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第二章 血と粛清の嵐の中で
第二十八話 二五六年 勝機を逃すな
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大きく後退させられる事となった蜀軍だが、姜維はすぐに被害状況を調べさせると同時に武将達を集めて軍議を開いた。
「この期に及んで、軍議ですと? すでに兵は疲れ果てております。ここで戦を急いでも勝利を得られるとは思えません」
最初に姜維に対して反対意見を出したのは、やはり張翼だった。
何かと張翼は姜維に対して反対意見を出す事が多いが、それは決して二人が不仲であるが故の事ではない。
むしろ私的な関係で言うのであれば、張翼と姜維はお互いに信頼し合っていると言っても良いくらいに良好な関係である。
しかし、国家の大事となると張翼も責任のある将軍位である事から、姜維に対しても譲る事無く反対意見を述べている。
多少煩わしいと思う事もあるが、それは貴重な意見である事も姜維は承知していた。
「確かに疲れはあるでしょう。だが、魏軍の疲労はその比ではないはず。今、この時こそが我が蜀軍の勝機です」
姜維は張翼に真正面から反論する。
「敗れた事は事実。それは隠そうとも誤魔化そうとも思わない。あの夜襲の際、こちらの逃げ腰を魏軍に見抜かれ、鳴り物と偽りの篝火に兵数を読み間違ったが故にここで後退する事となった。それは全てこの姜維の失策であるのは認めます。ですが、それでも今こそが勝機」
「俺は姜維大将軍の決定であれば、どんな事にでも従う覚悟は出来ている。だが、張翼将軍の言う事も一々もっともだと思う。大将軍の言う勝機に納得がいくのであれば当然それに従うし、もし納得がいかないのであればそれを諌めるのが旗下の勤め。是非大将軍の見出した勝機をお聞かせ願いたい」
夏侯覇が二人の間に入る様に言う。
蜀では新参者である夏侯覇だが、何しろ皇族の一人である。
その言葉の重さと影響力で言えば、大将軍である姜維と同等とさえ言えた。
今の蜀軍で強い発言力を持っているのがこの三人であり、それぞれがお互いを立てる事によって広い意見と多くの選択肢の中から戦略を練られている。
また、廖化や張嶷と言った中堅武将達の意見も取り入れる事から、軍議での発言はかなり自由であると言っていい。
「まず兵の損失ですが、確かに後退はしたものの、今回の魏の損失は我々を遥かに超える大損害だった。それを補う為に魏ははるばる洛陽から徒歩で司馬望の援軍を寄越したのに対し、我々の元へは船で鮑素が兵を率いて合流する予定となっています。その疲労の差は言うまでもないでしょう。さらに調べさせたところ、どうやら魏の大将軍司馬師が先の戦の傷で死んだらしい。司馬昭から陳泰に中央に来る様に招集がかかっているそうです。だが、さすがにこれは虚報を掴まされた恐れもあるのですが、夏侯覇将軍。司馬昭のこの行動、将軍の目にはどう見える?」
「いかにも司馬昭らしいと言えるでしょうな」
夏侯覇は大きく頷く。
「司馬の一族は猜疑心の強い者が多いが、司馬昭のソレは病的と言ってもいいほどだった。あの猛将徐質ですら司馬昭は隠していたが、それも知られていなければ引き抜きによる裏切りを防ぐ為だったと言う。おそらく陳泰自身が手柄を上げすぎた事と、従兄弟の司馬望を遠ざける為のものだろう。司馬望は父である司馬孚に似て人望もあると聞く。司馬昭から遠ざけられたと考えると、いかにもな人事だ」
「ですが、陳泰は郭淮から要所である雍州の司令を任されたほどの武将。そう簡単に動かそうとするでしょうか」
これは廖化の発言だったが、張翼や姜維さえ頷いている。
