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第二章 血と粛清の嵐の中で

第二十九話 二五六年 祁山での策謀

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 祁山の魏軍では、まったく想定していなかった問題が起きていた。

 今回の迎撃作戦は秘中の秘で進めていきたいと言う事もあり、司馬昭に援軍を要請するにあたって蜀の間者が紛れ込まないように配慮してほしい、と言う条件付きだった。

 もちろん鄧艾の独断ではなく、司馬望や陳泰、司馬昭直属である胡奮なども連名での要請書を送り、司馬昭からは了承の返事をもらっていた。

 援軍を心待ちにしながら祁山の拠点作りを急ぎ、ようやく完成となったところで本国からの援軍も到着した。

 のだが。

「……まぁ、司馬昭閣下らしいといえばらしい徹底ぶりだよな」

 その到着した援軍を見ながら、鄧艾と共に最前線に出ている胡奮は苦笑いしていた。

「……ちょっと予想とは違いましたが、ここまで来たらどうにかするしかありませんから」

 鄧艾も頭を抱えそうになったが、それでも一応作戦の通りに行動は出来そうである。

 司馬昭が送ってきた援軍は、おそらくまだ戦闘経験も無い様な大量の少年兵達だった。

 紛れ込んだ間者を探す、と言うのは言葉ほど簡単な事ではない。

 しかし、諜報を目的とする間者にはある種の特徴がある。

 兵士に紛れ込む事が多いのだが、その場合にはそこにいてもおかしくない人物でなければならない。
 大抵の場合には二十代から五十代くらいの年齢の者が間者として紛れ込み易いのだが、今回の様に大量の少年兵の中に紛れるには、少年の間者で無ければ極めて目立つし、商人や小間使いとしてならばともかく、少年を間者働きさせる場合に少年兵と言うのはあまり一般的とは言えない使い方である。

 つまり司馬昭は、ほぼ間違いなく間者の紛れ込んでいない援軍を送ってくれた事になるのだが、その第一条件を満たす為に戦力が著しく劣る援軍を寄越した事にもなる。

「士載殿、こう言っちゃなんだが、正直なところ俺はこの兵を率いて勝てる気がしていないんだが、どうだろう」

 胡奮の表情は柔らかいが、そこそこ本気の言葉に聞こえる。

「もし蜀軍が真っ向勝負に来るのであれば、苦戦するでしょうね。ですが、蜀軍は力押しでは来ないはずです」

「急拵えとは言え、その為の陣だからなぁ」

 胡奮は何度も頷きながら言う。

 胡奮も陣営作りには参加していたが、この陣営は見事だと思う。

 もしこの陣営を力任せにどうにかしようと思うのならば、相当な兵力と猛将と時間が必要になるだろう。

 が、それはあくまでも実情を知らない場合に限る。

 いかにもそれらしく構えてはいるが、陣を守る兵の大半が少年兵である事がバレたら、その時には苦戦は免れない。

「十中八九、蜀軍は何らかの策を用いてくるでしょう」

 いくら何でもこの陣にいる兵の大半が少年兵だと言う事は、蜀軍に伝わっている事は無いだろう。

 そう言う情報の漏洩を防ぐ為にこんな事になっているのだから、それが知られていた場合、情報源は司馬昭と言う事になり、そうなると何をどうやったところで勝目は無い。

「蜀軍に動きあり! 高台に陣を構え、将帥旗も掲げられてます!」

 歩哨をしていた少年兵の一人が、伝令で駆け込んでくる。

「なるほど。蜀軍はじっくりと腰を据えてかかってくると言う事か。面倒な事になったな」

「いえ、蜀軍の狙いはここではなくなったと言う事です」

 胡奮の予想に対し、鄧艾は反対の事を言う。

「ん? どういう事だ? 蜀軍があの高台に布陣したと言う事は、士載殿の予想通りこの祁山を狙いに来たと言う事だろう? 兵力が無かったからやむを得なかったが、やはりあの高台には伏兵なり配置しておきたかったな」

