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第二章 血と粛清の嵐の中で

第二十二話 二五五年 若き武神の目覚め

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「見事な誘導だった。君が無名と言うのが信じられないね」

 諸葛誕は鄧艾と合流し、文欽追撃の部隊を編成しているところで鄧艾に向かってそう評価していた。

「恐れ入ります」

「だが、出世が遅れている事も理解出来たよ。君は周りを上手く使う事が出来る様だが、君自身の階位が低い為に手柄を持って行かれていると言う事だろう。どうだい? 僕のところに」

 諸葛誕は前髪を払う。

「来ないか? 実力に見合った評価をするよ」

 その癖は健在か、と思いながら鄧艾は苦笑いする。

「私は農夫の生まれで、今では将軍位まで引き上げていただきました。母や妻、息子たちにも貧しい思いをさせずに済んでいますから、出世が遅れていると言う事もありません。あとは国に報いるのみです」

「素晴らしい! 君のような義士がいるとは。あの司馬仲達から見出され、司馬子元も君を手元に置きたがっていた理由も分かった気がするよ。では、文欽を討って挙げる手柄は君に譲ろうかと思うのだが」

「お話のところ悪いんですが」

 鄧艾の副将の杜預が、申し訳なさそうに二人の会話に割って入る。

「何かな?」

「あの部隊、何だと思いますか?」

 杜預が示した部隊は、おそらくは文欽の部隊の生き残り、あるいは予備戦力だろう。

 その数は約三千足らず。

 しかしその部隊は主将である文欽の救援に向かっている様にも、合流しようともしていない。
 むしろかなりの勢いを持って、司馬師率いる本隊に向かっている。

「……投降ですか?」

 諸葛誕の副将を勤めている同族の諸葛緒しょかつしょは不思議そうに呟く。

 諸葛緒は諸葛誕ほど主張が強い訳ではなく、どこまでも主張の強い諸葛誕を常に立てているが、杜預などと同じく将来を嘱望されている若手の一人である。

 今の状況から部隊の動きを考えるとそれがもっとも自然な事かも知れないが、それにしては部隊の勢いが強い。

「刺客では?」

「それにしては数が少な過ぎる。おそらく陽動なのだろうが、真意が読めない」

 杜預の質問に、諸葛誕は慎重に答える。

 確かにその見立てが正しいだろうと、鄧艾も思う。

 だが、これが陽動だとした場合には本命の攻撃がどこかにあるはずだった。

 しかし、その本命となるはずの文欽の部隊は半壊状態であり、あの部隊と呼応するのは難しそうだ。

「……違う! あれは本命の刺客だ! 杜預、急ぎ本隊の救援に向かう!」

「御意!」

「待て、鄧艾。あれが陽動ではなく本命の刺客だと言うのか?」

「そうです。今であれば、司馬師将軍の本隊は機能しない恐れがあります」

 鄧艾は騎馬兵を集めながら、諸葛誕に説明する。

 と言っても、そこまで難しい話ではない。

 毌丘倹への情報遮断は上手くいったのだが、それは司馬師にとっても想定外の功績であったので、そもそもそれを元に戦略を立てていない。

 司馬師の狙いは速攻で勝負を決める事。

 その為にも鄧艾を始め、今回の行軍はかなりの強行軍であった。

 それは先鋒隊だけでなく大軍である本隊も変わりない。

 疲れ果てた大軍は、しかもまだ戦場に現れたばかりで戦の陣立なども済んでいない。

 戦に慣れている文欽だからこそ、大軍であれば陣立なども必要なく一気に押し潰す事が出来る事を知っていたが、あの部隊の武将はその弱点も見抜いている。

 疲れた大軍で、しかも勝敗は決したと気を緩めた兵士はその数ほどの働きは出来ない。