「陳泰は司馬師、司馬昭の兄弟とも親しく、魏では欠かすことの出来ない重臣の一人だ。司馬昭としては目と手の届くところに置いておきたいと思うだろう」
さらに追加で夏侯覇から情報が出て、姜維は大きく頷いた。
「と、言う事はこの情報にはそれなりの信憑性があると言う事でしょう。さらにこちらは攻める場所を選べる強みがあり、魏軍は全てを守らなければならない。これだけで十分な勝機であると私は判断しましたが、それでも足りませんか?」
「そこまで条件が揃っているのであれば、俺は喜んで大将軍にお供させて頂きます。他の方々はいかがですか?」
最初に賛同したのは廖化だった。
彼も姜維の副将として共に戦場にある事が多く、姜維に対して絶対の信頼を持っていた。
続々と賛同する武将が出る中、最後まで悩んでいたのはやはり張翼だった。
「大将軍は攻める場所を選べると申されたが、どこを狙うかは決めておられるのですか?」
張翼の質問に、姜維は地図を広げ、一点を差す。
「狙うべきは祁山。今ならば魏軍も勝利したばかりと気を緩めているはず。しかも司令が変わったばかりとあれば、尚の事」
「司馬望には誰が副将でつくのか、そこまでは分かりませんか? もしかしたら俺の知っている武将かも知れないので」
夏侯覇が尋ねる。
「鄧艾、と言う武将らしい。聞き覚えのある名ではあるのですが、どこで聞いたのやら」
「ほう、士載か。ようやく軍を率いるまでになったと言う訳だ」
姜維はあまりピンと来ていないようだったが、夏侯覇ははっきりと鄧艾の事を覚えていた。
「どう言った武将でした?」
「いや、俺が知る限りでは武将ではなく木っ端役人の一人だったはずだ。だが、やたらと肝の据わったヤツで、参謀見習いの時点で当時大将軍だった司馬懿に意見するし、敵対している俺のところに単騎で説得に来たり、武将としての資質は持っていた。実力のほどは知らないが、あの司馬懿が目をかけていた者だと言う事だけは頭に入れておくべきだろう」
「司馬懿が目をかけていたほどの者を、司馬昭は手元に置かなかったと?」
姜維は不思議そうに尋ねる。
「何か思うところがあったのではないかな? もしくは司馬望の見張りも兼ねているのかも知れない」
「未知数の武将か。だが、魏軍の兵力は十分承知している。それこそ司馬仲達や曹孟徳でも引っ張り出してこない限り、勝機は我に有り。皆、異存は無いか?」
終始反対し続けていた張翼も折れて、満場一致で再度北伐を行う事に決定し、蜀軍は軍の再編を急いだ。
さらに成都からの援軍として鮑素や胡済と言った武将たちや増援の兵も送られ、二五六年に姜維は祁山に向けて出撃した。
が、そこには姜維が想像もしなかった景色が広がっていた。
祁山を遠望出来る高所に来た時に様子を伺ったのだが、そこには魏の陣営と思われるモノが九つも建てられ、しかもそれぞれが連携出来る様に配置されている。
一つ一つは急造である事が分かるくらいに粗末な点も見受けられるものの、見栄えはともかくすでに防衛の為の砦として機能しているのは見ただけで分かった。
「なるほど、私が祁山を狙っていた事は読まれていたと言う事か」
姜維は魏の陣営を見ながら呟く。
「そう言えば、何故大将軍はここを狙ったので? 前回大損害を被った狄道ではなく?」
張翼が姜維に尋ねる。
「大損害を被ったからこそ、狄道の守備を増員すると私は読んだのが一つ。もう一つは、この祁山であれば兵糧に当てる麦が熟す頃だと言う事。我々にとって食糧不足は常に頭を抱える問題だったが、ここで大量の麦を手に入れる事が出来れば北伐も楽になると考えたのだが、どうやらそこに気の回る者がいるらしい」
「見たところ、力攻めで落とせない事も無さそうだが、そうすると時間も労力も大幅に取られそうですな」