「伏兵の件は確かにその通りですが、あの高台は蜀軍に取ってもらう為に敢えて手付かずにしておいたのです」

「何故に? 低所から高所を攻めるのは面倒だぞ?」

「こちらから攻める為ではなく、この陣を見てもらう為ですよ」

「ますます分からないな。この陣は迎撃の為の陣だ。敵に攻められた時にこそ、その真価を発揮するだろう? その全容を見られては、そもそも敵が攻めて来なくなるではないか。実際に今の蜀軍は陣を構えて腰を据えていると俺には思えるのだが?」

 胡奮は首を傾げているが、それもそうだろうと鄧艾は思う。

 姜維は、まさに胡奮にそう思わせようとしているのだ。

 姜維をはじめ、蜀軍は鄧艾の事をあまり知らないらしい。

 いくつかの戦に参加している鄧艾ではあるが、そのほとんどが後方部隊や予備戦力扱いであり、この雍州での戦で活躍していたのは郭淮や陳泰であって、鄧艾は実際の働きほどの武勲を上げている訳ではない。

 それだけに記録に残らず、その正体を知られずに済んでいるのだ。

 そこで姜維は、この雍州方面軍でもっとも警戒するべき猛将胡奮を狙い撃ち、あるいは鄧艾も胡奮並の武将として対策を練ってきたと言う事だろうと鄧艾は予測する。

 それはそれで光栄な事ではなるが、出来る事ならもう少し侮ってもらいたかったところでもある。

「今回の戦、勝機は蜀軍にあり、我が魏軍は劣勢と言わざるを得ません。その一つが敵の狙いがわかりにくく、こちらは守りを分散させなけれならない事がありました」

「ああ、だから最優先でこの祁山を守ったのだろう?」

「そうです。が、蜀軍の最大の泣き所である食糧不足は解消されていません。ここで腰を据えてこの陣を破る事に全力を注いだところで、陣は落とせても戦を継続させる事は出来ず、結局撤退する事になります。姜維はその事を知っているからこそ、ここで腰を据えたと思わせる為に将帥旗をこちらに見せてきたのです」

「ほう、つまりこちらが陣を敢えて見せた様に、向こうもわざと旗を見せてきたと?」

 丸みを帯びた体型でおっとりした雰囲気の胡奮だが、戦の勘所は鋭いので話も早い。

「もし姜維があの陣にいる場合、将帥旗はまったく別のところに現れた事でしょう。そうしてこちらが裏をかかれたと思って慌ててこの陣を離れたところを狙って、攻めてきたはず。今回はその逆で、この陣にいる様に見せて別のところに攻め込んでいるはずです」

「先ほど言っていた勝機の一つだな。では、それはどこだと?」

「狙いが分からないのであれば、狙われるべき場所を作ってやるのが一番です。今回は南安。さらに言えば、上邽を狙って進軍しているはずです」

「その根拠は?」

「本命であるこの祁山を奪えなかったのであれば、別のところの食料を狙うはず。魏軍の主力が祁山に集まっていると言うのであれば、別のところは手薄。しかも敵軍にはこちらの情報にも精通している夏侯覇将軍もいます。そうすれば兵糧が上邽に集められている事も知っているでしょう」