 まして殺意を剥き出しにして突撃してくる騎兵を相手に、命をかけてそれと当たって食い止めようと思うのも極めて難しい。

 その場合、ほかの誰かが止めてくれると言う事を期待して敵の正面を避けようと動くものである。

 そうは言っても、刺客の動きは誰にでも出来る事ではない。

 誰もが思いつくところまでは思いつく策ではあるのだが、それを成功させるとなると弱点を見抜く戦術眼と、非常識と思えるほど驚異的な武勇。

 そして成功しても生きて帰る事は出来ないと言う、決死の覚悟が必要である。

 それを満たした武将が、今まさに司馬師を狙っているのだ。

「諸葛誕将軍、私はあの部隊を止めに行きます! 将軍は文欽の部隊を呼応させないようにして下さい! 第二波だけは何としても避けなければなりません!」

「分かった」

 鄧艾はかき集めた千の騎馬兵で、諸葛誕と分かれて司馬師の本隊を狙う部隊に向かって突撃する為に走る。

 どれほど優れた騎馬隊でも、いかにやる気の無い兵とは言えそこを蹴散らしながら進むと言う事は全速力では無理で、その速度も大幅に落ちる。

 はずなのだが、その部隊はまるで無人の野を走るかの様な速度を維持していた。

 何だ、あの部隊は。あの部隊を率いている武将は、文欽より強いんじゃないか?

 鄧艾はそれでも少しずつ距離を詰めていた。

 と言うより、急いで走る鄧艾の部隊が戦いながら突撃している部隊に追いつけないと言うのが異常である。

 これは守備隊が機能していないと言うだけではなく、あの部隊が規格外の化物なのだ。

 本隊でも最深部にある司馬師の幕舎が見えるところまで来た時、ようやく鄧艾は敵将と崩れる守備隊の間に入る事が出来た。

「……文鴦か」

「鄧艾将軍か。将軍は文官だったのでは?」

「そう思われてるみたいだね」

 鄧艾は大刀を構えて、文鴦の足を止める。

「将軍には悪いですが、行きがけの駄賃として首をもらいますよ」

「こちらも遊びでここに来た訳ではないのでね」

 文鴦が手にしている武器は槍であり、この時には同じ様な長柄の武器を持って向かい合っていたのだが、文鴦はこの勢いを止められるのを嫌って鄧艾に向かって突撃してくる。

 恐ろしく鋭い一撃で、予想していなければとても止められなかったかもしれない。

 しかし、これまで非常識な突撃を見てきた鄧艾なので、その勢いも予想出来たのは大きかった。

 鄧艾は文鴦の槍を弾く。

 重い。

 勢いは予想していた通りに鋭かったが、その重さはまったく想像もしていなかったくらいに重かった。

 もし受けようとしていたら、そのまま貫かれていたかもしれないくらいだ。

 その一撃で決めようとしていた文鴦は、まさか文官と思っていた鄧艾に止められるとは思っていなかったようで、驚いている。

 確かに鄧艾は農政官だったが、農政官といっても彼は現場に出る事が多かった。

 下働きの時から畑仕事も多く、畑を荒らす賊とも戦ってき散らしてきた。

 同じように戦ってきた石苞は将軍と認められているものの、その石苞を上回る武勇を持つ鄧艾はその事を知られていないと言う事である。

 杜預や陳泰はかなり早い段階で鄧艾が人並み外れた武勇を持っている人物だと知っていたのだが、文欽や文鴦親子にまでその事は伝わっていなかったらしい。

「面白い!」

 だが、文鴦はひるまない。

 これはまったく読み違いだ、と鄧艾は文鴦の攻撃をしのぎながら思う。

 鄧艾の予想では、文官と侮っていた男が想定していた以上の武勇を見せた時には焦りから隙を見せたり、無意味なほどに自身の武勇を見せつけようと無茶な攻撃に出たりするものだが、文鴦は違う。