夏侯覇も魏の陣営を見ながら言う。
「確かに陣営を落とす事は出来るでしょう。ですが、そこまでです。それ以上に戦う事はおそらく出来ないでしょうし、その頃には魏の援軍が来るでしょうから我々は撤退するほかありません。さて、どうしたものか」
姜維は魏軍の陣営を見ながら呟く。
「……この祁山が最前線になると読んでいるのであれば、おそらくあの陣営を指揮しているのは総司令の司馬望ではなく、鄧艾と言う武将でしょう。逆に言えば、最前線を任されるほどの武将が今あそこにいると言う事では?」
「では尚更攻略は難しいと言う事ですか?」
張翼の言葉に、姜維は答えずに魏軍の陣を見る。
「……と言う事は、今もっとも守りが硬いのが祁山と言う事か。それが分かれば打つ手はある。鮑素、いるか?」
「ここに」
姜維は援軍で合流した鮑素を呼ぶ。
「お前に五千の兵と将帥旗を与える。ここに陣を構え、旗を振り全軍がいるかのように兵を動かすのだ」
「御意」
「大将軍はどうするので?」
張翼が不思議そうに尋ねる。
「勝機の話をしたでしょう? 私は確かに祁山を狙うと話しましたが、今の我々には他の選択肢があります。向こうがこちらの物資不足を見越して祁山を守ろうとしたのは見事。ですが、それならば他の手薄なところを狙うだけの話。今なら南安を狙い、雍州に楔を打ち込む事も出来ます。我々は本隊を持って南安を狙います。胡済、お前は別動隊として動くのだ。南安を狙う事が気づかれれば、おそらく戦場は上邽の付近になるだろうから、敵軍の背後を襲うのだ」
「なるほど、上邽であれば南安からの兵糧を集める拠点にもなっている。祁山の守備軍も早々には動けないだろう」
夏侯覇も頷く。
「鮑素、もし祁山の守備軍が動いたのであればすぐに狼煙で知らせよ。その際には敢えて鳴り物を鳴らして突撃の素振りも見せてやるが良い。この地は守るに適した場所。狼煙を見たら我ら本隊が敵軍を破って祁山を奪い、挟撃して魏軍を殲滅する」
「心得ました!」
「見事な策。これで必勝間違いないです」
廖化も大きく頷いている。
「ではこれより軍を再編して作戦に移る。皆、それで良いか?」
姜維が確認すると、各武将はそれに応える。
正直なところで言えば、すでに祁山を守っていたと言う事は姜維にとって意外だった。
張翼や夏侯覇に説明した通り、先の戦で大損害を被った事もあって狄道の守りを補っているものだと思っていたのだが、あの陣を見る限りでは狄道の守りを補うより先に祁山に陣を構えてた事になる。
こちらの動きを読んでいる、とでも言いたそうだな。だが、まだ甘さがある。
姜維は敵陣を睨んで思う。
まず第一に、この高台を手付かずで残した事。
さすがに敵陣の内部まで詳細に見渡す事が出来る、とまでは言わないが九つの陣を展望出来る場所を残しておくのはあまりにも手ぬるい。
魏の兵力がそこまで補充されていなかったのか、それとも陣を作る事を最優先にしてここまで手が回らなかったのかは分からないが、少なくとも祁山に誘い込む事に失敗している。
あの九つの陣は迎撃の陣であり、敵が攻めてきて機能する見事な陣だと姜維は感心もしていたが、それだけに展望されてはそこに誘い込む事そのものに失敗してしまっている。
祁山を狙っている事を見抜いたのは見事。そしてあの陣も凡庸な武将であれば用意出来ないのも分かる。鄧艾と言う武将、木っ端役人でありながら司馬一族の目に止まるだけの事はあるのは認めよう。だが、郭淮や陳泰ほどの武将かは疑わしい限りだな。
もし姜維に落ち度があったとしたら、それは鄧艾と言う武将の名に多少なりとも聞き覚えがあったのを深く考えなかった事だろう。