 鄧艾の説明に、胡奮は妙な表情を見せる。

「どうしましたか?」

「いや、まるでかつての太傅を見ている様だと思ってな。何で見えない敵がそこまで見えているのか、俺にはまったく分からないんだが」

「質の違いですよ。逆に私たちでは胡奮将軍の様に最前線で兵を率いた時、兵士達に限界を超えさせるほどの武威を示し、奮い立たせる事は出来ません」

「士載殿なら出来そうだがな」

 胡奮は笑いながら言う。

 多少なら出来るだろう、と鄧艾自身も思わないではないが、例えばあの文鴦や後漢末期の豪傑達の様に、単身単騎で戦場を支配する様な事は出来そうにない。

「さて、それではこちらはどう言う手を打つ?」

「私は急ぎ南安に向かいます。色々と策は練っていますが、相手が相手なので上手くいくとは限りません。ですが、こちらでも動いていただきたいのです」

「もちろんそのつもりだが、ここの兵の質はそれほどでも無い事は考慮してもらっているだろうな?」

 胡奮はそんな事を言うが、それはつまり胡奮自身がこの増援された少年兵達を率い、最初から配属されていた雍州方面軍の精鋭達を鄧艾に譲ると言う事である。

「差し当たり司馬望将軍に伝令を出さなければならないのですが、その人選は……」

「それは御子息が一番の適任だろう」

 質問に対して食い気味に胡奮が応える。

 今回増援として送られてきた少年兵の中に、鄧艾の息子である鄧忠も含まれていた。

 胡奮や司馬望は鄧艾の息子であれば武将として扱おうとしていたのだが、他への示しがつかなくなると言う理由で他の兵士と一緒に歩哨なども行っている。

「何も贔屓で言っているのではなく、士載殿の息子と言うのであれば南安の地理にも明るく、しかも敵軍との内通の心配も無い。士載殿の息子だと言う肩書きがあれば、伝令の内容も司馬望将軍に深く伝わる事になるだろう。御子息が一番適任ですよ」

「では、胡奮将軍の副将は」

「それは師纂しさん辺りに任せるとしましょうか。血の気の多そうな活きのいいヤツでしたから」

 胡奮が挙げた師纂と言うのは、今回の援軍に参加していた一人で司馬昭の主簿を勤めていたらしいのだが、自ら志願してやって来たと言う。

 本人も自覚があるようだが、単純な腕っ節や攻撃性は確かに他と比べると一つ抜けているところも見て取れる。

 しかし、今のところは武将と言うよりただの暴れん坊に過ぎない。

「扱いにくくはありませんか?」

「それも踏まえて、今後の事を考えてもちょっと分からせてやろうと思いましてな。士載殿には一応俺の策を話しておこう」

 胡奮は鄧艾に、今後この祁山で行おうとしている事を話す。

「……それは面白いですね。姜維があの陣にいない今こそが好機と言う事ですか」

「そう言う事。士載殿にそう言ってもらえれば心強い。さっそく御子息と師纂を呼びましょう」

 胡奮が呼ぶと二人ともすぐにやって来た。
 どうにもこの二人は、お互いを意識して競っている節が見える。

「さて、二人に役割を言い渡す。片方は伝令、片方は副将だが」

「俺が副将ですね。分かりました」

 胡奮の言葉に、師纂は胸を叩いて応える。

「何故お前が副将だと?」

「俺の実力は戦場でこそ役立ちます。伝令など、他の誰がやっても同じ事。そうではありませんか?」

 自信満々な答えである。

 よくこれで司馬昭の主簿になれたものだと鄧艾は感心すらしていたが、こんな調子だったから司馬昭も送り出したのかもしれない。

「自信を持つのはけっこうだが、お前には自信以外のあらゆるものが足りてないな。その意味でお前は俺の副将に付ける事にする。異存は無いな」

 胡奮の言い様に不満そうではあったが、それでも師纂はその任を受ける事にした。

「鄧忠には伝令として、司馬望将軍の元へ走ってもらう。この戦を左右する重要な任務だ。もし蜀軍に見つかった場合には、まず命は無い。それでも受けるか?」

「はい、もちろんです!」

 胡奮はわざと重圧をかける様な事を言ったのだが、鄧忠ははっきりと応える。

「俺はこの辺りの地理には明るい方だと自負しています。蜀軍に見つかる事無く、より早く伝令を届けると言う任において、俺以上の適任はいないでしょう」

「お前も大した自信だな」

 胡奮は苦笑いしながら言う。

「それではこれを託す。必ず司馬望将軍に届ける様に。出来る事ならば、一日でも早く」

「承りました!」

 鄧艾から書簡を受け取ると、鄧忠は脱兎の如く駆け出していく。

「さて、それでは私の方もさっそく動きます。胡奮将軍、あとの事はお任せします」

「承知。士載殿の期待を裏切る様な真似はしませんよ」

 これまで魏は蜀の侵攻に対し、守りに徹する事が常だった。

 それによって蜀軍を退かせる事は出来ていたが、この劣勢の戦いの中で鄧艾はただ守ると言うだけではなく、反撃を試みようとしていた。
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