だけでなく、張翼が言う。

「例えば武城山での一戦。あの時、大将軍がいち早く攻勢を取りやめて上邽に向かった時に、俺か、あるいは廖化か、とにかく一軍を残す事を提案するべきだった。その役割と責務がある立場であったにも関わらず、大将軍に意見する事すら出来なかった。これまで散々大将軍の策に反対しておきながら、もっとも必要な時に代案を出せないのであれば、それは無能のそしりを受けて然るべき事。夏侯覇将軍以上に、この張翼こそが罰せられるべきでしょうな」

「……必要ありません。ただでさえ失ったモノが大きかった戦です。これ以上失うのは、蜀にとって何ら益の無い事。先ほど胡済にも言った通り、もし責任を感じているのであれば、より多くを失う事を考えるのではなく、失ったモノをいかにして取り戻すかを考えるべきでしょう」

 姜維は夏侯覇と張翼に言う。

 二人の言い分にも聞くべきところはあるが、やはり大きな敗因は自分にあると姜維自身がそう考えていた。

 敵将を侮っていた。

 未知の武将である事は分かっていたのだから、最大限の警戒を、それこそ郭淮や陳泰の後継としてやって来たのだから、それと同等の警戒をするのが当然だったにも関わらず、何の根拠も無しにその二将より格下だと決めつけて、侮っていた事が最大の敗因である。

「大将軍、魏から贈り物が……」

 そんな姜維の元へ、兵が旗を持ってきた。

「これは、将帥旗? 祁山で奪われたものか」

 姜維は兵から将帥旗を受け取る。

「わざわざ旗を返してきたと?」

「鄧艾か司馬望か、あるいは陳泰か。なかなか面倒な事を考える者がいるらしい」

 姜維は苦笑いしながら、魏軍の策謀が動いている事を察していた。

 これは単純に蜀に恩を着せると言う事ではなく、魏の度量の広さを見せつけてきたのだ。

 魏では勝利しても礼を欠く様な事はしない。
 だから、魏に降るのも受け入れると言う事を暗に示しているのだ。

「……不信の種、ですか」

「まず間違いなく。これは最初から私に宛てられたモノでは無いでしょう? 誰に宛てられて送られ、私の元へ来たのですか?」

 姜維は旗を運んできた兵士に尋ねる。

黄皓こうこう様からです」

「……いよいよ面倒な事になりましたね」

 姜維は天を仰いで呟いた。



「黄皓様、この度はありがとうございます。これで主人の元に帰れます」

「いいのよぉ。それより、主人の元になど帰らずいっその事、このまま蜀の人になっちゃえばぁ? 優秀な子は大歓迎よぉ?」

「そう言う訳にはいきません。せっかく大物と知り合いになれたんですから、僕も手柄を誇りたいので」

 少年は悪戯っぽく笑う。

「まぁ、分からない話ではないけど、もったいないわねぇ」

 黄皓と呼ばれた男は、本当に残念そうに言う。

 この男は宦官だった。

 しかも、後宮を取り仕切る立場にあり、皇帝劉禅にもっとも近しい立場の人物である。

 本来であれば近付きがたい人物ではあるのだが、この男こそ、今は亡き郭循が蜀で買収出来る人物として、そして真っ先に買収するべき人物として挙げた人物だった。

「それじゃ、雍州に帰るのね。でも、私との繋がりは宣伝しちゃダメよ? あくまでも貴方が自慢して良いのは、大任を果たした事だけだからね」

「もちろんです。僕も商人の端くれ。お得意様の情報を売るような真似はしません」

「もしまた面白い商品が出てきたら、その時は話に乗るかもしれないから、いつでも連絡しなさいね、党均とうきん

「はい!」

 党均は笑顔で、はっきりと応える。

 この商人の下働きを装う少年こそ、鄧艾の放った密偵で、鄧忠や段灼の幼馴染であった。

 党均には鄧忠の様な武勇も無く、段灼ほどの学も無かったが機転が効き、何より人好きする雰囲気を持っている事から、媛が推挙した人物である。

 姜維は当然密偵を探そうとしたのだが、その密偵が旗より先に蜀に入っていた事や、ましてそれが少年であるとは、予想もしていなかったのだった。
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