彼には彼の大望があり、その壮大な軍略で手一杯だったのでそれどころではなかったとも言えたのだが、この時の姜維は彼らしくも無く敵を正しく評価すると言う事を怠っていたところがあった。
「この期に及んで、軍議ですと? すでに兵は疲れ果てております。ここで戦を急いでも勝利を得られるとは思えません」
最初に姜維に対して反対意見を出したのは、やはり張翼だった。
何かと張翼は姜維に対して反対意見を出す事が多いが、それは決して二人が不仲であるが故の事ではない。
むしろ私的な関係で言うのであれば、張翼と姜維はお互いに信頼し合っていると言っても良いくらいに良好な関係である。
しかし、国家の大事となると張翼も責任のある将軍位である事から、姜維に対しても譲る事無く反対意見を述べている。
多少煩わしいと思う事もあるが、それは貴重な意見である事も姜維は承知していた。
「確かに疲れはあるでしょう。だが、魏軍の疲労はその比ではないはず。今、この時こそが我が蜀軍の勝機です」
姜維は張翼に真正面から反論する。
「敗れた事は事実。それは隠そうとも誤魔化そうとも思わない。あの夜襲の際、こちらの逃げ腰を魏軍に見抜かれ、鳴り物と偽りの篝火に兵数を読み間違ったが故にここで後退する事となった。それは全てこの姜維の失策であるのは認めます。ですが、それでも今こそが勝機」
「俺は姜維大将軍の決定であれば、どんな事にでも従う覚悟は出来ている。だが、張翼将軍の言う事も一々もっともだと思う。大将軍の言う勝機に納得がいくのであれば当然それに従うし、もし納得がいかないのであればそれを諌めるのが旗下の勤め。是非大将軍の見出した勝機をお聞かせ願いたい」
夏侯覇が二人の間に入る様に言う。
蜀では新参者である夏侯覇だが、何しろ皇族の一人である。
その言葉の重さと影響力で言えば、大将軍である姜維と同等とさえ言えた。
今の蜀軍で強い発言力を持っているのがこの三人であり、それぞれがお互いを立てる事によって広い意見と多くの選択肢の中から戦略を練られている。
また、廖化や張嶷と言った中堅武将達の意見も取り入れる事から、軍議での発言はかなり自由であると言っていい。
「まず兵の損失ですが、確かに後退はしたものの、今回の魏の損失は我々を遥かに超える大損害だった。それを補う為に魏ははるばる洛陽から徒歩で司馬望の援軍を寄越したのに対し、我々の元へは船で鮑素が兵を率いて合流する予定となっています。その疲労の差は言うまでもないでしょう。さらに調べさせたところ、どうやら魏の大将軍司馬師が先の戦の傷で死んだらしい。司馬昭から陳泰に中央に来る様に招集がかかっているそうです。だが、さすがにこれは虚報を掴まされた恐れもあるのですが、夏侯覇将軍。司馬昭のこの行動、将軍の目にはどう見える?」
「いかにも司馬昭らしいと言えるでしょうな」
夏侯覇は大きく頷く。
「司馬の一族は猜疑心の強い者が多いが、司馬昭のソレは病的と言ってもいいほどだった。あの猛将徐質ですら司馬昭は隠していたが、それも知られていなければ引き抜きによる裏切りを防ぐ為だったと言う。おそらく陳泰自身が手柄を上げすぎた事と、従兄弟の司馬望を遠ざける為のものだろう。司馬望は父である司馬孚に似て人望もあると聞く。司馬昭から遠ざけられたと考えると、いかにもな人事だ」
「ですが、陳泰は郭淮から要所である雍州の司令を任されたほどの武将。そう簡単に動かそうとするでしょうか」
これは廖化の発言だったが、張翼や姜維さえ頷いている。
「陳泰は司馬師、司馬昭の兄弟とも親しく、魏では欠かすことの出来ない重臣の一人だ。司馬昭としては目と手の届くところに置いておきたいと思うだろう」
さらに追加で夏侯覇から情報が出て、姜維は大きく頷いた。