 攻撃に出たのは予想通りと言えなくもないのだが、その攻撃は焦りによるものではなく、好敵手に出会えた喜びと自身の武勇を試すつもりの攻撃でもある。

 もう少し油断してくれればやりようもあったのだが、文鴦はあくまでも鄧艾を討ち取ろうとしての殺意を込めた攻撃を繰り出してきた。

 強い。

 それ以外に言い様がないほどの槍の冴えに、鄧艾は防戦一方だった。

 文鴦はまだ十代で、どこか幼さを残したところが見える。

 それに対してその槍の冴えはとても十代とは思えない鋭さと重さと練度を感じさせ、その勢いと速度と苛烈さには若さを感じさせる。

 これを討ち取るのは無理だ。

 鄧艾はそう判断すると、自身が討ち取られない様に戦い方を変える。

 最上の結果で言うのであればここで文鴦を討ち取ってしまう事だったが、とてもそれが出来そうな実力ではない。

 下手にそれにこだわった場合、逆にこちらが討たれる事になりかねない。

 いや、そうなる。負けない様に戦ってはいるものの、それも時間の問題か。

 鄧艾はなんとか時間稼ぎをしているものの、それももう長く持たない事は自覚していた。

 とにかくこの若い異才は、鄧艾の予想も想像も遥かに超えた猛将だったのである。

 しかし、ここで形だけの一騎討ちに敗れてしまったら、それこそ魏軍は崩壊して反乱軍側に勢いを与える事になる。

 その一方で文鴦もすぐには鄧艾を討てないと判断したらしく、何か合図を送る。

 合図を受けたからか、どこからか太鼓の音が響く。

 突撃の合図か!

 鄧艾はすぐに文鴦の意図に気づく。

 今文欽が突撃してきたら、すでに大軍として機能していない今の魏軍は完全に崩壊する。

 それが読めたとしても、鄧艾に打てる手は無い。

 何しろ目の前に司馬師に届きそうな刃である、文鴦がいるのだ。

 が、文欽は動かなかった。

 すぐに文鴦は改めて太鼓の合図を送る。

 二度目の太鼓でも文欽は動かず、文欽と本隊の間に諸葛誕の軍が壁となって分断した。

 さらに三度目の合図を送っても、文欽は動かなかった。

「残念だったなぁ、小童。お前ではこの司馬師の首は取れんらしい」

 幕舎から司馬師が姿を見せる。

 顔の左半分を包帯で覆っていたが、それは血に染まり、その夥しい出血は顔だけでなく左半身を血に染めていたが、それでも司馬師は毅然として文鴦の前に姿を現す。

「だが、小童にしてはよくやったと褒めてやろう。今降るのであれば、その罪、許してやらんでもないぞ? 手柄に貴様の父親の首を持ってくるのであれば、それ以外の一族には手を出さん事も約束しようではないか。どうする、小童? 父親の許可が必要か?」

 出血のひどい司馬師だったが、その狂気は崩壊寸前だった魏軍の兵を奮い立たせた。

 こうなる前に勝負を決めたかった文鴦だったが、大軍が機能を取り戻してしまった場合には文鴦は三千足らずで大軍の中に閉じ込められる事になる。

 そこからの文鴦の判断と行動は早かった。

 手にした槍を司馬師に向かって投げるが、それを鄧艾は打ち落とす。

 そうやって鄧艾の動きを止めたのを見ると、文鴦は反転して退却を始めた。

「士載! ヤツを逃がすな! 楽綝がくちん、諸葛誕にも連絡して共に追撃に参加しろ! 王基にも伝達だ。文欽めが惨敗した事は毌丘倹にも伝わっている。ヤツは無理に城を守ろうとはせず、呉に逃げる事を考えるはず。必ず見つけて切り捨てろ、とな!」

 多量の出血のせいもあって血の気の引いた顔色だが、それでも司馬師は覇気に満ちた声で各武将に指示を飛ばす。

「鄧艾将軍! 諸葛誕将軍より伝令! 呉軍接近の報あり! 文欽、文鴦の逃走経路は呉の進軍経路に近く、追撃と共に呉の援軍に備えよとの事!」

 馬に乗るのが不得手な杜預が、走ってきて鄧艾に報告する。

「心得た! 杜預は司馬師大将軍の元に」

「士載、心配は無用だ。元凱、副将であれば主将と共に行動せよ」

 鄧艾の言葉が聞こえた司馬師はそう指示すると、そのまま幕舎に戻っていく。

 総大将の狂気を見せつけられて息を吹き返した魏軍の士気は極めて高く、名将と謳われた毌丘倹の内乱は、わずか一戦で全てが決していた。
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