「と、言う事はこの情報にはそれなりの信憑性があると言う事でしょう。さらにこちらは攻める場所を選べる強みがあり、魏軍は全てを守らなければならない。これだけで十分な勝機であると私は判断しましたが、それでも足りませんか?」
「そこまで条件が揃っているのであれば、俺は喜んで大将軍にお供させて頂きます。他の方々はいかがですか?」
最初に賛同したのは廖化だった。
彼も姜維の副将として共に戦場にある事が多く、姜維に対して絶対の信頼を持っていた。
続々と賛同する武将が出る中、最後まで悩んでいたのはやはり張翼だった。
「大将軍は攻める場所を選べると申されたが、どこを狙うかは決めておられるのですか?」
張翼の質問に、姜維は地図を広げ、一点を差す。
「狙うべきは祁山。今ならば魏軍も勝利したばかりと気を緩めているはず。しかも司令が変わったばかりとあれば、尚の事」
「司馬望には誰が副将でつくのか、そこまでは分かりませんか? もしかしたら俺の知っている武将かも知れないので」
夏侯覇が尋ねる。
「鄧艾、と言う武将らしい。聞き覚えのある名ではあるのですが、どこで聞いたのやら」
「ほう、士載か。ようやく軍を率いるまでになったと言う訳だ」
姜維はあまりピンと来ていないようだったが、夏侯覇ははっきりと鄧艾の事を覚えていた。
「どう言った武将でした?」
「いや、俺が知る限りでは武将ではなく木っ端役人の一人だったはずだ。だが、やたらと肝の据わったヤツで、参謀見習いの時点で当時大将軍だった司馬懿に意見するし、敵対している俺のところに単騎で説得に来たり、武将としての資質は持っていた。実力のほどは知らないが、あの司馬懿が目をかけていた者だと言う事だけは頭に入れておくべきだろう」
「司馬懿が目をかけていたほどの者を、司馬昭は手元に置かなかったと?」
姜維は不思議そうに尋ねる。
「何か思うところがあったのではないかな? もしくは司馬望の見張りも兼ねているのかも知れない」
「未知数の武将か。だが、魏軍の兵力は十分承知している。それこそ司馬仲達や曹孟徳でも引っ張り出してこない限り、勝機は我に有り。皆、異存は無いか?」
終始反対し続けていた張翼も折れて、満場一致で再度北伐を行う事に決定し、蜀軍は軍の再編を急いだ。
さらに成都からの援軍として鮑素や胡済と言った武将たちや増援の兵も送られ、二五六年に姜維は祁山に向けて出撃した。
が、そこには姜維が想像もしなかった景色が広がっていた。
祁山を遠望出来る高所に来た時に様子を伺ったのだが、そこには魏の陣営と思われるモノが九つも建てられ、しかもそれぞれが連携出来る様に配置されている。
一つ一つは急造である事が分かるくらいに粗末な点も見受けられるものの、見栄えはともかくすでに防衛の為の砦として機能しているのは見ただけで分かった。
「なるほど、私が祁山を狙っていた事は読まれていたと言う事か」
姜維は魏の陣営を見ながら呟く。
「そう言えば、何故大将軍はここを狙ったので? 前回大損害を被った狄道ではなく?」
張翼が姜維に尋ねる。
「大損害を被ったからこそ、狄道の守備を増員すると私は読んだのが一つ。もう一つは、この祁山であれば兵糧に当てる麦が熟す頃だと言う事。我々にとって食糧不足は常に頭を抱える問題だったが、ここで大量の麦を手に入れる事が出来れば北伐も楽になると考えたのだが、どうやらそこに気の回る者がいるらしい」
「見たところ、力攻めで落とせない事も無さそうだが、そうすると時間も労力も大幅に取られそうですな」
夏侯覇も魏の陣営を見ながら言う。
「確かに陣営を落とす事は出来るでしょう。ですが、そこまでです。それ以上に戦う事はおそらく出来ないでしょうし、その頃には魏の援軍が来るでしょうから我々は撤退するほかありません。さて、どうしたものか」
姜維は魏軍の陣営を見ながら呟く。
「……この祁山が最前線になると読んでいるのであれば、おそらくあの陣営を指揮しているのは総司令の司馬望ではなく、鄧艾と言う武将でしょう。逆に言えば、最前線を任されるほどの武将が今あそこにいると言う事では?」
「では尚更攻略は難しいと言う事ですか?」
張翼の言葉に、姜維は答えずに魏軍の陣を見る。
「……と言う事は、今もっとも守りが硬いのが祁山と言う事か。それが分かれば打つ手はある。鮑素、いるか?」
「ここに」
姜維は援軍で合流した鮑素を呼ぶ。
「お前に五千の兵と将帥旗を与える。ここに陣を構え、旗を振り全軍がいるかのように兵を動かすのだ」
「御意」
「大将軍はどうするので?」
張翼が不思議そうに尋ねる。
「勝機の話をしたでしょう? 私は確かに祁山を狙うと話しましたが、今の我々には他の選択肢があります。向こうがこちらの物資不足を見越して祁山を守ろうとしたのは見事。ですが、それならば他の手薄なところを狙うだけの話。今なら南安を狙い、雍州に楔を打ち込む事も出来ます。我々は本隊を持って南安を狙います。胡済、お前は別動隊として動くのだ。南安を狙う事が気づかれれば、おそらく戦場は上邽の付近になるだろうから、敵軍の背後を襲うのだ」
「なるほど、上邽であれば南安からの兵糧を集める拠点にもなっている。祁山の守備軍も早々には動けないだろう」
夏侯覇も頷く。
「鮑素、もし祁山の守備軍が動いたのであればすぐに狼煙で知らせよ。その際には敢えて鳴り物を鳴らして突撃の素振りも見せてやるが良い。この地は守るに適した場所。狼煙を見たら我ら本隊が敵軍を破って祁山を奪い、挟撃して魏軍を殲滅する」
「心得ました!」
「見事な策。これで必勝間違いないです」
廖化も大きく頷いている。
「ではこれより軍を再編して作戦に移る。皆、それで良いか?」
姜維が確認すると、各武将はそれに応える。
正直なところで言えば、すでに祁山を守っていたと言う事は姜維にとって意外だった。
張翼や夏侯覇に説明した通り、先の戦で大損害を被った事もあって狄道の守りを補っているものだと思っていたのだが、あの陣を見る限りでは狄道の守りを補うより先に祁山に陣を構えてた事になる。
こちらの動きを読んでいる、とでも言いたそうだな。だが、まだ甘さがある。
姜維は敵陣を睨んで思う。
まず第一に、この高台を手付かずで残した事。
さすがに敵陣の内部まで詳細に見渡す事が出来る、とまでは言わないが九つの陣を展望出来る場所を残しておくのはあまりにも手ぬるい。
魏の兵力がそこまで補充されていなかったのか、それとも陣を作る事を最優先にしてここまで手が回らなかったのかは分からないが、少なくとも祁山に誘い込む事に失敗している。
あの九つの陣は迎撃の陣であり、敵が攻めてきて機能する見事な陣だと姜維は感心もしていたが、それだけに展望されてはそこに誘い込む事そのものに失敗してしまっている。
祁山を狙っている事を見抜いたのは見事。そしてあの陣も凡庸な武将であれば用意出来ないのも分かる。鄧艾と言う武将、木っ端役人でありながら司馬一族の目に止まるだけの事はあるのは認めよう。だが、郭淮や陳泰ほどの武将かは疑わしい限りだな。
もし姜維に落ち度があったとしたら、それは鄧艾と言う武将の名に多少なりとも聞き覚えがあったのを深く考えなかった事だろう。
彼には彼の大望があり、その壮大な軍略で手一杯だったのでそれどころではなかったとも言えたのだが、この時の姜維は彼らしくも無く敵を正しく評価すると言う事を怠っていたところがあった。
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